<東京怪談ノベル(シングル)>
幻は時を越えて
こんな時、調香師は何の役にも立たない。エル・クロークは、そう思った。
香りで、人の命を救う事など出来ないのだ。
この地の領主である、侯爵の居城。
その一室でクロークは今、馴染みの顧客である女性の、変わり果てた姿を見つめている。
艶やかな金髪は真っ白に変色し、瑞々しい肌はすっかり青ざめて、まるで屍である。
生ける屍、と言って良かった。
美しい顔には頬骨が浮かび、目はぼんやりと開いて何も見ておらず、潤いを失った唇は何やらぶつぶつと言葉を紡いでいる。
寝台の上で、その姫君は今、辛うじて命を繋いでいた。
「峠は越えた、と医者は言っていた」
姫君の父親……この居城の主である侯爵が、溜め息混じりに言った。
もちろん姫君ほどではないにせよ、この侯爵もかなり憔悴している。
「そなたのおかげだ、商人殿……手遅れとなる前に、よくぞ娘を見つけてくれたな」
「いえ、私は何も……」
城の庭園の片隅で、姫君が倒れていた。
クロークがそれを発見したのは、偶然だった。
香を嗜む姫君の、馴染みの香物商人という事で、エル・クロークは城内への出入りを許されていた。
「私の……全て、私のせいだ……」
侯爵が俯き、目を閉じ、呻いた。
「私は、娘から……大切なものを、奪ってしまった……」
「……彼は、貴方を守って命を落としたのでしょう? それならば、これからの事をお考えになるべきです」
僭越は承知の上で、クロークは言った。
「絶望に浸ってばかりは、いられないと思いますよ」
「……そうだな。あやつを、無駄死にさせるわけにはゆかぬ。私は、生きて事を成さねば」
あやつ、と侯爵が呼ぶ若い騎士は、先日の戦で命を落とした。
侯爵の本陣に押し寄せてきた敵部隊を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたという。
姫君との仲を、侯爵に認めてもらいたい一心であったのだろう。彼は頑張り過ぎた。
ほとんど侯爵の楯となる形で、あの若い騎士は死んだ。
それを知った姫君が、毒を仰いだ。庭園の片隅でだ。
そこは彼女が、若い騎士と逢い引きを重ねていた場所であった。
「幕を引かねばならぬ。我が家の、貴族としての歴史にな」
侯爵が、謎めいた事を言っている。
「領民の戸籍、物産の種類と収穫高……この地に関する全ての情報を、まとめ上げておかねばならぬ。後任の領主が、不正を働けぬようにな。私に仕えてくれていた者たちが、今後の生活に困らぬようにも手を打っておかなければ」
「何を……言っておられるのですか? 侯爵殿……」
呆然と、クロークは問いかけた。
「後任の領主、とは……」
「聖都エルザードより通達が来た。私は、領主の任を解かれる……侯爵の位も、返上する事となるだろう。勝手に戦を行った、その罰としては軽いものだ」
「戦は、しかし先方が仕掛けてきたものでは」
「先方も同じ処分を受けた。言わば両成敗だ。いかなるものであれ戦は許さぬ……それが聖獣王陛下の御方針よ」
こちらが正しいから、悪いのは相手だから、という理由で戦争行為を認めてしまっては、このソーンはいつまで経っても平和にはならない。それはクロークとて、わかってはいる。
何かが、聞こえた。
寝台の上で、姫君が呟いている。うわ言、ではなかった。
「どうして……」
はっきりと、クロークに向かって放たれた言葉だ。
「どうして……死なせて、くれなかったの……?」
「このっ……馬鹿者が!」
侯爵が激昂した。
「この父を、いくら憎もうと構わぬ! 罵詈雑言を浴びせるが良い。だが命の恩人に対する無礼は許さぬぞ!」
「まあまあ、侯爵殿」
なだめながら、クロークは希望を述べた。
「私を、姫君の命の恩人と見なして下さるならば……1つだけ、褒美を願いたい。お許し下さいますか?」
「おお、無論だ。何なりと申されよ」
「地下牢に囚われている若者を、釈放していただきたいのです」
「む……し、しかし、あの者は」
「彼の罪は、刑死で償えるほど軽いものではありません」
たまに女性と間違えられる美貌を、クロークはにこりと微笑ませた。
「生かして、役に立てた方が……お得だと思いますよ? 商人としての意見ですが」
「釈放してくれるそうだ。まさか、とは思うけど……君の差し金かな? クローク殿」
鉄格子の向こうで若者が、暗く微笑んだ。
「お礼を言うべきなんだろうけど、ごめん。言わせてもらう……余計な事、してくれたな」
「お礼は要らない。貴方はこれから一生をかけて、姫君のお役に立つべきだ」
「墓守りでもしろと言うのか」
「何だ、聞いていなかったのか。姫君はね、死んではいないよ」
クロークが言う。
若者は、声を発して息を呑んだ。まるで悲鳴のようだ。
「馬鹿な……あの毒が、効かなかったとでも」
「効いたさ。だけど命を奪うには至らなかった。どうやら調合を、少しだけ誤ったようだね」
