<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
風の始まりと風の帰還
シノン・ルースティーンは呆然と立ち尽くしていた。
かつて住み慣れていたベルファ通りから外れたスラム街は、記憶とは全く異なった姿を見せていた。
ひしめき合うように建っていた小さな工房や商店も、舗装されていない道路も、がやがやと常に騒がしい雰囲気も、なくなっていた。シノンが目の当たりにしたのは、綺麗に舗装された道路と、きちんと並べられた建物たちと、閑静な街並みだ。
旅立ってから、数年。たった、数年だ。
その間に様変わりしてしまったスラム街に、戸惑いを隠せずにはいられなかった。
そうして、一番気がかりだった孤児院のことを尋ねると、教えてもらったのが目の前に佇んでいる真新しい建物だ。
どこか孤児院の面影を残した、だがどこも汚れていない綺麗な建物。
「びっくりしたんだろう、シノン」
建物を背に、眼前の青年はにやりと悪戯っぽく笑った。
「そりゃあ、もう」
シノンはそう言って、口をつぐむ。
何を言っていいのか、すぐに思いつかなかった。驚いたことは事実だが、それ以上に不安でいっぱいになっていた。
ずっと変わらないと思っていた場所が、すっかり変わってしまっていたのだから。
「だろう? 俺も、こんなにきれいになってびっくりしたもんな」
青年は笑った。
(違うよ)
心の中で、シノンは思う。君の思っている驚きと、あたしの驚きは違う、と。
数年前に巣立った子供だった青年の姿にも、驚きとほんの少しの不安を持っているというのに。
(変わらない物なんて、ないんだ)
シノンは、じっと孤児院と青年を見つめる。
風と同じだ。一つ所に留まり、同じものでいるはずがない。全てのものは風のように様々なところへと姿を変え、巡り巡っていくのだ。
「でもさ、シノン。別に驚く必要ってないんだぜ?」
「え?」
考え込んでいたシノンに、青年は言う。門に手をかけ、開く。新しい門は、不快な音を一切立てることなく、軽く自然に開かれた。
「さあ、シノン! 中に入ろうぜ」
「え、ちょ、ちょっと」
開けた門の中へと、青年は誘う。戸惑ったまま中に入るのは憚られたが、力が強くなった青年にはかなわない。
最初は手を引かれ、門の中へとぽん、と背を押され、簡単に中へと踏み入れてしまった。
(あ……)
ふわり、と風がシノンの周りに吹いた。
嗅いだことのある香りだ。太陽と、たくさんの洗濯物と、ほんのり食べ物の匂い。暖かな空気、遠くから聞こえる子どもたちの笑い声。
(あたし、知ってる)
先ほどまでの戸惑いなぞ、吹いた風がどこかへと連れ去ってしまった。
(あたしは、ここを、良く知っている……!)
「ほらほら、こっちこっち」
シノンを招き入れ、青年は門を閉めてから手を引っ張る。シノンは引かれるまま、パタパタと走る。走っていく途中で、太陽の下ではためく洗濯物たちを見た。
(懐かしい)
初めて見る風景といっても過言ではないはずなのに、シノンは感じた。建物は真新しくなっていても、ここは間違いなく、かつてシノンがいた孤児院なのだと。
「ほらほら、ここで待ってて」
建物の中のホールに通され、青年に告げられる。
「え、ここ?」
「そう、ここ。すぐ来るからさ」
青年はそう言って、手をひらひらとさせて出て行った。シノンが止める前に出て行ってしまい、ぽつんと取り残されてしまった。
「……もう、相変わらずせっかちだな」
シノンは呟き、ホールの中を見回す。綺麗な壁に、子ども達が描いたであろう絵や、孤児院の約束事が書かれた紙が貼ってある。
シノンはそれを見て小さく笑う。新しい壁や床の匂いがするが、包み込む空気や雰囲気は、かつての孤児院そのままだ。綺麗になっただけ、という言葉が一番しっくりくる。
「みんな、元気かな?」
絵や雰囲気で、元気だろうということは分かっていた。かすかに聞こえる笑い声や話し声からも、楽しく生活しているだろうことも分かっていた。
だが、シノンは安心しつつもどこかしら不安をぬぐえなかった。
確かに、ここは孤児院だ。真新しくなっただけの、かつていた孤児院に違いない。それはわかる。
(本当に、あたし、帰っても良かったのかな?)
