|
花散華
<序>
ソファに座って大事そうに枯れかけた花をつけている桜の枝を手にしている少年に、草間武彦は静かな眼差しを送っていた。
おとなしそうな、繊細な眼差しをした、なんとなく覇気がない少年だった。
ふと、桜に視線を落としていた少年が目を上げた。長い睫と鳶色の瞳が窓から差してくる光に透ける。
「見えますか?」
「あー……いや、俺にはちょっとそういうのは見えないんだが」
「そうですか」
言うと、少年は小声で桜に向けて短い祭文のようなものを唱えた。と、ふわりとその桜から白い布切れを纏った小さな子供が現れた。草間が目を見開く。
「……霊、か?」
その問いに、少年は何も答えなかった。
子供は草間に向けて何事かを言っている。が、声までは聞き取れない。
「何を言っているんだ?」
「自分は行かなければならない。けれど、それがどこなのかわからないから連れていってほしい、と」
「はぁ?」
本人に行き先がわからないというのに、他人がそんな場所に連れて行けるものなのか?
それに、少年は言葉をつないだ。
「どこかで祭があるそうです。花に関する祭が。この枝は、その祭の行われる場所に運ばれる時に落ちてしまったようです。何か別の祭と共に、その花に関する祭も行われているそうですが」
「……手がかりが少なすぎるな」
口許に手を当ててつぶやく草間に、子供がぱくぱくと口を動かす。通訳を頼むように、草間の視線が少年を見た。少年は目を伏せながら淡々と答える。
「もともと、この子はどこかの華道の先生の元にいたようです。先生が貴方にもお礼をしなければね、と笑ってくれた、と」
「お礼?」
桜のことを「この子」という少年に不思議そうな眼差しを向ける。どこか儚いその少年は、桜の子供に向けて小さく笑う。
「大丈夫、あの人の知り合いの方だから、きっと助けてくださる」
「あの人って?」
「鶴来那王(つるぎ・なお)」
またか、と草間はソファに背を預けて天井を仰ぎ、額を押さえた。紡がれた名は、顔も見せないで依頼だけを持ち込む旧友のものである。
ふと草間は少年の顔を見た。
「ところで、君の名前は?」
「……七海、綺(ななみ・あや)…です」
小声で答えて、少年はまた桜へと優しい眼差しを向ける。
「自分がいなければきっと先生が心配するから、お願いします、と言っています」
うるうると潤む目で訴えられて、草間は大きくため息をついた。子供の泣き顔を見て放っておけるほど冷淡な性格でもなかった。
「わかったわかった。で、その祭というのはいつなんだ?」
「四月八日です」
カレンダーを見ながら、草間はたまたまその場にいた者に声をかけた。
「なあ、この依頼請けてやる気はないか?」
<再会>
草間の言葉を受けて、綺にお茶を出していたシュライン・エマが指でオッケイを示した。
「もちろんいいわよ。綺くんとは一度顔あわせてるし」
「ああ、そういえば『七海』って、前の鶴来のケースの……」
言いかけて、草間は緩く首を振ってやめて接客用のソファから腰を上げた。報告はシュラインから聞いている。今またそれを口にしてこの少年の心の傷を開くような真似をする必要はない。
いつものようにデスクへ向かいつつ、その上にある煙草を手に取った。
「まあ、そういうことならなおさらシュラインに任せたほうがいいかな。今回はあんまり危ないこともなさそうだし」
「武彦さん」
慣れた手つきで煙草をくわえて火をつけようとしたところに、低い声を放り込む。そして素早く歩み寄ると、そのくわえた煙草を横から掻っ攫った。
「あっ、こら」
「成長期の少年の前でこんなもの吸わないの」
じろりと睨みながらそんなことにも気がまわらないのかと言外に責めるニュアンスを含ませて、その草間にしてみれば貴重な一本を、手の中で握りつぶしてごみ箱へ直行させる。あああ、と哀れな声を漏らす草間に、これ見よがしに手を叩いて払ってみせ、背を向けて綺の方へと歩み寄る。
「さ、それじゃ行きましょうか綺くん」
「……え?」
どこかぼんやりとした眼差しで自分を見上げる少年に、シュラインは優しく微笑んだ。
「耳には少し自信があるんだけど、私にも残念ながら武彦さんと同じでこの子の声が聞こえないのよね。だから通訳してほしいの。それに、綺くんが一緒の方がきっとその子も安心すると思うし」
