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調査コードネーム:三月の雨
執筆ライター :水上雪乃
調査組織名 :草間興信所
募集予定人数 :1人〜4人
------<オープニング>--------------------------------------
「せめて、ちゃんとした供養をしてやりたい、か‥‥」
草間武彦の呟きが、タバコの煙とともに鉛色の空へと立ちのぼってゆく。
気分が晴れなかった。
依頼人は、都内に何件かのアパートを経営する老婦人。
依頼内容は、依頼者の経営するアパートで住人だった女性の、位牌と遺骨を回収すること。
じつはこの依頼者、けっこうな慈善家で、夫からの暴力に悩む女性に、格安で部屋を提供していた。ところが、住人の一人が夫に連れ戻され、自宅で死亡した。依頼者は殺人を疑っているが、警察の発表では自殺である。
まあ、過ぎたことはもう良い。問題は、遺骨と位牌を渡して欲しいと願う依頼者の要求が再三に渡って無視されていることだ。
たしかに、ただの大家には遺品を受け取る資格がない。
だが、寺に預けられたまま一度も家に引き取られず、まともに葬儀すら挙げないのでは死んだ女性が哀れすぎる。
「‥‥難問だな」
老婦人の気持ちはよく判るが、実行の困難は別問題だった。
その夫がそこまで意固地になっているなら、説得は不可能だろう。であれば、寺と自宅から、それぞれを盗み出すしかない。これは立派な犯罪である。
「まったく、愛し合ってるから一緒になったんじゃないのかよ‥‥」
空に向けられた彼の質問に応え、大粒の雨が降り始めた。
あたりの景色が、一瞬にして墨絵に変わる。
傘もささずに歩く怪奇探偵の姿は、やがて、背景のなかに溶けていった。
※水上雪乃の新作シナリオは、毎週月曜日と木曜日にアップされます。
受付開始は午後7時からです。
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三月の雨
降りしきる雨が街から全ての色彩を奪い、描きかけのキャンバスを思わせる。
春というには気温が低い。
通りを歩く人々も、衣替えを済ませたばかりのクローゼットから、冬物を引っ張り出して心を鎧う。
草間興信所の室内でも、退役寸前のスチーム暖房が声高に存在価値を主張していた。
六つのコーヒーカップからは豊潤な香気が立ち上り、大気中を回遊する。
「やっぱり、盗んだり騙し取ったりするのは、良くないと思います」
黒髪の小柄な少年が口を開く。
最年少の白羽了であった。
「私も賛成です。盗んでも禍根が残るだけです」
白羽より一歳だけ年長の七森沙耶が、穏やかに穏やかに賛意を示した。
無意識の動作か、胸のロザリオを右手でもてあそんでいる。
二人の発言者は高校生であるが、なかなかの識見だった。
シュライン・エマが頷く。
黒髪蒼眼の美女も、高校生コンビと同意見なのだ。
たとえ遺骨や位牌を奪い取っても、それで事態が解決するわけではない。依頼人たる老婦人は、故人の葬儀を執りおこないたいと望んでいるからだ。葬儀を行うからには、密葬だろうとなんだろうと公表しなくてはならない。それでは盗んだのが自分だと公言しているようなものである。
「無理を承知で説得するか」
「それとも、相手から差し出させるように仕向けるか、ですね」
巫灰滋と草壁さくらが口々に言う。
ほろ苦い表情だった。
この二人には、それぞれ憎からず思う相手がいる。今回の一件を単なる他人事として考えられないのも、ある意味当然の心理だろう。
愛し合って結婚した男女がこのような終幕を迎えるとは寂しい話だ。永遠の愛を神なり仏なりに誓ったのではないのか。とはいえ、人の世に永遠などない。男女の愛もまた同じである。
そんな仲間たちのやり取りを、和泉怜が黙然と見つめていた。
