<東京怪談ノベル(シングル)>


 夢に香りがあるならば


 黄昏時の路地裏、レトロアンティークな店の扉を内側から開けた青年が、扉に『CLOSE』の札をかけた。いつもよりだいぶ早いが、店主の彼、エル・クロークは今日は店じまいするようだ。
(さて)
 外から見えるウィンドウにカーテンを引いて、店内が見えないようにする。『CLOSE』の札がかかっていても店内に電気がついていて人がいれば、無理を通そうとする客が来るかもしれない。そうなったらクロークとしては、客の望みを叶えたくなってしまう。だから、完全に閉店の状態を作り上げたのだ。カーテン越しに室内の明かりが見えたとしても、この状態を見ればよほどのことでもない限り無理に扉を叩く者はいないだろう。
 クロークは紐で綴じた在庫管理用の紙束を手に、店内を回る。在庫の管理は開店中は主に記憶に頼り、けれども閉店後に記録と合わせて確認している。足りない在庫は『裏の仕事』で使う『奥の部屋』から適宜補充するのだ。
(ここ数日は焼き菓子類がたくさん出たね。香料に比べれば日持ちしないから、そろそろ作成しないと)
 もちろん店内で扱っている菓子類はクロークのお手製だ。懐中時計の精霊である彼は実際に作り上げたものを食べることはできないが、大切な人が作っていた焼き菓子の類のレシピを使っている。そのレシピに自分なりに香りのアレンジを加えて作成したものを、彼女が大絶賛してくれたのは遠い昔。だがその時の自信があるからこそ、今こうして焼き菓子を店頭に出し続けられている。そしてそれを口にした客達が見せる笑顔こそ、自分の腕よりも彼女の舌が認められた証のように思えて、クロークの心を、懐中時計の蓋を指先で撫でるようにくすぐっていくのだ。
(そういえば……)
 記憶と記録を付きあわせて、クロークは香水と香油、練り香水を並べている棚の前へと移動した。ここにある殆どの香りはクロークが調合したものであるが、中には幾つかクロークがその腕を見込んだ調香師のオリジナルブレンドを扱っている。

「トロイメライ……」

 ふと呟き、雫を模した瓶に入った香水を手に取る。ラベルには『Traumerei』と書かれているそれは、今クロークが呟いたのと同じ名前だ。棚に残る同じ名を冠した香水や香油、練り香水はどれも残数が少ない。
(そういえば前の納品からだいぶ間が空いているような)
 クロークはカウンターの奥の書類棚の上から二段目を引き出す。数枚の紙を繰った後に手を止めて、一枚の紙を取り出した。日付をあらためると二ヶ月半ほど前だ。
「おかしいな……」
 何故気づかなかったのだろう、『トロイメライ』の調香師とは一月に一度の納品の契約だ。『トロイメライ』はクロークの店でも人気商品で、バックヤードの在庫も常に欠かさないようにしている。確かに今週は一度にたくさん『トロイメライ』を購入していった客がいたから減りはいつもより早かった。それでも。
「気付かなかった僕も迂闊だったね」
 この香りを調合する『彼』は几帳面な性格で、何の連絡もなしに約束を破る性格ではない。それだからこそ、クロークは彼の香りを店に置くことにしたのだから。委託契約の相手以上の関係ではないが、同じく調香をする者としてそのセンスや手腕には刺激され、意欲を掻き立てられることも少なくなかった。
(彼が連絡もなしに納品を遅らせるとは思えないね)
 となれば、連絡できぬ何かがあったと考えるのが妥当だろう。クロークは納品書に今一度視線を落とす。彼の住まいはクロークがよく原料とする植物を採取に行く場所の近くだった。
「そろそろ原材料の補充も考えていたところだし」

 ――数日の間、お休みを頂きます――

 そう書いた紙を店の扉に貼り付けて、クロークは旅支度を急いだ。



 彼の工房は小さな山の上にひっそりとあった。この山ごと、彼の所有なのだという。身寄りの無い彼は一月のうちの殆どを、住居を兼ねたこの工房と山で過ごしているのだと以前語っていた。生活な必要な品は、月に数回、工房まで運んでもらっているのだという。
 クロークはいつもの採取場所で原材料を幾つか採取し、その足で山を登った。時計の精霊である彼は、数ヶ月に一度の本体のメンテ以外は食事も睡眠も必要としない。ゆえに夜通し移動して山を登り、普通の人間がかける時間の半分以下で彼の工房へとたどり着いた。
 少し大きめな平屋。半分が工房となっており、専用の入口がある。もう半分は住居で、こちらはこちらで専用の入口があるという。とはいえ彼は殆ど工房にこもっているため、住居専用の入口は、ここ数十年あまり使用されたことがないらしいが。
 しかし。
「……」
 工房の入り口にたどり着いたクロークは、扉に貼られた紙に書かれた文字を読んで驚かざるを得なかった。


