<東京怪談ノベル(シングル)>
夢見ぬ日々
「おはようございまーす」
荷運び飛脚のトロールが、真夜中なのであまり大きくない声を出した。
この生き物たちにとっては、今が「おはようございます」の時間帯なのだ。
「やあ、おはよう……おや、大荷物だね?」
大型の荷車に積まれた木箱の山を見上げ、エル・クロークは確認した。
「ええと、全てうちの商品? というわけではないよね。随分と増えたのかな、真夜中に納品というお店が」
「増えましたね。エルザードの方じゃ、24時間営業なんてお店もちらほらありますよ」
木箱のいくつかを店内に運び入れながら、トロールが言う。
「ここ最近、人間の方々もあれですね。僕らみたいに夜行性なんじゃないかって人が多くて」
「確かにねえ。まあ僕も似たようなものだけど」
荷物受け取りの書類に、クロークは署名をして印を捺した。
自分の場合、夜行性というのとは少し違う。
昼に寝て夜に起きる、のではなく、そもそも睡眠というものを必要としない。
だから夜間はもっぱら、店内の清掃や、こうして納品されたものを陳列したりといった作業に従事する事となる。
「はい、じゃあ納品完了でーす。ありがとうございました」
「ああ、ありがとう。気をつけて」
木箱を満載した荷車を危なげなく引きながら、トロールが走り去って行く。
石畳を走っても、ほとんど物音を立てない、特殊な作りの荷車だ。
腕力・脚力で人間を遥かに上回るトロール族の、それも本職の荷運び飛脚ともなれば、この荷車を引きながら早馬以上の速度でソーン全土を駆け回る事が出来る。
「さて……と」
クロークは、店内に運び込まれた木箱の開封に取り掛かった。
一瞬、視界が揺らいだ。物が、二重に見えた。足元が覚束ない。
クロークは、木箱にもたれかかっていた。何とか、転倒せずに済んだ。
「……疲れが、溜まってきているようだね」
そのまま、クロークは床に座り込んだ。
眠っても、疲れは取れない。そもそも眠る事が出来ない。
不眠症、というわけではなかった。
エル・クロークという存在を開始してから今までの183年間、睡眠時間と呼べるものは1秒も確保した事がない。
必要なのは、睡眠ではない休息なのだ。
クロークに護身術を教えた男は、筋が良い、と褒めてくれた。
無論、腕に覚えありという境地には程遠い。
絡んでくる与太者をあしらう程度の事は出来るが、例えば敵の気配を感じ取ったりといった、読み物に登場する戦士たちのような芸当は、今のクロークには無理である。
だが、気配など感じる必要はなかった。
その女性は、街中で絶叫しつつ襲い掛かって来たのだ。
「この人殺しぃーッ!」
中年、いやそろそろ初老に差し掛かった、あまり裕福ではなさそうな女性。構えた包丁と共に、突っ込んで来る。
包丁を握る手を捻り上げるのも、足を引っ掛けて転倒させるのも、難しい事ではない。相手が男であれば、クロークはそうしていただろう。
何もせず、かわした。
突っ込んで来た初老の女性が、クロークの眼前を通過し、よろめくように振り向いてくる。
憎悪の形相が、向けられてくる。怒声と共にだ。
「返せ! あたしの息子を返せぇえええええッッ!」
「……そうか、彼のお母さん」
なけなしの金を持って、クロークの店に通い続けた青年がいた。
やがて、その金も尽き、支払いが滞り、クロークは彼に出入り禁止を告げた。
その日のうちに青年は、町はずれの森で首を吊ったのだ。
「彼は……存在しない、理想の恋人を求め続けていた。だから僕が会わせてあげた。お支払いが続いている間はね」
弁明のつもりではなく、クロークは言った。
「きちんとお金を払ってくれるお客様たちの手前、僕も彼1人だけ慈善事業扱いをするわけにはいかなくてね……こんな話をしても、貴女は許してはくれないだろうけど」
「あの子は……うちのお金を持ち出して、あんたの店に通っていた……あたしは、それを見て見ぬふりして……」
包丁を持ったまま、初老の女性は泣き出していた。
「わかってる……わかってるんだよ……一番悪いのは、あたしだって……」
誰も悪くはない、自分を責めないで。
そんな安易な慰めの言葉を、クロークはつい漏らしてしまうところだった。
「おい、どうした。何をしている」
町の警備兵が数人、通行人たちを掻き分け、駆けつけて来る。
1人は、クロークと顔馴染みの兵士だった。
「やあ、御苦労さん」
「あ、お香屋の若旦那……何やってんの、こんな所で」
微笑むクロークと、泣きじゃくる初老の女性を見比べながら、その兵士が声を潜める。
「まさかとは思うけど、こんな往来の真ん中で……痴話喧嘩、じゃないだろうね? ずいぶん歳が離れてるみたいだけど」
「そんなわけがないだろう。とにかく、彼女を落ち着かせてあげて欲しい」
年齢が大いに離れているのは間違いない、と思いつつクロークは言った。
「僕が何をしでかしたのかは、彼女の口から聞くといい。結果、僕を捕縛するという事になってしまったら仕方ない。いつでも来たまえ」
「……その必要はない。大体わかったよ」
兵士が、溜め息をついた。
エル・クロークが街中で命を狙われる。珍しい事ではないのだ。
「お前さん、命を狙われるような商売をしてるんだって事は自覚して欲しいな。法律的に、やばい線ギリギリの商売だって事もね……程々にしてもらいたいってのが、俺たち官憲の正直な気持ちさ」
「気をつけよう」
それだけを言ってクロークは黒衣を翻し、その場を去った。
自分は、違法な事など何もしていない。客の求めに応じているだけだ。
客の求めない事は絶対にしない。客に、何かを無理強いする事もない。
破滅を望んでいるのは、客の方なのだ。
そんな言い訳が、つい口をついて出てしまいそうだった。
「まるで、麻薬を売りさばく輩の言い分じゃないか……」
クロークは苦笑した。
やはり自分は疲れているのだ。身も、心も。
今日はこれから、とある品物の仕入れに向かう所である。
その足で、あの場所に行こう、とクロークは決めた。
眠りを必要としないこの身体を、唯一、眠らせる事の出来る場所。
どれほど強く危険な香を焚いても、自分では決して夢を見る事が出来ないエル・クロークを、もしかしたら夢の世界へと導いてくれるかも知れない場所だった。
(貴女に……会える、かも知れない場所……)
クロークは目を閉じた。失われてしまった面影が、まぶたの裏に浮かび上がる。
夢の中でなら、幻の世界でなら、彼女に会えるかも知れない。
自分が、人に幻を見せるような商売を始めたのは、そのためではないのか。
そんな事を一瞬だけ、クロークは思った。
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