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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


三下救出作戦
K@kkou

●はじまり
 なんだか、もう泣き出したい気分だ。しかし、泣いている余裕はもう無い。三下は歩き疲れて痛くなった足を引きずるようにして森の中を進んだ。みんなとはぐれてから随分と時間がたっている。こんな山奥で日が暮れたら遭難確定だ。
「…………もうしてるか」
 三下は、思わず自分で突っ込みを入れてしまった。馬鹿馬鹿しい。しかし、馬鹿馬鹿しくでもしないと不安に押し潰されてしまいそうだ。
 ことの起こりは特集『怪奇! 群馬の山奥に半魚人を見た!』の取材のためにこんな山奥までやってきたことである。そしてお定まりのように三下は他のスタッフとはぐれてしまった。シンプルな――ありがちな経緯である。
「だいたい、何でこんな山奥に半魚人なんだよぉ」
 三下はすでに答えを知っている疑問を口にした。不安を紛らわせるためなのだが、一向に前向きな気分になれない。ちなみに、答えは川である。この山を流れる川に半魚人が現れるというのだ。確かに、半魚人だからといって海に棲んでいなくてはならないという法は無い。だが今は半魚人の住所を云々している場合ではない。とにかく助かる道を探さなくては。
 不意に視界が暗くなった。日が翳(かげ)ったのだ。空を見上げると黒い雲が太陽を隠している。雨雲だ。ひと雨来るかもしれない。三下は仲間が自分を見つけてくれることを祈りつつ歩を早めた。

●手助け
 珍しい、と須和野鴉(すわの・からす)は思った。何やらヒト臭いと思って見にくれば、こんな山中に人間である。林道登山道からも随分と遠ざかったここに人間がいるのだ、おそらく迷ったのであろう。やれやれ。鹿や猪――獣の類であるなら道に迷うこともあるまいに、人間とはどうしてかくも愚迷であるのか。
 とまった枝から人間を見下ろしつつ、鴉は嘆息した。黒々とした羽が微かに揺れる。
 鴉は楠である。樹齢千四百年を数える楠の精である。全身純白の羽を持つカラス、それが彼女の本来の姿であり、名の由来でもあった。普段は実体化して九百九十九歳の老カラスの形をとっている。
「だいたい、何でこんな山奥に半魚人なんだよぉ」 迷い人が情けない声を上げた。声に力が無い。ひどく疲れているようだ。見れば表情にも疲労の色が濃い。手足もひょろ長く、山中を歩き回る逞しさというものを決定的に欠いている。地元の人間ではなかろう。おそらく都会人。
 やれやれ。鴉は再び嘆息する。人間にはそもそも興味が無い。放っておいてもいいのだが、近頃は仲間の卯月も、鴉がカラス型をとるのと同様ヒト型をとっている。これも何かの縁だ。助けてやるか。
「カァー」
 鴉が一声無くと、迷い人はびくりと肩を震わせて振り向きこちらを見上げた。気味悪そうな表情で鴉を見ている。カラスの鳴き声に怯えるとは、なんとも臆病な。
 迷い人は前に向き直ると歩みを再会した。引き摺るような足取りながら着実に歩を進めている。どこに向かっているのかは知らないが、助かろうという意志はあるようだ。もっともこの山奥深くで、助けてくれるほかの人間に出会えるとは到底思えない。歩き疲れて野垂れ死ぬのが関の山だ。
(他の人間でも呼んで来よう)
 鴉は枝を蹴って飛び立ち、翼を羽ばたかせた。

●捜索
 気が気じゃない、というのはこういう感情をいうんだろう。焦る気持ちが湖影龍之助(こかげ・りゅうのすけ)の足を急がせる。繁る灌木をがさがさと乱暴に掻き分け龍之助は山中を突き進んだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、龍之助くん! 速すぎるよ」
 後ろから滝沢百合子(たきざわ・ゆりこ)が声をかけた。少し息が上がっている。ついてこれなくなり始めているようだ。
 龍之助は足を止めた。しばらく遅れて百合子が追いつく。
「滝沢さん、急ぐッス! 早く三下さんを見つけるッス!」
「ごめん」
 すまなそうな彼女の顔。龍之助は自分の語気が随分と荒くなっていると気づいた。普段なら決してこんな話し方はしないのに、やはり平静さを失っているらしい。「こっちこそ、怒鳴ってごめんッス」 素直に謝れるのは彼の美点だ。
 龍之助は高校生である。百合子もそうだ。とはいえ、同じ学校なわけでもなんでもない。百合子は都内有数の進学校に通う才媛。龍之助は、頭の出来はそこそこの普通校。共通点はアトラス編集部とつながりがあり、三下の取材にくっついてきたことだ。百合子は以前不良に絡まれた三下を助けようとしたことがある。結局は返り討ちにあい別の人に助けられたのだが、ともあれその縁でちょくちょく編集部に顔を出すようになっていた。龍之助は編集部で働くアルバイターだ。