人形のように端正な顔には、一片の感情すら浮かんでいない。
判らなかった。
位牌などに何の意味があるというのか。
「その依頼人もよく判らないな。葬式をやりたいなら勝手にやれば良い。遺体のない葬儀など幾らでも例がある。位牌だって新しく作り直せば問題ないだろう。あんなものは形式なのだから」
青い髪に銀の瞳という異相の美女が酷薄なことを口にする。
淡々とした口調だけに、冷たさは永久凍土のようだった。
「まあ、理屈としては判るけど。依頼人は納得してくれないと思うな」
穏やかに窘めたのは、調整役を引き受けているシュラインである。
探偵の仕事は真理の追究ではない。このケースに限っていうなら、求められるのは依頼人たるアパートの大家の満足、その一点なのだ。極端な言い方をすれば、遺骨や位牌を入手できなくても、依頼人が納得できる理由があれば問題ない。何故なら、ことは理性や打算の領域に属していないからだ。要するに、依頼人にしても、亡くなった女性の夫にしても、感情で行動しているということである。
だからこそ、窃盗や詐取は最後の手段にしなくてはならない。感情的な対立は、こじれると厄介だ。
怜とシュラインの二人は、現実主義者という点において共通しているが、黒髪の翻訳家の方がより柔軟なようである。あるいは、人の間で暮らした期間の違いがもたらした差異なのかもしれない。
「では、どうする?」
人形の動作で怜が仲間に問いかける。
説得も駄目、盗み出すのも駄目ときては、八方塞がりではないか。
「搦め手から攻めてみるのも方法だと思う。私は亡くなった人の親戚とかを当たってみるつもり。お寺にも掛け合ってみないと。了くん、怜、一緒に来てくれる?」
言って、シュラインは立ち上がった。
白羽は嬉々として、怜は無表情のまま後に続く。
「じゃあ、俺たち三人は、依頼人の家をまわってから女性の自宅に行ってみよう」
巫がシニカルな笑みを浮かべた。
口には出さないが、事務員兼大蔵大臣の思惑が見えたからである。つまり、探偵としての実働経験の少ない三名を、それぞれに熟練者と組ませる。なかなか苦労を忍ばせる割り振りであった。どうやら青い目の美女は人事術まで修得しつつあるようだ。まあ、出来の悪い上司を持つと部下はどんどん成長する、というところだろう。
ふと横を見ると、さくらもまた微笑んでいる。
彼女にも判っているのだ。
「それでは参りましょうか。灰滋さま、沙耶さま」
たおやかな動作でさくらが立ち上がる。
「あ、はい」
やや慌てて、沙耶も後に続く。
金の髪と黒の髪が安物の蛍光灯の下で見事なコントラストを描いた。
一瞬、感歎の息を吐いた巫だったが、すぐに頭を振って邪念を追い払った。彼が好きなのは、茶色の髪なのだから。
春雨にけぶる街を、軽自動車がひた走る。
草間興信所の誇る(?)、三台の社用車のうちの一台である。
ハンドルを握るのはシュラインであった。彼女が普段愛用しているのはセダン車なのだが、しばらく前に事故を起こして以来、どうも調子が良くないのだ。
‥‥買い換えるべきかしらね。
重い溜息をつく彼女の耳に、同行者たちの会話が割り込んでくる。
「鬱陶しい雨ですね」
「車内にいるのだから濡れない。なぜ鬱陶しがる?」
白羽と怜だ。
この二人、性格が合わないのだろうか、事務所から出てというもの、角をつき合わせっぱなしである。
「濡れなくても、気が滅入るじゃないですか」
「雨だから憂鬱にならなくてはならない、などという理はない」
「僕たちは規則に基づいて生きてるわけじゃないです」
「理に基づいて生きている。天が創ったもの、地が創ったもの、人が創ったもの。それに逆らうことはできん。死が避けられぬように」
詠うように怜が言う。
その尊大さに立腹し、白羽がなにか言いつのろうとした。
「二人ともいい加減にしなさい」
だが、車内に響いたのは白羽の声ではなかった。
