<東京怪談ノベル(シングル)>


幻を刻む時計


 何の変哲もない青年である。いや、もしかしたら壮年・中年に達しているのかも知れない。
 見たところ、商家の下働きといった態だ。
 そんな、この街のどこにでもいそうな男が、エル・クロークの店を訪れた。
「いらっしゃい。どのような香りを御所望かな?」
 客を迎える店主として、クロークはまず微笑んで見せた。
 男は、店内を見回している。
「ここは……香物の店か? 喫茶店のようにも見えるが」
「香りだけではなく、お茶とお菓子も扱っている。貴方は初めての人だね、どうぞ座って」
 クロークは、男をカウンター席に導いた。
 導かれるまま男は椅子に座り、品書きに目を通した。
「……では紅茶をもらおう。何でもいい、適当に見繕って淹れてくれ」


 裕福な男には見えない。
 だがティーカップを片手に持って茶の香を確かめる、その仕草は、いささか不気味なほど様になっている。
「ふむ……なかなかのものだな」
 一口、男は紅茶を啜った。
「彼女のもとで、薬草の調合を手伝っていた……その経験が活きているようではないか?」
「貴方は……」
 クロークは、真紅の両眼を微かに見開いた。
 男は微笑んだ。特徴に乏しい顔が、ニヤリと歪む。
 その歪みに、クロークは男の正体を見出した。
「独り立ちして、店を持ったのだな」
「貴方は……とうの昔に、魔界へ帰ったと思っていたよ」
「1度は帰ったさ。だが人間界でやらなければならない仕事が出来てな」
 男は言った。
 今は男だが、女にもなれる。老人や子供にもなれる。かつては、黒猫やカラスに化けていたものだ。
「ちっぽけな使い魔として彼女に飼われていた私も、どうにか君と同じく独り立ちだ。下っ端とは言え、悪魔としてな」
「いずれ大魔王になって、人間どもをぎゃふんと言わせてやる。それが貴方の口癖だったね」
 懐かしさが、クロークの胸に満ちた。
 その懐かしさの中で、痛みが疼く。
 微かな、だが決して消えない痛みだった。