 ふたりは三下に付き従って、取材のため群馬の山奥くんだりまでやってきた。麓の、部落に一軒しか無いという民宿に宿を取る。「じゃあ、僕はちょっと下見に行って来ます」 三下はそういって山へ入っていった。ほんの一時間ほどで帰ってくる予定だった。彼が出かけている間ふたりは宿で荷物をほどいたり記事の打ち合わせをしたりしていたが、予定の一時間を過ぎ、九十分たっても三下は戻ってこない。
「まさか……遭難したんじゃ」
 長針がふた周りするころには、龍之助はすっかり落ち着きを失っていた。三下はどこか抜けているところがある。迷って帰って来れなくなっている可能性は大きい。そう思うと居ても立ってもいられなかった。
 三下の、この放っておけない感じ──保護欲を刺激する所に龍之助は魅力を感じていた。守ってあげたくなる。紛う方無くそれは恋。恋と呼ばれるべき感情だった。
「でも、まだ二時間よ。ちょっと遠出しただけなん……」
 百合子の異見を龍之助は眼で遮った。
「なんで滝沢さんはそんな落ち着いてるっすか。遭難ッスよ、遭難。そーなんです、なんてギャグ、なしッスよ。ギャグがないとギャグなしッスよ!」
 後半は自分でも何を言っているのかよくわからない。パニック状態だ。立ち上がってうろうろと部屋中を徘徊する。
「ああ、どうして俺は一緒に行かなかったッんだ〜〜。一緒に行けば、俺さえ一緒に行ってれば〜〜ッッッ! 『あ、三下さん、雨が降ってきたッスよ』『大変だ、龍之助くん。急いであの洞穴へ』
 『うひぃえ〜、びしょ濡れッス』『全部服を脱ぐんだ。こういうときは裸で暖めあわなきゃ危険だ』『え……裸だなんて……』『何を恥ずかしがっているんだい。これは緊急事態なんだよ』『そうか、そうっすよね。不可抗力っすよね』」
 呆気にとられる百合子をしりめに、突如始まった一人芝居は際限もなく加速してゆく。
「『どうしたんだい、龍之助くん、恥ずかしがってた割には、もうこんなじゃないか』『ああ、そんなとこ、だめッス。イヤ』『ふーん、イヤなんだ。じゃあ止めるよ?』『そ、そんな……ひどいっす』『なら、素直になることだね。さ、どうして欲しいか言ってごらん?』『そ、それは…………』
 助けに行くッス」
「え?」
 突然芝居を終え、龍之助は荷造りを始めた。素直な気持ちでどうしたいかを考えたところ、助けに行きたいという結論にたどり着いたのだ。展開についていけない百合子を置き去りに、せっせと必要な荷物をバックパックに詰めていく。雨が降ってもいいように合羽を入れ、三下の分の合羽とタオルも押し込む。
「あの、龍之助くん? いったい何を?」
 百合子が尋ねてきた。何をそんな分かり切ったことを。決まってるじゃないか。「何って、探しに行くんすよ。三下さんを。見ての通りッス」
 百合子が驚く。
「雨が降りそうなのよ。二重遭難になっちゃうわ」
 遭難と言う言葉に龍之助の眉根がひくりとあがった。
「滝沢さん、三下さんが遭難したって思ってるっすね? じゃあ、なんで助けに行こうってしないんすか? 三下さんがどうなってもいいんすか?」
 しゃべりながらも手は止めない。お茶用にと仲居さんが用意してくれたポットのお湯を水筒に入れ、粉末スープのもとを溶かし込んで即席スープを作る。やはり粉末スープのもとを持ってきてよかった。取材の友だ。水筒をしまうついでに茶菓子も放り込む。
 すべて詰め終わるとチャックを閉めた。勢いよくジーッと閉める音を聞くと、これから出発するぜという気合いが湧いてくる。閉鎖音は男の浪漫だ。
「さ、こっちはOKっす。滝沢さん、どうするっすか? 行くッスか、それともここで待ってるっすか?」
 答えも聞かずに立ち上がり、バッグを背負う。出入り口の襖に手をかけた。
「ああ、待ってよ。行くからちょっと待って。荷物を……」「玄関で待ってるっす」 ようやく荷造りを始める百合子をしりめに龍之助は部屋を出た。
 ごめんッスと謝ってから龍之助は「ここ、どこら辺っすかね?」と百合子に尋ねた。
 百合子はバッグから地図とコンパスを取り出し、現地点の割り出しにつとめた。視線が地図とコンパスを何往復もする。「ここらへん、かな」 そういって紙上の一点を指さす。こういう時、頭のいい人は便利だ。龍之助だけだったら、きっと探しに出た本人が遭難してしまっただろう。
 指さされた地点からそれほど遠くない場所に川が描かれていた。耳を澄ませば実際、せせらぎの音が聞こえてくる。あれが半魚人の川だろう。
「川か……三下さん、川沿いに歩いてくれてるっすかね。そうすれば見つけやすいし」
 そうね、と百合子が同意した。「もとは川が目的地だったわけだし、川の音を頼りに三下さんが歩くかもしれないし。川沿いに行きましょう」