静かな迫力に、若い陰陽師と高校生が黙り込む。
「まったく、狭い車内でいがみ合わないでよ」
冗談めかしながらも、ふたたび溜息をつくシュライン。
人選ミス。
不穏当な単語が脳裡にちらついていた。
軽自動車は、区役所に向けて軽快に疾走している。
普通、役所は他人のデータを、おいそれと教えたりしないものであるが、蛇の道は蛇というものである。草間興信所のネットワークは、この大都市の表と裏に張り巡らされているのだ。
しかし、役所での調査は空振りに終わった。
亡くなった女性、すなわち佐藤公恵(さとう きみえ)の親戚縁者の情報は無かったのである。
「‥‥天涯孤独ねぇ」
ぽつりとシュラインが呟く。
探偵に同情は禁物だが、たしかに少し哀れではある。頼るものといえば夫しかいなかったであろうに。
「でも、まったく縁者がいないんだとしたら、自殺って話も怪しくないですか?」
白羽が胡乱げな口調をつくった。
つまり、佐藤公恵が死んでも、遺産の分与を要求できるものがいないということだ。ただひとりの例外を除いて。
「うがちすぎだな。故人が財産を持っていたとは限るまい。保険金目当てだとしても、自殺では保険金は支給されない。その程度のことも知らないのか?」
嘲笑というには淡々と、怜が指摘する。
「そ、そのくらい知ってますよ。僕が言いたいのは、警察が自殺と断定したのが夫の人にとって計算外だっのかもって意味です」
それは苦し紛れの言い訳だったのだろうか。
だが、シュラインは小首を傾げ、怜は僅かに目を細める。
発想の転換だ。
この世に存在するどんな人間も無謬ではいられない。むろん、犯罪を犯す者も同様である。
たとえば、本当は事故に見せかけて殺すつもりだった。しかし、警察は自殺だと断定した。
ありえぬ話ではないだろう。
今回の件、自殺だという判断の決め手になったのは故人の日記である。日記の中に、死にたいという思いが幾度も綴られていたのだ。
「‥‥即断は禁物ね。次は菩提寺へ行ってみましょ」
「わかった。異論はない」
慎重に頷き合って、二人が車へと歩き出す。
「ちょっと待ってくださいよぅ」
置き去りにされた格好の白羽が、慌てて追いかけた。
天空では星々が輝きを競い合っているのだろうが、地上からその姿を見ることはできない。
低く立ちこめる雨雲のせいである。
沙耶の吐息が、降りしきる雨にかき消された。
湿気が、睫毛の先に絡みつく。
彼女の左右には、先輩であり仲間である二人の男女が、神妙な顔でたたずんでいた。
「‥‥豪勢な食事だったな」
「‥‥はい」
「‥‥優しい婆さんだったな」
「‥‥はい」
「‥‥哀れだったな」
「‥‥はい」
巫とさくらが、要領の得ない会話を交わす。
依頼人たるアパートの大家宅を訪問し、いくらかの話を聞くとともに食事までご馳走になった三人である。
巫が言ったように、振る舞われた食事は立派なものだった。
たかが探偵を接待するのにはもったいないほど。
「‥‥あの人に罪なんかないのに‥‥」
寂しそうに沙耶が呟いた。
どれほど歓待されても、彼女の心は晴れない。
「亡くなった女性と、ご子息を、重ね合わせているのでしょうね」
ぽつりと、さくらが言った。
依頼人の息子は、先の戦争で亡くなっている。そして、当時は珍しくもないことだが、遺骨は母親の元に届けられなかった。
戦争で亡くなった息子の享年が二三歳。自殺した女性の享年も二三歳。
偶然の一致でしかないが、老婦人の心情は察するにあまりある。
息子の遺骨を拾えなかった後悔が、代謝行為として善行を要求しているのだ。いうなれば、依頼人なりの贖罪というところだろうか。
むろん、依頼人に罪はない。
この点は沙耶が言明した通りである。ただ、人間の精神は方程式では解けないものだ。まして、あのように気の優しい人ならば。
「さて、次は旦那とやらの家だな」
感傷を振り切るように、巫が大きく伸びをした。
