<東京怪談ノベル(シングル)>


氷の追憶


 あまりの寒さ冷たさに、エルファリアは目を覚ました。
「なっ、何……一体、何が……」
 寝台の上で跳ね起きた己の上体を、両の細腕で抱き締めながら、エルファリアは見回した。
 別荘の寝室。いつもと同じ朝、のはずである。まだ、それほど寒い季節ではないのだが。
 昨晩いつも通りレピアと抱き合い、しなやかな細腕と豊麗な胸の中で眠りについた。
 レピアの温もりに抱かれながら、微睡みの中へと沈んでいったはずなのだ。
 その温もりが、完全に消え失せている。
 エルファリアの隣でレピアは今、温もりではなく冷気の塊と化していた。
 凍り付いている。温もりの失せた細腕と胸で、この場にいない何者かを抱き締めながら。
 エルファリア、ではない誰かを抱き締めながら、レピアは冷凍死体のように冷たく白く固まっていた。
「レピア……!」
 息を呑みながら、エルファリアが呼びかける。
 レピアは答えない。
 その寝顔は、幸せそうに微笑んだまま、冷たく硬直している。微笑む唇が、微かに開いている。
 誰かとキスをしている、とエルファリアは思った。この場にいない、自分ではない誰かと。
 夢の中で誰かと口づけを交わしたまま、レピアは凍り付いていた。
「誰……誰なの、レピア……」
 助けなければ。その思いは無論、ある。
 思いながら、しかしエルファリアは呟いていた。
「貴女の夢の中にいるのは……一体、誰……?」


「ううむ。ただ単に勇者が王女を助けて終わり、だけでは芸がないのう。そうじゃ、2週目以降は魔王になれるようにもしておこうぞ。触手とか生やしてエルファリアにあんな事こんな事やり放題じゃてウヒヒヒヒヒヒヒヒ、っといかんいかん。これはエルファリアではなく、わしの創作した非実在王女じゃ。ああん、でも描けば描くほどエルファリアに似てしまうのう」
「……絵が、お上手なのですね。賢者様」
「ふふふ。わしものう、若返る前は壁常連の同人魔本作家としてブイブイ言わせ、ってうぎゃあああああああああああ!」
 女賢者が、ようやくエルファリアの存在に気付いて悲鳴を上げる。
「い、いつからそこにいたんじゃエルファリア」
「勝手に部屋に入られる、とはこういう事です」
 とある地下迷宮の一室。この女賢者が、根城としている場所である。
 外見は、10歳にも満たぬ幼い少女。
 その若さを保つため、150回を超える若返りを繰り返してきた老婆でもある。
 彼女が卓上に広げている魔法の羊皮紙を、エルファリアはちらりと覗き込んだ。
「……魔本の執筆製作は、聖獣王陛下によって禁じられているはずですよ」
「だっ駄目じゃ、見ては駄目なのじゃ。いやん恥ずかしいっ」
 女賢者が卓上に突っ伏して両腕を広げ、小さな身体全てを使って己の執筆物を隠しにかかる。
「もちろん正規の販路には乗せられんから、地下即売会で売りさばくのじゃ。大して儲けが出とるわけでもなし、大目に見てはくれんかのう。出来たら献本するから」
「要りません。別に何を売っても構いませんから、その前に少しお知恵を貸して下さい」
 エルファリアの細腕が、女賢者の小さな身体をひょいと抱え上げた。
「レピアの事で、また賢者様のお力が必要なのです」
「でっでも、わしそろそろ本腰入れんと原稿落とす、落としてしまう」
 短い手足でじたばたと暴れる女賢者を、エルファリアは容赦なく運んで行った。


