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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


調査コードネーム:それでも守るために
執筆ライター  :水上雪乃
調査組織名   :草間興信所
募集予定人数  :1人〜8人

------<オープニング>--------------------------------------

「‥‥七条が動き出しました。全国から続々と人を集めています」
 その日、参事官室に呼び出された草間武彦と新山綾は、稲積秀人警視正からそう告げられた。
「焦ってやがるな。拙速だ」
「そりゃあ焦りもするでしょうよ。警察庁に警視庁、自衛隊に内閣調査室、これだけの場所から一度に圧力がかかればね」
 警察と、内調、自衛隊の間には妥協が成立し、改めて協力関係が結ばれたのだ。
 これは、稲積と、その父である稲積警察庁長官の尽力が大きかった。
「同時に、彼らにとっても最大の好機です。我々を殲滅すれば、敵のほとんどが片づくわけですから」
 さして緊張感もなく、会話を楽しんでいるように見える。
 だが、語られている内容は、真剣そのものだった。
「秀人は策士だからね。どんな奇策を考えている事やら」
「いえ。今回は正攻法でいきます。一網打尽にしなければ意味がないですから」
「なるほどな。一カ所に集めて叩くってわけか」
「こっちからは、自衛隊特殊部隊と内調特務班、一五〇人ほど出せるわ」
「うちは私立探偵だから数は出せない。だが、特殊能力に関してはアテになるぞ」
「警察からは、警備部に要請して、機動隊を七〇〇名用意します。公安部からも人は借りられるでしょう」
 決戦である。場所は富士山麓。
 市街地などでは大兵力を展開できないし、特殊能力も使いづらい。火器の使用だって制限されてしまう。
 この際は、互いに総力を結集して戦うべきだ。後の禍根を断つためにも。
 稲積は細心の注意をはらって場所の選定を行った。
 敵に塩を送るためではなく、全力で戦うためである。
 ここで七条家の実戦部隊を壊滅させ、後は政府の中枢近くに入り込んでいる黒幕を追放する。
 この国を、呪術国家になどは変えさせない。
 あるいは七条は、この地に理想郷を築こうとしているのかもしれないが、そんなものは民衆が作らなくては意味がないのだ。まして、呪術による立国など絶対に認めることはできない。
 日本は天国でも楽園でもないが、それでも、守るために戦う。
 それが、体外に出さない稲積の決意だった。また、草間や綾の決意だった。
 軽口をたたきながら部屋を出てゆく二人を彼は微笑で見送る。
 そして、デスクの引き出しに手を伸ばした。
 白い封筒に、辞表という文字が丁寧に書かれている。
 これを使うことになるかもしれない。
 胸中に呟く稲積の瞳には、だが、迷いの色は浮かんでいなかった。