そう考え、シノンははっとする。漠然とした思いが、はっきりとした思いに変わったのだ。
「そうか……あたし、そうだったんだ」
綺麗に整理されたスラム街、真新しい建物、懐かしい空気にもかかわらず胸を渦巻く不安感。
それはすべて、シノンがこの場所に自分の場所があるかどうかが分からないからだ。
理由が判明し、シノンは息を吐き出し、空いているベンチに腰掛けた。気がすっかり抜けてしまった。
(あたしったら、不安になってるんだ)
出しっぱなしの手紙が一方的に思えたのも、返事をもらえばよかったのではと後悔したのも、すべては自分がかつていた場所への不安感からだ。
「……もし、なくても、いいじゃないか」
ぽつり、とシノンは呟く。
もしそうであっても、シノンは何も変わらない。いや、神官にはなったが、シノン自身に何ら変わることなどないのだ。
シノンは、巡る風なのだから。
そう自分に言い聞かせていると、大きな声で「シノン!」と呼ばれた。
声のした方を見ると、子ども達が歓声を上げながら集まって来ていた。
「みんな!」
両手を広げると、我も我もと子ども達がシノンに抱き着いてきた。皆少しずつ大きくなっていたものの、シノンが旅立った時に見せていた笑顔そのままだ。
いや、違う。それ以上の満面の笑みだ。
「いつ帰って来たの? シノン」
「ねぇ、びっくりしたでしょ?」
「シノンが長い間旅しまくってたから、待ちくたびれるところだったんだよ」
子ども達は口々に話しかけてくる。それに対して、シノンは一人ずつに「ついさっきだよ」とか「びっくりしたよ」とか「ごめんね」とか、声をかけていく。
皆、知っている顔だ。並ぶ笑顔とほんのちょっぴり浮かぶ涙目を、シノンは知っている。
「……帰ったか」
低く落ち着いた声にそちらを見れば、見知った子供たちに手をひかれたスラッシュが見たことのない子ども達を連れて現れた。観たことのない子どもたちは、シノンがいない間に仲間入りした、孤児だろう。
「兄貴、これ、一体どうしたの? いきなり、綺麗になってて……あたし、びっくりしちゃって」
シノンは、ようやく疑問を口にした。スラッシュは「ああ」というと、言葉をつづける。
「街並みを見て、どう思ったんだ?」
「どうって……綺麗になってて、びっくりしたよ」
「前は、荒れ果てていたからな」
「うん。あたしは、あのごちゃごちゃっとした感じも好きだったけれど」
「だけど、そこをシノンは誇れたか?」
スラッシュの言葉に「え?」と思わずシノンは聞き返す。
「各地を旅し、様々な人に風を渡していただろう? その時、シノンはこの場所を誇らしく思えていたか?」
「あたしは、誇らしく思っていたけれど」
「そうだろうな、シノンは。だけど、スラム街の住人たちは皆、シノンがもっと誇らしく思えるようになりたい、誇らしいと思う気持ちに並ぶ通りにしたい、と思っていたんだ」
「あたしの気持ちに並ぶ?」
「シノンは、荒れ果てたスラムを変えてくれただろう?」
シノンは、息をのむ。
スラッシュが、孤児院の子どもたちが、スラム街の友人が、そんな風に思っていたことを初めて知ったからだ。
「あたしが、スラムを変えた……?」
「うっそうと荒れていたスラム街を、シノンが変えたんだ。シノンの風が、通りを駆け抜けて明るくしたんだ」
スラッシュはそういうと、経緯を説明してくれた。
シノンが旅立ったのち、シノンが誇れるような場所にしようと、子ども達とスラム街の住人たちは何度も話し合いを持ちつつ、今の形を目指したのだという。
すでに巣立っていった子ども達と協力して各所に働きかけ、一大事業としてスラム街を生まれ変わらせたのだ。
「すべて、シノンが帰るべき場所を残すために、だ」
スラッシュの説明を聞き、シノンはきゅっと胸をつかんだ。あふれ出る思いが、いっぱいになって止まらない。
それは、司祭から神官として認められた時とは違う想いだ。胸が熱くて、温かな風があふれて、止まらない。
「ねぇ、シノン。また一緒に暮らせる?」
子どもの一人が、シノンに尋ねる。
「そうだよ、院長の席は、シノンの為に取ってあるから!」
(あたしの、席)
シノンは目頭が熱くなるのを感じる。
つい先ほどまで、自分の帰る場所がもうないのではないのか、と不安になっていた。もしそれならそれでいいじゃないか、と自分を奮い立たせていた。
だが、どうだろう。今は、そんな不安も奮い立たせた心も、すべて吹き飛んでしまっていた。
「あたし、神官になったんだよ」
シノンはようやく口にする。子ども達に、スラッシュに、報告するように。
「あたしね、またみんなと一緒に暮らせるよ。だって、神官になったんだもん。それでね、色んな所にいってね……」
「シノン、ストップ」
堰を切ったように話し始めたシノンを、スラッシュが制する。
「シノン。大事なことを忘れているだろう?」
「大事な、こと?」
不思議そうにしているシノンに、スラッシュは子ども達に目配せを送る。子ども達は「あ」と口々に言ったのち「せーの」と声を合わせる。
「おかえり、シノン!」
シノンは大きく目を見開いたのち、にっこりと満面の笑みを浮かべて、告げる。
「――ただいまっ!」
夜、たくさんの食べ物と飲み物が、ホールの中に並べられた。中にあふれかえるのは、元スラム街の住人たちだ。
かつての住人たちは、殆どが同じ場所に住んでいた。新しく暮らし始めて店を立てた人々もいたり、都合によって去っていった住人もいたりしたが、ほぼ全員がそのままの場所にとどまっていた。
「おかえり、シノン。立派になったなぁ」
「おかえり、シノン。またうちのパンを食べにおいでね」
口々にシノンに声をかけ、手を振っていく。シノンは始終にこにこと対応しつつつ、子ども達の世話もする。
「……疲れてないか?」
スラッシュが気遣うが、シノンは「ぜんぜん」と答える。
「兄貴、本当にありがとう。あたし、帰って来たんだね」
シノンの言葉に、スラッシュは「当然だろう?」と言い、こん、と頭を軽く小突く。
「ここが、お前の帰る場所だろう?」
「そうだね。あたしの、帰る場所だもんね!」
シノンは答え、今一度「ただいま」とスラッシュに告げる。
温かく楽しい風が、びゅう、と吹き抜けた気がするのだった。
<楽しい宴は遅くまで続き・了>
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