<東京怪談ノベル(シングル)>
願望夢依存症
それは、どこかの路地裏にある。
看板も何もないその店は、知っている人だけ知っている。
カランコロン……
アンティークのドアベルが来客を告げる音が、店内へ響く。
「ここ、は……?」
「いらっしゃい、今日は何を──……ああ、あなたは初めての方だね」
エル・クロークは、ドアを開けた少女へその微笑を向けた。
レトロなアンティーク調の店内に戸惑う少女は店内を見回しながら、こちらへ歩いてくる。
「こんな所にお店があったのね」
「そう。店内はこの通り、だね。ゆっくり見て行って」
柔らかな物言いは、丁寧過ぎず、そして優しい。
ありがとう、と少女はクロークへお礼を言うと、店内を巡っていく。
香水、お香にアロマオイル、アロマキャンドル……香炉もアンティークだ。
ドライポプリにモイストポプリは種類も豊富で、お手頃の価格。
別の棚に目を移せば、こんな小さなお店にと驚く程沢山の紅茶の葉がアンティークの缶で売られていて、その茶葉を使った焼菓子がお茶と共に口に運ばれるのを待っていた。
「食べてみる?」
クロークが声を掛けると、少女はこちらへ振り返った。
「今日はあなたが初めて僕のお店に来てくれた日だからね。これは、僕からのおもてなし」
おいで、と声を掛ければ、少女がカウンターに設置されている椅子へ腰を掛ける。
喫茶スペースも兼ねているんだよ、と説明し、気になる紅茶と焼菓子をその前に置けば、少女の顔は綻んだ。
「美味しい……」
「ありがとう」
少女の言葉に礼を言ったクロークは、「それなら……あなたにはこれなんてどうかな」と小さな石鹸を見せる。
「クローゼットに入れて置くだけでも、服へいい香りを齎すよ」
「本当、いい香り……」
これ、いただけますか。
少女は小さな石鹸を買って、店を出て行く。
カランコロン……
少女は小さな店を出て行った。
「また来てね」
クロークにそう見送られ。
時は、緩やかに、けれど、正確に刻まれていく。
「今日のお勧めは……そうだね、これなんてどうかな」
クロークは、あれからよく足を運んでくれるようになった少女へリボンで結ばれた小さな布の袋を勧めていた。
少女は袋を手に取ると、香りを確かめてみる。
「いい香り……ラベンダー?」
「正解。枕の下に入れると、ぐっすり眠れるよ」
クロークが微笑むと、少女はそれに目を落とした。
この少女は、十代半ばといった所だろう。
その事情を語ることはないが、身なりは良く、少なくとも生活に困るようなことはない家の娘だと分かる。
が、少女はクロークと喋りながら店内を巡ることを好む。
それが思慕の念とは異なるというのも話していればすぐに気づく。
この少女は、誰かに話を聞いてほしいのだろう。
何かがあって、その心が満たされていないのだろう。
「ねぇ、クロークさん」
少女は、クロークと呼んでほしいという要望そのままにそう呼んだ。
「これは、本当に効果があるのかしら」
「どうして、そう思うのかな」
クロークが柔らかく尋ねると、少女は袋を眺めたまま話し出す。
「……私、ここに来ると色んな香りがして、落ち着いて、とても好きよ。ここに来て、クロークさんのお勧めを買って店を出て家に帰れば、魔法は消えてしまうの。悪夢しかない。……ここに来るのを楽しいと思えば思う程、家に帰るのが辛い。どうすればいいのか分からない……」
「奥へおいで」
クロークは、少女を手招いた。
「あなたの、願いを叶えてあげる」
少女を迎えた部屋は、締め切られた暗い部屋。
アンティークのランプが灯れば、棚には多くの瓶が見える。
「ここは陽の光を当ててはいけない商品の保管庫にも使っているのだけど……そこに座って」
こちらを見る少女へクロークは説明し、部屋の中央にあるリクライニングチェアを指し示す。
ランプしかない明かりの中、少女はリクライニングチェアへ腰を下ろすと、周囲を見回した。
四方アンティークの棚に囲まれ、それらには陽の光を嫌う商品が並んでおり……どこか、蟲惑的な何かを感じさせる。
と、香りが少女の鼻腔を擽った。
クロークが香炉に手を翳しているのが見える。
香炉から立ち上る煙を見ていると、周囲にあって、この世界には自分とクロークしかいなくなってしまった錯覚さえ覚えてしまう。
「そう……今、ここには僕とあなたしかいない。肩の力をゆっくり抜いて……」
いつの間にか、クロークが傍に来ていた。
ランプの明かりに照らされるクロークは、いつもと同じ、穏やかさと優しさがあるのに、どこか吸い込まれそうな気がする。
「僕の言葉に耳を傾けるだけでいい。怖いことは何もない。そう、深呼吸して……」
クロークの言葉が染み渡り、少女はいつしかリクライニングチェアに身を沈め、深呼吸していた。
香りが満ちる空間が、心を解きほぐしていく。
「あなたの、名前は……?」
「ローザ」
「薔薇の名前だね。あなたに合う」
自然と名乗った名をそのように言ったクロークは、「ではローザ嬢」と耳元で優しく囁いてきた。
どこか妖しい響きを持ったその声が、心の感覚を麻痺させていく。
「あなたは……どうして、辛いのかな?」
「私は……年の離れた異母兄が、好きなの。でも、もう結婚してしまうの……」
「そう、それは辛いね……」
否定することなく、穏やかに優しくクロークは受け入れる。
「どうして、私は妹なのかしら。私は、あの人をずっとずっと愛しているのに、あの人にとって私は妹でしかなくて……夢でもいいから……」
「あなたは、愛されない孤独を抱えていたんだね……」
労わるような優しさは、叶うことがない願望を的確に言い当てていて。
ローザは、辛さを理解してくれるクロークへ涙で頬を濡らして頷いた。
「せめて、ひと時……あなたも愛されるよう……」
ローザは香炉の煙の向こうに異母兄の姿を見た。
駆け寄れば、異母兄は愛しそうに手を伸ばし、抱きしめてくれる。
ローザは涙を流しながら、その背に手を回した。
例え、ひと時でも……妹ではなく愛される幸せをその身に感じて。
カランコロン……
ローザは、今日もやってくる。
異母兄の結婚式の日が近づいてくる現実から逃れる為に。
ひと時でも、その夢に縋りつくために。
「どうすれば……現実でも愛してくれるの……」
その呟きを、ローザの愛しい男は知っているだろうか。
叶わない夢をひと時でも知ってしまった為に、ローザはその身を焦がす。
彼女は、最早ひと時の幻がなければ生きていけないだろう。
カランコロン……
それは、最早癒しではない。
淡い恋は、欲望と執着へ姿を変え、夢へ依存していく。
クロークのその力は、心弱い者にとっては恐るべき麻薬に等しい。
カランコロン……
願望夢に魅入られた者が、ドアを開ける。
来客を告げるその音が響けば、そして、求められれば、その願いを満たす為にクロークは微笑む。
「ああ、いらっしゃい。今日は……うん、分かっているよ」
それは、どこかの路地裏にある。
看板も何もないその店は、知っている人だけ知っている。
香りが良くても、心が弱い者はドアを開けてはいけない。
ひと時の満足と引き換えに、願望夢に魅入られてしまうから。
「おいで。満たされないあなたを満たしてあげるよ……」
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