 何者かが、エントランスホールに飛び込んで来た。と言うより投げ込まれて来た。
 白い、毛むくじゃらの生き物。筋骨たくましい類人猿、いや体型は人間に近い。
 そんな怪物が2匹、ホールの床に倒れ込み、悲鳴を上げている。
 大怪我をしている、わけではないが、少なくとも戦意を保っていられなくなる程度には叩きのめされたようだ。
 番兵代わりに飼っている、イエティ族である。
 屈強なイエティを2匹も叩きのめした何者かが、ずかずかとエントランスホールに押し入って来た。
「久しぶりだね。あたしの事、覚えてるかな」
 豊満でありながら美しく引き締まった身体に、青い踊り衣装を巻きつけている。
 髪も青く、そして瞳も青い。
 青く燃え盛る眼光が、まっすぐに向けられてくる。
 雪の女王は、微笑を返した。
「貴女……その格好で、雪原を歩いて来たの?」
「頭に来てるからね。怒りの炎ってやつが、あたしの中で燃えてるわけ。寒さなんて感じてる場合じゃないから」
 レピア・浮桜が、怒りながら微笑んでいる。
「あたしが何でこんなに怒ってるのか、わかる? いちいち説明しなきゃ駄目かな」
「……この子たちの事?」
 ホール内を、ちらりと見回す。
 若く美しい貴婦人の彫刻像が、あちこちに飾られている。
 石像でも木像でもない。全て、氷像である。室温では溶けない、たとえ火にくべたとしても絶対に溶け出す事のない、氷の美女たち美少女たち。
「その子たちを、返してもらうよ」
 レピアは言った。
「泣いてる親御さんだって、いるんだ。あんたはね、そういうのとは無縁で生きてるんだろうけど」
「私、綺麗でしょう?」
 雪の女王は、ふわりと優雅に身を翻して見せた。
 優美な肢体の周りで、青白いドレスと毛皮のガウンが軽やかにはためく。
「でもね、私がこの姿でいられるのは……このお城の中でだけ」
「幽霊みたいなものだもんね、あんた」
「外に出るには、外出用の肉体が必要なのよ」
「だから、まるでドレスをコレクションするみたいに女の子を大勢さらって!」
 魂を抜き取り、氷像に変えた。肉体の方も、きちんと保管してある。大切なドレスのように。
 それが許せないのだろう。レピアが、まさに牝獣の速度で襲いかかって来る。
 獣の活力を漲らせた、瑞々しい肉体を、雪の女王は抱き止めた。左右の細腕で、愛しむように。
「いつか、また一緒に踊ってもらう……私、そう言ったわよね」
 硬直し、息を飲んでいるレピアの耳元で、女王は囁いた。
「けれど残念、貴女はもう踊れない……このお城の中で、私を倒す事は出来ないのよ」
「お前……!」
 怒りの言葉を紡ぎ出そうとする唇を、女王は奪った。
(このお城の中では、ただ凍り付くだけ……永遠に、美しく……)
 抱擁の中で、レピアが暴れている。密着しながら躍動する胸や太股の感触が、心地良い。
 暴れる踊り子の肢体に、女王は繊手を這わせていった。
 レピアの悲鳴を、女王は唇に、舌先に、感じた。
 快楽の甘さが溶け込んだ悲鳴だった。
 獣の活力も、躍動感も、失せてゆく。女王の腕の中、レピアの肉体から全てが失せてゆく。
 全てが消え失せ、残るのは永遠の美しさだけだ。


「……と、ゆう過去が蘇ったようじゃのう」
 氷漬けのレピアをつぶさに観察しながら、女賢者が言った。
「雪の女王めに、凍らされた上に記憶を封印されとったようじゃ。咎人の呪いが解けたせいで、いろいろ出て来ておるのう」
「出て来ている……とは?」
「封印されとった色んなものが、じゃよ。氷漬けの過去、だけでない様々な記憶が、これからもこんなふうに目に見える形で出て来おるぞい」
 このような事が、これからも度々起こる。女賢者は、そう言っているのだ。
「ま、ここは雪の女王の城ではない。解凍するのは簡単じゃて。人肌の温度で、ゆっくり解かしてやる事じゃな。わしは退散するからのう」
「ありがとうございました。賢者様……魔本作りは、ほどほどになさいませね」
「ほどほどに出来れば苦労ないんじゃよ、これが」
 女賢者が、部屋を出た。小さな足音が、遠ざかってゆく。
 凍り付いたまま横たわるレピアの身体を、エルファリアは抱き締めた。
 身を切るような冷たさを無理矢理、体温で温めた。
「…………う…………っん…………」
 レピアがようやく、声を発した。
「あれ…………エル……ファリア……?」
「そう、私よレピア」
 かつて雪の女王がそうしたようにエルファリアは、レピアの耳元で囁いた。
「貴女の、過去の事はもういいわ……今、そしてこれからは、貴女は私のものよ。レピア……」
 あの女賢者の事だから、立ち去ったふりをして、どこからか覗いているかも知れない。
 誰に見られても構わない、恥じる事など何もない。エルファリアは、そう思った。