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それでも守るために
 太陽が最初の一閃を投げかけ、闇の残滓を振り払う。
 気温が少しずつ上昇を始め、凍えていた大地に精気と活力を与える。
 富士山麓にある自衛隊演習場。
 敵対する二つの陣営が、五〇〇メートルほどの距離を挟んで睨み合っていた。
 沈黙が場を支配し、緊張が茨のように身を縛る。
 両陣営とも近代戦とは思えぬ布陣であるが、これは仕方がない。情報戦や奇襲戦は既にやり尽くしている。互いに、正面決戦で決着をつけるしかないのだ。そして、双方ともに、そうすべき理由があった。
 一方の陣営、つまり、稲積秀人警視正を中心とした、警察、自衛隊、内閣調査室、草間興信所の連合軍は、この一戦で相手の実働兵力を叩き潰す心算である。
 他方、七条家の軍勢も、野望の前に立ちふさがる偽善者どもを、徹底的に排除するつもりだった。前面の敵を屠ることによって、野心は完成に大きく近づく。
 この場合、正義や悪という不安定な秤は、まったく意味を持たない。
 現体制を守ろうとするものと覆そうとするものの衝突だからだ。連合軍は旧来の日本を守りたいと願い、七条家は新たな秩序を築きたいと望む。
 あえて断を下すならば、どちらも正義の陣営である。
 主観的な善と主観的な善の正面からの闘争なのだ。
 滑稽だろうか。だが、人類が地球に誕生して以降、善と悪との戦いなど存在しなかった。存在したのは、ただ勝敗のみである。
 勝者のみが歴史を創り、敗残の陣営は悪として描かれる。露悪的な表現を用いるなら、「勝てば官軍、負ければ賊軍」なのである。
 それだけに、勝たなくては意味がない。
 総指揮官たる稲積は、指揮ジープの車上に佇立し、じっと前方を見つめていた。
 そして、その姿に愁いをおびた視線を送るものもいる。
 黒い髪と黒い瞳、引き締まった体躯。
 武神一樹である。
 もはや、流血を回避することはできぬ。
 その認識が思い鎖となって、彼の肩にのしかかっていた。
 戦いは何も生み出さない。それどころか、新たな憎しみの種を蒔くだけだ。何千年かの歴史のなかで、人類はそのことを学んだのではないか。にもかかわらず、ここでまた血を流し、多くの孤児や未亡人を生み出すというのか。
 失望を表情に出す武神の頬に、そっと白い手が添えられる。
 草壁さくらであった。
 恋人未満の金髪の美女を安心させるため、武神は意識して微笑をつくった。
「‥‥大丈夫だ、さくら」
 だが、さくらはゆっくりと頭を振った。本当に大丈夫なときに、大丈夫だなどという調停者ではない。彼女は、そのことをよく知っていた。
「ご無理をなさらないで‥‥一樹さま」
 優しい声が武神の鼓膜を揺らす。
 そしてそれは、昨夜の記憶とオーバーラップした。
 昨夜、武神とさくらは、七条の陣営に赴いているのだ。むろん、稲積や草間武彦、新山綾らの承認のもと、である。敵陣に乗り込む黒神の男に、緑の瞳の女は今と同じ言葉をかけたのだ。
 万感の想いを込めて。
 武神にはそれが判る。判るからこそ、七条家には兵を退いてもらいたかった。
 だが、七条家当主、鷹尋(たかひろ)との交渉の結果は、現在の状況が示すとおりである。至誠を尽くした説得も、情理に富んだ提案も、まったく無益だった。七条の頭目は、耳を貸すどころか、彼らを鏖殺しようとしたほどである。さくらの協力を得て、なんとか離脱には成功したものの、苦々しく、武神は認めるしかなかった。
 結局、力を頼む輩の蒙を啓くには、力に依らざるをえぬ。
 こうなった以上、双方の犠牲が拡大しないうちに、七条鷹尋を倒すしかあるまい。
 総大将を失えば敵の戦意も消失するだろう。必ずしも可能性は高くないが、一縷の望みに賭ける。
 静かな、だが断固たる決意を胸に、武神は戦場を見遣る。
 影のように、さくらが付き従っていた。
 ところで、彼らのように懐疑的でないものもいる。あるいは、目的がはっきりしているという表現の方が適当だろうか。
 巫灰滋、斎悠也などが代表格であろう。
 斎は、今の生活が気に入っていた。だからこそ守るのだ。
 巫は、護りたいと思う女性がいた。だからこそ戦うのだ。
 単純すぎる理由だったかもしれない。
 しかし、複雑な議論というものは、単純な命題を解決してから行うものだ。戦いの意義など、勝った後で幾らでも考える時間が与えられる。命を奪う罪など、勝った後で幾らでも償おう。そう、すべては勝利を収めた後でのことだ。
 今、彼らの望むことは、大切なものを守りたい、ただ、それだけだった。
 このあたりの心理は、不知火響やシュライン・エマにも通じる。
 響の護りたいものとは、この戦いに参陣している雨宮薫と九夏珪である。教師として友人として女として。
 シュラインも、やはり愛するもののためにここにいる。
 黒髪の怪奇探偵。たいして特殊能力もないくせに、意地だけで戦場に立つ愚かな男を守りたいがため、危地へと赴いたのだ。
 まったく、一番愚かなのは自分自身だ。
 自嘲気味に微笑む青い瞳には、煙草をくわえた探偵の横顔が映っている。
 そんな、年長に見える年少の女性を、当麻鈴は艶やかな笑みで見つめていた。
 子供っぽいとは思わない。幾星霜を重ねても、男女の情に変わりはないから。だから、今の日本は理想郷じゃないけど、壊させたりしない。
 それが鈴の偽らざる本心だった。
 日本を転覆させ、歴史を逆転させる。そんなことをして最も迷惑を被るのは、罪もない一般大衆だ。国津神の血を引く妖艶な美女は、こう見えても庶民派なのだ。
 また、違う理由で参戦したものもいる。
 久我直親、雨宮薫、九夏珪の三人の陰陽師がそれにあたる。
 むろん、彼らにも現在の日本を守るという義務感はあるが、それ以上に強いのが罪悪感だった。なにしろ、彼らと同じ陰陽の技を使う一族の企みなのだ。
 忸怩たる思いに駆られるのは、むしろ当然の結果だろう。
 それに、政治的な意義もある。七条家がこの国を支配したとすれば、天宮家だろうと久我家だろうと浮かぶ瀬はない。それどころか、苛烈な陰陽師狩りが行われるかもしれない。 なにかと欠点の多い現在の日本政府ではあるが、少なくとも人狩りを行うほど腐敗してはいないだろう。
 これこそ、日本に冠たる両家が旗幟を鮮明にした理由の一つである。
 雨宮などは、祖母たる宗家にわざわざ呼び出され、久我との共闘を命じられたものだ。 彼らの任は重い。
 もっとも、たとえば九夏あたりなどは、それほど難しく考えていない。
 好きな人たちを守りたい、ただそれだけだった。
 やがて、総大将から無線連絡が入り、連合軍が前進を始める。
 この国の行方を占う戦いの火蓋は、今、切って落とされた。

