<東京怪談ノベル(シングル)>
長い家路
強く吹き付ける風が巻き上げる砂塵に旅人は外套のフードを目深にした。風は旅人が足を進める先から吹き後ろへと抜け、彼が作る足跡を消していく。
大きな荷物を背負い、向かい風に抗うように一歩一歩と歩を進める先にはとりあえずの目的地である町があったが、そこが終着点というわけでもなく、かといってこれという終着点があるでもなく、自分がどこから来てどこに向かっているのかさえわからぬまま、その足はこれでもかと風上を向いて進んだ。
どれくらい経ったのかはわからない。短い針が何周したのかなど覚えていない。時間は数えても月日は数えていないのだ。あの日、大切な人を失って色褪せた世界の真ん中で途方に暮れて、結局歩き出した先はそういう道だった、というだけの事なのかもしれない。
世界がどんな色をしていたのかも思い出せないまま、ただ虚ろに町から町へ品物を売り歩く。
旅人はそんな行商人だった。
日暮れの頃、彼はとりあえずの目的地であった小さな宿場町にたどり着いた。大小いくつものキャラバンが行き交い、交易の要衝であったその町は大いに賑わっている。
とはいえ、常以上に人が多く殺気立っているような気がして、旅人は怪訝に首を傾げた。これまで訪れたどの宿場町とも少し様相が違うのだ。
一先ず適当な宿屋を探す。
ところが最初に入った宿屋で、今は客が溢れかえり満室なのだと断られた。他もみんなそうだろうと宿屋の主人が嬉しい悲鳴…というよりは複雑そうな悲鳴をあげた。
何でも昨晩、この宿場町から次の街へ向かう途中の山道に盗賊が現れたらしい。一隊の小規模なキャラバンが襲われ皆殺しだったという話だ。気の毒そうに宿屋の主人は語った。おかげで客に出す食事の材料調達もままならないらしい。
一方、客の方はといえば…。
選択肢は3つ。次の街へ行くのを諦めて引き返すか、用心棒を雇うか、山を迂回するか。いずれにしても相応の準備が必要で、旅装を整えるためもう1日この町に、と足を止めてしまった商人らで占められていた。
旅人は宿屋の主人に勧められるまま、商人ギルドに行ってみる事にした。大人数のキャラバンと違って1人であるから用心棒もそれほど大層なものは必要としないし、それくらいなら誰か斡旋してもらえるかもしれないという話だ。ダメもとのようなものである。
商人ギルドの建物の前も人集りでその町の一番の大通りである道を遮るほどだった。初老と見える男が大声を張り上げ詰め寄る人々に事情を説明している。どうやら、用心棒となりそうな人手も全く足りていないらしい。
仕方がないな、と諦め旅人は踵を返す。別段、急ぐ道でもなければ野宿でも一向に構わないと思った。風が吹く以上、引き返す選択肢は彼にはない。山中には珍しい薬草も生息していてついでに採取したいという思いもある。出来れば山に入りたかった。
「そこの」
と声をかけられた。しゃがれた声に振り返ると老人が立っていた。背筋はしゃんと伸びていたが顔の皺は老人の歳を深く刻んでいる。
「おまえさん、薬士か薬売りかの?」
「え? いや…少し違うかな」
旅人の背中の大きな荷物に入っている商品は、香水、香料、洗髪剤といったものだった。
「そうか。そういう顔に見えたんじゃがの」
儂の目も随分衰えたもんじゃわい、などと独りごちながら老人がかかと笑う。
「そういう顔?」
何故そう思ったのか興味が沸いてくる。
「山に入りたそうな顔じゃ。ただの行商人の単独行なら普通は山を迂回する。それをわざわざ山道を使うとしたら、山の中に用があるんじゃろう、と思っての」
「なるほど」
この山にはこの地域でしか採れない珍しい薬草がいくつも生息している。旅人もその1つが目的だ。しかし。たとえば薬士だったとして、老人がそもそも旅人に声をかけた理由は何であろうか。ただ世間話でもしたかったのか、話の種に聞いてみただけなのか、それとも…。
商人ギルドの前はこんな有様だ。
「もしかして、あなたは“1人で山に入るための方法を教えられる”…という事であってるかな?」
知っている、ではない。教えられる、だ。
「さて、どうじゃろうな」
すっとぼけてみせて老人は歩き出した。旅人はその後に続く。
「大人数は無理じゃが、1人くらいなら泊めてやれる」
老人が言った。
◆◆◆
山風が立ちはだかるように吹き下ろしていたが、旅人は別段気にした様子もなく、いつも通りといった風情で山道を登っていた。
盗賊が出たというだけあって行き交う者はない。
聞こえるのは空を無尽に駆け回る風の音とそれが揺らす木々のざわめき。
それから山道を歩く荒い息遣いに草や落ちた葉を踏む音。
それが自分のものでないと知れて旅人は全身に緊張を走らせた。
殆どの者は山を迂回するルートを選んでいた。用心棒の数が圧倒的に足りないからだ。腕に自信のある者らは山に入ったというが、そういう連中は彼より随分先に旅立っている。彼の足で追いつけるものはないだろう。逆に後から来た者に追いつかれる可能性はあるかもしれないが。
――盗賊に見つかったか?
