<東京怪談ノベル(シングル)>
調香師は夢を見ない
青年は、うっすらと目を開いた。
「……母上に、叱られてしまった。いつまでこんな事をしているのか、とね」
「なるほど。お母上にしてみれば僕は、御子息に悪い遊びを教えた……1日も早く縁を切るべき類の友人、というわけかな」
微かに笑いながらエル・クロークが、香炉の蓋を少しだけ回転させる。
透かし彫りの薔薇に彩られた、掌大の白い香炉。
その透かし彫りの奥から、香気が漂い出している。蓋の回転で、香りの強さを調節出来る仕組みであるようだ。
もう、全開にしても微かにしか匂わない。香が、ほとんど燃え尽きている。
夢を見る時間は終わり、という事だ。
エル・クロークの店の奥、普段は半ば倉庫のように使われている空間である。
店の表側では、普通に香物を扱っている。香料、香木、香水、及びそれらに関連する様々な品。それに紅茶や菓子類。
喫茶用の席を設けてからは、特に女性客が増えたらしい。
もっとも彼女たちの大半は、店主エル・クロークを目当てに来店しているのではないか、と青年は思っている。
煌めく金髪に、生命あるルビーのような赤い瞳。自動人形を思わせる美貌。黒衣に包まれた細身は、胸に詰め物でもすれば、そのまま女性の体型になってしまいそうだ。
この眉目秀麗な香物商人の年齢を、青年は知らない。知り合ったのは数年前だが、その時から本人は18歳と言い張っている。すでに20歳は超えているはずだが、外見はほとんど変わっていない。
青年自身は25歳である。母親を恋しがる年齢ではないが、しかし母親に会いに来てしまう。
エル・クロークの店へ、恋人に会いに来る者もいる。この世にいない、客本人の妄想の中にしか存在しない恋人にも、この店に来れば会えるのだ。
幼くして死んだ、息子や娘に会いに来る者もいる。誰かに会うというわけでもなく、ただ幸せになりたくて来る者もいる。
青年は、母親に会うために、この店に通っている。だがそれも、そろそろ終わりにしなければならない。
「次で、終わりにしたいと思う」
「飽きさせてしまったかな?」
「飽きるなら、とうの昔に飽きているさ。君が会わせてくれる母は……本物の母よりも優しく、私を慈しんでくれる。本物の母よりも厳しく、私を叱ってくれる。許されるならば、ずっと浸っていたい」
本物の母は、20年近くも前に、馬車の事故で亡くなった。事故、という事になっている。
「次で、終わりだ」
青年は、改めて言った。
「私は、母に別れを告げなければならない」
とある富豪の邸宅からの、帰り道である。
その富豪は、今や自力では起き上がる事も出来ない老人で、あの青年のように足しげく通うというわけにはいかない。
だから月に2度か3度、店主エル・クローク自らが、所望された香を焚くために訪宅していた。
その帰り道を、狙われた。
近道をするため、人通りの少ない区画を通り抜けようとしていたところである。
「香物商のエル・クローク殿か」
声をかけてきたのは、フードとマントで全身を隠した老人である。
彼が、恐らくは金で雇い集めたのであろう。風体の良くない男たちが、にやにやと笑いながらクロークを取り囲んでいる。これ見よがしに短剣を揺らめかせている者もいる。
「香をお求め……というわけでは、なさそうだね」
自分が扱う商品とは、まるで縁のなさそうな男たちを、クロークはちらりと見回した。
「用事があるなら直接、お店の方へ……と言いたいところだが、貴方たちが喜ぶようなものは売っていないよ」
「よぉおく言うぜ、綺麗な顔しやがってよォ」
男たちが、げらげらと笑った。
「おめえさんの店に通って通って通いすぎて頭おかしくなった奴、何人も知ってんだぜ俺ぁよ」
「お客様によぉ、一体どんなイイ夢見せてんのよ?」
「てめえのおかげでよォ、うちのクスリの売り上げが最近今ひとつなんだよなァー。殺すぞ? おう」
クロークの胸ぐらを掴もうとする1人を、老人が制した。
「やめろ。今はまだ、商談の最中なのだぞ」
「ほう? こんな方々を引き連れて商談とは」
クロークは、とりあえず微笑んで見せた。
「一体、何を押し売りしようと言うのかな」
「売りつけたいわけではない。むしろ買いたいのだよ我々は。貴殿の、香匠としての腕を」
そんな言葉と共に老人が差し出してきたのは、小指ほどの大きさの硝子瓶である。
中身は、くすんだ赤色の粉末。
クロークは微笑を保ちながら、少しだけ眉をひそめた。
「これは……人体樹の花?」
「さすがだな。そう、この世で最もおぞましい植物の花弁を、干して砕いたものだ」
人体樹の花は、毒薬の原料として知られている。が、例えば花弁をそのまま食べさせたり煎じて服用させたりしても、人は死なない。せいぜい腹が下る程度だ。
