<東京怪談ノベル(シングル)>
刻音を聞きながら
路地裏でひっそりと営まれる小さな店の扉が、遠慮がちに開かれた。香り物全般を扱っているため、扉が開かれると店内の様々な香りが風によって混じり合う。
店主であるエル・クロークは、開かれた扉に「いらっしゃいませ」と声をかける。だが、扉は一定以上開くことは無く、客も入ってこない。
「おや?」
訝しげに扉の方へ行くと、老婆が扉の取っ手を持ったまま固まっていた。取っ手を持っていないもう片方には袋が握られており、そのため扉を開ける力が足りなかったようだ。
クロークはくすくすと笑いながら、扉を開ける。
「大丈夫?」
「ごめんなさいね、手間をかけて」
老婆は詫びながら店内へと入る。一つ大きく息を吸い込み、吐き出す。
「懐かしいわ。ここも、あなたも」
老婆はクロークの方を見て、微笑む。
「以前、こちらに来たことが?」
「ええ。私がまだうら若き乙女だったころね」
老婆は悪戯っぽく言い、笑う。
「あなたは変わらないのね」
老婆の問いに、クロークはただ微笑んだ。老婆は特に答えを欲していたわけではなかったようで、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、持っていた袋をクロークへと差し出す。
「これ、あなたに差し上げたくて」
「僕に?」
差し出された袋をまさぐり、クロークは中身を取り出す。出てきたのは、銀の懐中時計だ。
「どうして、僕に?」
不思議そうなクロークに、老婆は微笑む。
「亡くなった主人の遺品なんだけどね、整理していたらなんだかあなたに差し上げたくなって」
クロークは懐中時計の蓋を開く。動く秒針は正確で、カチカチと鳴る音が心地よい。
「……この時計は、すでに持ち主はあなただと思っているようだけど」
「あら、それは嬉しいわ。だけど、せっかく動いているのだから、私には勿体ないわ」
老婆の言葉に、クロークは時計から目を離す。老婆と時計の声が、同時に紡がれる。
「もう、長くないの」
クロークは、ああ、と納得する。
老婆は、懐中時計が動いているのだから、動かなくなる自分が持っていては勿体ないと思っている。
懐中時計は、老婆が動かなくなるその時まで、ずっと一緒にいたいと思っている。老婆の夫を見送った時、最後までいたことが嬉しかったから。
互いが互いを思いあっているのに、それによって起こされる行動は違っているのが、滑稽のようにも思える。
「動ける今のうちに、あなたに渡しておきたかったのよ」
「どうして、僕に?」
「あら、そういえば何でかしらね。私にも分からないけれど、なんとなくその時計があなたにもらってほしそうだったのよ」
老婆はにこにことしながら答えた。そして、時計が老婆の言葉の後を続けた。
自分はきっかけにしか過ぎない。ここの香りが、老婆の心を癒すことができるということを思い出して欲しくて、ずっとクロークの元に行きたいと念じていた、と。
(長年の持てば、持ち主に声をかけられるだろうね)
クロークは時計を袋に入れ、立ち上がる。
「どうぞ、こちらへ」
クロークは誘う。店の奥にある、もう一つの仕事を行う部屋へと。
その部屋は、様々な香りの瓶が収まる棚とランプがあり、中央にリクライニングチェアがぽつんと置かれているだけだった。なんとも怪しい雰囲気を醸し出している。
それでいて、老婆に恐怖心を与えることは無かった。不思議な空間だ、くらいの認識しかない。
「ここに座って」
手を引かれ、老婆はチェアに座る。包み込むような椅子が、気持ちよい。
「僕の言葉に、耳を傾けて。心配はしなくていいよ。ゆっくり、深呼吸して」
老婆は目を閉じる。いつの間にかクロークが香を焚いたらしく、不思議な香りが鼻をくすぐる。
そうして、いつしか老婆の心は奥深くへと沈む。
老婆は両手を広げた。皺だらけの手は、かつて生きていた歴史を物語る。
カチ、カチ、と時計の音が聞こえる。この音はよく聞いた音だ。大好きな人に抱き着くたび、胸に入れられていた時計が時を刻む音を響かせていたのだ。
(もう、それも難しいけれど)
苦笑交じりに思い、気づく。いつの間にか、老婆は優しく抱きしめられていた。カチカチと響く音は、抱き締める者の胸ポケットから聞こえている。
「……あなた」
老婆は顔を上げる。目の前には老人が微笑んでいる。よく知っている。知らないわけがない。ずっと一緒にいようと約束をした人だ。
「迎えに来てくれたの?」
老婆の問いに、老人は微笑みのまま頷いた。老婆はくすくすと笑いながら「せっかちな人ね」と答える。
「慌てなくても行くって言ったでしょう? 準備が終わってからよ」
「準備?」
「あなたと私の物をちゃんと片付けないと、子ども達が困るでしょう? あと少しで、終わるんだから」
「そうか」
「そうよ。だけど、そうね。このまま行ってもいいかもしれないわね。子ども達には、ちょっとだけ迷惑かけちゃうけど」
「お前が、そうしたいのならこのまま行くか?」
「そうねぇ」
老婆はそう言って、老人の胸に再び顔をうずめた。
「やっぱり、ちゃんと片付けてからにするわ。ただし、私があなたの分も片付けるんだから、あなたは責任もって迎えに来るのよ」
「私の責任になるのかい?」
「当然よ」
二人は顔を見合わせてくすくすと笑いあった。
カチ、カチ、カチ、と時計の音が呼応する。二人とともに、笑い声をあげるかのように。
老婆が目を開けると、そこは見慣れぬ天井であった。
「気分は、どう?」
目を向けると、クロークの姿がそこにあった。老婆は思い出す。店の奥に誘われ、リクライニングチェアに座って、眠ってしまったことを。
「ごめんなさいね、いつの間にか眠ってしまったみたい」
クロークは老婆に対し、首を横に振った。香のせいだ、とは微塵も思わぬ老婆の心に寄り添って。
「それで、懐中時計なんだけど……やっぱりあなたにもらっていただきたいの。それが一番いいような気がして」
店側に戻りながら老婆が言う。
「……じゃあ、これと交換ということで、どうかな」
クロークは老婆に、香の入った袋を手渡す。
「まあ、いい香り」
老婆は袋を鼻に近づけ、嬉しそうに微笑む。「でも、よろしいの?」
「もちろん。その香を焚きながら眠れば、良い夢が見れるから。ぜひ、片付けが終わった時、焚いて寝てほしいな」
「じゃあ、頂くわ。ありがとう」
老婆は礼を言い、時計を愛しそうに撫でてから、店を後にした。
「これで、良かったの?」
クロークは時計に問う。時計は、仕方ない、と答える。それで老婆が心置きなく夫の元に迎えるのならば、と。
「そうだね、きっと夫が迎えに来るさ」
クロークはそう言い、懐中時計をレジ横へと置いた。
近々、家の整理を終えた老婆は、先程渡した香を焚いて眠るだろう。心地よい眠りの中、今度こそ老婆は夫の迎えに応えるはずだ。
クロークは目を閉じて時間を確認し、懐中時計の時間を確認する。
クロークの刻む時間と、懐中時計の刻む時間は、秒針まで同じであった。
<刻む音を共にしつつ・了>
|
|