 憂いを帯びた表情も充分、魅力的ではある。
 それでもやはり、この女性には笑顔でいて欲しい、とエル・クロークは思う。
 だから、声をかけた。
「魔女殿は……何か、思い悩んでおられるようだね」
「……わかる?」
 彼女が、微笑んだ。
 翳りのある微笑。クロークの胸で、微かな痛みが疼く。
 この女性は何故、こんなにも悲しげに微笑むのか。
(貴女には……もっと明るく、笑って欲しいのに……)
「エル……貴方は本当に、変わらないわね」
 悲しげに寂しげに微笑みながら、彼女は言った。
「私、貴方の事……ずっと、兄のように思っていたわ。優しくて綺麗な、自慢のお兄様よ。だけど気が付いたら」
「今では、貴女の方が僕のお姉さんだね」
 本当に大人っぽくなった、とクロークは思う。
 自分がエル・クロークという存在を開始した時、彼女はまだ、あどけない少女であった。
「優しくて綺麗な、自慢のお姉様」
「おやめなさい。お世辞を言ったって何も出ないわよ」
(何かが欲しい、わけじゃないのに……)
 クロークは思わず、そんな言葉を口に出してしまうところだった。
(僕はただ、貴女に……明るく、笑って欲しいだけ。貴女を、そんなにも悲しく微笑ませているものは一体何? それを取り除くために……僕に一体、何が出来るのだろう)
 そんな事を長々と、口に出してしまうところだった。
「……話してみて欲しいな」
 クロークは言った。
「相談に乗る、くらいの事しか僕には出来ないけれど」
「ふふ……やっぱり貴方の方がお兄さんよね、エル。そんなふうに私の事、いつも気にかけてくれて」
 笑いながら、彼女は溜め息をついた。
「貴方の方が、ずっと大人……それに比べて私ときたら。いい歳なのに、中身はずっと子供のまま。安っぽい吟遊詩人の歌に憧れる、思春期の小娘みたいに」
 酒の臭いに、クロークはようやく気付いた。
「魔女殿は、もしかして……酔っ払って、おられる?」
「貴方も一緒に飲めればいいのにね。うふふ、エルはお酒なんか飲んだら錆びちゃう? かしらねえ、あっはははははは」
 高らかに笑ってから、彼女は俯いた。
「……ごめんなさい。やっぱり駄目ね、私」
「まあまあ。何があったのかは知らないが結局、お酒では解決出来なかったという事だろう? だから僕に話してみてはどうかな、と言っているのさ」
「何があった、というわけでもないのよ。私が1人でうじうじと悩んでいるだけ。思春期の小娘のように」
 俯いたまま、彼女は言った。
「ねえエル……貴方とは、ずいぶん長いお付き合いになるけど」
「感謝しているよ。単なる懐中時計に、僕という命を吹き込んでくれたのは、貴女だからね」
「驚いたわよ。大事な時計をなくした、と思って泣いていたら……金髪で赤い目をした、とても綺麗な男の人がそこにいて、私の頭を撫でてくれて」
 ちらり、と彼女は顔を上げた。
「あれからずっと、貴方は若くて綺麗なお兄様のまま……私は見ての通り、老いさらばえてゆく一方なのに」
「いくら何でも、まだそんな歳ではないだろう? 貴女の正確な年齢なんて、僕も数えているわけではないけれど」
「時計の精霊さんとは思えない台詞ねえ」
「時計は、1日の時を刻むだけさ。1日が終われば、最初に戻る……僕は、それを繰り返してきただけ。貴女と一緒にね」
 かけがえのない1日を、彼女と共に重ねてきたのだ。
 大切な時計を探しながら泣きじゃくっていた少女は、やがて大人になった。エル・クロークは、何も変わらない。
「羨ましい……なんて言ったら、エルは怒る?」
「怒りはしないさ。自然に老いてゆく事こそが1番の幸せ、なんて言えるような境地には、まだまだ達していないもの」
 自然に歳を重ね、老いさらばえて死んでゆく。それを羨ましいと思える日が、いつか来るのだろうか。
 彼女は自然に大人になり、やがて老いてゆく。自分は何も変わらない。
 そんな2人で、かけがえのない日々を重ねてゆく。これからも、ずっと。
 クロークは、そう信じていた。そう思っていたかった。
(それは、僕の夢……幻、なんだろうね。きっと……)
 クロークは空を見上げた。
 いくらか物悲しくなってくるほど、晴れて澄み渡った空。見つめていると、自然に言葉が出て来る。
「……思いを告げてみる、べきだと思うよ。貴女の方から」
「え……」
 彼女が息を呑んだ。クロークは、さらに言った。
「告白した結果、貴女はとても辛い思いをするかも知れない。だけど心にしまったままでも結局、日に日に辛くなってゆくだけだと思う。それなら、貴女の方から」
「……知って、いたの? エル……」
「彼は、とても素晴らしい人物だ。貴女にふさわしい、と僕も思う」
 エルは微笑んだ。彼女は、呆然としている。
「どうして……貴方まさか、心を読む魔法でも」
「そんなもの、使えたらいいとは思うけど……魔女殿が、思春期の少女のように思い悩んでおられる。それは見ればわかるよ」
「あの人……私より……ずっと年下なのよ……?」
 彼女は、とうとう泣き出してしまった。
「10歳近くも年上の女に……好きです、なんて言われたら……気持ち悪いに、決まっているじゃないのよォ……」
(僕は、貴女にそう言われたら……幸せすぎて、おかしくなってしまうかも知れないよ)
 思いつつクロークは、口では別の事を言った。
「駄目だったら、またお酒でも飲むといい。僕は一緒に飲めないけれど……愚痴なら、いくらでも聞くから」
「エル……」
 彼女が、涙まみれの顔を上げた。クロークは微笑みかけた。
「酔っ払って、僕に八つ当たりでもすればいい」


 八つ当たりを受ける事も、愚痴を聞かされる事もなかった。
 彼女は10歳近く年下の男性と、見ていて切なくなるほど幸せな結婚をした。
 子供を産み、育てながら、彼女は幸せに年老いていったのだ。
「そして君は、姿を消した」
 かつて彼女の使い魔であった男が、空になったティーカップを置きながら言った。
「彼女はな、寂しがっていたのだぞ。まあ、それは君も同じか」
「僕は寂しくなどなかったよ。寂しさよりも、もっと……何だろうな」
 クローク自身にも、よくわからない。
 とにかく1人になったクロークは、ひたすら香匠としての修行に打ち込んだ。何かを、忘れるようにだ。
 香物商として、どうにか独り立ちした頃、クロークは彼女と再会した。
 ベッドの上で、ただ息をしているだけの老婆。
 それが彼女であるなどと、介護をしていた家族に言われなければ、わからなかった。
 そのまま意識が回復する事もなく、クロークと別れの言葉を交わす事もなく、彼女は逝った。
「思い出話に花を咲かせたいところだが……こう見えても、忙しい身でね」
 テーブル上に銀貨を置いてから、男は立ち上がった。
「今日は、君がきちんと生きている事を確認したかっただけだ。彼女は、それを心配していたのでな」
「エルは元気にしていると、彼女に……伝えて欲しい、ところだけど」
「自分で伝えろ。彼女の墓前でな」
 言い残し、男は店を出た。
 彼女が愛し、生涯を終え、骨を埋めた土地に、クロークはあれから1歩も足を踏み入れていない。
 君は彼女の死を、本当には受け入れていないのではないか。そう言われているような気に、クロークはなった。
「姿を変える事は出来た……エル・クロークという名前を、捨てる事も」
 この男か女かも判然としない、金髪に赤い瞳の人間の姿も。エルという名前も。彼女が、幼い頃から親しんでくれたものだ。
「そんなものを後生大事にしていたところで……貴女が帰って来てくれる、わけでもないのに……」