<東京怪談ノベル(シングル)>


 ――距離――


 路地裏にあるレトロアンティークなこの店の扉を、男が内側から少し開いた。そして店内振り返り、口を開く。
「ありがとう。初心を取り戻せたよ」
「役に立てたのなら幸いだよ」
 店内から言葉を返すのは、黒衣に身を包んだ金髪の男。この店の店主であるエル・クロークだ。
「これでもう、躊躇わずに復讐ができる。じゃあ」
 そう言い、男が扉を出て行った。カランコロン……ドアベルの響きだけが残る店内。
(人間の欲望は……際限ないものだな)
 カウンターに身を預け、クロークは小さく息をついた。
 あの男は、心に傷を負った時の心境を思い出したい、そう望んだ。だからクロークは店の奥へと案内したのだ。普段は閉めきっており、商品を陽に当てないための倉庫として使っているその部屋のリクライニングチェアに男を横たえて、彼の要望に答えた。
 事情は簡単だ。彼は学生時代に憧れていた美女に、容姿を罵られて手ひどく振られた。その時に復讐を決意し、顔を美しく変えたのだ。
 初めは彼女の気を惹く香りはないか、そんな依頼だった。彼女の気を惹くことに成功した後は、彼女へのプレゼント選び。度々訪れる男は、本気で彼女に惹かれているように見えた。けれども。
 何が彼に復讐を思い出させたのかは、クロークにはわからない。だが彼が望むなら、手助けしてやるのがクロークの信条。
 そして男は彼女から負わされた屈辱と彼女への憎しみを抱いて街中へと消えていった。

 その男が来る前は、若い女性と中年の男性のカップルが店を訪れていた。結婚することになったので、内輪のパーティで配るお菓子を注文したいとの事だった。
 元々この女性も、好きな人の気を惹きたいという悩みで香りを求めてきていた。
 ――彼の安らげる場所になりたいんです。
 ――彼の帰ってくる場所になりたいんです。
 何度も訪れてそう告げる彼女は健気に見えた。だから今日彼女が男性を連れてきた時に、クロークは心の中で少しだけ驚いた。


「彼の離婚が成立したんで、漸く結婚できるようになりました!」


 満面の笑顔で告げる彼女。彼側の詳しい事情は知らないが、彼女の愛は少なくとも誰かを犠牲にた上で成り立っているのだ。

 別に男の復讐に間接的に手を貸し、更に復讐心を煽ったことも、彼女の略奪愛に間接的に手を貸したことも、クロークに何の罪悪感も与えない。クロークは、ただ客の要望に従っただけなのだから。客の要望を叶えるのが、彼の仕事だから。
 クロークの店を訪れる客は、純粋に香りに関するアイテムを目当てに来るものだけでなく、ささやかな安らぎを得たい者、特別なヒーリングを求める者、そして魔法のような効果を得たい者――本当に様々だ。
(どうして人は、深い関係を持ちたがるのだろう)
 クロークの店に来る者の中には、理由や程度は様々であれ、特定の人物との縁を深めたいという願いを持つ者は多い。
 反対に、その縁を壊したいと望む者も、いる。
(放っておいてもいずれ壊れる日が来る、壊したくなるかもしれない、なのに人は深い縁を求める)
 沢山の客を見てきた。一度しか来ない客もいれば、縁を深めるため、あるいは縁を切りたいと願って何度も訪れ、彼の裏の顔を求める者もいた。
(いずれ、壊れるのだから――)
 そこまで思い、クロークは軽く頭を振った。どうしたのだろう、今日は。なんだかおかしい。
 時間はまだ早いが、早足で店の扉まで行き、外の看板を『CLOSE』にする。その時、足元をすぅっと何かが通り抜けた。
「――?」
「なぁ〜」
 視線をやれば、そこには猫がいた。扉を開けた時に入りこんだのだろう。だが、クロークは猫の侵入経路を考える前に動きを止めていた。
「まさか……」
 小さく声を漏らし、頭を軽く振る。彼の脳裏に浮かんだこと、それはありえないことだから。
「ここはあなたには害のあるものが多い場所だ。出ておいき」
 猫にとって精油は命取りになる場合が多い。だからこそ、クロークは猫に外に出るようにと促したのだが。
「にゃぁ」

 ――大丈夫よ。

 まるでそう告げるように鳴いた猫。よく見れば猫の体は僅かに透けている。本物の猫ではない証。
「なるほと……」
 クロークは猫を見た時の動揺でそこまで深く観察できていなかった自分にため息を付き、そしてしゃがみこんだ。
「なら、僕に時間をくれるかい?」
 にゃお、優しく鳴いてその猫はクロークの腕の中へするりと飛び込んだ。



