<東京怪談ノベル(シングル)>


月翼の夢ものがたり

 両手を広げて、満月を仰ぐ。今日はいつもよりも大きく鮮明にその模様までもが見え、青白い光が一条の線となって地上に降り注いでいた。
 月に、呼ばれている気がする。誰か分からない『あなた』が、呼んでいる気がした。
「この道の向こうに…いるの?」
 脚はないから道を歩くことはないけれども。この広い翼で舞い上がり、月が示す道をゆっくりと進み続ける。
 それは、転移門と呼ばれるものだった。気まぐれのような思いで近づいたその門の傍で、確かに声は聞こえたのだ。
「ここをくぐれば…」
 転移門を抜ければそこは天界。彼女の知る世界とは交わらない、未知なる世界だった。
 夜空に広がるのは同じ闇色の空。よく知った色の月が浮かび、星が空を埋めつくす。そしてその星よりも少ない光が、地上に点在して輝きを放っていた。
「あれは…町ね」
 光が密集していれば、そこには誰かが住んでいるということだ。両翼を大きく羽ばたかせ、彼女は一気に降下する。闇の中に光の滝が流れるような光景は美しく、それに一瞬気をとられたその体は、地上の土を踏む前に何か硬いものに激突した。
「…え…? 建物…?」
 彼女の下半身は鱗に覆われ、少しばかりの衝撃にはびくともしない。むしろ彼女の『脚』が打った衝撃で、屋根に穴が開く音がした。
「…弱い建物ね…。誰か、いるの…?」
 そっと穴から下を覗き込むと、室内に数人の人が居るのが見える。では、彼らの家なのかもしれない。家の屋根に穴が開いたとあっては、住人も困ることだろう。ひらりと室内に降り立つと、人々は彼女の姿を見て硬直した。
「あの…」
「モモモモモ」
「もも?」
「モンスターだあああああ!!!」
 男の叫び声と同時に、周囲はあわただしくなった。扉が勢い良く開かれ、槍を持った男たちが飛び込んでくる。彼らに槍を突きつけられ、彼女はようやく事態を飲み込んだ。
「ご、ごめんなさい。屋根を壊したのは悪かったわ。でもあたし」
「人語を操るとは、デビルだな!? 貴様、何者だ!」
「えっ…ウィルフレッド・クリオール(0096)って言います…けど…」
「自覚のないデビノマニかもしれん。おい、隊長を呼んでこい!」
 緊迫した空気に、自分が恐ろしく不利な立場へと追い詰められていることに気付き、ウィルフレッドは天井に開いた穴から空を仰いだ。
「な!? 消えた!?」
 次の瞬間、彼女の姿は屋根の上にあった。竜の翔破を使い、瞬間移動したのだ。
「あの…穴を開けたことはごめんなさい」
「上だ!」
 穴から再び覗き込んで謝ったが、代わりに矢を射掛けられる。余程、屋根に穴を開けたことが我慢ならないのだろう。
「それもそうよね。…雨漏りするし」
 彼女自身は雨漏りなど気にしないが、建物の中に住まう人々にとっては一大事に違いない。
 早速悪いことをしてしまったなぁと思いつつも、このままではまともに会話も出来ないので、一旦その場を離れることにする。ひらりと飛び上がると、「おい」と下から声を掛けられた。
「…どこへ行く気だ」
 見下ろせば、屋根の上に1人の男が立っている。銀の光を放つ剣を真っ直ぐにウィルフレッドへと向けていた。
「あたしは、戦いに来たわけじゃないの。ただ、この世界を見に来ただけなの。…この空の向こうまで行けたら、って…」
「月道を通ってきた化け物というのは、お前だな」
「月道…?」
 状況はよく分からなかったが、月の道という言葉でなんとなく把握する。転移門を、こちらの世界では月道と呼ぶらしい。
「そうね。そうだと思う…。あの…あたし、化け物じゃなくて…あたしの居た世界では、そんなに珍しくも…」
「異界人か。…厄介な時期に来たな」
 男は剣先をぴたりと止めたまま、眉をひそめた。
「厄介なの?」
「厄介だ。デビルが子飼いのモンスターを放ったばかりでな。お前のような化け物がこの町の周辺を騒がしている」
「…化け物じゃないのに…」
「我々には区別がつかん。だが、いつまでもそこに浮かんでいるのも迷惑だ。降りてこい。話を聞こう」
 言うと、男は剣を下ろした。更にそのまま梯子も降りていったので、屋根から地上をちらりと覗き見、矢を番えている人々が居ないことを確認してからウィルフレッドも降りて行く。勿論『脚』が蛇の胴体である彼女に梯子を降りることは出来ないから、普通に空中から地上へ降りただけである。
「話を、聞いてくれるの?」
「詰所を破壊した罪は重いぞ」
 先を行く男の後を追うと、すぐに彼は建物の中に入った。中には簡素な鎧を身につけた男たちが何人か立っている。ウィルフレッドの姿を見て身構えたが、それ以上近づいては来なかった。
「さて、まずは名前でも聞こうか」
 男は奥の椅子の前で振り返る。
「ナーガ族のウィルフレッド・クリオールって言うの。えぇっと…ナーガ族は、竜の末裔なの」
「…」
「ナーガか。一匹ならともかく、集団で攻めてきたら難しいですね、分隊長」
 黙りこんだ男の傍にやってきた別の男が、彼に話しかけた。分隊長と呼ばれた男は、ウィルフレッドを見つめる。その表情は初めて会ったとき同様冷たさを感じられたが、その双眸が何かを語っているように思えた。
「私たちはそんなことしないわ。それに私は…旅が好きなの。他の世界が見たくて来ただけ」
「冒険者らしい言い分だな」
 分隊長と呼ばれた男は、腰に差した剣の柄に軽く腕を置いた。その柄には橙色の飾り房が掛かっている。よく見れば、室内の壁に掛かった室内装飾用の織物や、燭台に巻かれた紐だとか、至る所に橙色の飾り付けが施されている。
「あ、これお茶入れ?」
 テーブルに置かれた茶器セットに気付き、ウィルフレッドはゆっくりと近づく。
「あたし、薬草茶とかを飲むの好きなの。何か淹れよっか?」
「…その茶に毒を仕込んでいるとは思わないのか」
「え? どうして?」
 小首を傾げたウィルフレッドに、周囲の者たちは不審そうな表情半分、どこか驚いたような表情半分で彼女の動向を見つめる。
「リュックにいつも色々入れてるの。色んな種類のお茶を持ってるのよ」
「…背負い袋を持ったナーガですか…」
 どこか呆れた風に分隊長の傍に居た男が呟いたが、軽く首を振った。
「いえ、背負い袋くらい背負ったモンスターも居るのでしょう。ですが…先代が居たら、何と言ったでしょうね」
 彼女の体には少し小さめのリュックを下ろしつつ、どこか楽しそうに鼻歌交じりにお茶の葉を出し始めたナーガに、周囲の人々はそれを呆然と見つめるしかない。
「どの薬草茶がいい?」
「とりあえずお薦めを貰おうか」
 ようやく椅子に腰掛けた分隊長だったが、その発言に周囲はざわついた。
「どれもお薦めなの。じゃあ…順番に淹れるね」
 嬉しそうなウィルフレッドが準備を始め、微妙な空気が漂う中、当の二人は優雅にお茶会を始めようとしている。
 結局、二人のお茶会(周囲の者たちも強制的に飲まされたが)は、深夜まで続いたのだった。
 
