<東京怪談ノベル(シングル)>


異界不動産


 命が惜しくない、わけではない。
 だが、金も惜しい。出費が惜しい。決して安くはない香を、こんな所で焚いてしまいたくない。
 そんな事を考えてしまうのは自分が商人だからか、とエル・クロークは思った。
「それも駆け出しの商人だ。まだ大して儲けてもいない」
 森の中、である。
 物盗り・追い剥ぎの類であろう、風体の良くない男たちが、大小様々な剣を片手に迫り寄って来る。
 彼らに、クロークはまず微笑みかけた。
「お金なんて、そんなに持っていないよ。見逃してくれないかなあ」
「なら身体で稼いでもらうぜ姉ちゃん、だか兄ちゃんだかわかんねえが」
 男たちが、下卑た凶悪な笑みを返してくる。
「まあ男でもいいや。下手な女より、ずっと金になりそうだからなぁ」
「こんだけ綺麗なら男でも女でも構わねえって奴、大勢いるワケよ」
「おめえが男か女かは、俺らがキッチリ調べ上げてやンからよぉー!」
 クロークは、もはや言葉で応える事もなく、黒い衣服の懐で小さな香炉を握り締めた。
 この中に、火を入れる事さえ出来れば。
 頭の悪そうな男たちだから、口車に乗せて時間を稼ぐ事は難しくないだろう。
 だが貴重な商品を1つ、灰にしてしまう事になる。
 ガサッ……と、木立ちが音を立てた。
 人が近付いて来る。この男たちの仲間か、だとしたらいよいよ商品を惜しんでいる場合ではない。
 幻覚をもたらす香を、焚かなければならないのか。
「な……何だ、てめえ……」
 品悪く笑っていた男たちが、動揺している。仲間、ではないようだ。
 木立ちを押しのけるようにして現れたのは、巨漢である。甲冑のような筋肉が、全身でたくましく隆起しつつ息づいている。
 そんな身体にマントを羽織り、首から上には奇妙な覆面を着用しているのだ。
 恐らくは髑髏を模したものであろう、虚仮威しの覆面。虚仮威しが、しかし恐ろしいほど似合っている。
「てめえ……俺らの獲物、横取りしようってのかあ!」
 男たちが大小様々な剣を閃かせ、覆面の巨漢に襲いかかる。
 そして全員、ことごとく宙を舞った。巨漢に掴まれ、振り回され、投げ捨てられ、叩き付けられた。まるで物のように。
「お見事……」
 クロークは手を叩いた。
「助かったよ。まあ……これは少し、やり過ぎかな? と思えない事もないけれど」
 男たちは全員、大木や地面に激突し、折れ曲がったり潰れたりしている。
「手加減ってやつが、どうも苦手でな」
 巨漢は言った。
「そのせいで、リングにいられなくなっちまった」
「……何にしても、助けてくれてありがとう。僕は駆け出し商人のエル・クローク。貴方は、さぞかし名のある戦士殿とお見受けするが」
「俺は、死神」
 巨漢が、謎めいた事を言っている。
「……そういうギミックで戦ってたんだがな。いろいろあって、プロレス界から追ン出されちまった」
「ぎみっく……ぷろ、れす……?」
 異国語であろうか、とクロークは思った。
「この男は、ソーンとは異なる世界から流れて来たのだ」
 もう1人、何者かが現れた。と言うより、いつの間にかそこにいた。
「見ての通りの暴れ者でな。暴れ過ぎて、元の世界に居場所をなくした。だから私が、このソーンへと導いた。結果、まあ人助けにはなったのかな」
 女性である。純白のローブの上からでも、魅惑的な曲線は見て取れる。
 フードからは艶やかな黒髪が溢れ出し、理知的な美貌を飾り立てている。
 年齢は、よくわからない。十代の美少女にも見えるし、二、三十代の人妻か未亡人にも見える。
「異世界からの、来訪者……」
 クロークは呟き、思い返した。
 かつて自分の主であった女性は、魔界や地獄界から様々なものを召喚していた。この死神も、召喚された存在であるのか。
「おい、お前」
 死神が、声を投げてきた。
「腕っぷしに自信ねえなら、こんな所1人で歩くもんじゃねえぜ」
「……そうだね。落ち着ける場所が見つかれば、こんな危険な旅をしなくて済むのだけど」
「そうか、落ち着く場所を探しているのか」
 年齢不詳の女が、じっとクロークを見つめる。
「ふむ、君は……人間、ではないようだな。付喪神か」
「……人間ではない、というのはその通りだけど。ツクモガミ? というのは?」
「大切に、想いを込めて使われる事で、生命と自我を持つに至った道具類の事さ。この死神の元いた世界に、そういう伝説があった。エル・クローク、君がいかなる道具であったのかは知らないが……本当に、大切にされていたのだな。これほど美しい付喪神を、私は見た事がない」
「……僕の主は、確かに……僕を本当に、大切にしてくれたよ」
 彼女はもう、この世にはいない。
 彼女と共に過ごし、共に思い出を作り上げた土地に、クロークは1度も帰ってはいない。
 自分は、彼女の死から逃げ回っているのだ、とクロークは思う。
 逃げ回るように、こうして旅を続けている。
「落ち着く場所を、探しているのだったな」
 年齢不詳の女が、言った。
「私が持っている物件を1つ、君に紹介したいのだが……一緒に来てくれるかな」