 川に向かって歩き始めたふたりの頬に冷たいものが中(あた)った。周囲を見回すが、特に頬に触れるようなものはない。気のせいだろうか。気を取り直して歩みを再開させようとした龍之助の頬に再び冷たいものが触れた。今度は正体が分かった。
 龍之助は空を見上げた。降り注ぐ冷たい滴。雨だ。「やばいッス。雨ッス。こりゃ急がないと……あ!」 突如龍之助は声を上げた。驚いたらしく、びくりと百合子が肩をふるわせる。
「大変す。雨が降って川沿いなんてやばいッス」
 増水して川沿いの三下が流されてしまうかもしれない。鉄砲水が起こるかもしれない。いや、足を滑らせて川面に落ち、濁流のチリと化してしまうかもしれない。一度マイナス思考が湧くとそれは、栓の壊れた水道水のごとく次から次へと迸った。自分でも抑えようがない。
「そうっすよ! 川なんか歩いてて、問題の半魚人なんかにあったりしたら! 俺の三下さんが食べられちゃうッス! ううん、食べられるどころか、本当に eating されちゃうッスよっ!」
 そばで百合子が困惑するのに目もくれず暴走は続く。ほとんど半狂乱。
「そうっす! そうっすよ! こうなったら、山に彷徨ってる霊とかいっぱい居るだろうっすから、お願いして三下さんを捜して貰うっす!」
 龍之助はそういうと、リュックを背からおろした。チャックを開けて茶菓子を取り出し、包装紙を破き去る。千切っては撒きだした。
「さあ、霊魂さん! お菓子を供えるっす! 三下さんの場所を教えるっす!」
 ぽつらんぽつらんと降っていた雨は徐々に強さを増していき、今は小雨程度にまで勢力を拡大している。雨が葉に中る音が意識しなくても聞こえる。ああ、これはますます急がなきゃ。
「お、落ち着いてよ、龍之助くん!」 百合子が龍之助をなだめ、落ち着かせて、パニックを収めようとしたとき。
 カァー。
 カラスが一羽、大きく啼いた。雨音を消し去るような力強さ。見上げると、張り出した樹の枝にすごく立派なカラスが止まっている。黒々とした羽はつやつやと美しい。文字通りカラスの濡れ羽色だ。間違いない。「霊魂さんっす!」 龍之助は茶菓子を放り捨てるとチャックも閉じずにバッグを背負い、カラスのもとへとかけ出した。カラスは龍之助が近づくのを見計らってひょいひょいと枝をわたり、つかず離れず導くように居場所を移していく。やっぱりそうなんだ。
「りゅ、龍之助くん危ないわ、こんな坂道、上ばっかり……きゃあ!」
 追いかけてきた百合子の声が急に悲鳴に変わった。と同時に何かが足に絡まる。「うわあぁ?!」 バランスを崩して龍之助は仰向けて転倒し、何か柔らかいものを下敷きにする。きゃっと言う悲鳴でそれが百合子と知れる。なぜ百合子が俺の下に? しかし疑問が解消することはなく、ふたりは縺(もつ)れたまま坂を転がり川面へと落ち込んでいく。
 カァー。
 カラスが再び大きく啼いた。

●恋心
 先をゆく龍之助は、気が気じゃないといった様子でひたすら足を急がせる。繁る灌木をがさがさと乱暴に掻き分け山中を突き進んでいく。百合子はだんだんとペースに付いていけなくなり始めていた。息も少し上がっている。稽古不足だろうか。いや、そんなことはなかろう。剣道部だの道場だのに所属しているわけではないが、それなり以上の鍛練は積んでいるつもりだ。百合子の体力が平均水準を下回っているわけではない。では男女の違いによる体力差だろうか。それも違うと思う。鍛錬の末に得た体力は、一般男子高校生を上回っているはずだ。となると、彼の体力がずば抜けていることになる。そして体力というのは物理的肉体的なものは当然として、それ以上に心理的精神的なものに由来する。同じ疲労度でも、まだまだ大丈夫と思うのと、もう疲れたなと思うのでは動きに差が出る。ずば抜けた肉体もそれ単体ではずば抜けた体力を保証しない。芯鉄となって支えるずば抜けた精神力が必要なのだ。では何が彼を支えているのか。いったい彼のパワーの源は何なのか。
 ──── 恋、なのかな。
 と百合子は龍之助の背中を追いかけながら思った。編集部にいる間から彼の恋愛趣味は聞き及んでいたし、宿屋での一人芝居も目の当たりにした。彼が三下に好意以上のものを抱いているのも実感として判っている。しかし、それに対して肯定的な感情を持っていたかというと──否である。
 男を好きな男。そういうものが存在していると百合子も知ってはいた。しかし実際に会ったことは無かった。いや、眼にしたことも無かった。百合子から見て、同性が好きなどというのは奇妙なこと……逸脱と見える。矯正すべき歪みだ。もちろん恋愛対象が同性だからといって劣等者扱いするのは差別であり偏見であるとわかっている。矯正すべき歪みではなく、人間の多様性の一形態なのだとわかっている。