城の地下牢である。収監されているのは、この若者だけだ。
クロークの知り合いの、商人である。扱っているのは医薬品で、新進気鋭の薬商人として売り出し中の若者であった。
薬商人であるから無論、劇薬・毒薬の類も扱っている。
「薬を売るのは得意でも、薬そのものを使う事に関しては……貴方は、あまり得手ではないようだね。いずれ調合の専門家を雇うといい」
「お香の仕入れから販売から調合から、全てを1人でこなす……君のようなわけには、いかないか」
若い商人が、牢獄の天井を見つめた。ここが屋外ならば、空を見上げているところであろう。
「姫君は私に言った。必ず死ねる薬が欲しい、と……お客様の望む品を、私は用意出来なかったという事だな。商人として、失格だ」
「そんな事を言っている場合ではないよ。貴方には、これからも商売を続ける義務がある。商人として成功し、姫君を助けなければならない。罪を償いたいという思いが、貴方に少しでもあるならね」
クロークは言った。
「侯爵殿が、戦を起こした領主として処罰される事になった……姫君には、助けが必要なんだ」
領民の人口と戸籍。耕地や森林の広さ豊かさ、そこから見込める税収。
全ての情報を公式書類として携え、侯爵は聖都エルザードへと赴いた。
この土地からは、これだけの税が取れる。これ以上の税を課す事は暴政でしかない。
それを聖獣王に認めさせたのである。後任の領主が不正や搾取を行わないための、言わば御墨付きであった。
務めを全うした後、侯爵は領主の任を解かれ、爵位も剥奪されて没落貴族となった。
「父は今、彼が面倒を見てくれているわ」
かつて姫君であった女性が、言った。
「縁、というものなのかしらね……私の自殺を手伝ってくれた彼が、だけどそれに失敗して、今は私たちを助けてくれている。私も父も、最初は彼とどう接していいのか、わからずにいたものだけど」
「彼は、貴女に償いをしたがっている。その願いを叶えてあげればいいだけの話さ」
エル・クロークが、この街での拠点としている宿屋の一室。
今は、流れ者の旅商人である。いずれ自分の店舗を持ってみようか、と思わない事もない。
同じく流れ者の旅商人であった若者が、しかしクロークよりも早く、自分の店を持つ事になりそうである。
「彼の商売も、軌道に乗ってきたようだね。貴女のおかげじゃないかな?」
「どうかしらね……ふふっ。確かにまあ、伊達に貴族をしていたわけではないもの。お腹の黒い人たちと交渉するのは、私の方が向いているかもね。彼、商人のくせに素直過ぎるところがあるから」
姫君であった女性が、微笑んだ。
商人の笑顔だ、とクロークは思った。
「素直だから、私が頼んだ通りに毒薬を用意してくれて……だけど人殺しになんて向いていないから、毒の調合に失敗して。おかげで私、楽に死ねずにひどい目に遭ったわ」
「どうして死なせてくれなかったの、と言われたよ? 僕は」
「ごめんなさい……」
元姫君が、頭を下げた。
「謝るついでに1つ、お願いがあるの……」
「いらっしゃい。どのような香りを御所望かな?」
「私ね……実は、結婚するの。彼と」
クロークが端から見ていてわかるほど、あの若き薬商人は彼女に恋焦がれていた。
だが、彼の方から求婚したとは思えない。
自分が毒殺しかけた女性に対し、彼はずっと負い目を抱いているからだ。
「首を突っ込んでいい話かどうか、わからないけれど……切り出したのは、貴女の方から?」
「じれったいんだもの。彼ったら、要らない罪悪感を勝手に抱いて苦しんでいるから」
言いつつ彼女は、銀貨の入った小袋を取り出し、室内の質素なテーブルに置いた。
「貴方から、お香を買うのは……もしかしたら、これが最後になるかも知れないわ」
「……用意してあるよ。いつか、貴女から御注文をいただくと思っていたから」
クロークは、小さな燭台をテーブルに置いた。
金属の蛇が、いくらか青みがかった蝋燭に巻き付いている。そんな形の燭台だ。
特殊な香料を練り込んだ蝋燭。その灯芯に、クロークはマッチで火を点した。
注文を聞くまでもない。彼女が何を求めているのかは、わかっている。
ふんわりと、香りが漂った。
香る空気の中で、彼女が立ち上がり、ゆらりと身を翻す。
軽やかにダンスを踊る、姫君の動きだった。
目に見えぬ誰かにエスコートされ、彼女は踊っている。
いや。ほんの一瞬、クロークにも見えた。
若干ぎこちなく姫君を抱き支えて踊る、若い騎士の姿が。
煌めくものが、飛び散った。姫君の、涙だった。
「……結婚式には来てね、クローク」
涙を拭い、ふわりと動きを止めながら、かつて姫君であった女性は微笑んだ。
彼女は幻に別れを告げたのだ、とクロークは思った。
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