<東京怪談ノベル(シングル)>


ほんの少しの勇気

 ずっと気になっていた、路地裏の小さなお店。
 ウィンドウからこっそり覗いてみると、内装は大好きなレトロアンティーク調。好きなタイプの店だという予感があった。
 入ったことのないお店に入るのはとても勇気がいる。
 少女は物心ついた時からずっと内向的な性格だった。そんな自分がずっと嫌いだった。
 少女はドアノブに手をかけると、遠慮がちにドアを開いた。
 カランカラン、と軽い質感のベルが鳴る。
 外が明るかったせいで、店内はいささか暗く感じられた。様々な種類の香りを感じた。複数の香りが入り混じっているのに、不思議と匂いがきついとは思わなかった。まるで計算されたかのような調和の取れた香りが少女を出迎えている。
「いらっしゃい」
 声が聞こえ、少女はどきりとして声の主を探す。陳列棚の前に立っていた人物が、振り返るようにして少女を見ていた。
 少女はその美しさに再びどきりとした。
 帽子や手袋も含め、細身の体は黒ずくめの服装で覆われている。唯一露出しているのは顔だけ。透けてしまうんじゃないかと思うほど白い肌。さらさらの金髪。そして赤い瞳。年齢は10代後半くらいだろうか、と少女は思う。自分とそれほど歳が変わらないように思う。
 黒づくめの店主は少女の方に身体を向き直り、穏やかな声で言った。
「こんにちは。ああ、あなたは初めての方だね」
「あ、はい」
 少女はどぎまぎしながら答える。
 中性的な男の人にも見えるし、背の高い女の人かもしれない。喋っても性別が分からない人間と出会うのは初めてだった。
「あ、あの、私、このお店初めてで、いつも外から見て、すごく素敵なお店だなって気になっていて」
 とぎれとぎれに少女は言う。緊張のあまり心臓がドキドキしてうまくしゃべれない。
「大丈夫。そんなに緊張されるような敷居の高いお店じゃないから。気を楽にして。紅茶をいれようか?焼き菓子は好き?」
 店主は、一定の温度を保っているような穏やかな声で話す。少女は徐々に気持ちが落ち着いてきた。
「好きです」
 そう、呟くように言った。


 少女はエル・クロークの店の常連になった。月に1、2回訪れ、かわいいかわいいと言いながら店の商品を眺めていたり、紅茶を飲みながらクロークと少し話をしたりする。少女の母親が強い香りが苦手らしく、今まで香水やポプリなどとは縁のない生活を送ってきたらしい。クロークが幾つか香りを薦めてみると、いい香り、どれもいい香り、と言って微笑むのだ。
 時間が経つにつれ、少女はよく喋るようになっていた。内向的ではあるが、人間嫌いというわけではないようだ。むしろ、よく笑うし人懐っこい。
「好きな人がいるんです」
 他に客はおらず、少女とクロークふたりきりだったが、少女は声を潜めてそう言った。
「恋人?」
 クロークが尋ねると、少女は恥ずかしそうに頬を染めて頷いた。
「その人、いい匂いがするんです」
「どんな匂い?」
「あ、香水とかじゃなくて、その人の匂いがいい匂いっていうことです」
 ふふ、と少女は笑う。
「それは良かったね」
 クロークは言った。
「でも」
 少女の声が少し暗くなった。
「最近、彼にちょっかいをかけている女の人がいるんです。彼はとても迷惑しているのに、優しいからきっぱりと拒絶する事ができないみたいで」
「そうなんだ」
 クロークは差し障りの無い相槌を打つ。
「私だって本当は、その人にはっきり文句を言いたいんです。でも勇気がなくて」
 少女はふと顔を上げて、店内を見回す。
「勇気の出る香りとか、あればいいのに……」
 そう言ってから、
「そんなの無理ですよね。ごめんなさい」
自嘲気味に笑った。
「クロークさんってなんだか不思議な魅力があるんです。だから、何でも叶えてくれそうな気がして……あ、変なこと言ってごめんなさい」
 少女は申し訳無さそうに言った。
 少し沈黙が訪れる。少女は紅茶の入ったカップに口をつけた。話題を変えて何か楽しい話をしなくては、と必死に考えていると、
「あなたの望みを叶えてあげようか」
 ぽつり、とクロークが言った。
「え?」
 少女は顔を上げ、クロークを見た。美しい赤い瞳。笑っていなかった。冗談を言っているようには思えない。
 それはまるで魔力を持った言葉のように、少女の心を支配する。
 あなたの望みを叶えてあげようか。


 クロークの店の奥にある秘密の部屋。リクライニングチェアの上で少女は緊張している。
 部屋中に甘い香りが充満している。
「大丈夫。目を閉じて、深呼吸して」
 少女は言われるままに目を閉じた。
「自分がしたいことを思い描いてみて。大丈夫だよ。何も怖いものはないから」
 何も怖いものはないから。
 それはうっとりと甘い響きで少女の耳をくすぐる。
 甘い香り。
 美しい店主の声。
 自分が少し勇気を出せば、悩み事は解消される。そんな気がしてきた。
 何も怖いものはない。甘い香りに包まれて、少女はうっとりと目を閉じた。