 わかってはいるのだ。
 わかってはいるのだが、所詮アンダースタンドであってリアライズではない。理性では肯定しようとしながらも感情は否定的だった。一人芝居を見せられればなおさらだ。ハッキリ言ってあの時は、恋愛対象云々というよりキチガ……精神に異常をきたしている人ではないかとさえ思った。気持ち悪い。不気味だ。同じ部屋にいて欲しくない。
 とはいえ遭難した(かも知れない)三下の捜索を彼一人にさせるわけにも行かないだろう。だからこうしてくっついてきているのだ。
 もともと、気合いを入れて半魚人を探そうと思っていたわけではない。ツチノコみたいで面白そうだし、UMAに一回遭遇してみたかっただけなのだ。それに三下は不思議なことに巻き込まれそうなタイプ。何か楽しいイベントが待ち受けているかも知れない。そんな遠足気分で取材に同行しただけだった。三下の遭難は、イベントとしては少々重すぎる。
 遠足気分と恋心。これでは確かに体力差となって顕れもするだろう。
 それに、がむしゃらになって突き進む龍之助を見ていると、相手が男だということがどうでもいいことに感じられてくる。間違いなくそこには、三下を案ずる強い想いがある。
 彼は三下を見つけたらどうするだろう。走り寄って掻き抱くのか。安堵のあまり泣きだすのか。嬉しさに小躍りするのか。さすがにキスはしないだろう。対する三下はどうするだろう。男からの愛情に照れるだろうか、困惑するだろうか、嫌悪するだろうか、それとも素直に喜び、受け入れるだろうか。
 どうせならふたりとも喜びの笑顔であって欲しいな。
 百合子はこれ以上ないと言うほどの笑顔で再会を喜び合う三下と龍之助を脳裏に描いた。
 うらやましい。と思ってしまった自分に戸惑う。
 ふと意識を現実に戻すと、龍之助から随分と離されてしまっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ、龍之助くん! 速すぎるよ」
 後ろから声をかけた。龍之助は振り返って足を止めた。急ぎ足で追いつく。
「滝沢さん、急ぐッス! 早く三下さんを見つけるッス!」 語気が荒い。
「ごめん」
 百合子は謝った。その様子がしおらしかったのか、龍之助も「こっちこそ、怒鳴ってごめんッス」と謝る。山奥で高校生同士が謝りあっている。傍目には珍妙な図であろう。
「ここ、どこら辺っすかね?」
 龍之助が尋ねてきた。百合子はバッグから地図とコンパスを取り出し、現地点の割り出しにつとめる。視線が地図とコンパスを何往復もした。「ここらへん、かな」 そういって紙上の一点を指さす。のぞき込んでくる龍之助。その顔には焦りや不安が浮かんでいたが、同時に、決して大事なものを失うまい、己が手で取り戻してやるという強い意志も感じられた。弱さと強さ、双方の入り交じった表情だ。
 指さされた地点からそれほど遠くない場所に川が描かれていた。耳を澄ませば実際、せせらぎの音が聞こえてくる。あれが半魚人の川だろう。
「川か……三下さん、川沿いに歩いてくれてるっすかね。そうすれば見つけやすいし」
 そうね、と百合子が同意した。「もとは川が目的地だったわけだし、川の音を頼りに三下さんが歩くかもしれないし。川沿いに行きましょう」
 川に向かって歩き始めたふたりの頬に冷たいものが中(あた)った。周囲を見回すが、特に頬に触れるようなものはない。気のせいだろうか。気を取り直して歩みを再開させようとしたとき龍之助が空を見上げた。百合子もつられて見上げる。降り注ぐ冷たい滴。雨だ。さきほどの冷たさの正体はこれか。
「やばいッス。雨ッス。こりゃ急がないと……あ!」 突如龍之助は声を上げた。百合子は驚いて無意識のうちに身をふるわせる。
「大変す。雨が降って川沿いなんてやばいッス」
 確かに言われてみればその通りだ。どうして気づかなかったのだろう。こう言っては何だが、頭の出来は百合子の方がいいはずだ。問題点に気づき指摘するのは百合子の役目のはずだ。注意力の差はやはり恋心の差だろうか。
 龍之助が大声で喚き始める。
「そうっすよ! 川なんか歩いてて、問題の半魚人なんかにあったりしたら! 俺の三下さんが食べられちゃうッス! ううん、食べられるどころか、本当に eating されちゃうッスよっ!」
 いきなりの出来事に百合子の心臓が飛び上がった。そばで百合子が困惑するのに目もくれず、龍之助の狂乱は続く。
「そうっす! そうっすよ! こうなったら、山に彷徨ってる霊とかいっぱい居るだろうっすから、お願いして三下さんを捜して貰うっす!」
 龍之助はそういうと、リュックを背からおろした。チャックを開けて茶菓子を取り出し、包装紙を破き去る。千切っては撒きだした。やばい、精神を恐慌に蚕食されている。