 七条家の陣形は、オーソドックスな凸形陣である。それに対して、連合軍の陣形は凹形陣だった。
 これは双方の兵力差を考えれば当然の選択であろう。
 連合軍の総兵力は、およそ一〇〇〇名。七条家のそれは六〇〇名である。
 故に、七条家は一点に兵力を集中しようと図り、連合軍は押し包もうとする。
 しかし、これは指揮官たる稲積が消極的になっている証拠の一つだった。数的に敵を圧倒しているのだから、同じ凸形陣で力押しすればよい。非常に乱暴なことをいえば、一人の味方が一人の敵と差し違えてゆけば、最終的に味方が四〇〇名残る計算になるのだから。
 もっとも、そう簡単に数式を立てられるものではない。
 一つには、七条軍と連合軍では兵の質に差がある。七条は末端の兵士に至るまで術者だが、連合軍の術者の数は一〇〇名を越えない。だからこそ、味方に有利な状況を作るため、腐心しなくてはならないのだ。
 むろん、七条軍にも思惑なり打算なりがあるだろう。
 無造作に接近しつつも、双方の首脳部は虚々実々の駆け引きを行っている。
 そんななか、最初に仕掛けたのは、綾率いる連合軍左翼部隊だった。この部隊は、自衛隊や内調の精鋭の他、巫、久我、斎、九夏なども参加している。こと攻撃力に関しては、連合軍随一であろう。
 この部隊が、大きく迂回する形で、七条軍の右翼部隊を切り崩しにかかった。
 普通、左翼とは防御の中核となるものだが、兵の質で劣る以上、意表をついた攻撃の方がよい。
 といっても、敵は陰陽師である。生半可な術では防御陣を突破できない。彼らもまた、防御結界を形成することができるのだから。
 だが、
「せっかくの機会だ。滅多に見れないモノを見せてやるぜ」
 と、久我が不敵に笑う。
 この時に備えて、とっておきの隠し技を用意しているのだ。
「いくぜ! 綾!」
「おっけー!」
 呼吸を合わせた陰陽師と魔術師が、同時に技を放つ。
 合体技であった。
 陰陽の術に、物理魔法をプラスするのだ。これは久我のアイデアである。
 雷を纏った符に、静電気の魔法が付与される。
 それは、考案者が息を呑むほどの効果を発揮した。どうやら、相加ではなく相乗の効果があったらしい。
 猛り狂う竜神のように、雷撃が七条右翼部隊を駆け抜ける。
 ただの一撃で、一〇人以上の敵兵が吹き飛ばされた。
「‥‥すごいわ」
 一枚の符だけでこれだけの効果があるなら、幾枚かを同時に放てばどうなるか。
「決めた。この技の名前は、サンダードラゴンよ☆」
 相変わらずセンスのないことを綾が言い、久我がげっそりした。
 しかし、げっそりしてばかりもいられない。
 強大な敵の出現に、七条軍はこぞって、綾部隊へとむかい始めたからだ。

 双方の距離が詰まれば、戦闘は白兵へと移行する。
 このような白兵戦は、斎の本領である。彼は神道系の術も使えるが、やはり、その卓抜した身体能力は接近戦向きだった。
 それに、今は頼もしいパートナーもいる。サトルと呼ばれている同族の男だ。
 この二人の戦闘力を合すれば、一個小隊の軍隊にも劣らないだろう。
「‥‥いくか」
 サトルが呟く。
「その前に、教えてくださいよ。サトルさんはどこまで周囲に話してるんですか?」
 飄々と斎が訊ねる。とても、戦闘中とは思えない。
「あのなぁ」
「いいじゃないですか。それに、サトルさんっていくつなんですか?」
 そう言いつつ、味方にヘッドロックなどをかける有り様だ。
「なつくな! うっとうしい」
「教えてくれたら、放してあげますよ」
「だ〜! 四二歳だ。四二!」
「あらら。厄年じゃないですか」
「‥‥オマエが災厄なんじゃないのか?」
 外見は二十代後半に見えるサトルがサングラスの下の目を細め、胡乱げな口調をつくった。
 災厄呼ばわりされながらも、斎はニコニコと笑っている。
 と、彼らの周囲に、攻撃用の符が降り注ぐ。
 ふざけあっているうちに、意外と近くまで接近されてしまったらしい。
 瞬時にサトルから離れた斎が、漆黒の戦闘服から小さな和紙の束を取り出し、パッと空中に放った。それは、彼が戦闘前から準備していた、対式神用の蠱術だった。宙で蝶の姿を取った和紙が、次々と符を撃墜炎上させる。
「さて、と。そろそろ真面目にやりましょうか」
 どこまでも戯けた口調の斎と、
「俺は最初から真面目だったぜ」
 憮然としたサトル。
 二人は同時に、サングラスを外す。
 金色に輝く四つの瞳が、七条軍に注がれた。
「いくせ‥‥」
「了解」
 ごく軽く頷き合い、猫科の猛獣のように敵陣に襲いかかる。
 襲った方は、何気ない動作だったが、襲われた方こそよい面の皮であったろう。七条右翼部隊の一部は、本気になった魔族の恐ろしさを、嫌と言うほど見せつけられることになった。

 もちろん、奮戦しているのは彼らばかりではない。
 九夏には、師匠や仲間ほどの力はなかったので、最前線で戦うことはできなかった。しかし、それでもやれることは沢山あるはずだ。
 そう思って参戦したのだ。そのために物理魔法を修得し、血の滲むような練習をしてきたのである。
「俺の目の届く範囲で、絶対に仲間を傷付けさせたりしない! 絶対だ!」
 雄叫びとともに、プラスチック製のカードが乱舞する。
 これこそ、彼が独自に編み出した技である。静電気の発生しやすいプラスチックカードを符の要領で飛ばし、攻防に活用するのだ。魔法の師匠たる綾からは「ファンネルアタック」と命名してもらっているが、若い九夏にはその意味が判らない。
 ともあれ、彼の任務は援護である。
 戦場の空には幾百幾千の符が舞い踊り、敵と味方に降り注いでいるのだ。九夏の働きで、最前線で戦うものたちをバックアップしなくてはならない。
 彼は、ステージ上のマジシャンのような華麗な手捌きで、次々と敵の符を撃墜していった。が、完璧にとはなかなかいかない。

