<東京怪談ノベル(シングル)>


穏やかな夢を

 まばらに民家が建っている地区に差し掛かった時、赤茶色の屋根の家の側に、人がうずくまっているのが見えた。それは年配の女性で、傍らに杖が落ちている。
 クロークは用足しの途中だったが、一刻一秒を争っているわけではない。こういう状況では声をかけるのが「人間らしい」と思い、クロークは女性の方へ歩いて行った。
「大丈夫?」
 しゃがみ込んで声をかける。老婆がゆっくりと顔を上げた。シワに囲まれた小さな目が驚いたように見開かれ、それから、柔和そうな笑みへと変わる。
「…あ…りがとう、ね」
 老婆は微笑んでいるが、呼吸は苦しそうだ。
「無理にしゃべらなくていいよ。今、家の人を呼んでくるから」
 立ち上がろうとしたクロークの腕に、老婆がそっと手を伸ばした。
「一人暮らしよ」
 老婆はそう言って、苦しいはずなのに笑顔を作ろうとする。その気遣いにクロークは好感を持った。このままほうっておくのは後味が悪いな、と思えるくらいには。


「死神かと思ったんだ。とうとうお迎えが来たのかと思ったよ」
 ベッドの上で老婆はおかしそうに笑う。突然発作のように体調が悪くなるのはよくあることで、少し休めばすぐ楽になるらしい。今はだいぶ落ち着いている。
「でもこんな美人さんの死神に連れて行かれるなら、それも悪くないわねえって」
「残念ながら、僕は死神じゃないよ」
「そのようだね。本当に残念だ」
 老婆はコロコロと笑った。
「いつも窓の外に小鳥が来るから、パンくずをあげているんだけどね、死んじゃったみたいに動かない子がいたから、心配で外に出てみたんだ。そしたら、かがんだ時に発作が来ちゃって」
「ああ、鳥、死んでたね」
 老婆の近くに茶色い小鳥が落ちていたのを、クロークは見ていた。
「野生動物は不衛生だから触らない方がいいよ」
「でもそのまま放っておくのも可哀想だろ?お墓を作ってあげなくちゃ」
 そこで老婆は、あ、と何か思い出したように声を上げた。
「この婆さんときたら、お客様にお茶もお出ししないで。ちょいと待ってておくれよ」
 老婆がよっこいしょと言いながらベッドから降りようとするのを、クロークは制した。
「いいよ。おかまいなく」
「気にしないで。私ものどが渇いたんだ」
 そう言って老婆が笑うので、クロークは根負けしてしまった。小さなため息とともに、
「だったら僕がいれるから。キッチン、使わせてもらうよ」


 老婆は上品な仕草を香りを楽しんだ後、紅茶のカップに口をつけた。
「あなた、お茶をいれるの上手なんだね」
 感心したように言う。
「一応、そういう仕事をしているので」
「あら!失礼な事を言ってごめんなさい」
「気にしてないよ」
「仕事は、喫茶店なのかい?」
「職業は調香師。売り物は香り物全般を扱ってるから、お香とか紅茶とか、紅茶に合うお菓子も置いているし」
「素敵だね。足が悪くなければ、お店に行ってみたいけれど」
 そう言った老婆が少し寂しそうに見えた。家の周りを歩くのもやっとの状態で、ほとんと家の中で過ごしているのだろう。
「近くまで来たついででいいなら、寄ってあげることができるけど。何かご入用のものがある?」
 クロークがそう言うと、老婆は嬉しそうに頷いた。


 そうしてクロークは時々、老婆の家に品物を届けに行った。ポプリを抱きかかえている動物のぬいぐるみや、可愛らしいデザインの瓶に入った香水、紅茶の葉や、甘い焼き菓子。
 老婆は毎回クロークにお茶をいれてくれようとするのだが、危なっかしいし自分でいれた方が早いのでクロークはいつもそうしていた。それからちょっとだけ話し相手になった。紅茶を一杯飲み終わる間だけ。


 老婆には夫と息子がいたが、息子はとある戦に兵士として参加して亡くなり、夫は3年前に病気で亡くなったそうだ。
「親バカだって言われるだろうけど、息子は親思いの良い子でね。剣の腕も大したもんだったんだよ。王様を守って亡くなったんだよ。その功績をたたえてね、報酬を……本人が亡くなってるから遺族年金っていうのかね……まあ、たくさんいただいてね。おかげで私は何不自由なく暮らせているって言うわけさ。爺さんにも立派な墓を建ててやったし、本当に、良い息子を持って幸せだよ」
 クロークは、そうなんだ、と相槌を打った。他に適当な言葉が思いつかなかった。
 クロークにはこの老婆が、「何不自由なく」暮らせているようには見えなかった。