「さあ、霊魂さん! お菓子を供えるっす! 三下さんの場所を教えるっす!」
 ぽつらんぽつらんと降っていた雨は徐々に強さを増していき、今は小雨程度にまで勢力を拡大している。雨が葉に中る音が意識しなくても聞こえる。「お、落ち着いてよ、龍之助くん!」 百合子が龍之助をなだめ、落ち着かせて、パニックを収めようとしたとき。
 カァー。
 カラスの啼き声が聞こえた。雨音を消し去るような力強さ。見上げると、張り出した樹の枝にすごく立派なカラスが止まっている。黒々とした羽はつやつやと美しい。文字通りカラスの濡れ羽色だ。「霊魂さんっす!」 龍之助は叫んで茶菓子を放り捨てるとチャックも閉じずにバッグを背負い、カラスのもとへとかけ出した。カラスは龍之助が近づくのを見計らってひょいひょいと枝をわたり、つかず離れず導くように居場所を移していく。カラスの後を素直に付いていく龍之助。追いかけなくちゃ。百合子は地図をしまう時間もなく、手に持って走り出した。
 龍之助はカラスに導かれるようにどんどんと川に近づいていく。今しがた川の危険性について自ら指摘したばかりだというのに。
 わざわざ龍之助を待ってから枝を移している(ように見える)のだからこのカラスは普通ではない、かも知れない。もしかしたら龍之助の言うように超常の存在という可能性もある。しかし、もしそうだとしても、三下のもとへ導く善意の存在とは限らない。半魚人の使い魔で、獲物を川に誘導しているのかも知れないではないか。どのみち、雨も降って足場が悪いにも関わらず、カラスばかりを見て進むのは──それも走ってだ──危険である。
「りゅ、龍之助くん危ないわ、こんな坂道、上ばっかり……きゃあ!」
 ぬかるみに足を取られて滑った。のけぞるように倒れ、そのまま龍之助に突っ込む。ちょうどサッカーで後ろからスライディングをかけたような格好だ。イエローカード間違いなし。下手すればレッドカードだ。
 「うわあぁ?!」という、語尾が多少上がり気味の声を上げて龍之助が倒れ込んできた。百合子は龍之助と地面のサンドイッチになる。思わず悲鳴を上げた。ふたりは縺れたままずるずるずるっと坂を滑り、川面へと落ち込んでいった。
 カァー。
 カラスが再び大きく啼いた。

●仄(ほの)暗い水の底から
 川は深く、ずんずんと百合子は沈んでいった。落ちる途中ではぐれたのか縺れ合っていたはずの龍之助は傍らにいない。バッグも地図もなかった。意外なことに水はちっとも冷たくない。水温(ぬる)む季節とはいえ行水にはまだ早いはず。ごぼごぼごぼとうるさいほど体にまとわりついていた泡が消えると、急速に百合子の周囲は静かになった。痛いほどの静寂、全くの無音。川面の光が遙かに遠い。今も走り去るような早さで遠ざかっている。これでは沈没と言うよりまるで落下。中国の伝説に出てくる、ものを浮かべる力のない弱い水、弱水とはこんな感じだろうか。
 やがて光も見えなくなり、周囲は一面闇と化した。もう自分の手足しか見えない。手に地図はなく、足に靴も靴下もない。流されてしまった。靴、靴下だけではない。ジャケットもズボンもブラもパンツもすべて流されてしまっている。赤裸、身ひとつだ。何もない。世界には百合子のみが存在している。ひとりぼっち。音はない。光もない。冷たさすらない。それでも落ちる。どんどん落ちる。どこまでも落ちる。果てしなく落ち続ける。
 否、本当に落ちているのか?
 暗闇の中ひとりきり。上も闇。下も闇。ならば上下の概念に意味はない。上下すらないのになぜ落ちる。もしかして闇の中に浮かんでいるだけなのかも知れないではないか。そうだ。そうに違いない。その証拠に────水の抵抗がないじゃないか。
 何かが聞こえた。
 ざあざあざあ。雨の音だ。どこかで雨が降っている。
 他にも聞こえる。人の声だ。
 〜〜〜子供は母親と一緒にいるのが一番いいんだ
 中年の男の声。聞き覚えがある。
 別の声が聞こえた。
 〜〜〜無理言わないで。私ひとりで育てられると思ってるの
 今度は女。聞き覚えがある。
 〜〜〜無理なものか。百合子ももう中学生。子供じゃない
 〜〜〜これからお金がかかるんじゃないの。
 男と女は争っている。諍(いさか)いの声。
 ざあざあざあ。だんだんと雨音は強くなる。そうだ。雨が降っていたっけ。
 ──やめて。
 〜〜〜私はこの家も何もかも捨ててやり直すの。重荷は嫌なの。
 〜〜〜ちょっと待て、そんな言いぐさ、いくら何でも百合子が可哀想だ。
 ──もうやめて。
 〜〜〜可哀想ですって。そう思うならあなたが引き取れば。
 〜〜〜俺だってヨーロッパ転勤だ。連れていけない。
 〜〜〜まったく。この子さえ居なければもっと早く離婚できたのに。
 ──ああ。お父さん、お母さん。私は要らない子供なの?
