<東京怪談ノベル(シングル)>
■ Sugary World ■
目を開けると――目を開けると?
鬼灯はそれを不思議に思いながら、一方で懐かしくも感じながら目を開けて、自分の物理的な目で目の前にあるものを“見た”。
無機質な白い壁に囲まれた部屋。少し高いところにあるガラス窓。天井には太陽のように強く輝くライト。乳白色の床。それから、それから…ここは主様の見知ったはずの工房。
けれどそこにあるものらは今までと同じように見えて同じではなく見える。
魂とも、心とも、精神(こころ)とも、そう呼ばれるものが視ていたものとはどこか違っていて、それでも見えるものは変わらず同じもののはずだった。色も、形も、場所さえも…。
一度に見える範囲が狭くなったから変な感じがするのだろうか。それとも無意識に瞼が瞬間、閉じるせいだろうか。
ゆうるりと首を動かした。視界が下へと動く。自分の手を捉えた。握って開いてその感触を確認する。今までの体とは明らかに違う柔らかさと温もり。だがその胸――胸? に去来するものは漠然とした不安――不安? かもしれない。これまで慣れ親しんできた鬼筒などはどこへいってしまったのだろう。腕を振ってもそれを感じる事は出来なくて、これでは主様たる陰陽師をどのように守護すればいいのやら。淡々と事務的に思考する傍らで不可思議な“何か”が揺らめいている。
ただ、この体を作ってくださったのは他ならぬ主様であった。ならばもう、それは必要ないと判じられたという事だろうか。
ずっと鬼灯は主様と共に、或いはその命を受け単独で、数多存在する異世界を渡り歩き、様々な技術を求めて旅をしていた。その途上で出会ったのが、この「カガク」と呼ばれる技術である。
これまでの躰は香木で出来、軌石で出来、土くれで出来た自動人形で、ありとあらゆる呪や術式によって魂をくくられ動いていた。それが鬼灯だ。
瞬きも食事も生命活動に於いて必要とされることの大凡を必要とせず、ただ人を真似ていただけのからくり。それを不満に思ったことはない。彼女の存在理由は主を守護し主に従う護鬼でしかなかったからだ。それを果たせるための器なら何でもよかった。
――ただ、時々過ぎた望みを抱く事がなかったといえば嘘になる。
「カガク」は呪も術式も必要とせず、人と変わらぬ擬人を生み出す事の出来る術だった。ぜんまいを巻く代わりに、息をして食事をして眠りによる休息をとらねばならないが、人形と違い子まで成せるというのだからその技術はとんでもないものだろう。
主様はその技術を使ってガイノイドと呼ばれる躰を鬼灯に作って下さったのだ。
鬼灯は手の平から自分の体へと視線を移した。
いつもは和服を着せられていたが今は何も着ていないようだ。今までの体は童女のもので、ないに等しかったその2つある胸の膨らみに手をやった。
「!?」
ドクン、ドクンと伝いくるこれは何であるのか。それもまた、今までの躰にはなかったものだ。これが鼓動というものか。知識としては知っていた。だが自分のものはおろか、他人のものすら感じた事のなかったものである。いや、遠い昔にはそれを感じていた事もあったろう。
記憶を呼び覚まそうとしてか。
目を閉じて、それを十ばかり数えて目を開けた。次に視界に飛び込んできたのは自分の両の脚。これまでの白磁のような肌よりも赤みがかっているような気がした。投げ出されたままの膝を少し折り曲げ自分の手で触れてみる。木とも石とも土とも違う肌の感触。
台の上のシーツを撫でて比べてみる。
一つ一つ確かめるように、その感覚を自分のものにするように鬼灯はゆっくりと手や足を動かした。
見て、触って、生まれたばかりの赤ん坊のような気分で、自分の体で世界を感じ取っていく。
これまでの躰を貰った時も、最初はこんな風だったのだろうか? 記憶を辿ってみたけれどよく思い出せなかった。それほどまでにずっと昔の事なのだ。