 本日は終了の看板を出して表の店の明かりは消した。もう客は来ないだろう。邪魔されることはない。
 クロークは裏の施術で使用している部屋に猫を連れて行き、そして鍵穴のある猫足の小箱を取り出した。蔦が絡まる装飾も古びていて、箱が過ごしてきた時間を感じさせる。服の下に首から下げていた鍵を取り出して、箱に差し込む。
 カチリ。
 この箱を開けるのはいつぶりだろうか。
 天鵞絨に包まれるようにして中に入っていたのは幾ばくかの枯れ木――香木だ。香炉を取り出して灰と炭を設置し、香木を置く。そしてクロークはリクライニングチェアに腰を掛けた。猫を膝に乗せたまま、ゆっくりと背もたれに体重を預ける。
 沈黙が部屋を満たす。次第に広がってくのはクロークにとって懐かしい香り。いつまでも忘れられぬ香り。
「人間は、欲深い。けれどもその欲深さすら、業の深さすら美しい。僕にはもう、真似ができない」
 クロークの呟きを聞いているのは、膝の上でくつろぎ始めた半透明の猫だけ。
「正直、羨ましく感じることもある。僕はもう、耐えられそうにないから」
 大切な思い出の香りに包まれて、昔の記憶が蘇ってくる。目を閉じると、瞼の裏に映る一人の女性。クロークの秒針は、規則的なリズムを失って乱れ始める。
「あなたになら聞かれてもいいかな――いや、聞いて欲しい。僕には、大切な大切な人がいたんだ。言葉に言い表せないほど、胸が苦しくなるほど」
 クロークの元の持ち主であった女性は、凛とした佇まいの魔女だった。魔力は強く、懐中時計のクロークにかたちを与えた。
「あの頃は、この気持ちが何なのかすらわからなかった。彼女が人間の男性と添い遂げることを決めた時、壊れてしまいそうなほど痛かった。その痛みすら、何なのかわからなかった」
 段々と成長し、そして老いていく彼女。
 何年経っても姿の変わらぬ自分。
 気づいたのは、その頃。彼女の道と自分の道は交わりはしているものの、永遠に重なりゆくものではないと。
「なにも、してあげられなかった。呼吸が弱くなり、死出の道を往こうとする彼女に、僕は何もできなかった。そして、彼女を失って初めて気づいたんだ」
 彼女が人間の男性を選んだ時の痛みが、喪失の痛みの一種であることに。
 けれども彼女がこの世から消えてしまった時の痛みは、その時の比ではなかった。
「一緒に壊れてしまえればどんなに楽だったのだろうと思った。けれど、彼女のくれた命を無駄にすることはできなかった」
 今日のクロークは雄弁だ。それはこの部屋に満ちる香りと、膝の上の猫がそうさせていることに彼自身も気がついている。
「人は何故、深い関わりを求めるのだろう。別れの曲面に立たされて、足掻き、苦しむのだろう」
 クロークには理解できない。なぜならば彼は、大切な彼女――魔女殿を失ってしまった時の恐怖を克服できていないからだ。否、克服しようとしていないのだ。

 喪失――もう二度とあの痛みを味わいたくない。ならば、他人と深くかかわらなければいいのだ。

 その結論に達するのは簡単だった。
 永遠は、ほんの僅かな奇跡を除いて存在し得ないものだ。それはクロークも同じ。いつか、クロークも壊れる日が来る。消えてしまう日が来る。
 自分で自分を壊さない、それはあの日に決めたこと。彼女のくれた命を使い尽くすまで、いつか来るその日まで動いていよう――それがクロークの、魔女殿に対する愛の示し方。
 壁にかかる時計と同じように、クロークは淡々と己の時を刻み続けているだけだ。
「魔女殿、あなたがいなくなって始めて気がついた。僕はあなたを恋い慕っていたのだと」
 瞳を開き、膝の上の猫に視線を定めるクローク。それに気づいたのか、くつろいでいた猫が顔を上げた。
(瞳の色もそっくりだ)
 そう、この猫は、魔女殿が猫に変身した時の姿とそっくりなのである。思わず、クロークが目を奪われたほどに。
 香木の香りが満ちる。この香りは、魔女殿の愛した香り。
 彼女を思い出してしまうから――否、どうしても彼女を思い出したい時にだけ使うと決めて、大切に保存していた。
 嗅覚と視覚の両方で、魔女殿を感じる。膝の上にいる半透明の猫が、どういう意図でクロークの前に現れたのかはわからない。
 けれども。

「今だけ呼ばせてもらってもいいかい?」

 問えば、猫は承諾とも取れるように小さく鳴いた。


「――魔女殿」


 クロークは半透明の猫を抱き、そして久方ぶりに彼女を呼んだ。



                 【了】



■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■

【3570/エル・クローク様/無性性/18歳(実年齢183歳)/異界職】



■         ライター通信          ■

 この度はご依頼ありがとうございました。お届けが遅くなりまして申し訳ありません。
 またのご依頼ありがとうございました。
 物語の流れはおまかせということで、いろいろ考えた結果このような形とさせていただきました。
 意図がずれていないといいのですがとビクビクしつつ、お届けいたします。

 少しでもお気に召すものとして仕上がっていることを願いつつ。
 この度は書かせていただき、ありがとうございましたっ