<東京怪談ノベル(シングル)>


美しき獣

 ここはどこだろうとエルファリアは考え、すぐに我ながら凡庸だと口元に微笑みを浮かべる。辺りは暗かったが、黄金色の目を見開いても暗闇を仄かに照らす光源がどこにあるのかはわからない。エルファリアは下着同然の薄着で横たわっていて、冷たい石造りの床に体温を奪われている。
「……寒い」
 鈴の音を転がすような澄んだ高い声で小さくつぶやく。エルファリアは上体を起こすと、自分の両腕で自分の身体を抱きしめた。
「一体私はどうしてしまったのでしょうか?」
 小首をかしげると、はらりと金の髪が背から胸へと流れる。
「確か……ベティにも告げずに市街へ出たのでしたわ」
 ゆっくりとエルファリアは記憶をたどる。

 王宮の者たちは王女がお忍びで外へ出るのを心配していたが、それでも彼女の自由をすべて奪うことはしなかった。エルファリアは露店の並ぶ狭い路地を行き来するうちに、本当にさびれて人の気配がない薄暗い道に出てしまったのだ。しかも帰り道もよくわからない。
「どうしましょう。これほど見通しが悪いとお城も見えません」
 見えないということは方向がわからないということであり、つまりは迷子である。
「困りまし……」
「ちょうどいい! 私のために力を貸しておくれ」
 エルファリアの独り言が終わらぬうちに、別の女声が被さるように聞こえてくる。
「あなたは確か……?」
 振り返ったエルファリアの目の前に立派な長いローブを身にまとい、年代物っぽい杖を持った女がいた。ローブのフードは背に倒していて美しい顔があらわになっている。謎の美女はずんずんとエルファリアの前に早足で歩み寄り、彼女の周囲をぐるりと回る。
「なんと! 理想的ではないか。ここで会ったのも実験が首尾よくゆくという吉兆!」
 自分以外の何ものも信じていなさそうなのに、美女はなんでも都合よく解釈し説得の言葉にするとエルファリアの手首をぎゅっと握った。
「え?」
「こうしていても時が移る。さぁ、ゆくぞ」
「え?」
「ええい! 面倒だ」
 何かが顔の前でチカチカして……そして記憶は今につながる。
「早く城に戻らなくては……」
「そうはいかないよ」
 ぼうっと大きく炎が燃え上がる音がして、座り込んだままのエルファリアの前にあの美しい女が現れたのだ。

 太陽が沈み夜が訪れる。こわばっていた身体が血肉の通った生身へと戻ってゆく毎夜の感覚をレピア・浮桜はじっと耐える。全身の皮膚を小さな針がつついてゆくような不快な痛みが収まると、レピアは屋敷の中を歩き始めた。ここは聖獣王の娘、エルファリア王女の別邸だ。いつもならば、よほど大事な公用出もない限りエルファリアは頃合いになるとレピアのそばにいてくれた。だからこんな風に一人で目が醒めることなどなかったのに……なんだか今日はいつもと違う。
「誰か? 誰かいませんか?」
 声が誰かに届けばいい、でも何か恐ろしいモノに届くのは怖い。レピアの声はどこか中途半端な大きさで屋敷に響く。けれど、誰かの返事も物音一つ返ってはこない。
「なにか、何かあったのです。まだよくわかりませんけれど、それだけは間違いありません」
 レピアは姿の消えた王女のことが心配でならない。とりあえず、大きなエントランスの方へと走ってゆくと一人の年老いた使用人が見えてきた。
「あの、王女様は今夜はこちらにはいらっしゃらないのですか?」
 はやる心を抑えてレピアは努めて丁寧に言う。しかし、使用人の表情は鈍い。
「何を言っているんですか? 王女様って誰ですか?」
「誰って……」
 使用人が冗談でも言っているのかと思ったが、そういう雰囲気は少しも感じられない。
「そもそもあんたは誰なんです。いくら使われていないとはいっても、ここは聖王家の別荘なのですよ。無断で……あっ」
 使用人の言葉が終わらないうちにレピアは扉を開け前庭へと飛び出した。エルファリアは消えてしまったのかもしれない。ここからも、そして人の記憶からも。
「急がなくては!」
 レピアは足を早め、そしてとうとう走り出した。