この花が最大の毒性を発揮するのは、乾燥・粉末化した花弁を香炉で焚き、うっすらと芳香の煙を発生させた時である。
その香煙を吸った者は、夢見心地のまま眠るように死んでゆく。
「それにはな、香の専門家による調合が必要となるのだが」
老人は言った。
「……貴店の常連客に1人、やんごとなき若君がおられるはずだ」
あの青年は、次で終わりだ、と言っていた。
忙しくなる、という事だろう。この老人が仕えている人物と、彼はいよいよ本腰を入れて戦わなければならないのだ。
「その若君が、香を所望なされた時……貴殿はただ、これを焚いて下されば良い」
「僕の店で、人死にを出せと?」
「無論、報酬は望むまま」
「何も聞かなかった事にしておこう」
クロークは、老人に背を向けた。
突然、刃の光が閃いた。短剣にしては大型の刃。
その一閃をかわしながらクロークは、大型の短剣を握る男の手を、掴んで捻り上げた。
捻られた男が、悲鳴を上げる。
その手に握られたままの大型短剣が、別の男に突き付けられる。拳に凶器を装着してクロークに殴りかかろうとしていた男の、喉元にだ。
「穏やかではないね……焦っている、という事かな?」
クロークは、老人に声を投げた。
「人望、実績、根回し……全てにおいて貴方の御主人は、あの母親離れが出来ていない青年に劣っていると見えるね。だからこそ、なりふり構わず消しにかかる。僕のような部外者を利用してまで」
「商人でありながら損得勘定が不得手であるようだな、エル・クローク」
言いつつ老人が1歩、後退りをする。
男たちが1歩、包囲の輪を狭めて来た。
短剣、棍棒、拳に握り込む凶器……全員、何かしら手にしている。
「望むままの報酬を得るか、ここで死ぬか……子供でも出来る計算であろうに」
この老人は、エル・クロークを殺さなければならない。
自分の仕えている人物が、あの青年の命を狙っている。クロークは、それを知ってしまったのだ。
「もう1度だけ言っておく、我らに協力せよ。いかに優秀な若君とは言え、妾腹だ。嫡男を差し置いて領主の地位を継ぐなど……決して、あってはならぬ事なのだ」
「権力争いに興味はない。放っておいてくれないかな」
言いながらクロークは、捻り上げた男の腕を、放り捨てるように解放した。
解放された男が、よろめきながら別の1人に激突する。
もつれ合う2名を蹴散らすようにして、男たちが一斉に襲いかかって来る。
クロークは、溜め息をついた。
「これを……使うしかないのか」
エル・クロークが斬り刻まれていた。
黒衣に包まれた若者の細身が、短剣で切り裂かれ、棍棒で叩き潰され、凶器の拳で打ち砕かれてゆく。
ズタズタの黒衣が、はためいた。
まるで翼のようだ、と老人が思った、その時。
短剣で滅多刺しを敢行していた男が突然、潰れて飛び散った。
棍棒を振るっていた男が真っ二つにちぎれ、ひたすら拳を叩き付けていた男が炎に包まれた。
エル・クロークは、本当に翼を生やしていた。巨大な皮膜の翼が、激しく羽ばたいて男たちを打ちのめし粉砕する。
鉤爪を備えた毛むくじゃらの剛腕が、男たちを引き裂いてゆく。
炎の吐息が、赤い暴風となって吹きすさび、男たちを焼き払う。
エル・クロークは、火を吐く怪物と化していた。
「な……何だ、これは……何なのだ……」
声を漏らしながら老人は、自分の肉体が炎に焼かれ、焦げ砕けてゆくのを呆然と感じた。
焦げ臭さ、ではなく奇妙な芳香が漂った。
男たちは1人残らず路上に倒れ、白目を見せている。泡を吹いている者もいる。
全員、肉体的には全くの無傷だ。心がどれほど無残な状態であるのかは、わからない。
数分後には起き上がってくるかも知れない。一生、こうして気を失ったままかも知れない。
「やれやれ……よほど品のない幻覚を見てしまったようだね」
香炉の蓋を少しだけ回転させながら、クロークは苦笑した。
掌に収まる大きさの、白い香炉。透かし彫りの薔薇の奥から、香気が漂い出して男たちを包んでいる。
老人が、路面に座り込んで何事かを呟いていた。両目が、焦点を失っている。
その傍らを通り過ぎながら、クロークは語りかけた。
「どんな夢を見ているのか知らないけれど……幸せだと思うのだね」
自身の作り出した香気を、軽く吸い込んでみる。
なかなかの芳香ではある。が、それだけだ。
「何を、どれだけ、どのように調合しても……僕は、僕自身に夢を見せる事が出来ない」
エル・クロークの店を訪れた者は、妄想の中の恋人に会える。すでにこの世にいない母親にも会える。
だがクローク自身が、失われてしまった誰かに会う事は出来ないのだ。
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