ね? と綺の隣にちょこんと座っている子供を見る。
子供は、大きく二度頷くと、シュラインに向けて満面の笑みを浮かべた。それは桜というよりは、まるで真夏の太陽の下にある向日葵を彷彿とさせる明るく元気な笑顔だった。
もちろん、その笑顔の示す答えは言うまでもなく「OK」である。
<都会の街並み>
「とりあえず大体のところはわかったわ」
草間興信所を出て雑踏を歩きながら、シュラインは事務所で聞いてから頭の中でまとめていた考えを口にした。
「4月8日っていったら、お釈迦様の誕生日「花祭」の日よねぇ。どこのお寺でもお祝い事はやってると思うんだけど」
「それは、お祭なんですか?」
「うーん。野点の茶席なんかが設けられたりして華やかにやるところもあるみたいだけど、どうなのかしら。一応法会なわけだし。あ、でも華道の先生なら野点も……って、野点は華道じゃなくて茶道か」
自分の間違いを自分で訂正して、こつんと自分のこめかみを緩く拳で叩く。あまりにも情報不足すぎて、そこからたった一つの場所を導き出すのはかなり難しいと思われる。
花祭。甘茶を誕生仏に潅(そそ)ぐということから潅仏会(かんぶつえ)とも言われている。種々の花で屋根を葺き飾った小さな「花御堂」というお堂に天地を指す釈尊誕生仏が安置され、参詣者は小さな竹柄杓で甘茶をかけるのだそうだ。
「……この子の語彙が少ないせいで祭としか例えようがないだけで、本当はそれは祭ではないのかもしれません」
ちらりと胸に抱く桜の枝に視線を落とす。つられるようにシュラインもその桜の枝を見た。桜の枝は、都会の日差しと空気から綺の手で庇われるようにしてその腕に収まっている。
「となると、調べるのは骨だと思うわよ。お寺だったら大体その日は花祭を行うはずだし」
「しかもこの子自体がその場所に行ったことがないから、どんな風景なのか聞くことができないし」
「じゃあその仮称『お祭』の場所に鳥居があるかどうかも聞けないわね」
短く吐息をつくと、シュラインは口許に拳を当てた。
「一応、桜に関するお祭なら滋賀県の大津市にある長等神社に『花鎮祭』があるけど」
「長等神社?」
「ええ。確かこの日を大祭日として、四月の中旬に桜の枝を山の神様に捧げるってお祭りが、山の神社ではあるらしいけど……。桜は山の神様をお迎えする印なんだって。って、そんなこと綺くんなら知ってるか」
言って、頬に手を当てて緩く首を傾げる。さらりと肩口から一つに束ねていた艶やかな黒い髪が滑り落ちた。絹糸のように細くしなやかな髪に、春の光が反射してきらきらときらめく。
「でもそこって神社だし、何かと一緒に祭を行っているわけじゃなさそうだし……。ううん、困ったわね」
せめて桜の子が場所の特徴でも知っているのならまだ手の打ちようがあるというのに、これではなんだかまったく関係のない場所に行ってしまうことになりそうだ。行き先の情報のひとかけらでもあればいいが「祭」と言うこと以外まったく謎なのだ。
まあ、迷子になって困っている子を責めても仕方ないか、と気持ちを切り替えると、シュラインは隣にいる綺に視線を移した。
「とりあえず、これじゃ動きようがないからネットカフェで情報検索でもしてみましょうか。ちょっと休憩もかねて、ね」
<昼下がりのネットカフェ>
昼食の時間真っ只中のせいか、よく利用するインターネットカフェは結構客が入っていた。なんとか空席を見つけると、二人はそこで腰を落ち着ける。
ふと、その横を通り過ぎる制服姿の高校生くらいのカップルを目にし、そういえば、とシュラインは綺の方へ顔を向けた。
綺は、桜の枝を胸元に大事に抱くようにして椅子に腰を下ろしている。伏目がちにその桜に視線を落とし、小さく微笑んでいた。どうやらその目には、例の桜の子供が見えているらしい。時折小声で何事かをつぶやき、かすかに首を傾げたり頷いたりする。
その辺りにいる同じ年頃の少年とは、明らかに違う空気が綺の周囲にはあるようだった。周囲の騒音さえもが綺にとっては縁遠いものであるような――俗世と彼を隔てる不思議な膜が、その身を包んでいるかのような。
それは、真昼間の都会の喧騒の只中に、神秘的な夜桜が咲き誇っているかのような違和感。
