<東京怪談ノベル(シングル)>


里帰り


 アレスディア・ヴォルフリートは、眼の前に広がる風景をじっと眺めていた。
 空は青く、風は心地よく全身を撫でる。所々に廃墟が存在しているが、そのほとんどは緑に覆われている。
 目を閉じれば、廃墟たちはかつての姿で浮かんでくる。
 笑い声が聞こえる住宅、活気あふれる商店、子ども達の遊ぶ声、大人たちの井戸端会議、ちょっとした賭けを大げさに喜んだり悲しんだりする喧噪。
 アレスディアの姿を見かけると、笑顔で手を振って声をかけてきた。今日はリンゴがたくさんとれたから、お裾分けだよ、とか言いながら。
(赤くて、甘酸っぱくて、美味しかった)
 ゆっくりと目を開けると、やはり廃墟は廃墟のままであった。耳の奥に聞こえていたと思っていた人々の声は、どこか遠くでさえずる鳥の声と、あたりを吹き抜ける風の音へと変わる。
「何年ぶりだろうか」
 ぽつり、とアレスディアは呟く。
 ここはかつて、アレスディアの故郷であった。この土地に生まれ、育っていた場所。過ごす日常が当たり前の物であり、永遠に続くものだと考えていた場所。
 だが、日常は一瞬にして崩れ去ってしまった。
 アレスディアは頭を振る。忘れたことなど、一度もない。かつての故郷の姿も、消え失せてしまった故郷の姿も。
 全てを失い、エルザードへと移り住んだ。ただ一度も、この地を踏むこともなく。
(護れなかった)
 ぎゅっと、アレスディアは両手を握り締める。護るべきものを護ることができなかったどころか、逆に護られてしまった。
 あの日の己の不甲斐なさを、アレスディアは今でも悔いてならない。


 エルザードから遠く離れた辺境の山間部、そこにアレスディアは地方領主の娘として生まれた。領主、民の別なく暮らす平和な土地であった。
 しかし、気づけば戦乱に巻き込まれ、父は亡くなった。為す術もなく、大国にのまれてしまい、隷属を強いられてしまった。
 アレスディアだけが屈辱を感じていたのならば、まだ耐えられた。自分だけならば、と。
 しかし、横暴なふるまいは民にまで及んだ。民草を踏みにじる行為に耐えられず、激昂してしまった。
 反逆の徒として処断されそうになったが、領民たちが身を挺して助けてくれた。
 生き残ったのは、アレスディア、ただ一人。
 護るべき民に護られ、逃がされてしまった、領主の娘。
 こうして、領地の人間は、アレスディアだけになってしまった。


 エルザードは、平和だ。
 かつての故郷を思わせる雰囲気に、アレスディアはホッとするような、それでいて胸が締め付けられるような思いをしてきた。
 平和な日常は、アレスディアにより一層の罪悪感を覚えさせた。
(この地で生活していた者たちも、変わることなく享受できると思っていたのだ。平和な日常を)
 ざわ、と風に揺られて草木が揺れる。
「私は、帰れるはずがない、と思っていたのだ」
 風に答えるように、アレスディアは口を開く。はたまた、自分の命の始まりである土地に根付く人々に、語り掛けるかのように。
「それでも帰ってきたのは、伝えたいことがあったからだ」
 ずっと、自分を責めて生きてきた。
 たった一人生き残ってしまった自分は、エルザードで平和な日常を享受すべきではないのでは、と。
 自分が過ごす日常は、あの時奪われた人々が過ごすはずだったものではないのか、と。
「私は、誰かを護ることに腐心していた。そのためなら、私の命が散ろうと構わなかった」
 むしろ、そうなることを望んでいた。
 誰かの犠牲の上で生きながらえた命ならば、誰かのために散るのは本望だ、と。
 命をつなげる事は、自分の使命であるとまで思っていた。
「だが、気付いたんだ。私は、あなた達の意思を否定することだと」
 領民は誰一人として、アレスディアを責めなかった。それどころか、口々に言ってくれたのだ。

――生きてください、と。

 アレスディアが自分の命を大事にしないということは、同時に領民たちの思いを踏みにじる行為に等しい。護ってくれた命を、捨てようとする行為に近いのだから。
 もちろん、自らが招いた愚かな破壊を、忘れることはできない。己を責める気持ちを消し去ることもできない。
 それでも、アレスディアは伝えたかった。この気持ちでさえも、独り善がりだとしても。
「護ってくれて、ありがとう」
 アレスディアは廃墟に向かって頭を下げる。耳の奥に笑い声が聞こえた。
 いいんだよ、いいんだよ、という声が。
 はっとして顔を上げるが、やはり目の前に広がるのは廃墟と化した故郷の姿だ。誰の姿もなく、鳥のさえずりと風の音が響くだけ。
(それでも)
 アレスディアは小さく笑む。気のせいだったとしても、良いのだ。思い込みだとしても、良いのだ。
 気持ちを伝えに訪れたのには、間違いがないのだから。
「私は、これからも生きていくよ」
 今一度、かつての故郷に頭を下げてから、アレスディアは歩き始めた。
 前を向いて歩くその姿に、もう迷いなどなかった。


<護られた命を抱き締めつつ・了>