佐藤公恵の自宅は、ごくありふれたアパートだった。
まあ、夫が二五歳、妻が二三歳では、なかなかに自宅保有は難しい。
さくらの白い指が呼び鈴に触れる。
ややあって、やつれきった男が戸口に現れた。
亡くなった女性の夫、佐藤義則(さとう よしのり)である。
三人の探偵は軽い挨拶の後、室内に招き入れられた。
悲しみの気配が、三人を包み込む。
「‥‥我々が来た理由、判りますね?」
代表する形で、巫が口を開く。
「遺骨と位牌の引き渡しについてでしょう? お断りします」
憔悴しきった声で、だが、きっぱりと佐藤氏は拒絶した。
「理由をお聞かせ願います」
「公恵は私の妻です。他人さまに葬式をあげていただき、墓を建ててもらうわけには参りません」
意固地というより、確固たる意志があるように、探偵たちには感じられた。
「‥‥失礼ですが、お仕事は何を?」
関係のなさそうなことをさくらが訊ねる。
「‥‥サラリーマンです」
「夜は?」
「‥‥工事現場で‥‥」
答えが最初から判っていたように、さくらが頷いた。
そして、
「費用を集めておいでなのですね?」
と、確認する。
沙耶が目を見張った。
だから、この人はこんなに疲れ切っているのだ。
納得する思いである。
「もう一つ、不躾な質問があります。細君は、本当に自殺だったんですか?」
ストレートに問うたのは巫である。
佐藤氏は気を悪くした素振りをみせなかった。
「そうです。ですが、私が殺したようなものかもしれません‥‥」
彼は、ぽつりぽつりと語り始める。
佐藤夫妻は、ありふれた恋愛結婚だった。夫はごく普通のサラリーマンで、妻はごく普通の専業主婦。とくに波乱などなく、穏やかな結婚生活だった。
しかし、結婚二年目から、二人の歯車が狂い始める。
どちらが悪いわけでもない。
妻は夫の愛情が薄れたのだと誤解し、夫は妻が自分を理解してくれていないと疑う。
おそらくは、生活リズムがずれて会話が減ったことに要因があるのだろう。互いの距離は開く一方だった。
妻にしてみれば、自分は家事に追われるだけで、外に出る愉しみもない。ただ毎日が過ぎてゆくだけ、ということになる。自然、ストレスも溜まり、愚痴も多くなる。
その愚痴を聞かされるのは夫である。
生活のため馬車馬のように働き、家に帰っては妻の愚痴に付き合わされる。神経がささくれ立っていった。
そして、ついに破局が訪れる。
我慢の限界に達した夫が、妻を殴ったのだ。それは、この夫妻にとって初めてのことだった。
夫は安直な解決法を振りかざし、妻は暴力に怯え口を閉ざす。
むろん、こんなことで解決する問題などない。妻のストレスは内圧を高め、ついに最悪の事態を招き入れることとなる。
「‥‥なぜ、男であるアンタが譲らなかった‥‥」
押し殺した声が、巫の唇から漏れた。
乱暴な口調である。
拳が僅かに震えていた。
さくらと沙耶が息を呑む。
巫が佐藤氏に殴りかかるかと思ったのだ。
だが、黒髪の浄化屋はギリギリのところで自制した。両手の爪が掌の皮膚を破り、血を滲ませている。
「こうなると知っていたら、幾らでも譲りましたよ!!」
突然、佐藤氏が爆発した。
探偵たちを睨みつけた瞳から大粒の涙が溢れる。
「‥‥こんなことになると判っていたら、譲歩でも歩み寄りでも‥‥」
後半は明瞭な日本語になっていなかった。
声もなく探偵たちが見守る。
無様だ、とは思わなかった。
人間の精神構造には、強烈な陥穽が存在する。失わなくては大切さに気が付かないのだ。一期一会という言葉を体現できるものなど、ほとんどいない。
「泣いている暇はない。顔を上げろ」
冷厳たる声が戸口から響く。
佐藤氏と探偵たちの視線を浴びて立っていたのは、別行動中の怜だった。
もちろん、シュラインと白羽もいる。
菩提寺で住職の話を聞き、説得の助勢をおこなうために馳せ参じたのである。
「‥‥どういうことですか?」