 いつの間にか眠ってしまったようだ。
 目を覚ました少女はぼんやりと天井を見つめている。
「大丈夫?」
 聞き覚えのある声に顔を向ける。見慣れたクロークの顔を見てほっとした。
「紅茶をいれなおすから、少し休んでから帰るといいよ」
「大丈夫です」
 少女は椅子から降りた。
「なんだか勇気が湧いてきました。私、これから彼の所に言ってみます。もしあの女の人がいたらガツンと言ってやります」
 少女は清々しい笑顔で店をあとにした。


 若い男女が並んで歩いている。
 腕を組んで、身体を密着させ、楽しそうに話しながら歩いている。
「きゃっ」
 突然、女は背中を突き飛ばされたような衝撃を感じ、悲鳴を上げて前のめりに転びそうになる。腕を掴まれたままの男も引っ張られてよろけた。
「何?」
 女が驚いて振り返ると、すぐ後ろに少女が立っていた。憎しみに満ちた目で女を睨みつけている。
「離れて!」
「え、何?」
 女は怪訝そうな顔をしている。
「彼から離れてよ!」
 少女は力のかぎり叫んだ。
 ただごとではない様子。女は疑惑の目で男を見る。
「この子、誰」
 女は男から腕を離し、尋ねる。
 男は女と少女を交互に見て、困惑した表情を浮かべている。
「いや、知らない子だよ」
 男は慌てて言う。
「そんなわけ無いでしょ」
 女は呆れた顔をしている。
「浮気?しかもこんな若い子に手出してるわけ」
「いや、本当だって。ねえ君、人違いじゃないかな」
 男はなるべく相手を逆撫でしないほうがいいだろうと、努めて優しい調子で尋ねた。
「どこかで会ったことある?」
「会ったことあるに決まってるでしょ!」
 少女は怒りに肩を震わせている。
「昨日はお店で買い物をしている時にも一緒だったじゃない。私、あなたが買う物を見て、ああ今夜はシチューを作るのねって思っていたの。そしたら夕方、あなたのお家からシチューの匂いがしてきたからああほらやっぱりって思ったわ」
 少女は興奮した様子で、早口でまくし立てた。
「どうして私があげた紅茶とお菓子をゴミに捨てたの?せっかくクロークさんのお店で選んできた私のお気に入りなのに…。ああ、きっとあの味は好きじゃなかったのね。今度はあなたが好きそうなのを選んでおくから、食べてね」
 若い男女はしばらく言葉を失って、何も言えなかった。少ししてから、女がようやく、怯えた表情をしている自分の恋人に声をかけた。
「何この子……あなた、付きまとわれているの?」
「時々、ポストに食べ物なんかが入っていることはあったんだ……。前に住んでた人と間違ってるんだと思ってて、そのうち大家さんに相談しようとは思ってたんだけど」
 女は男が嘘を付いていないと判断し、事情を理解した。
 きっ、と少女の方を睨みつける。
「あなたね、そうやって一方的に感情を押し付けて、相手が迷惑するに決まってるでしょ。人の気持ちを考えなさい」
 女はきっぱりと言う。
「こそこそと付きまとって、気味が悪いわ」
 ぎりぎりと音がしそうなほどに、少女は奥歯を食いしばっている。
「彼に、付きまとっているのはあんたの方でしょ」
 女は呆れた顔をして少女に背を向けた。行きましょ、と男を促す。
「この子、話が通じないみたい。相手にしないほうがいいわ」
 男も早く少女から距離を置きたいようで、そそくさとその場を離れようとする。
「家が知られているんなら、また来るだろ…」
 男が不安そうに言う。
「引っ越しなさいよ。とりあえず今日はウチに泊まればいいわ」
 ぽつんと取り残された少女は、怒りと悔しさで身体が震えていた。ぱたぱたと涙がこぼれ、地面を濡らす。
 大丈夫。
 ふいに、穏やかな声が聞こえた。
 何も怖いものはないから。
「そうだよね」
 少女はポケットに手を入れ、ナイフを取り出した。
 なんて恥知らずな女なの。
 人の恋人にあんなにベタベタとつきまとって、私にあんなにひどいことをたくさん言って。
 彼は優しいから、あんなに性格の悪い女に付きまとわれても、仕方なく話を合わせてあげているんだわ。かわいそうに。
 私が、きっぱりあの女の人を消してあげなくちゃ。
 少女は両手でしっかりとナイフを握りしめると、走り出した。
 その表情は笑っていた。


「今日もよく働いたなあ」
 全く疲労を感じさせない声でクロークは言う。ちょっと言ってみたかったのだ。
 クロークは店のドアを開け、外の通りを眺める。路地裏なので空は狭い。夕焼けが見えた。
 少し早いが、今日はもう店じまいにすることにする。
 クローズド、と書かれたプレートをかけ、ドアを閉めた。