<東京怪談ノベル(シングル)>
禁断の果実
エル・クロークの営む店の扉が、ゆっくりと開いた。
路地裏に位置する小さな店は、初めて入る人には入りにくいものなのかもしれない。
クロークは訪れた客に「いらっしゃいませ」と声をかける。
「あ、ここは、店……だよな?」
客である青年はそう言って、店内を見回す。香水や微香といったものから、紅茶などの飲み物まで様々な「香り」に関するものを販売されている。
「今日は、誰かに聞いて?」
クロークが尋ねると、青年は頷く。
「俺を落ち着かせる香りがあるから、と聞いて」
青年の言葉に、クロークは頷く。
「香りは、人の心にも影響を及ぼすからね。興奮したり、冷静になったり、眠りを誘ったり、食欲をわかせたり」
「香りなんかで、とは思うんだが」
「あなどれないものだよ。ほら、この紅茶を飲めば、心が落ち着くしね」
クロークはそう言って、ティーポットと紅茶葉を掲げて見せる。青年は「では、もらおうか」と答える。
「では、こっちにどうぞ」
クロークはそう言って、店内の飲食スペースであるカウンターへと誘う。
こぽこぽとティーカップに注がれる音が、静かな店内に響き渡る。それと同時に、ほっとするような香りがあたりに広がっていく。
「さあ、どうぞ」
かちゃ、とティーカップの音をさせ、クロークは青年の前に紅茶を出す。ふわふわと昇る湯気が、紅茶の温かさを物語っている。
青年は優しく紅茶にふう、と息を吹きかけてから、口にする。ふわり、と口いっぱいに広がる紅茶の香りが、ゆるゆると心を満たしていくかのようだ。
「……うまい」
「それは良かった。今日使った紅茶は、あそこの陳列棚にも置いてあるよ」
クロークはそう言い、紅茶葉の並ぶ棚を指し示す。なるほど、確かに「心を落ち着かせる紅茶」と書かれたポップが添えられている。
「それにしても、一貫しているね。心を落ち着かせたい、なんて」
「俺は、自分では落ち着いていないとは、思っていなくて」
青年はそう言って、口にしていた紅茶をソーサーに置く。
「彼女が、言うんだよ。あなたは、時々すごく怖いって。カッとしたら、何をされるか分からないんだって」
「へぇ」
「確かに、カッとしたら良く分からなくなる。だけど、そんなに彼女が言うほど、俺は落ち着いていないのかって思って」
青年はそういい、カップに視線を落とす。
彼女に言われたから、この店にやってきたのだ。心を落ち着かせてほしい、と言われて。
つまりは、青年自身が心を落ち着かせたいわけではないということだ。
「……あなたは、自分がどうして落ち着いていないといわれるか、分かるのかい?」
クロークの問いに、青年はしばし考え込む。そうしてゆっくりと、首を横に振る。
「分からない。俺はただ、普通に過ごしているだけだと、思っているから」
クロークは笑む。優しく、それでいて妖しく。
「良かったら、その疑問に答えを出さないかい?」
「答え?」
「そう。あなたがどうして落ち着いていないと言われるのか、彼女に落ち着いてほしいと言われるのかを」
クロークはそう言って、カウンターから出る。不思議そうな青年に、店の奥へと誘った。
店の奥にある部屋に、青年は案内された。
先ほどまでいた店内は、レトロアンティーク風の内装を施されていたが、今いる場所はそことは違う。
一言でいえば、怪しい。
様々な香りの瓶が所狭しと棚に並び、ランプはいくつも飾られている。中央には、ぽつん、とリクライニングチェアが置かれているだけだ。
「ここは……?」
「ここは、倉庫なんだ。日が当たらないからね。だけど、倉庫でもあるけど、もう一つの役目がある」
「役目?」
「さあ、ここにどうぞ」
青年はクロークに言われるがまま、リクライニングチェアに腰掛ける。ぽつんとしたチェアは異常に見えたが、座ってみると何の違和感も感じない。
「では、始めようか」
クロークはそう言い、香に火をともす。ゆるゆると立ち昇る煙は、あっという間に部屋全体を包み込んでしまった。
不思議な香りだ、と青年は思う。安らぐようないい匂いで、そうかと思えば奮い立たせるような力強さを感じる。ずっと嗅いでいたいような、すぐにでも逃げ出したいような。
「心配しなくていいよ。僕の言葉に、耳を傾けるだけでいい」
クロークの声が、心地よく響く。
「そう、深呼吸して」
言葉に呼応し、青年は深呼吸を行う。部屋に充満する香りを、体いっぱいに満たさんとせんばかりに。
「あなたの気持ちを、解き放とうか」
青年の心が、深く深く、広がっていった。