彼は2晩の宿を借りた老人に教えられた事を思い出しながら、歩くスピードを変える事なく、音の近づく方からは死角となりそうな場所を目で探した。
ゆっくりとそちらへ向かい木の影に身を潜めるようにして素早く背中の荷物を下ろすと太い木の枝にひっかける。商品は瓶などの割れ物も多い。
空を仰いだ。陽は中天にかかろうとしている。
視線をおろしてファイティングポーズで近づく音に集中した。
だが。
「……」
何とも言い難い違和感に彼はふと両手をおろした。
強い殺気が旅人を射る。
木々の合間を抜けて空から降る光を強く跳ね返しそれは走った。まっすぐに、どうしようもなくまっすぐに疾る光を、旅人はその胸で受け止める。
「父さんと…母さんの…仇…」
短刀を握る子どもが小さく呟いた。
3日前の事だ。
小さなキャラバンが盗賊に襲われた。後から来た行商人がその無惨な光景から全滅したのだと判じた。だが、どうやら子どもが1人だけ逃げきっていたらしい。両親が子どもをそっと逃がしたのだろう。或いは、逃げる子どもの姿をとるに足らないものとして盗賊が放置したのか。
何れにせよ子どもは生きていたが、宿場町の誰も子どもの存在に気づく事はなかった。子どもが山中に潜伏していたこと、盗賊が出たと聞いて山中に入る者が極端に減った事、盗賊の驚異ゆえに襲われたキャラバンの無惨な姿を誰もが放置した事が起因したのだろう。遺体をかたづけていれば数が足らない事に誰かが気づいたのかもしれない。
これは後でわかった事だが、盗賊はキャラバンを襲った後すぐに別の狩り場へ移動していた。子どもは居なくなった仇を求め山の中を彷徨っていたのである。
どうしようもない違和感があった。盗賊は1人とは思えない。枝葉を踏む音が思いの外軽く、小刻みだった。だから旅人はファイティングポーズを解き、木影に隠れながら売り物ではない小瓶を1つ開けていた。
子どもは3日3晩飲まず食わずで山を徘徊し、もはや盗賊とそうでもないものとの区別も出来なくなるほど衰弱していたのだろう。
だから子どもの放つ凶刃を旅人はその胸で受け止めた。
旅人が赤い血を流す事はなかったが、子どもの目には間違いなく真紅の鮮血が映ったに違いあるまい。
子どもはそのまま意識を手放した。やりきったという満足とそれでも両親は還ってこないという虚無を抱えた表情で子どもは眠りについたのだ。
今、この子はどんな夢を見ているのだろう。
旅人はそっと子どもの目尻に溜まった涙を拭ってやった。
「大丈夫。もう、終わったんだよ」
囁きかける。優しい夢が見られるように、と。
やがて目覚めた子どもが新たな生きる目的を見つけられるかどうかは旅人の預かり知らぬところであったが、たとえ見つけられなかったとしても復讐に囚われ憎悪と後悔の果てに命尽きるよりはマシなのではないかと思う。
大切な人の言葉を思い出した。
――人は過去だけを見て生きるには辛すぎる。
「……」
今の自分と自分が子どもにした事を噛みしめるように旅人は空っぽの手を握りしめた。
◆◆◆
長い夜が明け旅人は次の街にたどり着く。
活気のある大きな街だ。当座の宿を確保して街の下見に出る。目抜き通りに人通りは多い。露店を開けそうな場所を物色しながら歩き回っているとあっという間に日が暮れた。
異国の言葉で逢魔が刻ともマジックアワーとも。陽の沈む空はオレンジ色から紫へと美しい虹のグラデーションを描き、反対側からは夜の帳が押し寄せてくる。そんな時間だ。残念ながら、もう何年も見ていない景色。ただ記憶の中に鮮明に残る空。