 
 一晩明けると、町は全く違う印象を見せていた。
 日中に飛ぶと間違いなく町中大騒ぎになるということだったので、ウィルフレッドは昨日屋根を壊した建物…橙分隊の詰め所の屋根の上に上って、町を眺める。
 ウィルフレッドがよく見る街並とは違うけれども、だからこそ旅に出ている気分が味わえた。遠くに見える鐘塔も彼女にとっては不思議な形をしている。
「分隊長さん。あの屋根の上に居るのは…」
 町の者たちが地上からそれを見上げていたが。
「仮装だ」
「仮装!?」
「あのような姿を取ることで、敵を牽制している」
 などという理由で強制的に納得させられていた。
「あのね。この世界で…旅に出ようと思うの」
 鐘塔の鐘が鳴り終わるのを待って、ウィルフレッドは地上へと顔を覗かせる。
「誰かが…呼んでる気がしたから」
「おや。あの子が噂のお茶好きナーガなのだね」
 覗いた所には、1人の女性が増えていた。ウィルフレッドは目を瞬かせ、見上げるその人と見詰め合う。
「あ…あれ…?」
「旅の道連れを所望しているようだな」
「ナーガって、どうやって歩くのだろうね」
「あのナーガは空を飛ぶな」
「あなたが…一緒に行ってくれるの?」
 まだ屋根から顔半分だけを見せているウィルフレッドに、地上の二人は頷いた。
「1人で行かせたら大変なことになりそうなのだね」
 明るく笑うその女性に、ウィルフレッドも釣られて微笑んだ。そのまま、よじよじと梯子を伝い降りる。途中で梯子が折れないか周囲で見守っていた者たちが心配したが、意外と軽い動きで降り立つ。
「あたしは…ウィルフレッド。あなたは…?」
 尋ねると、女性は軽く頷いた。
「色々と話を聞きたいところだけど、道々聞こうかな」
 彼女の笑顔を見ながら、ウィルフレッドは少しだけ周囲を見回した。
 天界は、夢物語のような世界だと思っていたけれども、存外厳しい世界のようだ。やがていつかは故郷に帰る為に、月道と呼ばれている転移門をくぐることになるだろうけれども、今は…。
「うん。あたしも…色々話をしたいの」
 今は、この世界を楽しみたい。
 ウィルフレッドは、一緒に旅をするという相手が自然と差し出した手を握り、ゆっくりと歩き始めた。