――ふと、綺がシュラインの視線に気づいたのか、その顔を上げた。さっきまで浮かべていた微笑みがまるで嘘のように消えている。人形のような無表情で、わずかに首を傾げた。
「……?」
「ああ、ごめんなさい。笑えるくらいには落ち着いてくれたようでよかったと思ってね」
「……いえ」
少し息を吐くとその眼差しを、綺はまた桜へと視線を落とす。
「あの時は、本当に……お世話になりました」
「いいのよ。ドライな言い方をすると、私たちにとってはあれも仕事の一つでしかないんだから」
わざとさばさばとした口調で言い、シュラインは首からぶら下げていた淡い色つきの眼鏡を持ち上げて目許に運びながら、いたずらっぽく片目を細めて肩をすくめて小さく笑う。
「でも、私も綺くんの元気そうな姿を見ることができて嬉しかったから、一概に仕事だったから、なんていえないわね」
赤く狂い咲いた桜にまつわる一件。花守の家に起きた、悲劇。
双子の片割れであった妹を血のつながりのない祖父に殺され、そしてその復讐のために祖父を殺害しようとしていた、綺。それを阻んだのは、草間興信所から送り出された数名の者。そこにはシュラインも含まれていた。
晴れた空から降り注ぐ白い雪が、赤い桜を淡いピンクへと変えていくという悲しくも美しい不思議な光景が、その物語の終焉を告げていた。
――あれからまだたった数十日しか経っていない。本当はその胸の内にある傷も、完全には癒えてはいないはず。けれどもほんの少しでも笑えるようになってくれたのならば、それでいい。
……まだ、その笑顔は桜の花にしか向けられないとしても。徐々に傷は癒えていくものだから。
「そういえば、今日は学校は? そろそろ春休みも終わりでしょ?」
気を取り直してモニターに顔を向け、マウスを操りながら横顔で問いかける。キーボードをなれた手つきで叩き、サーチエンジンにアクセスする。
「今日は8日だからー……始業式も今日か明日なんじゃ?」
「休学届けを出したから、俺はまだしばらく春休みのままです」
ポケットからハンカチを取り出して、コップの水をその上にこぼしながら綺が言った。検索ワードを入力してエンターキーを弾いたシュラインは、その綺の行動を見て瞬きした。
「休学? ……って、それ、何してるの?」
「喉が渇いたらしくて」
見ると、綺の肩の上にいる子供が綺の髪を引っ張りながら足をばたばたと動かしている。どうやら早くしろとせがんでいるらしい。
「ふふ、元気な子ね。でも、この子の姿が他の人にも見えたら大変なんじゃないの?」
自分に見えるということは他の人間にも見えるということではないのかと尋ねたが、綺は水をしみこませたハンカチを腕に抱いていた桜の枝の切り口に当てながらゆるく頭を振った。
「少し霊感がある人には見えてしまうかもしれませんが、そういう人たちは多分、もっと凄惨なものを見慣れているだろうから」
「ああ、なるほど。こんなに可愛らしくて元気な子なら、びっくりするよりむしろほほえましく思える、ということね」
それに、にぱっと明るく笑う桜の子。シュラインも微笑んで答えてから、またモニターに目を戻した。この子のために早く行くべき場所を見つけてあげなければならない。
表示される検索結果に、マウスを動かしてカーソルを合わせる。
「うーん。四月一〇日に香川県の金毘羅さんで桜花祭っていうのがあるみたいだけど…日付が違うわね」
他にも華道祭などがあるが、どうも日付が違う。
「やっぱり四月八日、祭、桜、の三つのキーワードで検索かけて引っかかるものの中でそれっぽいのは、長等神社かなぁ……。長等神社も中旬って書いてあるだけで、四月八日とは限らないけど」
コーヒーを口に運びながらつぶやき、空いている片手で地図を呼び出す。そして隣で紅茶を飲みながらシュラインの作業を黙って見守っている綺を見た。
「ちょっと遠いけど、行ってみる? 長等神社。ダメモトだけど」
どう? と桜の子にも問いかける。と、桜の子はにこにこと笑いながら頷く。異論はないようだ。綺も小さく頷いた。
「よし、じゃあ決まりね。もし間違ってても許してね」
シュラインの言葉に、桜の子は相変わらず明るい笑顔を浮かべながらこっくりと頷いた。
<花供養>
二人が大津についたのは、夕方近くだった。
