<東京怪談ノベル(シングル)>
酔いの果て
一組の男女が許されぬ恋をした。
男は妻子を持ち、女は酒場で唄を歌う位置にいる。
一夜の過ち。行きずりの関係。
そうなるはずであった間柄であったのに、互いに一時の情愛に溺れてしまったのだ。
だが、時が経てば必ず綻びが生じる。
男はそれを受け入れ、女は拒絶した。
想いに翻弄され、苦しみ抜いた女が選んだものは、一つの忘却への道であった。
石畳の続く路地を、草臥れたサンダルを履いた女がよろよろと歩く。
その道を暫く進んで行くと、レトロな造りの小さな店が顔を覗かせる。
アンティーク調なぶら下がりの看板を見上げれば、香りを象徴させる香水瓶が描かれたプレート板が視界に映る。
ここで間違いはない。
オレンジ色のランプも点ってはいるし、営業中なのだろう。
そう思いながら、この場を訪れた亜麻色の髪を持つ女が、扉に手をかけた。
カランコロン、と、カウベルのような音が鳴り響く。
「――いらっしゃい、今日はどんな品を……あぁ、あなたは初めての方だね。ようこそ」
出迎えてくれたのは、金の髪が美しい青年であった。
宝石のような赤い瞳と白い肌が強い印象を与え、改めてその姿を見るとどちらの性を当て嵌めれば良いのかと迷いすら生じる。
「どちらで見てくれても構わないよ。さぁ、あなたは、何をご所望かな」
心を見透かされたかのような言葉の後、全身を黒で包んだその人物は、すらりと綺麗な指を伸ばして自分を招いてくれた。
僅かに息を切らし気味であった女は、その場で深呼吸してから一歩を進める。
ふわ、と良い香りが鼻腔を擽った。
ささくれ立っていた内心が、和らいでいくかのような香りであった。
香物を扱う店――とだけ、人伝で聞いていた。
目に映る商品だけでもそれは、様々なものが並んでいる。
香水瓶からアロマ関係、香炉などの陶器やポプリ、コーディアルや紅茶などだ。
「……、……」
女は表情を歪ませる。
香りだけでここまで感情が動かされるものなのか。
そう思いながら、彼女は唇を震わせた。
「こ、ここに……不思議な香りがするブランデーがあるって聞いたの」
「あぁ、なるほど。あなたは『そちら』を求めてきたんだね。じゃあ、奥へどうぞ」
女の言葉を受けて、赤い瞳がゆらりと揺れた。
直後、空気が動いて導きのための香りが生まれる。
女はその香りに素直に反応して、奥へと足を運んだ。
バックヤードかと思われた空間には様々な色合いの香りの瓶が納められている棚と、リクライニングチェアが一つ。明かりを取る窓は見られず、ランプが静かに灯っているだけの、怪しい雰囲気を滲ませていた。
「さぁ、その椅子にかけて」
金の髪のその存在――女性から見て青年と感じ取った故にそう表現する彼が、そう言った。
言われたとおりに、彼女はその椅子に腰を下ろす。
「そう言えば名乗っていなかったね。僕はエル・クローク。クロークと呼んで」
鈴音のような声だと思った。
耳に届くまでにじわりと感覚が鈍っていくかのような、そんな響きでもある。
クロークと名乗った青年を見上げた女性は、縋るような表情で「助けて」と言った。
「……この苦しみから解放されたいの。もう、忘れてしまいたいの……どれだけ私が思っていても、あの人は手に入らないんだもの」
「泣かないで、綺麗なひと。あなたの願いは受け入れられるだろう。だから僕を信じて……まずは深呼吸をしようか」
はらはらと涙を零しながら自分を語り出す女性に向かい、クロークは優しい声でそう言った。
その間に棚の奥から、彼女が希望していた円状の酒瓶を取り出す。そして徐ろにキャップを開けて、ふぅ、と息を吹きかけた。
そこから広がる香りがある。
言葉には言い表しがたい、だが、不思議と心が安らいでいくかのような芳香であった。
「あなたが望んだブランデーだよ。一般的にはスリヴォヴィッツという名の、プラムが原料のものだね。香りも然ることながら、味わいもとても良いものだよ」
「飲んでみても……良いかしら……」
彼女の表情は、先ほどとは違うものになっていた。
瞳から溢れていた涙はいつの間にか止まり、今はどこか遠くを見るかのような虚ろな目をしている。
そんな女性の言葉に、クロークは「もちろんだよ」と言ってから、グラスを取り出して酒を一口だけ注いだ。
まろやかな液体であった。
眼前で揺らめくそれを見て、彼女はそろりと手を伸ばしてくる。
「口に含む前に、ゆっくりと香りを楽しむんだよ。それだけで、あなたはきっと救われる」
「……ええ、そうね……」
女性はクロークの言葉通りにグラスを両手に抱え込んで、立ち昇る香りを吸い込んだ。
柔らかい目眩を、遠くで感じる。
「あなたのような美しい人は、もっと周りに目を向けるべきだ。望みのない恋心なんて、忘れてしまえばいい」
呪文のような声が、脳内で巡った。
数秒後、女の記憶からゆっくりと一人の存在が消えていくのを感じた。
文字通り、身も心も炎のように燃え盛っていた恋は、この香りと口に流しこむ液体によって収まっていく。
そこには、一欠片の思い出さえ残らない。
幸せだった頃の時間も、苦しかった刻すらも。
女の手から、グラスが滑り落ちる。
直後、当たり前のようにそれは床で弾けて、形を失った。
「……っ」
ビクリ、女の肩が震えた。
虚ろであった瞳がハッキリと開き、クロークを見る。
「気分はどう? あなたは少し、疲れていたみたいだ。店で商品を見ている所で、倒れてしまってね」
「あ、あら……そうだったの。迷惑かけてごめんなさい」
「夜の歌姫だからかな。安眠効果を得られるフレーバー紅茶があるから、今日はそれをお勧めするよ」
クロークは女の手を取り椅子から立たせて、そのまま歩かせた。
彼女は、何も憶えてはいない。
だから彼は、少しの嘘をついて再び表の店の方へと連れだしたのだ。
「普通に淹れて飲むだけでいい。また何かあったらいつでもここにおいで」
「ええ、ありがとう」
女はクロークの勧めた紅茶を素直に購入し、笑顔で出て行った。
出入り口のドアのベル音に懐かしさを感じつつ、見上げた表情は、晴れやかでもあった。
「――醉いの果てに残るものは哀しみだけ……。もう、同じ道に迷い込まないように祈るよ」
女を笑顔で見送った後、クロークは静まり返った室内でぽそりとそう言った。
その口元に浮かんだ笑顔は、僅かな淋しさを湛えたような色合いをしていた。
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