 七条の符の一枚が爆発する。
 二人ほどの自衛隊員と一緒に、体重の軽い綾が爆風で飛ばされる。やはり、戦闘向きの体格ではないのだ。
 地面に叩き付けられる寸前、駆け寄った巫が抱き留めた。
「大丈夫か?」
「風のバリア張ったからダメージはないわ。ちょっと驚いただけ」
「そうか。あまり無理をするなよ」
 野性的な体躯を戦闘服に包んだ巫が、優しく語りかける。
 だが、それは彼の本心ではなかった。
 本心を語るならば、無理をするなどころか、安全な後方にいろと言いたい。しかし、綾の性格を知る彼には、そんな台詞は言えないのだ。
「ハイジこそ、絶対無理しないでね。もし死んだりしたら、許さないんだから」
 冗談めかして、だが真摯な思いを込めて綾が言う。
「わかってるさ。‥‥もまだだしな」
「え?」
「なんでもない。それより、また性懲りもなくヤツらが集まってきたぞ」
「よし! ふたり同時に仕掛けるわよ」
「フィンガーなんたらか?」
「フィンガーフレアボム。いい加減憶えてよ」
「へいへい」
 戯けたように言う巫と、腰に手を当てて鼻を鳴らす綾。
 二人の掌から、数十発の火球が飛び出し、不規則な軌道を描きつつ七条軍に降り注ぐ。
 無属性の火炎魔法だ。
 タネを知らなくては防ぎようがない。
 符や服に火が燃え移り、七条の兵が右往左往する。

 その様子は、遠く連合軍の本陣からも視認された。
「フィンガーフレアボムね。灰滋も頑張ってるじゃない」
 双眼鏡を降ろしたシュラインが、誰にともなく言った。
 稲積や草間が陣取るこの場所からは、全体の戦況がよく見える。
「左翼は押してるわね。でも、右翼はやっぱりダメ。仕方のないことだけど」
 しかめっ面をした響が、冷静に分析する。
 たしかに、左翼部隊とは異なり、右翼部隊の編成は機動隊が主である。数だけは揃っているが、特殊能力者が相手ではかなり苦しい。
 救援を差し向けるべきだろうか。
 だが、下手に兵を動かせば全体の兵力バランスが崩れる。
 そもそも、少数の援軍では右翼の非勢を覆すことはできまい。
 沈毅な表情で稲積が考え込んている。
 それを見た武神が、冷淡ともとれる助言をした。
「ここが思案のしどころだな。左翼の善戦を全体に波及させなくては、局地的な勝利しか得られない。ここに至った以上、本陣の兵力を投入して一気に勝敗を決すべきだ。だが、どのポイントに兵力を集中するか、それがカギだろう」
 彼は勧めているのである。この際、右翼部隊への救援は出さずに、左翼方面にパワーを集中せよ、と。
 彼は、戦闘の直前まで平和的解決にこだわっていた。
 しかし、今となっては、もはやそれは望めない。であれば、一刻も早く七条の当主を捕らえるか倒すかして、戦闘自体を終了させるしかない。戦術というものが本質的に冷酷である点は、敵味方の損害を秤にかけるところにある。
 右翼部隊を救うために兵力を動かしても、戦況に劇的な変化を生むことはできない。ただ双方の損害が増すばかりである。
 であれば、左翼からの攻撃を強化した方が効率的だ。
 効率! 
 なんと不快な言葉だ。人間の命を単なる数として考え、駒として動かす。
 自嘲の翳りが、武神の半面を彩る。
「右翼部隊を見捨てろということ?」
 わずかに眉を上げて、響が問いかけた。口調が尖ってしまうのは、仕方のないことだっただろう。見捨てられるのは玩具や機械ではない。三〇〇名の命なのだ。三〇〇人分の人生、三〇〇人分の可能性、それらを見捨てるというのか。
「いや、そうじゃない」
 静かな声で武神が反論する。
 このまま右翼部隊を見捨てるのでは、貴重な兵力を浪費することになるし、敵に不審の念を抱かせることになる。
 だから、右翼部隊は、このままの陣形で四時方向に四〇〇メートルほど後退させる。
 もし七条軍がかさに掛かって追撃するようなら、それだけ中央部の守りが薄くなり、こちらの攻撃を強化しやすくなる。逆に、慎重な思考の結果として追撃を控えるなら、それはそれで、右翼部隊は少ない損害で後退できるだろう。
「でも、それだとこっちの陣形が滅茶苦茶になってしまうわ」
 武神の説明に理を認めつつも、危惧を示すシュラインである。
 あまりに陣形を崩すと乱戦になる。そうなったら、援護と支援のシステムが破綻をきたすだろう。負傷者の後送も間に合わなくなり、結果として死者を増やす結果に繋がるのではないか。
 青い瞳の美女が心配したのは、そのようなことである。
「いや、シュライン。今のままでも遠からず陣形は崩壊するんだ。そうしたら、ずるずると消耗戦になる。ここは短期に決着をつけるべきだと俺も思う」
 穏やかに口を挟んだのは、雨宮だった。
 純白のスプリングコートが、戦場の狂風になびいている。
 たしかに、右翼部隊を救うため増援を急派しても、それは中央本隊の兵力を削る結果になるだけだ。また、このまま手をこまねいていたとしたら、右翼部隊は壊滅し、結局のところ陣形は崩壊する。
 どのみち崩れるものなら、敵に壊されて対処に追われるよりは、能動的な活用を考えた方がよい。
 若い陰陽師の主張は、攻撃的ではあるものの理に適っていた。
「でも、右翼部隊は交戦中なのよ。簡単に後退なんかさせてもらえないわ」
 なおも食い下がるシュライン。
 慎重な彼女には、武神や雨宮の提案が、賭博的要素を多く含んでいるように思えてならないのだ。
「‥‥後退の指揮は俺が執る」
 淡々と、武神の唇が言葉を紡ぐ。
 突然の言葉に、一同が息を呑んだ。戦術において最も困難とされているのが撤退戦である。些細な失敗が全面壊走に直結するのだ。卓越した指揮能力と戦況に動じない胆力が高次元で要求のである。
 それに、この状況で指揮を執るということは、生還できない確率が半分はあるだろう。にもかかわらず、あえて死地に赴くというのか。
「まあ、俺なりの落とし前ってヤツだ。死ぬつもりはないから安心しろ」
 黒髪の調停者が薄く笑う。
 昨夜の交渉失敗のことを言っているのだ。
 咄嗟に二の句を繋げない一同を尻目に、武神が歩き出そうとする。
「待ってください」
 と、稲積が呼び止めた。
 翻意を促すつもりなのだろう、と、皆が思った。
 だが、その予測は外れた。
「武神さんの作戦案を諒とします。ただ、私に少し考えがありますので、ちょっと耳を貸してもらえますか」
 そう言って手招きする。
 総司令官の作戦を耳打ちされた武神の頬を、一筋の汗が伝った。
「とんでもないことを考えたな‥‥」
 絞り出す声も掠れている。
 稲積の考えた作戦は、それほどのものだったのだ。
 巧緻などという次元を越えている。
 噴き出した汗を右手で拭い、
「わかった。なるべく早く戻ってこよう。‥‥それにしても、貴方とは戦いたくないものだ。勝てる気がしない」
 と、よく判らない感想を漏らして、武神は今度こそ本当に歩み去った。
「恐縮です」
 苦笑を浮かべた稲積が、その背中にむかって呟いた。
 いったい、どんな作戦を思いついたのだろう。
 本陣にいるものたちは知りたかったが、訊ねても答えてはくれまい。どうせ、すぐに判ることなのだから。
「あら?」
 シュラインが不審の声をあげる。
 人数が減っているのだ。どうやら、武神についていったらしい。
「さくらちゃんはともかく、鈴ちゃんまで。モテモテね、武神くん」
 同様に気付いた響が、笑いを含んだ声で、なんとなくずれたことを言う。
 あるいは、故意だったのかもしれない。
「響は行かないの?」
 シュラインもまた、冗談めかして笑った。
「やっぱり女は、好きな人の側にいないとね」
 稲積とともに作戦地図に見入ってる草間に、ちらりと視線を送り、響がからかう。
 思わず頬を染めたシュラインが必死に反撃する。
「響だって、薫くんがいるから残ったんでしょ」
「‥‥べつに頼んだわけじゃない」
 突然やり玉に挙げられた雨宮が、仏頂面をした。
 だが、黒い瞳の女教師は、シュラインよりも大胆で臆面がなかった。
 わざとらしく雨宮にしなだれかかる。
「そーよー。いい男を守るのは、女のギムですものー」
 などと戯れ言を弄びながら。
 呆れるシュラインと無言のままの雨宮。
 一時的にではあるが、本陣に和やかな空気が広がった。