五感の内、視覚と触覚を感じ取って、鬼灯が次に得たのは音だった。
それは自分の名を呼ぶ声だ。
初めて聞いたようにも思うのに、ふわっと胸が温かくなる。
声のする方を振り返ると、そこに、大好きな顔があった。
「主様」
声は自然と漏れ出た。自分でも驚くほどに澄んだ声で。これが自分の声なのかと思った。魂とも、心とも、精神とも、呼ばれるものが聴いていたのは厳密には音ではなかったのだろう。直接中に響いてくる声とは違う“音”。
そこには、ただ言葉があるだけではなく“大丈夫かい?”と気遣わしげな色を帯びている。
そう感じる“これ”は何であるのか。
いつもならもっと淡々と冷めていたものが熱を帯びている。
抑え込むものがなくなった“何か”がゆっくりと溢れ出しているのだと気付かぬまま。
それに大丈夫と心を綻ばせると顔も自然、綻んだのか。主様が安堵したような優しい笑みを返してくれた。
それから主様の視線に気付いて、鬼灯は反射的に自分の体を両手で抱いていた。胸元を隠すように膝を擦り寄せるようにして。
何故だろう、この体を作ったのは主様なのに、作っている時に飽きるほど見られていただろう体なのに、この体を見られて恥ずかしいと感じていた。
今まで思ったこともないような羞恥の念がどこからともなく沸き起こるのに、何故か先ほどまではゆっくりと刻んでいたはずの鼓動が、どんどん早鐘のように強く打ちならされていく。それはいつしか全身に広がり耳の奥でまでドキドキと鳴り始めた。
どうしようもなく熱くなる顔に、この体はまだ未完成なのではと思い至る。こんな事が正常な状態だとはとても思えなかった。だとしても、自分にはどうする事も出来なくて。コントロールのしようもなくて。
半ばパニック状態で主様の顔を見上げると、それが面に現れていたのか、今にも泣きそうな顔になっていたらしい鬼灯に、主様は慌てて棚からシーツをとるとそっと背中から鬼灯の体に被せてくれた。
シーツに包まり顔だけを出す。
この体は一体どうしてしまったというのだろう。しかしこの状態をうまく説明する事も出来ないでいると、主様は優しく髪を撫でた後、待っててと言ってその工房を出ていった。
やはり、未完成だったのだろうか。何か大切な部品でも忘れていたのだろうか。それなら得心もいく。
それとも…まさか「カガク」とやらは自分という存在に合わなかったという事なのだろうか。だとしたら、申し訳ない。
取り残された鬼灯が、持て余すばかりの不安と居たたまれなさに目を泳がせていると、機械の並んだその工房の隅に置かれた大きな鏡が目にとまった。
瞬きを繰り返し、自分の頬を手でなぞる。口を開けて、すぼめて、舌を出して口角をあげて、頬を膨らませて。
「……」
――これが、自分なのか?
初めて見る顔のようでいつもの顔でもあるように感じる。とはいえ童女の顔ではなくずっと大人びた妙齢のものだ。黒く長い髪も黒い瞳も同じだけれど。ある日から止まっていたものが堰を切ったように流れ出す。重ねた歳の分だけ。重ねられるだけの“何か”を積み重ねてきたかもわからないのだけれど。
これまでは何となく知覚していた自分の姿だが、この体になって自分は自分を見る事もままならないのだと気付いた。不便といえば不便のような気もするが、人は皆こういうものなのだろう。
遠い昔の自分もそうであったはずだ。
鬼灯は自分の新しい体を確認するように台を降りて立ち上がろうとした。
「!?」
上手くバランスが取れなくてよろめく体を台に手をついて支える。赤ん坊が初めて立ったような覚束なさで。だが、すぐに体は慣れてきた。
ゆっくりと歩いて鏡の前に立つ。
シーツをそっと開いた。
――これが、自分の新しい体。
長い黒髪を掻きあげるようにして背中を鏡に映してもそこにぜんまいは見あたらない。
そっとお臍の辺りに手を置いた。どこかの世界で見た。妊婦はこの中に子を宿すのだ。この体も、子を宿せばあんな風になるのだろうか。
「……」
