<東京怪談ノベル(シングル)>
―星空は見ていた―
夕暮れ時の空がオレンジから紫色に装いを変える頃。街を歩く人も疎らになり、店の灯も落とされていく。
この街の夜は早い。華美な飲食店や酒場なら、これからが稼ぎ時なのであろうが、この街にそのような店は少ない。依って、夜更けのこの街を歩く者も少ない。
そんな寂しい街の更に裏手に、人目を避けるかのようにひっそりと佇む、小さな店がある。その扉に、寂れた街並みには凡そ不似合いと言える少女の手が伸びる。
控え目な音色を奏でる鈴が、その来訪を告げる。店主はふいと顔を上げ、笑顔でその小さな客を迎え入れた。
「いらっしゃい……おや、初めて見る顔だね」
「……」
キョロキョロと、店内を見回す円らな瞳。歳の頃は14〜5と云うところであろうか。幼子ではないが、大人でもない。
「何をお探しかな?」
「……私」
ふぅん? と短く唸るように声を上げると、店主は少女の顔を正面から見据えた。成る程、先程から視点の定まらないその瞳には、決して小さくは無い怯えの色が見え隠れしている。
相手の顔が近くにあっても、その目を正視できない理由は二つある。
一つは、疚しい事があり本心を隠している時。そしてもう一つは、自制が利かぬほど心に迷いが生じている時。店主は少女が後者であると確信し、ニッコリと笑みを浮かべた。
「分かった。僕にどれ程の手伝いが出来るかは分からないが……その探し物、手伝うよ。あぁ、僕はエル・クローク。クロークと呼んで欲しい」
「……クローク……お願い」
糸の切れたマリオネットのように、コントロールの利かない我が身がどれだけ頼りないものか。クロークはそれを良く知っていた。だからだろう、ただ自身に縋るだけの彼女を無碍に出来なかったのは。
***
「体が冷えているようだ、これを飲むと良い。落ち着くよ」
「良い香り……」
それは、クロークが茶葉にハーブをブレンドして調合したお茶だった。先ずは落ち着こう、と云う意図が込められたそのお茶には、鎮静効果のある香草が含まれていた。
「何も考えなくていい、お茶の香りを愛でるだけで良いんだよ」
余分な思考は雑念を呼び、ターゲットの存在を包み隠してしまう。先ずクロークはその邪魔者を取り除き、クリーンな状態へと彼女を導こうと試みた。それが済んでからでないと、心の中を覗く事など出来はしないからだ。
「寒かっただろう?」
「うん。酷く寒かった」
「疲れているかい?」
「それは無い。けど、とても怖い思いをした気がする」
一つ一つ、丁寧に事情を訊いていくクローク。そうして手に入れた情報から、処置の仕方を弾き出していく。
(現状は把握している、混乱した様子は無い。しかし、何かが彼女の過去を封印している……)
外傷は見られない、着衣の乱れも無い。それに、様々なキーワードを駆使しても反応を示さない。となれば精神的ショックが直接的な原因とも考えにくい。
(身に付けている衣装は上等なもの、しかしこの寒空にコートも無しで出歩くのは不自然。突発的な事情で屋外に出ざるを得なかったか、或いは……)
笑顔の下で、クロークは少女の心に巣食う何かの正体を、懸命に探っていた。そして遂に、ある結論に辿り着いた。
(もし、僕の考えが正しければ……いや、ほぼ間違いない。問題は何故それを彼女が受けなければならなかったか、だけど……)
辿り着いた結論には自信があった、しかし理由が分からない。ともすれば、それを暴く事は却って少女を傷付ける結果になるかも知れない……様々な思念が渦を巻く。が、やるべき事は一つ。依頼者たる少女は、過去を欲して街を彷徨って来たのだから。
「店に並んでいる物だけでは足りない、新たに作る必要があるね。済まないけど、待っていてくれるかな?」
「……他に、行く当てもないから。それに、寒いのはもう嫌だし」
「じゃあ、僕は奥の部屋に行くけど……覗くのは遠慮して欲しい、舞台裏を見せるのは趣味じゃないから」
「必要ない……でも、お店の中を見るのは良いでしょう?」
その回答に笑顔で応え、クロークは奥の部屋へと姿を消した。不思議と、彼女が戸外へと出ていく心配は全く無かったという。
***
(原因が、人為的な何かである事は間違いない。それを打ち消す事は容易い……しかし……)
香草の葉を磨り潰し、調合していく。それが正義の使者となるか、悪魔の化身となるか……それはクロークの意思次第だった。そう、この小部屋はクロークが『裏の顔』を見せる場所。依って、客に暴かれる事があってはならないのだ。
(清廉な少女の願いを叶えるため、悪魔になる……皮肉なものだね)
苦笑いを作るクローク。その笑みは、心なしか悲しみを匂わせるものであった。
確かに依頼者の少女は、自分の過去を返して欲しいと願っている。しかし、意図してそれが消された原因の如何によっては、思い出させる方が酷なのかも知れない……その懸念が、クロークを迷わせていた。
そして、完成した香油を炉に入れて、火を灯す。その香が部屋を満たし、少女は次第に思い出していく……自分が何を見て、なぜ記憶を閉ざされたのかを。
***
後日、豪奢な屋敷から次々に連れ出される大人たちを見送る少女の姿があった。傍には無論、クロークも立っている。
「親御さんも居なくなってしまうけど、これで良かったのかな?」
「大人たちの事情なんて、私にはまだ分からない。でも、やっていたのは悪い事だから」
連れ出されていく大人の中に、自分の親も混じっている。が、少女はそれを見てもなお、冷静に言い放つ。
事のカラクリは、極めて単純な事だった。
高齢となった当主の遺産をどのように分配するかで、親族たちが揉めていた。物が物だけに、その話が白熱化し、怒号が飛び交うまでにそう時間は掛からなかった。そう、良くある話である。
やがて、家督を受け継ぐ順位の話となり、その際に首位に立ったのが少女の父の兄……つまり、彼女の伯父であった。当然、最も多くの遺産を相続する権利を彼が持つ事になる。これに反発する者が出るのは、当然の流れだった。
少女にとっての不幸は、その場に居合わせてしまった事だった。
「……あなたを消してしまえば、場は更に騒然となる。だからコレを使って、あなたの心に蓋をした……」
そう言って目を伏せるクロークの手には、小さな瓶が握られていた。
「愚かな事です。どのような策を練ろうとも、起きてしまった事実は隠蔽できない。そんな事すら判断できなくなるなんて……」
騒音に驚いて、伯父の部屋へと飛び込んだ彼女が見た物は、血染めのガウンと割れた花瓶、そして肩で息をする自分の父の姿だった。彼女は悲鳴を上げる寸前でナイフを突きつけられ、父の部屋へ誘導された。そこで薬を嗅がされ、御者の居ない馬車に乗せられて、馬の気の向くままに流され、気付いたらあの街に居た……と云う訳であった。
「あの馬車が、途中で壊れなかったのは……やはり星の巡り会わせと云うものがあったからなのね。でなければ、あの街に着く事も……クローク、貴方に出会う事も無かった」
「お星様は全てを見ていた……こう言うとロマンチックだけどね。大人たちの汚い一面を見て……おっと、愚問かな?」
「悲しい事ではあるけど……でもこれも、大人になる為のステップの一つなのでしょう?」
そうだよ、と少女の肩を叩くクローク。彼女の瞳に、もはや迷いは一片も見られなかった。
<了>
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