「べつに、ついてこなくてもよかったんだぞ」
 冷たい口調に僅かな照れを隠し、武神が同行者をかえりみる。
「私は、一樹さまの影の差さないところに立つつもりは、ありませんから」
「うちは、庶民の味方ですから」
 と、さくらと鈴が口々に答える。
 死地に赴くというのに、二人の秀麗な顔には笑顔すら浮かんでいた。
「とにかく、あまり無理はするなよ」
 やや呆れたように、武神が陳腐な台詞を吐いた。
 顔を見合わせた金髪と黒髪の美女は、互いの瞳に妖艶な微笑を確認した。
 やがて、連合軍右翼部隊が攻勢に転じる。
 ただ、これは擬態である。
 攻撃すると見せかけて敵の動揺を誘い、その隙に後退するのだ。
 最前線で味方の撤退を援護するのは、むろん、武神、鈴、さくらの三人であった。
 次々と襲いかかる七条の符を、武神が無効化する。
 狐火や幻影を操るさくらが、敵に誤断を強いる。
 鈴が唐傘の先から気弾を連射し、七条の動きを牽制する。
 初めてチームを組むものがいるとは思えぬコンビネーションである。
 序盤、七条は確かに乱れた。
 とはいえ、やはり特殊能力者の数が違う。
 じきに押し返されるのは火を見るよりも明らかだ。
 それを知っている三人には、ここで無理な攻勢を仕掛けるつもりなどなかった。
 右翼部隊は、整然と後退を開始する。
 もしも、このまま連合軍の退却を見過ごすならば、七条軍には端倪すべからざる指揮官がいることになる。どちらの軍勢にしても、至上命題は本陣の撃破にあるからだ。区々たる小戦場の勝敗に拘泥するなど愚の骨頂だろう。とはいえ、兵には勢いというものがある。特に勝勢のときに歯止めが利くものではない。その手綱を押さえ、勝機を計れるかどうか。極端な言い方をすれば、この一点に指揮官たるの能力を測定する基準があるといって良いのだ。
 そして、七条の戦術能力の一端を確認するためにも、武神は露骨な退却を演じて見せたのである。相手の反応如何で、今後の作戦行動を変更しなくてはならない。
 だが、おそらく幸いなことに、七条軍左翼部隊の指揮官には大略というものが理解できていないようだった。
 連合軍の後退に乗じる形で、猛々しく前進する。
 不敵な笑みを浮かべた武神が、サッと右手を掲げた。
 右翼部隊は、多少の不統一性を見せつつ、V字陣形を形成する。
 それは、敵の攻勢を受けとめる強固な防御陣だった。
 V字の二つの先端部分をそれぞれ任された鈴とさくらが、軽火器を携えた機動隊員を率いて七条軍を迎え撃つ。
 十字砲火と呼ばれる、強力な攻撃法である。
 七条軍は、三度に渡って突撃を敢行し、三度に渡って撃退された。
 意外な損害に驚いた七条軍が追撃を躊躇うと、連合軍は急進してその前衛を叩く。その小賢しさにいきり立ち、彼らは、ますます周囲の状況が見えなくなる。
 悪循環の典型のような状態に追い込まれた七条軍だが、もちろん、黙って殴られているばかりではなかった。
 連合軍の突進と後退のタイミングを逆用し、一挙に距離を詰める。
 これが成功していたなら、連合軍は彼らの半包囲下に置かれただろう。
 だが、このときの七条軍は、運にまで見放されていたようだ。
 度重なる戦闘の余波で緩くなった地盤が滑り、最前列の兵士たちが転倒する。それを見た第二列の兵士たちは前進を停止しようとしたが、第三列に押されて転倒への道を辿った。いわゆる、将棋倒し現象である。
 とんでもない不運に見舞われ、七条軍の足が止まった。
 千載一遇の好機である。
 今度こそ本当に、連合軍が後退していった。
「お気の毒に」
 泥まみれになっている七条の兵士たちを眺め、国津神の血を引く黒髪の女が嫣然と微笑した。だが、その笑いの意味は本人にしか判らなかった。