落ち着いたたたずまいの街並みを歩く、長身で中性的な美貌を持つ青い瞳の女性と、花の枯れかけた桜の枝を胸に抱いた男子高校生という二人組みに、けれども出会う人々は別に奇異の目を向けることもなかった。
街並みに溶け込むようにして建っている石の大鳥居をくぐり、更に奥にある朱塗りの楼門へと歩を進める。見事なその楼閣は、市指定の文化財だ。
「……静かね」
楼門をくぐり、ゆっくりと周囲を見渡しながらシュラインが口を開いた。
その場には、神社独特の静謐な空気がある。静まり返ったその場を見張るように、二対の狛犬が据えられていた。
「今日は何もないみたいね」
「埼玉の三峰神社などは四月八日に献弊使を迎えての祭を執り行い、神楽が盛大に奉納されるようですが」
桜の枝に切り口に巻いたハンカチを取りながら、綺もまた周囲を見渡した。
「ここは……今日が大祭日ではないようですね」
「綺くん、神社のこと詳しいの?」
「いえ。何かにそう書いてあったのを見たことがあっただけです」
「でも、それじゃここが目的地じゃなかったということよね」
鬱蒼と茂る山の木々を見上げ、ため息をつく。今からまた場所を探して動いたとしても、きっと今日中に探すことは無理だ。
頬を押さえて、シュラインは綺の腕の中の桜に申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさいね。華道の先生、ここにはいないみたいなのよ」
それに答えるように、ふわりと綺の肩の上に桜の子が姿を現した。そして周囲をせわしなく見渡す。が、狛犬を見つけるとギョッとして、慌てて綺の腕の方へと移動する。子供っぽいその可愛らしい様に苦笑して、シュラインは空を見上げた。
「さて、どうしようかしら」
次の場所を探すのならば、早く移動しなければならない。情報を集めるのなら、近くにネットカフェがあるかどうかをまず探して――。
その、考え込むシュラインの傍らで。
「…………」
ふと綺が真摯な眼差しで腕の中にいる桜の子に視線を落とした。その眉宇がわずかに寄せられる。
「……どうしたの?」
桜の子は綺の腕の中に身を隠したまま、出てこない。狛犬を恐れてのことかと思ったが、どうやら綺の様子を見るにそうとは違うと察する。
ざあ、と風が山の枝葉を鳴らした。舞って来る幾つかの小さな葉が、二人の間を通り過ぎていく。
静かに、綺が顔を上げた。その顔は、どこか苦しげな色が浮いている。
「……もう、時間のようです」
「時間?」
小さく頷くと、綺はまた腕の中の桜の子――桜の枝に視線を戻した。
「この子は、すでに限界なんです。手折られてしまった桜は、普通の花と同じで、長時間生き続けることはできません」
「つまりそれは……、枯れてしまう、ということ?」
「そういうことです」
枯れるということは、花の命が終わる、ということ。
目を見開いて綺の腕の中にいる桜の子を見る。けれど、綺が小声で祭文を唱えてしまったため、その子の姿が見えなくなってしまった。
どうして綺が桜の子を自分の目に映らないようにしてしまうのかがシュラインには判らない。
「綺くん……?」
「飾るだけ飾って、枯れてしまったら後はごみとして捨てる。花とはそういうものです。けれど、人の姿を取っていると、そうは思えないでしょう?」
優しく桜の枝を腕に抱くと、綺は目を閉じる。
「たとえその姿が本当の人間のものではないとしても、きっと、一人の人の死を悼むような気持ちになってしまう」
「……それは、私への気遣いなのかしら?」
「ただ桜が枯れていく。それだけのこと。そこに悲しみは生まれないでしょう? ただ、桜が枯れるだけなんだから」
「だったら」
シュラインは、そっとその細い指で俯いている綺の頬に触れた。触れた場所に、濡れた感触がする。
「どうして泣いてるの」
声も震わさず嗚咽も漏らさずに泣く姿は、哀惜に満ちている。
きっと、綺の目には見ているのだろう。消え行く桜の命が。息を引き取ろうとしている桜の子の姿が。
つい先日、大切な者を亡くしたばかりの綺だ。人の死に敏感になっているのは綺の方なのに、なのになぜ、こんな時にまで人の心配をするのか。
思うと、胸が痛んだ。
「私なら大丈夫よ」
息を吸ってからゆっくりと言うと、シュラインは綺の頬を掌で包んだ。綺が目を上げる。その目を、青い瞳でまっすぐに見つめる。