 ある日、老婆の家から出たクロークは、バスケットを提げた女性と出会った。
「あ、もしかしてクロークさんですか?」
「そうだけど」
「やっぱり。私、そこのおばあちゃんのお世話をしている者です」
 女性はペコリと頭を下げた。クロークも会釈をする。
「おばあちゃんの話を聞いてたから、あなたがクロークさんだってすぐに分かりましたよ。おばあちゃん、あなたが来るの楽しみにしてます。実は私も。あなたが来ると、私もお菓子とかもらえるから。うちの子供が大好きなの」
 女性は朗らかに笑う。
 ええと、とクロークは言う。
「娘さん、ではないんだね」
「いえ違います」
 女性は口の前で手を振った。
「町のほうから頼まれて、仕事で来ています。あのおばあちゃん、一人で身の回りのことをするのが難しいから……体調も良くないし、毎日誰かしらが様子を見に来るようにしています」
「なるほど」
 クロークは頷いた。
「病院へも連れて行っていますが、あまり良くないみたいで……以前から息子さんに連絡しているのですが、忙しいからそちらにお任せします、とばかりで」
「息子さんは戦死したと聞いたけど、一人息子じゃないのかな」
「いえ?息子さんはお一人ですけど、西の方の街にいらっしゃいますよ。ご結婚されて、お子さんが2人だったかな」
 女性は空中を見上げて、思い出しながら話している。
「息子さんが戦で亡くなったから、遺族年金をもらって、何不自由なく暮らしているって」
「いいえ。お金があれば大きな病院に入院できるのに。おばあちゃん、本当に身体が悪いんです。でもそんなに何日も入院するお金は払えないからって。近くのお医者さんからもらったお薬でなんとか」
「……」
「おばあちゃん強がって、そんな嘘をついたんじゃないでしょうか。生きてても会いに来てくれない息子さんなんて、寂しいもの。よかったら、しばらくおばあちゃんの嘘に付き合ってあげて下さい」
 女性は、あ、ごめんなさい、と言った。
「おしゃべりし過ぎちゃいました。おばあちゃんの所に行かなくちゃ。クロークさん、またお話しに来てあげて下さいね」
 そう言うと、女性は小走りにかけて行った。
 別にお話しに来ているわけではないのだけどな、とクロークは思った。


 ある日。
 クロークがノックをしても老婆からの応答がなかった。ドア越しに、室内からは人の気配がする。
 またそのへんで転んでいるんじゃないだろうな。鍵がかかっていなかったので上がらせてもらうことにした。
 老婆はきちんとベッドの上にいた。しかし苦痛に顔を歪めている。かなり体調が悪そうだ。
 クロークはテーブルの上に品物を置いて、自分はイスに腰掛けた。部屋の中を眺めてみる。クロークの店から買った品物はほとんど見当たらない。お世話の人にプレゼントしているのだろう。
 ふと老婆の方を見ると、目が合った。老婆は苦しそうに息を吐きながら、笑った。
「あら、いらっしゃい」
「ずいぶん、具合が悪そうだね」
「今日は調子が悪くてね、本当いやになっちまう。歳は取りたくないもんだわ」
 クロークは老婆の倍以上生きているが、それを老婆が知る由はない。
「人を呼んでこようか」
「いいんだよ。すぐおさまるから。悪いけど、今日はもう帰ってくれないか。お代は後で払うから」
 クロークが黙っていると、
「ツケにするのが心配だって言うなら、ベッドの下の引き出しから持って行っておくれ」
 体調が悪いせいか、今日の老婆はそっけない態度だった。どこか、投げやりになっているようでもある。
「どうせあの世には持って行けないんだから」
 クロークは引き出しを開けた。タオルやブランケットなどで隠すようにして、布袋が入っている。どうやらそれは老婆の貯金箱のようだ。開けてみると、かなりの額が入っていた。
「お金があるなら大きな病院に行けばいいのに」
「こんなおいぼれが生きながらえるためにお金を使ったって仕方がないだろう」
「でもこのお金、あの世には持って行けないよ」
 クロークは言う。
「息子さんに遺産のつもり?」
「……息子は戦で死んだって言ったろう。もういいから、それ持って出て行っておくれ」
 老婆はもう話したくない、というように、目を閉じた。クロークは穏やかに、老婆に声をかける。
「苦しいんだね。早く楽になりたい?」
 もし老婆が痛みを感じなくなることを望んだら、クロークはそうしてやっただろう。 そういった効能の香りを調合することなど、クロークには容易いことだ。
「恥ずかしい話だけど、こうなってもまだ、生きたいと思ってしまう。みっともないね」
 老婆はそう言って、かすかに笑った。
「みっともないとは思わないよ。人間が死にたくないと思うのは、普通のことじゃないかな。なにか楽しいことを考えたほうがいいんじゃない?元気になったら、何をしたいとか」
「息子が小さかった時が一番幸せだった」
 老婆が呟くように言った。
「夢でもいいから、あの頃に戻りたい」
 クロークは浅い呼吸を繰り返している老婆を見下ろしている。
 その傍らに屈みこむと、クロークは老婆になにか囁いた。それから、老婆の家を出て行った。ドアが閉まる音。
 老婆は苦痛に顔を歪めながら、クロークが囁いた言葉を思い出している。商売道具を取ってくるから、戻ってくるまで死なないでね、と彼は言った。どういう意味だろう。


 その日の夕方に老婆の家を訪れた女性が、ベッドで眠るように死んでいる老婆を発見した。室内はお香を炊いたような香りが残っており、老婆は幸せな夢を見ているかのように穏やかな死に顔だった。


 老婆が亡くなった数日後、クロークはたまたま老婆の家の近くを通りがかった。
 中年の男女が大声で話しているのが聞こえる。
「あのババア昔からケチだったからな、がっぽり貯めこんでると思ったんだがアテが外れたぜ」
「ちょっと、子供たちの前で汚い言葉使わないでよ。あなたみたいに育ったらどうするの」
「何だと」
 近くでは子供が2人、道端にしゃがみ込んで小さな虫を観察している。
(あの女性の息子にしては、上品さが感じられないな)
 クロークは素直にそう思う。
 女性の貯金はお香の代金としてクロークがもらってきた。薄情な息子に渡すのは何となく気に入らなかったし、それに、
「あのお香は高価なものなんでね」
 プラス今までの出張費込みで妥当なところだろう、と思う。慈善事業なわけではないのだから。
 大声で口論している男女を尻目に、クロークは涼しい顔で小道を歩いて行く。