 七条家の陣形に、疎と密の部分が生じていた。
 連合軍右翼に対して七条軍左翼が無秩序な追撃を仕掛けたためである。
 そのさまを遠望した連合軍本隊がついに動き始める。
 四〇〇名にのぼる無傷の兵力である。
 ほとんど一瞬のうちに七条軍前衛部隊を撃破し、中央部への浸食を開始した。
 むろん、心臓部へ近づけば近づくほど、敵の攻勢も激しさを増す。
 符と銃弾が、豪雨のように指揮ジープの周囲に降り注ぐ。
 だが、一弾として命中したものはなかった。
 雨宮が張り巡らせた防御結界である。
 その左右では、シュラインと響も獅子奮迅の活躍を見せていた。
 響のカードが戦場の大気を切り裂き、シュラインの浮舟が敵兵の足下をすくう。
 激戦である。
 もはや、どちらが有利であるかも判らない。
 判っていることは、中央本隊の前進によって、敵の耳目を引きつけなくてはならないということだ。
 要するに、本隊の突進は陽動なのだ。
 もっとも、この上なく壮大な陽動ではあるが。

「おっけー。なんとかやってみる。でも、ちゃんと援護してよ、秀人」
 そんな言葉とともに通信を終えた綾が、信頼する仲間を振り返った。
 連合軍左翼部隊は相変わらず善戦を続けているが、それだけに損害も小さくない。だが、久我も巫も斎も九夏も、傷付きながらも健在だった。
「本隊からの指示よ。一点突破で敵陣に突入し、本陣と守備部隊を切り離せ、ですって。簡単に言ってくれるわよね」
 綾が肩をすくめ、つられて四人も苦笑を浮かべた。
 既に左翼部隊の損耗率は二〇パーセントを超えている。兵たちの疲労も無視できない。
 だが、黒い瞳の魔術師は前進を止めなかった。
 この期に及んで後退しても得るものは何もないからだ。
「あのポイントに攻撃を集中するわ。防御陣に穴が開いたら、一気に突入するわよ」
 年齢に比して若く見える顔を上気させ綾が告げる。
「まったく、好戦的な教授だぜ」
 やれやれと巫が笑い、
「そこに惚れたくせに」
 と、斎がからかった。
 久我と九夏の師弟コンビも笑う。
 照れたように、巫がそっぽを向いた。
 やがて、左翼部隊の苛烈な攻撃が始まった。
 それは、凶悪なまでの破壊力で七条の防御結界を突き破る。
「突進!」
 戦場に佇立する綾の勇姿は、まるで勝利の女神のように格好良い。
 多少の贔屓目をこめて、巫が感心する。
 彼の横では、兵士たちが弦から放たれた矢のような勢いで、敵陣に躍り掛かっていた。
 七条軍が算を乱す。
 この隙を逃してはならない!
 斎と九夏の電撃が敵を薙ぎ払い、久我の式神が火焔の雨を降らせる。
 七条軍は散々に掻き回され、陣形も機能しなくなりつつあった。
 だが、最前線で指揮を執る綾の顔には、まったく余裕がない。
 敵は一時的に混乱しいてるだけだ。じきに冷静さを取り戻す。そうなれば、突入部隊が少数であることはすぐに気付かれるだろう。
 今、左翼部隊は七条軍を分断しているように見えるが、これは、見方を変えれば包囲殲滅の危機にあるともとれるのだ。
「‥‥秀人‥‥ちゃんと間に合うんでしょうね‥‥」
 内心で呟く綾だった。