 ざあざあざあ。さらに強く。
 〜〜〜おまえそれでも母親か。
 〜〜〜あなただって父親でしょう。
 〜〜〜わかるもんか。あいつの子じゃないのか。
 がらり。襖が開いた。足音。誰か入ってきた。
 〜〜〜百合子。
 動揺した女の声。
 〜〜〜おまえ、居たのか。
 男の、見当外れな問い。居ない人間は入って来ない。
 〜〜〜お父さん、お母さん。
 少女の声は震えていた。
 〜〜〜私かここに残ります。
 絞り出すように。
 〜〜〜お母さんの世話にはなりません。ヨーロッパにも行きません。
 悲壮に満ちて決然と。
 〜〜〜私は独りで生活します。
 宣言した。
 ざあざあざあ。
「げぼ! げ、げぇ。げほげほ!」
 百合子は突然咽(む)せた。激しく嘔(えず)き喉奥から水を吐き出す。あまりの苦しさに地面をのたうった。
 地面?
 そうだ。地面だ。百合子は今地面を転げ回っている。体が重い。重力だ。百合子はとにかく体勢を立て直そうと四肢を重力に逆らう方向へと突っ張った。膝と手のひらで体を支える。犬の格好で水を全て吐いた。
 いったいどういうことだろう。ここは川の中。水中のはずだ。音なく光なく寒ささえなく重力もなく──故に上も下もなく、時間もない。そんな世界のはずだ。
 百合子は周囲を見回した。暗闇ではなかった。明るい。雲は厚かったが陽光の全てを遮るほどではない。ここは河原だ。ただの地上だ。暗黒の世界なんかではない。濁流が目の前を流れている。降りしきる雨が百合子を打ち据えていた。川沿いに目を転じると下流方向から龍之助が近づいてくる。その瞳は安堵に満ちていた。歩きながら彼はジャケットを脱ぎ、傍らまで来て差し出した。
「よかったッス。全然目を覚まさないから、死んじゃったかと思ったッス」
 目を……覚まさない?
 私は寝ていた、ううん、気を失っていたんだ。
 百合子はようやく得心した。あれは……あの声たちは夢だったのだ。
 当然だ。あれはもう過去。過ぎ去ったことなのだ。二度と起こらない。ここは川原だ。あの家じゃない。目の前には龍之助がジャケットを差し出している。雨が降っている。私も彼も濡れている。それが現実。それだけが真実。
 あれは幻なのだ。
 百合子は手を伸ばして龍之助からはジャケットを受け取った。なぜ彼がジャケットを差し出しているのかは判らないが──差し出しているのだ、親切心からだろう。受け取るのが筋だと思った。ジャケットは水をたっぷり吸ってずしりと重い。雨水なのか川水なのか百合子にはわからなかった。どっちでもいい。こんなに濡れていては防寒防雨の役には立たないだろう。ではなぜ。
 そこで百合子は初めて自分が胸をはだけていると気づいた。着ていた服はびりびりと引き裂かれて今や百合子の胴体にからまりついているだけだ。ボタンも全て飛んでしまっている。胸元に手をかけ裾まで一気に引きちぎったといった風情。下着も当然のようにカップの谷間で裂けている。
 どどどどうして?! なぜ?!
 百合子はジャケットで胸元を隠した。疑問と羞恥が螺旋を描いて脳内を駆けめぐる。
 浮かぶ疑惑。「まさか龍之助くんが破いたん……」 言葉は途中でとぎれた。龍之助が彼女を抱きしめたからだ。見た目に反してかなり引き締まった体をしている。
「よかった。本当によかったス」
 龍之助は百合子を抱きしめながら耳元で呟いた。囁くというより、独り言がをまたま耳元で漏らしたといった風情。熱がこもった少し潤んだ声だ。とても意識のない女の服を引き裂くような外道の声とは思えなかった。
 何がなんだかさっぱりわからないが、百合子は心配されていたらしい。
 〜〜〜俺だってヨーロッパ転勤だ。連れていけない。
 〜〜〜まったく。この子さえ居なければもっと早く離婚できたのに。
 不思議だ。なぜ彼は他人を心配することが出来るのだろう。
 百合子は抱きしめられたまま、いったいどう反応すればいいのか困惑した。心配されている──厚意を受けているのだから抱きしめ返してこちらも友好の情を見せるべきか? 失神して川原で気が付いたら胸丸出しという奇天烈な状況にも関わらず?