「これは仕事だもの。結果は、ちゃんと目を逸らさずに見据えなければならないの。それは権利ではなく、義務なのよ」
それに、と言葉を足して、シュラインは優しく桜の枝を見て微笑んだ。
「一人で見送ってあげるより、二人で見送ってあげたほうがきっとこの子も喜ぶと思うけどな」
「…………」
「私にも、見送らせてよ。今ここにこうしているのも、何かの縁だし。少しの間だけど、一緒にいたんだからもう顔見知りでしょ?」
友達、なんていう言葉は、恥ずかしくて口には出させなかったけれど。
その言葉に、綺が小さく頷いた。小声で祭文を唱える。
ふわりと、桜の子が現れた。しばらく苦しそうに肩で息をしていたものの、やがて目を上げてにっこりとシュラインに向かって微笑んだ。
(ありがと)
「え?」
はっきりとそう耳に届いた涼やかな子供の声に、シュラインが目を見開く。子供は胸を手で押さえながら、綺の腕の上に立ち、ぺこりとシュラインに向けて丁寧にお辞儀をした。そしてふわりと宙に浮かび上がると、流れてきた風に連れて行かれるように風景に溶け込んで消えてしまった。
しばし呆然と子供が消えた虚空を眺めていたシュラインは、ようやく、ぽつりと声をこぼした。
「綺くん、これって」
「……シュラインさんの気持ちが、華道の先生の代わりのように作用したんだと思います」
言って、綺は花をすべて落として枝のみとなった桜を手に取る。
「場所よりも、花でさえも一つの魂として見送ってあげるという、その気持ちがあの子には必要だったんですね、多分」
「そう……。そういうことか……」
さあっと、また風が吹いた。と、その風の中に桜の花弁が混ざっていることに気づき、ふとシュラインが顔を上げる。
その時、ようやくその場に見事な枝垂桜があることに気づいた。半分ほどは散ってしまっているが、それでもまだ花棚の上からこぼれそうなほどの薄紅の花を、垂らしている。
その、半ば散っていても見事なまでの美しさに息が止まる。圧倒的な存在感、とでも言えばいいのか。周囲にある新緑色の楓と相まって、その薄紅色が際立っている。眼前に迫るような鮮明さだ。
なぜ今まで気づかなかったのかが不思議になるくらい。
いや、気づかなかったほどに、綺が手にしていた枯れかけた桜の枝のほうが自分には大切だったのだ。その子のために動くことに懸命になっていたのだ。
きっと、その気持ちがあの子に通じたのだろう。
「花にも『成仏』という言葉があるなら、きっとあの子は綺くんと私の気持ちを受けて、成仏できたのね」
「そうですね」
「四月八日、か」
釈迦が生まれた日を祝う日。先祖の霊を供養する日。
それは生と死が交差する日、なのかもしれない。
風に揺れる枝垂桜の枝を見、シュラインは目を細めた。そしてそっと綺の頭に触れる。
「さ、それじゃあ帰りましょうか」
二人の肩に、桜の花弁がはらはらと舞い降りた。
<終・無限白桜>
「思っていたんです」
帰宅のサラリーマンたちが溢れる京都駅のホームで、ぽつりと綺が言った。一九時〇九分発ののぞみ二六号を待っているところである。綺は、今は京都にある鶴来の実家にいるため、ここでお別れらしい。
草間への仕事完了の連絡を入れて携帯電話の通話を切ったシュラインは、それをバッグに戻しながら首を傾げた。
「何を?」
「この依頼、あなたが請けてくださってよかったと」
言って、綺は俯いた。腕の中にはまだ、桜の枝を抱いたままである。
「前に俺の家の桜に関わっていた時、あなたはあの桜に対して優しく語りかけてくださったでしょう?」
「え? ……ああ、土を調べる時かしら」
「俺は、あの子を自分の武器としか思っていなかった。花守の一族である俺が」
自嘲するように一度目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げてシュラインを見た。
「けれど、あなたは意思あるものとしてあの子に接してくださった。妹が――護(まもる)が宿るあの子に、そういう接し方をしてくださったということが俺には……嬉しかったんです。その優しいあなたの気持ちを理解したら、桜に宿る『精霊』が見えるようになったんです」
「……私はただ、あの子に危害を加えようとしているんじゃないと判ってもらいたかっただけよ」