 現在のところ、連合軍と七条軍、どちらが有利という判定は難しい。
 天頂から俯瞰すると、まず、連合軍本隊が七条軍の両翼と交戦している。七条軍両翼の後背には連合軍左翼部隊が位置し背後を扼している。そして七条軍本隊は連合軍左翼と苛烈な戦闘を繰り広げていた。
 要するに、両軍ともに挟撃体勢をとっており、また、取られているのだ。
 このままでは、消耗戦の泥沼に入り込んでしまうだろう。
「‥‥そろそろね」
「‥‥そろそろだわ」
 中央本隊の更に中央、現在も移動中の本陣から戦況を見つめていたシュラインと響が、囁きあっていた。
 彼女らと雨宮、それに草間は、既に稲積から作戦の説明を受けている。
 すなわち、総司令官と調停者が苦心して作り上げた、壮大な罠についてである。
 それは、現在の戦況を細密に分析すると判る。現在、両軍は数の上で拮抗している。戦闘開始時、四〇〇名ほどの兵力差があったはずなのに。
 七条軍の奮戦によって、その差は埋められたのだろうか。
 然らず。
 たしかに個人の戦闘力に於いては七条に軍配が上がる。だが、連合軍も善戦しているのだ。ことに左翼部隊などは、常に敵を圧倒している。損耗率は、ほぼ互角といったところだろう。
 では、差分の兵力はどこへ消えたのか。
 その解答が喊声を上げながら、七条軍本隊に襲いかかった。
 後背から。
 武神率いる連合軍右翼部隊である。
 後退して負傷者の後送をおこない、物資を補給した彼らは、密かに戦場を迂回して七条家の背後に現れたのだ。
 これこそ、稲積が仕掛けた一世一代の罠であった。
 右翼部隊の行動を敵の目から隠蔽するため、中央本隊の強引に突進し、左翼部隊は一点突破を披露したのだ。
 すべては、この時のために。
 右翼部隊の兵力は、およそ二〇〇名。苦戦の屈辱を戦意に変換し、七条軍本隊の背後から猛攻を加える。
 これで、七条軍は二重の挟撃体勢を完成されたことになった。
 圧倒的に不利な体勢である。
『突進! 雑魚に構うな! ひたすら本陣を目指せ!!!』
 戦場の端と中心に別れている稲積と綾と武神の声が、期せずして唱和した。
 そしてそれは、完全に正しい判断だった。
 連合軍は、全ての弾薬と呪力を使い尽くす勢いで総攻撃を仕掛ける。
 勝敗は決した。
 もはや、七条軍に逆転の余地はない。
 本陣と兵力は分断され、各個に撃破されつつある。多少の揺り返しはあるにしても、全体としての非勢を覆すことはできまい。
 連合軍の誘降演説が、戦場に流れ始めた。
 それによって、勝利や敗北を認識したものもいる。要するに、降伏勧告を出す余裕が、連合軍に生まれたということなのだ。
「降伏する」
「抵抗せぬ」
 などといった言葉が、各所で追い詰められている七条兵の間から聞こえる。
 一般兵にとってみれば、戦いは終わったのだ。
 いつしか陽は移り、暮色に染まった空が、同じように紅く染まった大地を、ただ静かに見つめていた。