涙を拭いた佐藤氏が、不審そうな声をだす。
「おまえ、寺に管理料を支払っていないだろう。どういうつもりか知らないが」
異相の美女が冷たく指摘し、佐藤氏が更に困惑した。
やっぱり、と、シュラインと白羽が顔を見合わせる。
現在、公恵の遺骨は寺に預けられているが、じつはこれも無料ではない。管理料が必要なのである。それが支払われなくては、故人は無縁仏として葬られる。まあ、寺もボランティア団体ではないから、当然といえば当然の話だ。
ちなみに、この寺の場合は月一〇万円の管理料が必要であった。納骨すれば、ずっと安くなるが、その場合には納骨堂を買わなくてはならないのだ。
佐藤氏はそのことを知らなかった。知らないまま半年が経過している。未払い分だけで六〇万円である。とても彼に払える額ではない。
「‥‥そんな‥‥」
呆然とする佐藤氏を尻目に、探偵たちは手早く情報の交換をおこなう。
同時に、善後策を講じる必要もあるだろう。
ごく短い協議の末、探偵たちの出した結論は折衷案だった。
「失礼ですが佐藤さん。あなたに遺骨を回収するだけの経済力はありませんね?」
一応の代表者であるシュラインが口を開いた。
力無く佐藤氏がうなだれる。
「でしたら、ここは大家さんの厚意に甘えるべきではないでしょうか」
探偵たちの提案とは、要するに依頼人と佐藤氏の和睦だった。
依頼人には権利がないが金銭的余裕がある。
一方、佐藤氏は金銭を持たないが権利をもつ。
これならば、なんとか妥協の道を探れるであろう。感情的な対立については、佐藤氏が頭を下げることで、依頼人を納得させられるのではないか。
「それに、故人を悼んでいる人の厚意すら受け入れられないというのでは、狭量も度が過ぎるというものでしょう」
白羽が言う。
しかし、佐藤氏はまだ躊躇っていた。
「分骨が良いだろうな。これなら、アンタの手元にも遺骨が残るし。後は金貯めて、仏壇買うなりすれば良い」
巫が具体案を示し、これが決定打となった。
「‥‥判りました。探偵さんたちにお任せします。よろしくお取りはからいください」
佐藤氏が頭を下げる。
妻の死後、初めて見せた譲歩の姿勢だったかもしれない。
この時、部屋の空気が変わった。
シュラインと怜と白羽を除く三人の探偵の顔に、微笑が刻まれる。
彼らは、あるものを見ていたのだ。より正確には、怜を含めて四名が見ていたのだが、異相の美女は、眉一つ動かさなかった。
やや躊躇ったのち、沙耶が沈黙のカーテンをそっと開いた。
「あの‥‥奥さんは、あなたを恨んでいませんよ。今、笑ってくれましたから」
余計なことだったかな、と思わないでもない。
信じてもらえなくても仕方がない。
それでも沙耶は、佐藤氏を安心させてやりたかった。
「‥‥ありがとうございます‥‥」
深々と下げられた佐藤氏の頭。塩分を含んだ水が一滴こぼれ落ち、薄汚れたスラックスを濡らした。
「あら、雨が上がったみたいですね」
僅かに弾んだ声でさくらが言った。
見上げる夜空には、満天の星が輝いている。
「綺麗な星空」
「そうですね。すごく綺麗です」
最年少の二人が、感歎の吐息をつく。
その様子を眺め、巫がシュラインに向き直った。
「俺たちの仕事は、ここまでで終わりだな」
「そうね。あとは依頼人と佐藤さんを引き合わせて和解させるだけ。事務処理の問題だから、灰滋たちの仕事は終わり」
悪戯っぽく、青い目の事務員が応える。
少し離れたところから、怜が仲間たちを見つめていた。
感情というものは、やはり理解できない。いつか、理解できる日が訪れるのだろうか。
銀色の瞳が、夜空のように冷たく冴え渡っていた。
雨上がりの澄んだ空気が、六人の周囲を穏やかに回遊する。
エピローグ
甘いバラードが聴覚域を満たす。
明度を落とした照明が、寄り添う男女の影をカウンターの上に踊らせていた。
いつもの夜といつもの店。