 帰って来てしまった、とクロークは思った。
 この町に、戻って来てしまった。
 かつて、この町の領主一家とは、いささか親交があった。
 その領主は戦のせいで失脚し、領主令嬢は、とある薬商人と結ばれた。
 あの一件がきっかけ、というわけではないのだが、クロークはこの町を旅立ち、香物の商人としてソーン各地を回った。
 そして今、謎めいた女性それに死神を名乗る巨漢と共に、この町に戻って来た。
 久しぶりに帰った町の一角に、おかしな場所があった。
 いささか人通りの寂しい区域に建つ、1軒の空き家。
 中には当然、何もない。目に見えるものは、だ。
「目に見えない何かが、渦巻いている……」
 何もない、ように見える空き家の中を見回しながら、クロークは呟いた。
「僕の気のせい、なのだろうか……何だろう、この感じは……」
 懐かしい。
 無理やりにでも言葉で表現すれば、そうなってしまう。
「気のせいではないよ。ふふっ……君なら、感じ取れると思っていた」
 年齢不詳の女が言った。
「このソーンという世界では今あちこちで、異なる世界へと通じる、門と言うか通路と言うか、あるいは落とし穴とも言うべきものが開いてしまっている。この空き家も、その1つ」
 彼女が、ちらりと死神の方を見た。
「この男は数日前、ここで倒れていた。落とし穴にはまってしまった、というわけさ」
「そんな難儀な物件を……僕のような流れ者の商人に、貴女は一体いくらで売りつけようと言うのかな」
「お金は要らない。私は君に、ここを封印してもらいたいのだ」
 年齢不詳の女が、ますます意味不明な事を語り始める。
「様々な異世界から、様々なものがソーンに流れ込んで来てしまう。この死神のようにな……まあ、この男はさほど有害ではない。何かやらかすにしても先程のように、人助けのついでにうっかり人殺しをしてしまう程度だ。もっと厄介なものたちが異世界からソーンへと、ソーンから異世界へと往来し、この多元宇宙に災いを振りまく……そんな事態を、私は防ぎたいのだよ」
「僕に……邪悪なものを封ずる、偉大な魔導師か聖人のような役割を負えと?」
 この女性が一体何者なのか、問いかけても答えてはくれないだろう、と思いつつクロークは言った。
「何度でも言うけれど、僕は単なる商人だ。そんな、英雄物語の登場人物みたいな力を持ち合わせてはいないよ」
「魔力の類で、異世界への門を封じる事は出来ない。私は君に、ここで普通に真っ当に商売をして欲しいだけさ」
 年齢不詳の女性、とクロークは最初は思っていた。
 もしかしたら、年齢とも性別とも関わりのない、特異な存在なのかも知れない。自分のように。
「この建物の中で、異界への通路が開いてしまったとしても、それを商売の一部として上手く活用して欲しい。商売の範疇を超えてしまうような大事にはしないでもらいたい。私が君に望むのは、それだけだよエル・クローク」
「封印、と言うよりは管理だね……」
 一瞬、クロークは考え込んだ。
「僕がここで……異世界への落とし穴に、うっかり落ちてしまう事もある?」
「そうなったら、まあ運が悪かったと思ってもらうしかない」
「……いいね、気に入ったよ」
 クロークは笑った。
「無料で建物を使わせてもらえる機会に飛びつかないほど、僕は裕福な商人ではないからね。ただより高いものはない……それを体感するとしよう。ここを僕の、店舗にさせてもらうよ」
「腕っぷしに自信のねえ奴が、1人で店おっ始めようってのかい。強盗さんいらっしゃい、ってなもんじゃねえのか」
 太い両腕を組んだまま、死神が言う。
「余計な事かも知れねえが、身ぃ守る技の2つ3つは覚えといた方が良くはねえかい。何なら俺がコーチしてやるぜ? 授業料は、ま、この店が儲かり始めてからでいい」
「それは願ってもない話だけど……僕のために、そこまでしてくれる理由が、貴方のどこに?」
「暇だからな。やる事がねえ」
 面白くもなさそうに、死神が言った。
「おめえさんも、うっかり異世界へ行っちまう事があるかも知れねえ。だから教えといてやる。わけのわかんねえ世界にいきなり飛ばされて、何が一番困るかっつったらな……やる事がねえ、見つかんねえ。これほど気が滅入る事ぁねえぞ」