<東京怪談ノベル(シングル)>
影と闇
年の瀬のことだった。
黄昏時には人通りもまばらになり、エル・クロークが店を構える裏路地などは人の姿もなかった。黒衣を着たクロークの姿が軒先に現れ、先に店から出ていた女の客を丁寧に見送った。
闇の中でも目立つその金髪と白い肌は、客の姿がなくなると店へと戻っていく。控えめだが華やかな鈴の音を耳にしながら中に入ると、店内は今しがたの客に勧めた紅茶の香りがまだ十分に残っていた。基本的に飲食が不要なクロークは、その香りを吸い込んで人が茶を飲みほした時のように笑んだ。
普通の店ならば、そろそろ店じまいをする時刻ではある。だがここは少し特殊な店だ。表と裏、ふたつの顔を持っている。
そしてこのような闇の時間になると、特に裏の仕事を持ち込んでくる客のほうが多くなるのだ。
からん、と鈴の音が響き、新たな客の訪れを告げた。
不思議な客だった。確かに見据えている。そのはずなのに輪郭が曖昧で、少し薄暗く見える。まるで黒い薄布を通して見ているかのような……。
容姿自体は、少女であった。赤毛で年の頃は十ほどだろうか。身なりの良い服装だが、少し汚れていた。
「いらっしゃい。あなたは……初めての客だね。どのような品をご所望かな?」
クロークは帽子を軽く取り、もう片手を胸元に丁寧に礼をした。
「ここは……、香のお店?」
少女は辺りを見回してそう問いかけた。その様子すら危うげで、揺れる水面のような印象を受けた。クロークはひとつ頷く。
「香に紅茶、香水にポプリ。茶葉入りのお菓子もあるよ。香りに関わるものならなんでも。よければお茶でも楽しんでいって」
レトロアンティーク調の店内をゆるやかに腕で示しながら、最後にカウンターの席を少女に勧めた。亡霊のような少女は席に腰掛けると、ひとつ頷いた。この店に入ったからには、彼女は僕の客だ。そう思いながら、新しいカップとこの客に合う茶葉はと棚に目を向けた。
「あなたは」
「ああ、挨拶が遅れたね。僕はエル・クローク。どうぞクロークと呼んで。この店で、あなたのような客に香りを選んでいるよ」
「香り……」
「主にリラックスしたり……、気持ちをしゃきっとさせたり。癒しや安らぎを求める客が多いね」
ティーサーバーに茶葉を入れ、そこから少女の前で熱湯を注いでみせた。茶葉がぶわっと舞い、ゆっくりと開いていく。頃合いを見て温めてあったカップにそれを注いだ。
「さあ、どうぞ」
勧めれば、少女は素直にそれを口にした。華やかなカモミールのハーブティーだ。
ほう、と息をつく少女が、ようやく安堵の欠片を見せた。
「足が自然とここに向いたの。いい香りがして……」
「おうちの人は?」
クロークの問いに、少女はかぶりを振った。
「わからない。わたしはどこのだれなの。なにもわからなくて、ここから漂ってきた香りで何かがひらめきそうになったの」
「香りは人の記憶に一番残るよ。声から顔からいろいろなものを忘れて、最後まで残るもの。記憶を求めて来る客もいるからね」
「相談にも乗ってくれるの?」
「僕で力になれることならば、何なりと」
三日月の形に。笑顔を口元に刻む。そう、そういう客も多いのだ。香りには記憶を呼ぶだけの力が確実にある。
少女へ手を伸ばすと、少女は少しの逡巡の後にその手を取って立ち上がった。少女を普段は閉め切っている奥の部屋へ招き、部屋にあるランプを灯す。少し頼りないくらいの明るさが、部屋にある様々な香りを封じた瓶を映した。中央のリクライニングチェアの足元以外は暗く、クロークは少女を丁重にリクライニングへ導いた。
少女がリクライニングへ座り、全身の体重を預ける。
「どうすればいいの?」
「何も考えなくて大丈夫。いい子にして、僕の言葉に耳を傾けて聞いているだけでいい。それだけでいいよ」
表で見せる笑顔とは少し違う種類のそれを、少女へ向けながらクロークは香を選んだ。ヒントはもう得ている。先の客へ出したものと同じ香り。それが彼女の記憶にも残っている香りだろう。
火を入れる音に、少女は反応しなかった。彼女はきちんと「いい子」にしているようだった。物おじしない態度、ただの少女ではないのだろうが。
クロークの手のひらが香に翳され、煙を一直線に天へ昇らせているそれがふわりっと拡散した。一気に部屋中へとその香りが広がる。
椅子の横に歩み寄り、少女の顔を観察した。すう、とその香りを吸い込んでいる。
「そのまま深呼吸をして。ゆっくりと……。あなたはどんどん沈んでいく。そうだね……深い闇の色。不思議と暖かくて、何もまだ見えない」
「ええ……」
少女は頷いた。うまくいっているようだ。確信してクロークはつづけた。
「やがて何かが見えてくる。次々と移り変わって。何が見えるかな?」
「広いお屋敷……。きれいなガラスの箱……」
「つづけて」
「何人もの人が眺めてくるの。たくさんの人よ。でもどんどん移り変わっていくの。血の海に沈んで、掬われて、お金と引き換えに別の人のところへいって……」
「あなたは人から人に渡ったんだね」
「そう……。少しずつみんなのつらい部分を吸い込んで……。記憶を少しずつ下さないと詰め込めないくらい」
「つらい部分」
「殺したい、傷つけたい、妬ましい……たくさん聞いてきたの。わたしは……」
少女の腕が天井へ向けて伸ばされた。薄暗い中、小さい体にはあまりに不釣り合いな大振りのルビーが入った指輪が光る。
「でも最後に、もうそんなものは何も見なくていいのよって、言ってくれたの……。あの子が……。わたしが大人になったら全部まもってあげるからって……」
「その子は」
クロークの目が細くなった。ああ。見える。この少女の、少女の姿をしたモノの見ているものが。
「約束を果たせなかったんだね」
「そう……そうよ。大人になる前にいってしまったの。首を折られたのよ。わたしをほしがる人に。逃げてきたの……」
「あなたは何を望む? 願いを言ってごらん。あなたの一番の願いを」
希望を持たせてくれた主人を殺した者への復讐?
貯め込んだ人の負の解放?
それとも……。
「あの子と……」
指輪を嵌めた手が、ゆっくと握られて、また開いた。
「あの子と同じところに……。逝かせて。ねえ、できる……?」
「――あなたが望むなら」
クロークは腕を大きく、ゆったりと動かした。香がふわりとした空気に乗って揺れる。この香りは、その最後の主に近いものだったのだろう。
少女の、亡霊のようなうすぼんやりとした姿が揺らいだ。暖かい空気に流されるように、輪郭の端から影の粒子となって空気に溶けていく。
その姿がすべて影になって消えた後、残った指輪がリクライニングへからんと落ちた。それを持って部屋を出ると、少しだけ店の入り口を開ける。香の香りに乗って、何かが出て行った気がした。
月明かりで残されたルビーの指輪をかざした。特別な力は感じない。ただのルビーの石だ。
「人から人へ渡れば、その思念が影のようについて回る。石は特に、そうなのかもしれないね」
きっと。そうだったのだろう。
月を背にして、クロークは店の扉をゆっくりと、閉ざした。。
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