 ――御用の方は左手の、住居入り口にお回り下さい――


 彼は工房にいないのだ。何かあったのだと確信せざるを得なかった。
 住居入口に向かい、ドアをノックする。

「誰だい?」

 間違いなく彼のものである声が聞こえてきて、すこしばかり安堵の吐息が漏れた。
「クロークだよ」
「おお、クローク! すまないが扉を開けて入ってきておくれ」
「わかった」
 ギッ……錆びた蝶番の立てる音。扉を開けると申し訳程度の玄関が有り、リビングへと通じていた。リビングの隣の部屋の扉は、開かれたままだ。
「こっちだこっち」
 彼の声はその隣の部屋から聞こえる。クロークは薄っすらと埃の積もった床を踏みしめて、声のする部屋へと足を踏み入れた。
「すまない、納品を滞らせてしまって。連絡をしようと思ったんだが、私はこの有様でな」
「――……」
 そこは寝室のようで、シングルベッドが二つ置かれていた。うち、手前のベッドには綺麗にパッチワークで作られたカバーがかかっているが、長いことそのままにされているようだ。色あせ、埃をかぶっている。彼はその隣の、奥のベッドに横になっていた。
 クロークの目には彼が一気に老いたように見えた。確かに彼は、クロークと委託契約を結んだ時すでに老年であったが、矍鑠としていて、年を感じさせぬほど活気溢れる人物だった。だが今はどうだ。青白い肌に痩せこけた頬。頼りない微笑み。
「お前さんの連絡先のメモは工房においたままでな……どんな状態になろうと、信頼してない奴に工房内を触られたくない一心で、迷惑をかけてしまったな」
「いや、構わないよ。それがあなたのこだわりだ」
 たとえ連絡先のメモを探すだけとはいえ、他人に工房内をいじられたくないという気持ちは、同じ調香師としてわかるつもりだ。
「来てくれて助かった。私の命が尽る前に」
 彼の話によれば、ちょうど納品物を作っている時に工房で倒れてしまったのだという。元々体力の低下や老化による様々な症状は自覚していたが、それまでは倒れる程ではなかったとか。食料の配達に来た若者に発見されて治療を受けたが、もはや手の施しようがないとの診断。
「とうとうあいつが迎えに来たらしい。死ぬなら、あいつと同じこの家が良くてな」
 わがままを言ってこの家で残りの時間を過ごさせてもらうことにしたのだという。
「死に向かう者の頼みだからな、簡単に断れはしないだろう」
 彼は笑って言う。彼の命もまた、砂時計の落ちてゆく砂が止められぬように、さらさらと身体から流れ出ているのだ。今、この瞬間も。
「僕にも頼みがあるんだろう?」
「話が早くて助かる」
 クロークが告げると、彼は嬉しそうに笑い、枕の下から鍵束を取り出した。
「これは工房と、工房内の鍵だ。お前さんに工房のもの、すべてを譲りたい。もちろん、トロイメライの製法も、だ」
「え……」
 先ほど彼は、信頼していない者には少しでも工房内をいじられたくないと告げたばかり。でも。


「クローク、『お前だから』頼むんだよ」
 

 そう、これは彼がクロークを『信頼している』という証。クロークとしては委託契約を結んだ同業者――優秀な調香師のひとりとしか思っていなかった、彼が。
「『トロイメライ』をこの世から無くしたくないんだ。あれは妻の愛した香りだからな」


 ――私のためにこの香水を?
 ――ああ、世界で一つしかない香りだよ。気に入ってくれるといいんだけど。
 ――! ステキ! 私、この香り、大好きよ!


 クロークは『トロイメライ』の委託の交渉に来た時のことを思い出した。この香りは彼が最愛の妻のために作った香りで、販売するつもりはないと断られたことを。営利目的ではなく、この香りでなくてはだめな客がいると告げた時のことを。彼が、クロークの店にだけ、『トロイメライ』を卸してくれると言った時のことを。
 同時に思い出すのは、クローク自身の最愛の人の最期。今際の際に何もできなかった自分の姿。

「すぐにでも工房を整理していいんだね?」
「ああ。もう私は工房に立つ力がないからな」
「わかった。あなたの望み、僕が叶えるよ」
 そう告げた時の彼の満足そうな顔が、脳裏に焼き付いた。



 クロークはここ数日、閉店後は調香をするための部屋にこもっていた。在庫の減った商品を補充するために作っているのだ。大体週に2,3回、数種類ずつに分けて作業をしている。
「さて、今日は『トロイメライ』を作る日だったね」
 あの日、彼の工房から運びだした荷物は、すでにクロークの店に馴染んでいる。レシピを元に作り始めた『トロイメライ』も、安定した品質のものを作り出せるようになっていた。
 香料の分量、ブレンド順――手慣れた様子で調香を進めていく。これが、クロークの日常の一端。


 あの日見た彼の満足そうな笑顔は、今でも時折クロークの記憶の表に浮かび上がってくる――。



       【了】






■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■

【3570/エル・クローク様/無性性/18歳(実年齢183歳)/異界職】



■         ライター通信          ■

 この度はまたのご依頼ありがとうございました。
 日常編のおまかせということで、勝手な判断で普通の日常と特別な一日を混ぜて書かせていただきました。
 魔女殿の今際の際に何もできなかったクローク様は、死の淵にいる彼の望みに対した時、どんな気持ちだったのだろうと考えながら書かせていただきました。
 少しでもお気に召すものとして仕上がっていることを願いつつ。

 私が香りが好きだからか、クローク様と魔女殿の関係性に惹かれるからか、クローク様ご自身がとても魅力的な方だからか、クローク様のお話を書かせていただくのはとても楽しいです。

 この度は書かせていただき、ありがとうございましたっ