<東京怪談ノベル(シングル)>


名前を呼んで

 ざあざあと。その日は朝から強い雨が降っている日だった。
 静かな店内に響く雨音。それに違和感を覚えて、エル・クロークはふとドアの方に目を向けた。
 ばしゃばしゃと、足早とまでは言わないが雨を厭うたのだろう速さで近づいてきた足音は、一人の女性をつれてドアの隙間から飛び込んできた。
「こんばんわ」
「いらっしゃい。……あなたは確か、この間の」
 店の中に雫が入らないように、ドアを開けたまま外で傘の水気を切った彼女は、数日前に買い物をしていった客のはずだ。そのときはいかにも会社帰りのOLと言った姿だったが、今日の彼女はパステルカラーの膝丈ドレスにシフォンのボレロで着飾っている。それだけに、化粧が少し崩れているのが目についた。
「ええ……あの時は、ありがとう。だけど……これを、返しに来たの」
 そう言って女性は、手近にあった机の上に香水の瓶を置いた。
 ミュゲの穏やかな香りから、甘くしっとりとしたイランイランを経て深みあるムスクのラストノート。定番の香りを組み合わせた、何一つ変わったところのない普通の香水だ。
 中身に問題などないはずのものだ。クローク自身が調香したものなのだから、間違いない。
 珍しい申し出に、クロークは片眉を跳ね上げる。
「――ごめんなさい、私が悪いの。でも、どうしてもこれを、手元に置いておきたくなくて」
 いらないのよ、もう。
 そう呟いた彼女の頬に、雨粒とは違う雫が伝う。
 悲しげに首を横に振る女性の顔には、憔悴の色があった。
「紅茶を入れようか。あなたは少し、疲れているようだから」
 有無を言わせないような強さがあったわけではないが、それでも、クロークの語りかけるような言葉に抗いがたい何かを感じて、女性はいくらか躊躇してから頷いた。
 ゆっくりと、温かい紅茶の匂いが店内に漂う。
 傘はあっても、まったく濡れずにはいられなかったのだろう。身体が温まって初めて冷えていたことに気がついた女性は、ぬくもったカップから手を離さないまま、ほう、と息を吐いた。
「何があったのかな」
 クロークの声に、質問や追求の響きはない。ただ穏やかに語りかけるような言葉に促され、女性は自然に心中を吐きだした。
「……好きな人が、いたの」
 数日前に彼女が呟いたのは過去形ではなかったことをクロークも、彼女自身も覚えている。
 職場の、創立何年だかの祝賀会があるから取引先の社員であるその人も来る予定だから、と。自然に彼の気を惹けるようなものを探していると、そう言って彼女は香水を買っていったのだ。
 その祝賀会が今日だったのだろうことは、女性のドレス姿を見れば聞くまでもなかった。
「香水のおかげ、だったのかな。その人といい感じになってね……嬉しかったわ、その時までは」
 彼女の頬は上気したように染まる。本当に幸せだったのだろう。
 その分だけ、瞳に揺れる悲しみが深いのだけれど。
「それを見かけたんでしょうね。一緒に来てた彼の上司が、教えてくれたの」
 子供もいる既婚者だと。
 最初は信じられなかったのに、彼は慌てて、遮るようにこう言ったのだ。
 ――今言わなくてもいいじゃないですか――。
 遊ばれていたのだと、いかな恋に目の曇った彼女とて理解できた。
「馬鹿みたいよね……悪い男にひっかかって。好きになっちゃったりして。本当に……」
 熱を失った紅茶のカップにひとしずく、涙が落ちる。
 彼女は無意識にだろう、唇を拳でぐいとぬぐった。
 触れてはいけないものが触れでもしたかのように。
 クロークは目を細めて女性の様子を見ていたが、やがて立ち上がると店の奥に続く扉の前で女性へと向き直り、声をかけた。
「あなたは、どうしたい?
 その恋心を忘れることも、満たすこともできるとしたら」
「……?」
 怪訝そうな顔をした女性に、クロークは静かに微笑む。
「僕に出来ることならば、何なりと」

 好奇心が勝ったのだろう。彼女は、『裏』に立ち入ることを選択した。
 ランプの灯りに照らされた部屋の中には、瓶を収めた棚の他にはリクライニングチェアがあるだけだ。
「この部屋は倉庫のようなものだからね。陽が差さないようになっているんだ」
 奇妙な雰囲気に怖気づいた女性に、クロークはこともなげに言った。
 彼女が示されるまま深く腰掛けたリクライニングチェアの背もたれに腕をかけて、クロークはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「さあ、目を閉じて。僕の言葉に耳を傾けるだけでいい。そう、深呼吸して……」
 傍に置いた香炉に手を翳す。漂う煙は倉庫と称した部屋を揺蕩い、やがて女性の意識を侵食していく。
 深い眠りに誘われた彼女の、その夢のなかで彼女は好きだった男の腕の中にいた。
「お願い……名前を、」
 不意に、彼女がそう呟いた。
 クロークは彼女の名前を知らない。知る必要もない。
 だから――何の意味もないことではあったが、クロークは彼女の唇の周囲に触れた。
 無理矢理ぬぐおうとしたせいだろう、口紅は中途半端に剥げたうえに塗り広げられて、なかなか酷い有様だ。そのまま放っておいても構いはしなかったのだが、試作したまま使いみちをなくしていた口紅が棚に転がっていたのを思い出して、そっと塗りなおしてやる。ただの気まぐれだ。唇の熱で溶けた香料が、カモミールの匂いをほのかにさせた。
「逆境に耐える力。清楚。……花言葉だけどね」
 聞こえているはずもなかったが、うふふ、と。子供のように、眠ったままの彼女は笑った。

 翌日の仕事を終えて帰宅しようとしたところで彼女は、職場の前に立っていた男を見て目を丸くした。
「……どうされたんですか」
「ごめん。君を騙すつもりはなかったんだ。ただ僕は、ずっと妻とは別れるつもりで……」
 だから付き合ってくれないか。
 そう言った男に、彼女は優しい笑顔を向けて言い放った。
「嘘つき」
 腕を広げ女性を抱きしめようとしていた男が、その言葉にぴたりと動きを止める。
 彼女の笑顔があまりにも明るかったから、承諾されたものと思い込んだのだ。
 困惑する男に向けて、彼女は「ひとつ、お願いがあるんですけど」と切り出した。
「私の名前を、呼んでくれませんか」
「え……?」
 些細すぎる頼みに話の流れが読めず戸惑った男に向けて、彼女はもう一度笑いかけてやった。
「嘘をついてる時、あなたは私の名前を呼ぶの、躊躇するんです。知ってました?
 普段は呼び捨てのくせに、『さん』をつけたり、君って言ったり――キスでごまかしたり。
 私、とても幸せな夢を見たんです。
 そんな夢を見て、私はやっと気がついたんです。あなたがひどい嘘つきだってこと。
 さようなら。もう二度とお会いしません」
 失礼します、と一礼して。彼女はまっすぐに男の横を通り抜けた。
 そのままただの一度も振り返ることなく、彼女はクロークの店に足を運んだ。
「いらっしゃい。今日は何を探しているのかな」
「失恋に効くようなアロマとか、ありませんか?」
 笑ってそう言った女性に、クロークは一度目を瞬いてから、穏やかに微笑んだ。
「昨日の夢の続きは、もう見なくていいのかな」
「幸せだったけど、夢は夢ね。昨日は殺してやりたいとも思ったけど、そんな価値もない人だったわ」
 吹っ切れた笑顔で、彼女は朗らかに笑う。
 その唇には、カモミールの香る口紅が色づいていた。

<了>