<東京怪談ノベル(シングル)>
脱出ゲーム
扉を潜り、その仄暗い倉庫へ、私は一歩足を踏み入れた。
…
――目がちかちかする。がんがんと耳鳴りがする。
鼻腔をくすぐる様々な香り。甘いようで酸っぱく、苦いようで刺激的。味覚の情報をそのまま嗅覚に移したような錯覚。ありとあらゆる「香り」という概念をぶち込まれたような、そんな違和感。
……気づくと、私は見知らぬ部屋の中にいた。
何だここは。独りごちるも答えはない。
部屋を見回す。
灯りはテーブルの上に置かれた頼りない蝋燭だけだ。古めかしい金色の燭台に乗っていて、いかにも時代錯誤である。
おそるおそる灯りを取ってみると、その下に何やら一枚の紙切れが置いてあった。私はそれを読む。
『その灯火があなたの命の時間。ここで朽ちたくなければ、銀の鍵を探して抜け出してご覧』
何だこれは。悪い冗談にも程がある。
笑い飛ばしてみるも、しかし冗談にしては出来過ぎという感覚が拭えない。
蝋燭を手に、部屋を検分する。
壁は石造りで堅牢だ。高くにある窓の向こうは真っ暗で何も見えない――のだが、蝋燭の光が少しだけ反射する。もしかして、鉄格子だろうか?
他には簡素なベッド、何も入っていない本棚、朽ち果てた文机――あとは古びた木の扉があるだけで、どこかに通じているようだった。
試しに机を漁ってみると、また一枚の紙切れが出てきた。
『結構、結構。部屋を出たら右に進みなさい、探索者。左はやめておきなさい』
……人を食ったような文章に、少しいらっとした。
これを書いた主は、どうやら私を舐めくさっているらしい。
…
私は燭台を手にすると、扉を開け放った。すると扉はその勢いで壊れてしまった。随分とお粗末なことである。
果たして、目の前には左右に続く廊下が広がっていた。これも石造りで、随分とレトロである。
自分で言うのも何だが、私は脱出に関しては第一人者である。そのカンが告げていた。
ここは左に曲がるべきなのだ。
そもそも左に曲がるのは人間の本能のようなものだし、あのメモは挑発――言うなればミスリードだろう。
私は躊躇いなく、左に歩を進めた。
かつん、かつん、かつん。
廊下はどこまでも続いていた。さながら神話の迷宮を連想させる。うっかり牛頭の怪物に出会ってしまいそうな雰囲気が出ていた。
しかし、これは悪い冗談である。
悪い冗談でなくてはならない。
かつん、かつん、かつん。
所詮はその程度の迷宮なのだ。子供だましのお遊びなのだ。
だって、こんな場所は寡聞にして聞いたことがない。街にこんな場所があるだなんて到底考えられないのだ。
蝋燭の明かりは心許ない。
石造りの廊下はどこまでも続いている。
よく出来た作り物だと私は笑い飛ばした。
ケケケ、という声が聞こえた。
次の瞬間、確かにあったはずの私の足場がすっぽりと消失した。
…
落ちる、落ちる、落ちる。
真っ暗な闇の中に落ちていく。
なんだこれは、なんだこれは!
私は叫んだ。
燭台を取り落とす。不思議なことに、燭台はその場で宙に浮いた。ぼんやりとした灯りが遠ざかる。
私だけが落ちている――。
なんだこれは、なんだこれは。
暗闇の中に落ちていく。
どこまでもどこまでも落ちていく。
際限なく落ちていく。
なんだこれは、なんだこれは。
なんだ、これは!
「左は駄目だと言ったじゃあないか。最初の仕掛けで脱落するだなんて、余興にもならないよ」
声がした。
私はそちらを振り向いた。
私は多分、悲鳴を上げたのだと思う。
「つまらないな」
一見、金髪の美人だった。
けれど、どこまでもスケールが大きすぎた。
真っ黒な身体。街一つ飲み込めるような巨体には、どこまでも美しい顔がついている。色白で、赤い瞳で、金髪で。
それは、私が忍び込んだ倉庫の主によく似ていた。
「やり直し」
…
……気づくと、私は見知らぬ部屋にいた。
◇
日が暮れた。今日はこんなところだろう。
エル・クロークは店の看板を下ろすと、売上計算と明日の仕込みのために、裏の倉庫に移動した。
「……おや」
すると、奇妙なモノを発見した。
モノというか、者。倉庫の裏口付近で、何やら悶えている男がいる。
「いらっしゃい。どういったご用で……」
見覚えのない男である。まさか『こちらの仕事』かと思って近づいてみたが、どうもそういう訳ではないらしい。
「……おやまあ」
男はどうやら意識がないようだった。その上で何か『悪い夢』にうなされているらしい。
むぐむぐとよく分からない寝言を吐きながら、苦悶の表情を浮かべているのであった。
その隣には、クローク自身もすっかり忘れていたポプリが落ちていた。
クロークはどうしたものかと思案して、とりあえずまずは市民の義務を果たすことにした。
「泥棒に入られたようなんだ。幸い被害はなかったんだけど、気絶しているみたいだから引き取ってほしい」
そんな通報をしてから、クロークは『証拠隠滅』を謀る。
下手人が陥っている『防犯用にしていた割と危ないお香の効果』を、『防犯用の合法的なお香の効果』で打ち消す。悪い夢ごとシャットダウンしてもらうことにした。
それにしても。
「やれやれ。よりによって『黒い蓮』を引き当てるだなんて、運がないなあ君は」
いつぞや『黒い肌の神父』から譲り受けた、そんな花。試しにお香にしてみたが、これはとても店に出せるものではないと思って仕舞っておいた。
一部を防犯用にしたのはちょっとした悪戯というか、どうせこんな店に忍び込む物好きもいないだろうという茶目っ気というか。
「……まあ、自業自得ということで」
これに懲りたら全うに生きるんだよ、と独りごちて、クロークは警邏の人間を待つ。
◇
「これで何回目だい。いい加減右に行ったらどうなんだい。とうとう眷属が待ちくたびれて、こっちに来てしまったよ」
落ちる、落ちる、落ちる。
さらに大量のおぞましい生き物が私に群がってくる。
私は意識を失った。
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