値段の割に小洒落たカクテルバーを、この二人は以前から懇意にしている。
そういえば、最初の出会いもこの店ではなかったか。
あの頃に比べて事務所の経営も安定し、わざわざ安い店を選ぶ必要はなくなったが。
慣れってのは恐ろしいわ。
青い瞳の美女が、秘かな笑いを浮かべる。
「それにしても珍しいな。シュラインの方から誘うなんて」
男が口を開いた。
右手に持ったロックグラスの中で、琥珀色の液体がゆらゆらと揺れる。
「ま、たまにはね」
それに、話したいこともあるし。
副音声でシュラインが付け加える。
むろん、それが男に伝わることはなかった。
穏やかな時間が流れてゆく。
「‥‥あのね、武彦さん」
しばらくして、シュラインがぽつりと言った。
武彦と呼ばれた男、彼女の上司にあたる男が視線で応える。
酔いのためか、彼女の白い頬には、うっすらと朱がさしていた。
無目的にカクテルグラスを回す。
「‥‥私ね、武彦さん以外の人と、手を握ったり腕組んだりする気ないんだ‥‥したくもないし‥‥。それでね‥‥武彦さんが他の女性とそうやってるの見るのは‥‥ちょっと寂しいって言うか‥‥悲しいんだ‥‥。言ってる意味わかる? ええっと、その、何ていうか、私はこんな気持ち」
なんだか、自分でも言っていることが判らなくなってきた。
優柔不断を蹴飛ばすため、シュラインはグラスに唇を付ける。
マリガリータの芳香が口中に広がった。
酒の精霊に力を借りて、ふたたび彼女は言葉を紡ぎ始める。
「‥‥武彦さん。私はあなたのことが‥‥」
だが、シュラインの台詞は完結せずに終わった。
男の人差し指が、優しく彼女の唇に触れたからである。
「そこから先は、俺に言わせてくれ。婆さんの遺言なんだ。女に恥をかかせるモンじゃないってな」
「‥‥武彦さん‥‥」
「シュライン、愛してる。もし良かったら、俺と付き合ってくれないか」
「‥‥意地悪ね。最初から答えの判ってる質問するなんて、フェアじゃないわ」
くすくすとシュラインが笑い、グラスを掲げた。
「乾杯しましょ」
「何に?」
「そうねぇ‥‥未来に、なんてどう?」
「悪くないな。なかなか」
「ええ。悪くないでしょ」
男と女のグラスが微かにぶつかり、涼しげな音を立てる。
その音が消えるよりも早く、軽く腰を浮かせた二人が口づけを交わす。
顔なじみのマスターが、気を利かせて視線を逸らした。
グラスの中の氷が、カランと鳴った。
終わり
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/ シュライン・エマ /女 / 26 / 翻訳家 興信所事務員
(しゅらいん・えま)
0427/ 和泉・怜 /女 / 95 / 陰陽師
(いずみ・れい)
0143/ 巫・灰慈 /男 / 26 / フリーライター 浄化屋
(かんなぎ・はいじ)
0230/ 七森・沙耶 /女 / 17 / 高校生
(ななもり・さや)
0134/ 草壁・さくら /女 /999 / 骨董屋『櫻月堂』店員
(くさかべ・さくら)
0429/ 白羽・了 /男 / 16 / 高校生
(しろは・りょう)
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■ ライター通信 ■
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大変お待たせいたしました。
毎度のご注文ありがとうございます。
三月の雨です。
今回のテーマは、男女の愛情でした。
お客さまの推理は当たりましたか?
楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、またお目にかかれることを祈って。
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