 苦しかった。何故苦しいのか、どうして苦しみを味わっているのか、もはや論理的な思考は苦しみに飲み込まれて消えようとしている。自分の体をぎゅっと抱きしめても、ごろごろと転がってみても、何かに渇えるようなこの苦しみから逃れなれない。すっかり薄汚れ、あちこちすり切れた元は白かっただろう服を着てのたうちまわる。
「まだ抵抗するのか?」
 彼女をここに連れてきたあの美しい女はうっすらと笑って、床を転がるエルファリアをゆったりと見下ろしている。
「私を、わた、帰して……くだっ、あああっ」
 切れ切れの言葉が化粧をしていなくても淡く色づいた唇からこぼれて、けれどすぐに悲鳴に変わる。
「良いではないか? 聖獣王の姫よ。こなたの時間、少しばかりこの学究の徒に分けて欲しいのだ。貴重で重要な実験の贄として」
「いや、いやああぁああ」
 エルファリアは涙を流していた。けれどもうその涙を拭う余裕もない。そして唇の端からは一筋、唾液が滴ってゆく。
「たす、け……だれ、か」
「それはなるまいよ。王女の存在は人の記憶から消えておる。姫を救う騎士は来ぬよ」
 女は美しい顔に酷薄な笑いを浮かべて哄笑した。
「それでも……」
 エルファリアの涙に濡れる双眸からまた一筋、涙がこぼれる。

 高いかかとの靴が石を敷いた床を踏みならす音が少しずつ近づいてくる。規則正しいその音が止まると、揺れる燭台の明かりに海の色の衣装をまとった髪の長い女の姿が浮かび上がる。
「探しました。やはり貴女が関わっていたのですね」
 丁寧ながらきつい物言いは本来の優しいレピアーーそう、その姿はレピアであったーーではなく、強く激しい怒りに全身がわなないていた。
「遅かったではないか。お前なら……そうさな、もう10日は早くここまで来てもおかしくはなかったろうに」
 女が立ち位置を少しずらすと、その奥に何かがいた。床にはいつくばって、ぼろぼろの布の切れ端だけを身につけ、長い少しくすんだ色の金髪が背をすっかりと覆っている。
「貴女なのですか?」
 探して、探して、やっと捜し当てた人の無惨な姿にレピアは昼間の様に身体がこわばって動けない。
「返事をしてください!」
 しかし、唸るような音がするだけであの懐かしい、澄んだ美しい声で答えてはくれない。
「もはやこれは美しい野獣。理性はかけらほども残っておらぬよ。したが、ずいぶんと抵抗してくれてのぉ。それはそれで興味深い事例であったよ」
 美しい女はあわてて一歩退いた。たった今までいた場所にレピアが鋭い蹴りを放ってきたからだ。
「戻してください! あの方を元通りに!」
 頬を涙が伝っていくのも今のレピアにはわからない。それほど辛かった。悲しかった。彼女のためなら、この賢者と戦うことも厭わないほどに。
「……わかった」
 女賢者は肩をすくめて何かの所作をし、するとエルファリアの身体がきらきらとしたきらめきに包まれた。
「あっ」
 夢から醒めたかのように、エルファリアは顔をあげる。そして……泣きながらレピアはエルファリアに駆け寄りぎゅっとその身体を抱きしめた。声も言葉もうまく出てこない。
「レピア? どうしたのですか? 泣いたりして」
「うっ、ううっ……」
「子供みたいですねぇ。でもきっと来てくれると思っていました」
 エルファリアはほほえんでレピアの青い髪をそっとなでた。