 終わったと感じるものもいれば、それを認めないものもいる。
 七条家当主、七条軍の総帥、七条鷹尋がその例であった。
 彼は追い詰められていた。
 連合軍の大攻勢によって本営は崩壊し、鷹尋の身辺には一兵も残っていない。
 巨大な喪失感と、より巨大な復讐心を抱え、彼は連合軍首脳部の面々と対峙していた。
「もはやこれまでです。投降してください」
 むしろいたわるような声で稲積が言う。
 彼の左右には綾と草間が、無言でたたずんでいた。むろん、武神も響も久我も巫もシュラインも斎も鈴もさくらも雨宮も九夏もいる。この戦いに参加し主導した彼らには、決着を見届ける責任があった。
「‥‥降伏だと! キサマらの如き鼠族に、垂れるような頭は持ち合わせておらぬわ!」
 傲然と鷹尋が言い放つ。
「でも、降伏しないと殺されるわよ」
 どことなく戯けたように、綾が胸をそらせた。
「まだ負けたわけではない! 私は負けておらん!」
 鬼のような形相で滅びつつある陰陽の当主が叫ぶ。
 だが、感銘を受けたものはいなかった。
 何を今さら、と、言いたげな視線が、鷹尋の身に注がれる。
 そう、まさしく今さらだった。七条家はその実戦兵力を失い、解体への道を進むだろう。自業自得というものであり、同情の余地はない。もしも七条家が勝利していたら、敗北の哀歌は連合軍のために奏でられただろうから。
 だから、
「そうです。あなたは敗北していませんよ。七条鷹尋さん」
 という声は、連合軍に属するものが紡ぎだしたのではなかった。
 思わず身構える首脳部の前に、突如として男が姿を現した。
 何の前触れもなく、虚空から出現したのだ。
 銀色の総髪、紅玉のような瞳。
 幾人かには、見覚えのある顔であった。
「‥‥不人(ふひと)‥‥!?」
 雨宮が奥歯を噛みしめ、かろうじて声を絞り出した。
 彼だけではない。久我と九夏の師弟コンビにも、響や鈴にも見覚えがある。
 それも、よくない覚えだ。
 危険さならば、七条家に勝るとも劣らない存在であった。
「七条鷹尋さま。我が社の社長が、あなたとの面会を希望しております。七条家と我が社との協商について、前向きに話し合いたい、とのことでした」
 連合軍の存在など歯牙にもかけず、不人は鷹尋に話しかける。
 いっそ潔いほどであった。
 つい、と、綾が進み出る。
「アンタ、誰?」
 放たれた言葉は、永久凍土よりも冷たかっただろう。
 背後で仲間たちが息を呑む。とくに、不人の強さを知るものならばなおさらだ。
「これは失礼しました。私、とある会社のエージェントをしております、不人と申します。ただいま商談をしておりまして、お話ならばこの後で伺いましょう」
 丁寧な口調だった。だが、嘲弄の意志は明白であり、綾に一グラムの感銘を与えることもなかった。
「‥‥面白いことをいうわね。不人くんだっけ? それで、ハイそうですかと引き下がると思ってるの?」
 綾の言葉が更に冷たさを増し、周囲の精神的気温は零下に達しそうであった。
 茶髪の大学教授の放つ危険な迫力に、仲間は声すらかけることはできず、ただ見守っている。
「力ずくで止めさせてみますか?」
「そう言ったからには、後悔しないことね」
「自信がありそうですね。ええと」
「綾よ。新山綾」
「では綾さん。やってみたら如何ですか?」
 どこまでも軽く言ってのける不人。
 突然、その姿が炎に包まれた。
 綾の物理魔法である。
「なるほど。大気摩擦を利用して服に火をつけたわけですか。なかなか面白い芸です」
 炎の中から、まったく苦悶していない不人の声が響き、唐突に姿が消えた。
 不人の転移である。
 顔色も変えず、綾が一歩進み出た。
 と、今まで彼女がいた場所に、不人が出現する。そして、完全に姿を現す前に、ポロボロに切り裂かれた。
 これも、物理魔法である。
「へえ。幻影を創ることもできるんだ」
 振り向くことすらせずに、綾は前方を睨みつけている。
 視線の先に再び不人が出現した。コートがあちらこちら焦げているが、肉体的ダメージは全く受けていない。
「よく後ろに出ると判りましたね」
「あなたこそ、よく罠があるって判ったわね」
 血のような瞳と黒曜石のような瞳から放たれた非友好的な視線が、火花を散らして絡み合う。
 とんでもない次元の攻防だった。
 不人が後方に出現することを読んだ綾が風の魔法で罠を張り、罠があることを読んだ不人が幻影を身代わりにした。そして双方ともに相手に読まれていることを承知しているのだ。
 二人が本気を出していないことは、誰の目にも明らかだった。この状態では、周囲を巻き込むような大技は使えない。綾の背後には仲間がいるし、不人には七条家の当主を連れ帰るという任務があるからだ。
 と、突然、この場に相応しくない哄笑が響く。
「気に入ったぞ、不人とやら。おぬしの言う社長に会ってみようではないか」
 笑声の発生源は、沈黙を保っていた鷹尋であった。
「と、いうわけです。どうします? 阻止してみますか?」
 鷹尋に向かって恭しく頭を下げた不人が、邪悪ともとれる笑顔を首脳部に見せた。
『ふざけるな!!』
 声まで揃えて、若い雨宮と九夏がいきり立つ。
「しかたないわね。ここでアンタと本気で戦っても意味ないわ。そんなオッサンでよければ、謹んで進呈するわよ」
 仲間たちを制するように右手を挙げ、綾が宣言した。
 まんざら虚言ではなかった。七条家の実戦兵力は壊滅し、再び起つことは叶わないのだ。当主という名の無力な中年男くらい、くれてやっても良いだろう。否、野に放つよりも余程始末が良い。
 七条と「会社」、どちらがどちらを利用しようとしても、そう簡単に握手できるわけでもあるまい。覇権を巡って派手に咬み合ってくれれば、その間は日本は安心だ。
 いずれは雌雄を決せねばならないだろうが、今のところはこれで良い。
 最低限、七条家を壊滅させるという戦略上の目的は果たされたのだ。
 そんな綾の論理思考を読んだのか、実に愉しそうに不人が口を開いた。
「面白い方ですね、綾さん。本気であなたを調教してみたくなりましたよ」
「お断りよ。そっちこそ、つぎ逢ったら叩きつぶしてあげる」
 冷然たる綾の返答に再び微笑を浮かべ、鷹尋を抱えた不人が虚空に消えた。
 現れたときと同様、忽然と。
 それを確認して、綾が地面にへたり込んだ。
 驚いた仲間たちが、慌てて駆け寄る。
「こ、怖かった〜〜」
 巫の腕で抱き起こされた綾の、それが第一声であった。
 仲間たちが呆れ顔をする。
 あの不人と互角以上に渡り合っていたかに見えただけに、この豹変ぶりには苦笑を誘われる。まったく、巫に抱かれているからといって怪しげな演義をする必要はないのだ。
 それとも、本当に恐ろしかったのだろうか。
 ともあれ、これで戦いは終幕である。
 いささか釈然としない部分も残るが、それは後日のこととしておいて良かろう。
「さて、生き残った私たちにはやるべきことが沢山あります。負傷者の手当に戦後処理、散文的な仕事ばかりですが、それが終わったら祝勝会です」
 総括するように稲積が手を打った。
 しかし、仲間たちの瞳には、満足と納得以外のものもたゆたっていた。
 あるいはこれが全ての始まりなのかもしれない。
 心中に呟いて空を見上げる十人。
 もちろん、暮れなずむ空に答えなど描かれていない。
 夕日が、彼らの半面を赤く染めていた。
 まるで返り血のように。


                   終わり


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

0086/ シュライン・エマ /女  / 26 / 翻訳家 興信所事務員
  (しゅらいん・えま)
0143/ 巫・灰慈     /男  / 26 / フリーライター 浄化屋
  (かんなぎ・はいじ)
0319/ 当麻・鈴     /女  /364 / 骨董屋
  (たいま・すず)
0173/ 武神・一樹    /男  / 30 / 骨董屋『櫻月堂』店長
  (たけがみ・かずき)
0095/ 久我・直親    /男  / 27 / 陰陽師
  (くが・なおちか)
0183/ 九夏・珪     /男  / 18 / 高校生 陰陽師
  (くが・けい)
0134/ 草壁・さくら   /女  /999 / 骨董屋『櫻月堂』店員
  (くさかべ・さくら)
0164/ 斎・悠也     /男  / 21 / 大学生 ホスト
  (いつき・ゆうや)
0112/ 雨宮・薫     /男  / 18 / 高校生 陰陽師
  (あまみや・かおる)
0116/ 不知火・響    /女  / 28 / 臨時教師
  (しらぬい・ひびき)

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■         ライター通信          ■
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お待たせしました!
稲積シリーズ最終回、お届けいたします。
が、ご覧の通り、七条家の当主が連れ去られてしまいました。
しかも、ベルゼブブさんに(笑)
七条が巻き起こす事件は、これで無くなりますが、新たな敵が出現しそうです。
東京怪談史上初のNPCシナリオ移動でした。
少し長めの話になってしまいましたが、
楽しんでいただけたら幸いです。

それでは、またお会いできることを祈って。