「……」
誰かに呼ばれたような気がして旅人はふとそちらを振り返った。路地裏を覗いても人影はない。声の主らしいものも判然としない。逢う魔というくらいだ。魔にでも出くわしてしまったのだろうか。だが嫌な気は感じられなくて旅人はその路地裏に入っていった。いつもは風に逆らって進んでいたのに今は風に流されるようにして歩いている。我ながら不思議だ。
煉瓦づくりの壁に挟まれ両手を広げたほどの狭い路地には勝手口がぽつんぽつんと点在している。夜の支度に追われる時間にしてはどこか物静かで、異空間にでも迷い込んだような気分だった。
それでも吹き抜ける風があったから、彼はそれに身を任せて進んだ。
やがて足を止めたのは、ぽつんと場違いなほど異質に佇む古い家の前だった。
予感めいたものが彼を包み込んだ。
旅人は外套のフードを脱いでその古い家を見上げた。初めての街で初めて見る筈なのに、この懐かしさはなんであるのか。昼間この辺を通ったような気もするが、その時には全く気にもとまらなかった。
それとも、昼間にはこんな家はなかったのかもしれない。
いよいよ魔に出くわしてしまったか。
そんな気分で旅人はドアノブに手を伸ばした。鍵はかかっていないのか、扉はまるで自分から彼を招き入れるように開いた。
刹那、色褪せて見えていた世界が突然極彩色に変わった。
見開かれた目に飛び込んできたのは、赤、青、黄色、緑、それから、それから…。作り付けの棚に並ぶいろとりどりの小瓶。それは切り取ったように見慣れた景色でもあり、初めて見る景色でもあって。
懐かしい匂いがした。忘れることのない匂いだ。質素で素朴で大切な人が作り出し纏っていた、唯一無二にして再現することの出来ない過去の匂いだ。
外観とは違い優しく包み込む木の温もりに目を閉じて、膝をついて、無意識に両手で自分を抱きしめた。
ここに帰ってくるためにずっと歩き続けていたのだ。何の根拠もなかったが確信だけがそこにあった。
大切な時間。大切な過去。だけど人は過去だけを見て生きるには辛すぎる。
何をすべきか。或いは、何をしたいのか。はたまた、自分には何が出来るのか。
知らない。だけど知っている。
子どもが教えてくれた。自分にも、あの子どもにも必要だったもの。
ここは。
だから。
奥底からこみ上げて溢れ出す何かに、自然と言葉が漏れた。
「ただいま…」
◆◆◆
旅人は…いや、もう旅人でも行商人でもなくなった彼はその街で出会った不思議な空き屋を住居兼店にする事にした。
レトロアンティークに店内を飾り、棚にはポプリや香水瓶を並べ、カウンターでは紅茶を出せるようにした。
奥の部屋にはリクライニングチェアを置いた。彼が座るためのものではない。客が座るためのものだ。
あの時の子どものように。過去だけを見て生きるには辛すぎる。過去に囚われて生きるには虚しすぎる。そんな過去に惑った者たちに過去にけりをつけるための満足を与えられるように。
客は世界各地から訪れた。かといってわざわざエルザードの路地裏までやって来る者はない。
その店はどの町にも存在し、どの世界にも存在しなかった。
多くの人々は、その店に気づくこともなく通り過ぎていく。
その店を必要とする者だけがその店に気づく事が出来るだろう。
もし見つけたら躊躇わず扉を開いてみるといい。
「いらっしゃい、今日はどのような品をご所望かな」
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