いつの間にか今にも飛び出しそうだった胸の奥が落ち着きを取り戻している事に気付いた。
どういう事だろう、やはり何かが誤作動でも起こしていたのだろうか。安堵の息を漏らして初めて、呼吸というものを自覚する。いつもは真似事しかした事のなかったものだが、呼吸をするたびに胸が上下して、呼吸を止めると苦しいと感じるのに驚いた。
新しい体は本当に人のようだ。
鬼灯は胸の中にたくさんの空気を入れるように深呼吸をしてみた。いつもは、害があるか、害がないか、それだけでしかなかったものが、今はもっと違う感覚の扉を叩いて、その色を深めていく。これがアルコールの消毒の匂い。それから様々な薬品の匂い。それらが入り交じって鼻から胸の奥へと吸い込まれ、吐き出されていく。
頬を抓ってみると痛みを感じて、白い肌は少しだけ赤くなる。きっとそれも当たり前のことなのだ。いろいろなものに触れるとその質感と温度を感じ取れる。それもまた普通の事なのだろう。
この体では、これまでは真似事でしかなった食事によってエネルギーを補給せねばならないと聞いた。ならば“味”というものも知れるだろうか。今から楽しみだ――楽しみ?
工房の扉が開く。
その気配を事前に感じ取れなかった事に驚きつつ鬼灯はそちらを振り返った。
「!?」
何故だろう、その姿を見た瞬間、また、胸の奥が一際ドクンと強く鳴った。どうしよう。開いていたシーツの前を慌てて閉じて視線を泳がせると鏡に映った自分の顔が抓った時よりもずっと赤くなっていた。
主様はそれに気付いているのかいないのか、鬼灯が寝ていた台の上に着物を置いた。
服を取ってくるために工房を出て行っただけなのか。という事は、この体が未完成というわけではなかったという事だ。まさか、主様に限って失敗という事もあるまい。ならば、この鼓動の早さは一体どういう事なのだろう。
「ありがとうございます」
そう言って鬼灯は台の前に立った。
傍に優しく微笑む主様のお顔がある。
それだけでまた、胸がドキドキと早くなった。
シーツを置いて肌襦袢を纏う。
主様がこちらに背を向けているのにホッとしたような、寂しいような複雑な、自分でも持て余してしまう“何か”に振り回されながら、先ほどよりは少しだけゆっくりと鳴る鼓動を不思議に感じつつ着物を着た。
帯を締めると背筋がピンと伸びて気持ちが引き締まったような気がする。
赤く火照った顔が鼓動と連動したように収まりを経て鬼灯は主様に着替えが終わった事を告げようとした。
ふと、目に止まったのは主様の耳。それが赤くなっている。
寒くて赤くなる事がある。だが、今工房はさほど寒いとは思えない。では、熱があるとでもいうのか。いや、先ほど見た顔はそれほど赤くはなかった。
気付けばそっと手が伸びていた。赤くなった耳に触れると、驚いたように主様がこちらを振り返る。
ほんのりと頬を赤らめて。
また鬼灯の鼓動が早くなった。
顔が熱くなる。きっと自分は今、先ほど鏡に映っていたように顔が赤くなっている事だろう。
――それは主様と同じ?
視線をそらせると少し落ち着いて。
見るとドキッとする。
そんな事を何度か繰り返して。
耳に触れた手を主様が握り返してくれるのに、心が満ちていくのを感じながら鬼灯は目を閉じていた。
どうやらこの体がおかしいのではなかったのだ。この体はただ、鬼灯の中にある“何か”に連動しているだけなのだ。それを人は“感情”と呼ぶ。鬼灯がずっと自動人形の肉体に抑え込まれ、意識してこなかったものだ。新しい体になって抑制するものがなくなって今、感情が溢れ出していた。
――と、鬼灯が知るのはもう少し時間を要する事になるだろうか。
だが、焦る必要も慌てる必要もない。
これからゆっくりと知ればいい。
触れられる心地よさも、くすぐったさも、それ以上の感覚も。
■END■
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