青年は、佇んでいた。
広い空間の中、ぽつりと。
「心、落ち着きたい?」
青年は、落ち着いている、と答える。
「カッとするんだよね?」
ちょっとのことで、頭に血が上りやすい。後で思えば、なんてこともない。青年は苦笑交じりにこたえる。
「カッとしたら、どうするんだい?」
一番多いのは、手を出すことだ。近くにあるものを投げつけたり、何もなければ己の手や足を使う。カッとさせた対象が許しを懇願するほどに。
「許しを懇願? ああ、あなたは、人に向かってるんだね」
怒りが、人に。
「それも、特定の人に」
彼女の顔が浮かぶ。大好きな彼女、何をしても許してくれる彼女、自分のことを分かってくれる彼女。
だけど、そんな彼女が自分を怒らせるのだ。怒らせるから、カッとして傷つけてしまう。その傷が想像以上に大きいから、罪悪感から謝る。その繰り返し。
「彼女に、悪いと思っているんだ」
もちろん、思っている。思っているからこそ、店へと訪れたのだ。
「だけど、それでは根本の解決にはならないよね。なぜならば、あなたの願望はそこにないから」
願望。
青年はオウム返しする。突如出た言葉に、驚きを交えつつ。
「あなたは心を落ち着かせ、彼女を傷つけたくない訳ではない。むしろ逆なんじゃないかな?」
逆、とは。
青年が考えると同時に、目の前に彼女が現れた。
「私を、滅茶苦茶にしたいのよね」
青年が、息をのむ。突如現れた彼女に驚くと同時に、口をついた言葉にも驚いて。
「怒らせるのがいけないと、あなたはよく言うわ。だけど、本当にそうなのかしら? あなたはどこかで、望んでいるのではないかしら」
俺の、望み。
「怒らせたら、それを理由に、私を滅茶苦茶にできるのにって」
青年は大きく目を見開く。
そんなことは、と口を開く。そんなことは無い、ないはずだ、と。
「いいの、いいのよ。無理をしなくてもいいの。世間一般の常識を、ここに持ち込む必要はないの。あなたは、叶うことならば、私を滅茶苦茶にしたいのでしょう?」
だけど、それは。
「許されない? 誰が決めたの?」
彼女は笑う。
「世間一般の常識は、持ち込まなくていいの。私はあなたの希望を聞きたいの」
青年は、ごくり、と喉を鳴らす。こぶしを握り締め、微かにふるえる。
「さあ、教えて。私を、あなたは」
――うおおおおおお!!!
青年は、吠えた。
それと同時に、堰を切ったように地を蹴り、彼女に向かってこぶしを振り上げた。
何度も、何度も、振り下ろす。迸る汗と血、当たりを染める赤と白。
――そうだよそうだよそうだよ!!
ずっとこうしてやりたいと思っていたんだよ!
こうすることで、すっとするんだよ安心するんだよ堪らないんだよ!
愛しているって思うんだよ、好きだって思うんだよ! だからこそ、だからこそ!
「だからこそ、滅茶苦茶にしたいんだね」
青年は「そうだ!」と答え、高らかに笑った。あははははは、と大声で。楽しさと嬉しさが何度もまじりあい、こぶしに散る赤い液体に興奮した。
ずっと、こうしたかったのだ。青年は何度もこぶしを振り下ろした。
やがて彼女が、動かなくなるその瞬間まで……。
青年は、気づく。
ゆっくりとあたりを見回すと、怪しい雰囲気の部屋そのままだった。
いつの間にか、クロークの焚いた香の匂いはしない。
「どうだった?」
クロークはそう言って、微笑む。青年はしばらくクロークを見つめ、ゆっくりと笑った。
「満たされた気持ちがする」
「それは良かった」
クロークはそう言い、青年の手を取って立ち上がらせた。また店舗の方に誘い、クロークは「そうだ」と口を開く。
「紅茶はどうする?」
「紅茶……ああ、紅茶か。行った証拠になるし、買おうかな」
目的が変化してしまっていることに、青年は気づいていない。最初は「気分を落ち着けたい」と言って訪れたというのに。
紅茶葉の缶を一つ購入し、青年は店を出ようとする。が、くるりと踵を返す。
「また、来てもいいか?」
「もちろん」
「またあの、その」
言いよどむ青年の言葉を察し、クロークはにっこりと笑む。
「もちろん、また来てくれたらいいよ」
意味が通じたと気づき、青年は足取り軽く店を後にした。
「リンゴを齧ってしまったね」
クロークは呟き、青年の飲んだティーカップを片付けた。
おそらく近々再訪するだろう青年は、まっすぐ店の奥へと行くことになるだろうと思うのだった。
<齧った果実の甘さを思い・了>
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