ふと、シュラインは口許に手を当てた。綺につられたのか、自分も桜のことを「あの子」と呼んでいることに気づいたのだ。それに小さく笑う。
「花にも人と同じように魂があること、ちゃんと覚えておくわ。事務所に活けたお花も、これからはお疲れ様って感謝を込めて片付けるようにするわね」
ぱちりとお茶目にウインクを一つして。
「もちろん、武彦さんにも花の近くですぱすぱ煙草吸わないようにって言うわよ? 花の健康に悪いわ! ってね」
その言葉に、くす、と小さく綺が笑った。それに、シュラインは目を見開く。
けれど、ようやく浮かべてくれたその少年らしい微笑に深い安堵を覚えながら、何も言わずに微笑を返した。
「……本当に、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げる綺の肩を、答える代わりに軽く叩き、シュラインは片耳に手を当てた。電車がホームに滑り込んできた。流線型のフォルムにホームの光が幾筋も走る。
「それじゃ、またね」
「お元気で」
「綺くんもね」
月並みな別れの言葉を口にすると、人の流れに乗ってのぞみに乗り込む。振り返ると、人ごみの中、やはり一人だけぽつりと異質な少年がそこに立っている。澱んだ空気に染まらない、凛としたその少年は、桜の守人。
(……何かお花でも買って、事務所に帰ろう)
なんとなく、不意に雑然としていて彩りがない事務所の様を思い浮かべてそう思った時。
綺がその手をシュラインに向けて差し出した。そこにあるのは。
(どうして……!)
綺が腕に抱いていた、桜の枝だった。だが、その枝には溢れんばかりの雪のような白い桜の花をつけている。さっきまで枯れていたはずなのに!
電車の発車を告げるベルとアナウンスがホームに響く。
綺の唇が動く。
「大切にしてやってください。大切に思う気持ちがある限り、その桜は咲き続けます。ずっと」
普通ならかき消されそうなその声を、シュラインの耳は確かに拾っていた。ドアが閉まりそうになり、慌ててその手から桜を受け取る。そして胸に抱いたと同時に、ドアが閉まった。
ガラスの向こうで、綺が、桜を見ていた時と同じように微笑んでいた。
「……さすがは桜の守人ね。素敵な贈り物だわ」
動き出した電車の中で、シュラインは壁に背を預けて天井へと顔を向けて目を閉ざし、つぶやいた。
その赤い唇には、この上もなく優しい笑みが浮かんでいた。
電車は東京へ向かい走り出す。
窓の外、どこからか舞ってきた一片の薄紅の花弁が通り過ぎていった。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号/ PC名 /性別/年齢/ 職業】
【0086 /シュライン・エマ/女 /26 /翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
内容上、4月8日に納品できるように狙ってみたんですが…ズレていたらすみません(汗)。
「狂桜咲」の続きのような形になるこの「花散華」。
狂桜咲に参加されていたシュラインさんが参加してくださり、嬉しく思います。
一応、華道の先生の元にはたどり着けませんでしたが、綺と共に行動してくださったことと、「狂桜咲」での行動などにより、よい結末を迎えることが出来ました。
ではどこに華道の先生はいたかと申しますと、実は福岡県筑紫野市二日市の武蔵寺、でした。
ここで四月八日に「花供養」という、仕事や趣味なんかでお花を扱う方が集まって供養をするという催しがあったのです。
寺、ということのヒントのためにお釈迦様誕生の「四月八日の祭」などというキーワードを出していたのですが、かえってややこしくなってしまったようで申し訳ないです(汗)。
綺がいるために生まれる「常とは違う清い空気」を感じていただければ幸いです。
最後に出てきた白い桜の花は、ただの飾りです(笑)。が、綺が出ている依頼に限り、何か力を発することもあるかもしれません。
この度は本当にありがとうございました。
またよろしけれぱ、テラコン、クリエイタールームなどからご意見やご感想などいただけると嬉しいです。
それでは、またお会いできることを祈りつつ……失礼いたします。
|
|
|