<東京怪談ノベル(シングル)>
風昇の刻
さらり、と緑色の長い髪が風に揺れた。腰に届こうかという髪の毛は、そよそよとたなびく。
「あたし、帰ってきたよ」
シノン・ルースティーンはそう言い、微笑む。
自然豊かなその場所は、巣立ったその時と全く変わってはいない。
空の青。森の緑。白く輝く石造りの神殿。その異なる風景がひとつとなり、荘厳というより柔らかな光を放っていた。
右手には滝。轟音が響いているというのに、音は清らかで耳に静かだ。幾重にも連なった回廊の支柱には、ランプが取り付けられている。夜ともなれば、また違う趣を持って、シノンを感動させるだろう予感がする。
ふう、と深く深呼吸する。この神殿周りの空気は、シノンの体を優しく包む。息を吸えば、全身に清浄な空気が行き渡るかのようだ。
おそらくこの風もどこかからやって来て、またどこかへと巡っていくのだろう。
(孤児院にも、いくかな?)
目を閉じれば、いつでも浮かぶ顔ぶれを、シノンは思う。ベルファ通りの外れにあるスラム街。響き渡る笑い声、時折聞こえる喧嘩の声、窘める優しい声、また再び聞こえる笑い声……。
「みんな、元気かな? 元気だよね」
ふふ、とシノンは笑う。子どもたちはみな、大きくなっていることだろう。もしかしたら、新しい仲間が増えているのかもしれない。
「終わったら、また会いに行かないとね」
シノンがそう呟きながら、歩を進める。かつん、かつんと石造りの床が足音を響かせる。迷いはない。迷う必要もない。
歩を進めた先に、目の前に扉が現れる。不思議な温かさを感じる扉を、シノンはすぐにコンコン、とノックをする。
返事を待つでもなく、扉が開かれた。
「ただいま帰りました、司祭様」
「おかえりなさい、シノン」
少しはにかんだ表情のシノンを迎え入れたのは、昔と変わらぬ笑みを携えて立つ、ウルギ神の司祭だ。
シノンは司祭に誘われ、部屋の中に入る。少しずつ、物の位置や量が変わってはいるが、雰囲気に変わりはない。
思わずくす、とシノンは笑いを漏らす。司祭は「どうしたのかね?」と尋ねてくる。
「変わりないな、と思って」
「そんなに変わってないかね?」
「ちょっとずつは違うんですけれど、こう、なんていうか。雰囲気が、あの時と同じだなって」
シノンの答えに、司祭は「なるほど」と頷く。シノンを椅子に座らせ、紅茶を出した。シノンは「いただきます」と告げてから、口をつける。
ほんのり甘く、温かい。
「シノンは、チャイが得意だったね。後でご馳走してもらおうか」
「喜んで! 料理も少しできるようになったので、ご馳走しますよ」
「それは楽しみだ」
司祭は微笑み、自らも紅茶に口をつける。そうして紅茶の良い香りが漂う中、司祭は口を開いた。
「では、シノン。お前がこの神殿から旅立ち、携えて巡らせた風の事を、話してくれるかな?」
シノンは問いかけに、にっこりと笑って答える。
「喜んで、司祭様」
「手紙でも伝えてきた、孤児院のことを話しますね」
シノンはそう言って、微笑んだ。
孤児院については、ずっと司祭に報告していた。他愛のない日常からちょっとしたトラブルまで、まるで司祭がそこにいるかのように。
「あたし、自分だけの風が分からなくて。どう渡せばいいかも分からなくて。だけど、子ども達と関わって、分かったんです。あたしだけの風を作り、その風を渡していくやり方を」
「届く手紙を読んでいたら、そんな感じはしたよ。徐々に、シノンだけの風を作りつつある、と」
「司祭様、分かったんですか?」
「司祭だからね」
悪戯っぽく、司祭は笑う。シノンもつられるように笑い、一息つく。
「あたしは、ずっと胸の中にあったんです。ウルギの教えと、司祭様の言葉と。その想いを叶えるために、自分の中にある弱さを乗り越えていかなきゃ、と思って」
「旅に出たんだね」
「はい。孤児院は、兄貴と子ども達に任せたら大丈夫だから」
司祭は微笑む。手紙では知らされていたが、改めてシノンの口から聞くことに意味があった。
シノンの目が、きらきらと輝いていたからだ。
「信頼ができたんだね」
「もちろんです。孤児院が心配なんて、あたしの心の弱さがそう言ってただけなんですから」