 わからない。
 わからないから百合子は彫像のように固まることしかできなかった。

●半魚人
 水は冷たかったが流れは思ったほど急ではない。雨で濁った水中で龍之助は百合子を片手で抱きかかえながら、とにかく水面へ出ようと考えた。詳(くわ)しくは判らないがどうやら自分は百合子と縺れ合ったまま川に落ちたらしい。大方、転んだ百合子が滑り込んででも来たのだろう。落ちたショックで失神しているのか彼女はぐったりと動かない。百合子を確保できたのは幸いだった。放っておけば間違いなく水死だ。
 兎にも角にもまずは空気だ。龍之助は水面を目指して泳ぎだした。濁水の中とはいえ上下の感覚はしっかりしている。百合子を抱えてで泳ぎづらくはあったが平泳ぎの要領で器用に水を掻き、蹴る。
 あと少しというところで不意にぐいっと下方に引っ張られた。驚いて、あ、と声を出してしまい、龍之助の喉から貴重な酸素がごぼごぼと音を立てて逃げていく。誰かが──もしくは何かが、か?──腰のあたり、ベルトの背中側を掴んでいる。
 え、ナニ、何が起こったッスか?!
 龍之助はあわてて背中のベルトに手を伸ばした。相手の正体を確かめたいし、何より振りほどいて自由になりたい。さきほど肺から空気をしこたま吐き出してしまって、気道が絞り上げられるように苦しい。自分を捕らえている何かの腕を掴み返す。
 鱗がびっしり生えていた。固くて大きい、まるで鯉か鯛の鱗。
 …………半魚人……。
 半魚人は龍之助を掴んだままものすごいスピードで移動し始めた。後ろ向きに引きずられながら龍之助の体は掴まれたあたりを中心に、右へ左へ後ろへ前へとシッチャカメッチャカに振り回される。平衡感覚はアッと云う間も無く消え去り、肺の底に残っていた空気も龍之助を見限って出奔してしまう。代わりに川水が喉と口内を蹂躙していく。
 苦しい苦しい苦しい苦しい!
 自分がどこへ連れて行かれているとか、これからどうなるとか、そんな疑問を持つ余裕はない。ひたすら苦しい。欲しい、空気が、酸素が。吸いたい。肺に満たしたい。とにかく。空気。
 突如体が重くなり、つま先がジャラジャラしたもの──砂利だ──に半分ほど突っ込む。と同時に半魚人もベルトを離した。自分が川岸に引き上げられて水から出たと気づくのに数瞬を要し……水から出た?! 空気を!
「げ、げほ、ふ、ぐほ、がっ……」
 息を吸おうとして咽(む)せた。酸素に焦がれる肺の切望を受け流して、龍之助の肉体は気道の水を排出することを優先した。当然その間は呼吸できない。空気を目の前にして数秒のくせに無限とも思えるほど長く感じる「おあずけ」ののち、ようやく龍之助は呼吸にありついた。ヒュ────ッという甲高い音までたてて水分をたっぷり含んだ山奥の大気を肺臓へと流し込む。
 うまい。これほどまでに美味かったんだ、空気は。
 吸って吸って吸って吐く。再び吸って吸って吸って……。飢えを満たすかのごとく何度も何度も酸素をむさぼり、龍之助はようやく落ち着いた。落ち着くと疲労がどっと押し寄せ筋肉から力を奪っていく。立つどころか座ることすら一苦労だ。龍之助は大の字に寝転んだ。疲れた。水中を引きずり回されただけで自分からは何か活動したわけでもないのに、くたくただ。
 首だけ捻ってあたりを確認する。
 小石混じりの砂利で出来た河原だ。寝転がっていると背中が小石でちょっとばかり痛い。その程度にデコボコしている。上流に行くに従って河原はどんどんその幅を狭くしてゆき、視界の端の方ではついに、崖と言っていいのだろうか、土砂で出来た急斜面がいきなり川へと落ち込んでいる。目を凝らしてよく見れば何かが滑ったような跡がある。どうやらあそこから転落したらしい。すぐにあがってきたつもりだったが、かなり川下りを楽しんでしまったようだ。
 雨はついに本降りとなっていて大粒の滴が大地を打ち据えていた。
 自分のすぐ近くに百合子が伏している。他に誰もいない。半魚人は消えていた。
 少し休んで回復した龍之助は、ゆるゆると起きあがった。全身がだるい。自分はこんなに重かっただろうか。
 そうだ。重いのは服だ。水をたっぷり吸っている。
 龍之助は背中からバッグをおろし、タオルを取り出そうとして……愕然とした。
 ない。
 開けっ放しの口からタオルや着替えが流れてしまっていた。スープが残っていたのは不幸中の幸いだろう。
(そうッス。滝沢さんもバッグを持ってたはずッス)
 龍之助は百合子を見やった。
 やはり無い。あっちはバッグごと川底へと消えていた。しかたがない。濡れネズミのまま何とか捜索しよう。ふたりとも若い。体調が崩れる前にきっと見つけられるだろう。
