<東京怪談ノベル(シングル)>
花言葉
かちり。
「ねえ、知ってる? 紅茶の香りには気持ちを安らげる効果があるそうよ」
彼は頬を掻いて「知らなかった」と言った。嘘を吐くときの癖だと私は知っている。それでも私に合わせてくれたことが嬉しくて、それを追求する気は起こらない。
彼の無邪気な笑顔が嬉しくて、私はポプリを一つ手に取った。
ここは香り屋。路地裏にある隠れた名店。
紅茶やお菓子も扱っているけれど、あくまでメインは「香り」の販売なのだそうだ。さしずめ喫茶店ならぬ、喫香店とでも言おうか。
「今日のおすすめ――お気に召すといいんだけど」
店主のクロークさんは薄く笑って、白い煙を吐く香炉をテーブルの上に置いた。
――たちまち広がる甘い香り。柔らかい香りが鼻腔をくすぐって、何とも言えない幸福感に包まれる。
白煙の向こう、彼が穏やかな表情を浮かべるのが目に入った。「確かにこれは素晴らしい」と言った。
「そうでしょう? たまたま見つけたお店なの」
正確には友達から教えてもらったのだが、特に意味のない見栄を張ってみる。それに彼は路地裏なんて通らないだろうから、自分で見つけることはきっと出来なかっただろう。
このお店が少しでも役に立てればいいと私は思った。
彼は笑って、「しかし何だ。鼻からというのは、少々悪い薬の作法のようにも感じてしまうね」と言った。
かちり。
そんな意地の悪いことを言いながらも、なんだかんだ彼はこのお店が気に入ったようである。
男一人ではばつが悪いから、などと言って私を誘ってくれることが増えた。確かに香水やポプリを男が物色しているのはイメージにそぐわないかもしれない。
店主のクロークさんなどは「それは気にするようなことなのかい?」と言っていたが、そこは微妙な男心というやつなのだろう。
私はどうとも思わないが、口実が出来るのはありがたい。嬉々として彼の買い物に付き合った。
この店の品揃えはちょっとどうかと思うくらい凄まじい。
そこらの露天でも見かけるようなメジャーなハーブから、名前も得体も知れないような代物の香りまである。ただ一つ共通しているのは、どれを選んでもハズレがないということだ。
あれこれ目移りするが、彼は特に花の香りを色々と試していた。ラベンダーやローズマリーといった定番から、名前も知らない花まで揃えてある。とはいえ彼は色んな花を知っていたから、単に私が浅学なだけだろう。
しかし花言葉まで持ち出してきた時には、流石の私も彼のことをロマンティストだと思った。
かちり。
ある日、彼はクロークさんに「贈り物をしたい」と切り出した。
「それは男性に? それとも女性に?」
クロークさんはそんなとぼけたことを言った。彼も苦笑して「いや、男同士でこの類はないだろう」と返した。
どうやら贈る香りは既に決めてあったらしく、どういう形がプレゼント向きかを相談していたらしい。
「それなら香水をお勧めするよ。幸い、腕のいい職人が拵えた瓶が手に入ったところなんだ」
そうか、と彼は頷くと、指定した花を香水として注文した。
かちり。
程なくして香水は出来上がった。
趣味のいい透明なガラス瓶に、透き通ったブルーの香水が満たされている。それだけで値打ちの美術品のような代物だった。
「包装はどうしようか?」
色紙を取り出したクロークさんに、彼は「いや、結構」と断った。そしてその香水を、私に手渡した。
「ええ?」
困惑する私に、彼は頬を掻きながら微笑んだ。「いつもありがとう。感謝の気持ちだ」
かちり。
花の名前は、オダマキというらしかった。
かちり。
後で知ったことだが、その花言葉は、
かちり。
私はその後、彼にプレゼントを返す。
スノードロップという花のお香を返す。
その花言葉は、
かちり。
「――ねえ、今日はこのくらいにしておきなさい」
●
ランプの灯りしかない仄暗い部屋。様々な香りが渦巻いて、なんとも蠱惑的な雰囲気を醸し出している。
中央に設えられたリクライニングチェアに、エル・クロークは悠然と腰掛けていた。
そしてその対面には、虚ろな瞳でぼそぼそと何事かを呟いている女の姿。
かつては『表』の――そして今は『こちら側』の常連である。
「……ああ、もう、お終いなの?」
女の声は幽鬼じみている。どれほどの情念を夢幻の中で燃やしたのか、クロークには推し量れなかった。
「駄目だよ。これ以上は危険だから」
過度の夢想は身体に不調を来す。特に彼女は中毒者じみた執念を見せるから、引き際が肝心である。
彼女のために調合するのはオダマキの香だ。彼女がここに通う理由となった因縁の香り。
どうということはない。振られた女が愛憎を逆転させたという、よくある話だ。
二股を掛けられたと彼女は言う。私を棄てて別の女に乗り換えたとわめき立てる。
けれどクロークにしてみれば、初めから相手にされていなかったように見えていた。
彼女の知らぬところで、その男性はおそらく『恋人』であろう女性と何度も店を訪れていた。彼女よりずっと親密そうで、同時に彼女を疎んじていることも理解した。
だからオダマキだったのだ。
その花言葉は、『愚か』なのだから。
――いらない皮肉を寄越すから。
クロークはそう嘆息せずにはいられない。
「……また来るわ。例のもの、用意しておいてね」
女は陰鬱な声でそう言うと、返事も待たずに店を出て行った。瞳だけが爛々と輝き、後ろ暗い感情で満たされているのは明らかだった。
「例のもの、ねえ」
クロークは椅子に座り直す。
意趣返しのつもりなのだろうか。『こちら側』に通うようになってから、彼女はいつも同じ香水を所望する。
スノードロップ。
花言葉は、『貴方の死を望む』。
「やれやれ」
なんて回りくどくて、不毛な情熱だろう。
外はもう日が落ちている。街はそろそろ寝静まろうとしている。
店を閉めるには十分な時間だと確認すると、クロークは休息を取ることにした。
人間模様などお構いなし。時計はただひたすら、かちりかちりと時を刻み続ける。
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