シノンは笑う。背を押された風が、未だに自分のそばにあるかのようだ。
「あたしは旅に出て、いろんな場所に行きました。様々な人と過ごしました。ああ、そうそう。とある宿屋に住み込みで働いた時なんですけどね」
シノンはそう言って、話し出す。
旅の通過点と思っていた村で、旅の路銀が尽きてしまったこと。旅費を稼ぐため、村で唯一の宿屋に泊まり込みで働くことになったこと。そこで旅人に出していたチャイが、気づけば通常メニューとしておかれることになったこと。
「その宿屋に行けば、シノンのチャイが飲めるのだね」
「はい。ちゃんとレシピ、教えてきましたから」
シノンはにっこりと笑う。シノンが作るチャイと、ほとんど同じ味になるレシピを教えてきた。全く同じ味にはならないが、それでいいのだ。
シノンが教えたレシピを、宿屋のものになるだけなのだから。
「司祭様、そこで、あたしは旅人の方達に祈りを捧げました。そうしたら、風が心地よく感じると言っていただけて」
「その宿屋で、シノンは色んな人と風を巡らせたのだね」
「はい」
シノンは微笑む。瞼の裏に浮かぶのは、出会った人々と巡らせた風。シノンの風を渡し、人々の風を受け取る。風は巡る。
そうして風は、未来へと向かって行く。
「一所には留まらず、あたしはまた旅立ちました。まだまだたくさんの人に、風を巡らせたいから」
シノンはそういい、次に訪れた村のことを話し始める。
司祭は微笑み、ティーポットから紅茶をつぎ足す。シノンの話はまだまだ続いていくのだった。
シノンが溢れるままに紡いだ旅の話は、夜がとっぷりと更けたころ、ようやく終わりを迎えた。途中何度も注がれた紅茶も、ティーポットごと空になっている。
司祭は満足そうに頷いた。シノンの話はどれも素晴らしかった。いずれも、ウルギの教えに沿ったものだ。
「シノン、素晴らしい旅をしてきたね」
「はい。どれも、あたしの中で素晴らしい風となりました」
「……風と共に行き、風の巡りを正しましたね」
「はい」
「君だけの風を作り出し、その風を渡したのだね」
「はい」
司祭はシノンの両手を取り、目を見つめて微笑む。
「ならば、これからは神官として、シノンだけの風を渡しなさい」
シノンは思わず、目を見開く。司祭の言葉を今一度、自分の中で確かめる。
――これからは、神官として。
それはつまり、シノンは神官として認められたということだ。
シノンは司祭を見つめる。司祭は微笑んで、シノンを見つめている。
そうしていると、ぽた、と手の甲に水滴が落ちた。
「あ、あれ?」
シノンの両目から、ぽたぽたと涙があふれていた。
「なんでだろう? なんで、涙が」
司祭は何も言わない。何も言わず、シノンの両手を優しく包んでいるだけだ。
そのぬくもりに安心するかのように、シノンは涙を流し続けるのだった。
暖かなベッドから目を覚ますと、パンの焼けるいい匂いが漂っていた。
「あ」
昨日までとは違う、だが懐かしい天井にシノンは声を出す。
ここは、ウルギ神殿だ。司祭に旅の話をして、自分のことを語って……。
シノンははっとして服を着替え、ぱたぱたと食堂へと向かう。神殿にいるのだから、夢の中の出来事ではない。だが、夢のような出来事があったのだ。
「司祭様、あたし……!」
勢いよくドアを開けるシノンに、司祭はくすくすと笑う。
「おはよう、シノン。よく眠れたかい?」
「え、あ、はい。おはようございます。あの、あたし」
言葉選びに迷っているシノンに、司祭は向き直って微笑む。
「シノンは、神官になったのだよ。そんな慌てた風では、渡す人も驚いてしまうね」
「あ、あたし……」
やっぱり夢ではなかったのだ、とシノンは思う。
シノンは、神官になったのだ。司祭に認められ、ウルギの教えを胸に風と共に巡る、ウルギ神官に。
「さあ、シノン。朝食をいただこう」
「はい。あたし、チャイを入れます!」
シノンはにっこりと笑って、台所へと向かう。
とびきり美味しいチャイを司祭に飲んでもらおうと、はりきりながら。
<昇る風に心を寄せて・了>
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