 龍之助は伸びている少女に近寄った。片膝になって上体を抱え起こし彼女の体を揺する。 「滝沢さん、起きて。早く三下さんを見つけて帰らないとこっちが凍死しちゃうッスよ」 揺さぶられた百合子の肩に合わせて、頭がグラグラと左右にうごめく。それでも起きない。無反応だ。「滝沢さん。起きるッス。朝ッスよ〜」 起きない。「滝沢さん?」
 息をしていない。
「たたたた滝沢さーん! ちょっと嘘でしょ。滝沢さん、滝沢さん」
 龍之助は百合子の名を呼びながら体をさらに激しく揺すり続けた。うごめいていた程度だった頭がグルングルンと回り始めた。だが、目を覚まさないし息も吹き返さない。
 死んだ。死んでしまった。さっきまで自分としゃべり行動を共にしていた女の子が物言わぬ死体、ただの肉の塊、ただのモノになってしまった。
『女子高生、山中にて転落死』
『問われる三下の管理責任』
『同行の湖影龍之助を緊急逮捕』
 新聞のいやな見出しが脳裏に浮かんでは消える。それが全部自分や三下の保身にかかわることであり彼女の死そのものを悼むものでないことに気づき、さらにいやな気分になった。
(どうしよう)
 どうもこうもない。彼女の死体を担いで山を下り、何とかして三下さんを見つけて合流し、編集部に帰るのだ。こんな失態をやらかしたらあの鬼編集長はどんなにか怒るだろう。三下もクビかも知れない。だがこれは不可抗力なのだ。後ろからぶつかってきたのは彼女だ。
 龍之助は頭を振った。また自分の保身ばかり考えている。ひと一人死んでそれはないだろう。ちっとは彼女のことを嘆いてやれ。
 龍之助は百合子を見やった。
 もし友達が死ねば自分は悲しい。家族が死ねば胸にぽっかりと穴があいた気分になる。三下が死んだら……考えたくもない。それと同じように、百合子にだって悲しむ家族や友人、恋人がいるだろう。彼らはどれほど嘆くだろうか。そう思うとさすがに胸が締め付けられた。だがもう遅い。彼女は死んだ。水を飲んで死んだのだ。
(あれ?)
 疑問が浮かんだ。違和感といっていいかもしれない。
 確かに人は溺れれば死ぬ。だが龍之助は生きている。同じように水中にいたのに、龍之助は生きているのだ。となれば、溺れていた時間など大したものではない。彼女が生きていてもおかしくないほどの時間だ。
 だとすれば。
 彼女は死んでいるんじゃなくて。
 単にいわゆる仮死状態なだけなのでは?
 希望の光が差した。本死(?)ではなく仮死なのだとしたら助かるかもしれない。
(ううん、助けなきゃだめっす!)
 でもどうやって? ケータイで助けを呼ぶか? いや、救助隊が来るまで時間がかかりすぎる。それどころかそもそもケータイなんか通じない。となるとここで龍之助自身が介抱しなくてはならない。
 何か無いか。
 龍之助はバッグへと駆け戻り中をあさった。残念ながら救急用具は絆創膏しかない。この状況でいったいどこに貼れと言うのか。鼻か。それでは本当に息が詰まるだけだ。では肺の上、胸──乳首か。
「何考えてるッスか──! それじゃただの変態ッス」
 龍之助は頭(かぶり)を振った。いけない。頭がまともに働いていない。相当混乱しているようだ。息の止まった相手に絆創膏を貼っていったいどうなる。
 龍之助は混乱からパニックにスケールアップしそうな頭を必死に立て直して考えた。どうすれば百合子を助けられるのか。どうすれば百合子の意識を回復できるのか。どうすれば……。
 どうするどうするどうするどうする。
 ──人工呼吸だ。
 名案のように脳裏に方策が閃いた。人工呼吸である。
(…………常識か)
 名案と思ったが、考えてみれば名案でも何でもない。溺れて昏倒した相手に人工呼吸を施すのはただの常識だ。常識がすぐに浮かばないとは。冷静さを完全に失ってしまっていたみたいだ。
 ん…………人工呼吸?!
 「それ」に思い至った龍之助は弾かれるように百合子を見た。薄く可憐な唇が顎の上にちょこなんと息づいている。気絶して弛緩しているせいか半開きの状態。舌と白い歯がわずかにのぞいている。川に流され雨に打たれて体温が冷えているようだ。上唇下唇ともパープル系に変わっていた。
 人工呼吸するとなったら……
 息を送り込むため……
 あの唇に……
 俺の唇を……
「重ねるんだよな」
 図らずも思考が口から漏れてしまい龍之助はあわてて口を押さえた。雨の河原だ。誰も聴いているはずはないのに。
 気を取り直して再び百合子を見た。どうしても唇に視線が釘付けになる。早くなった鼓動を強く意識した。
 俺が……滝沢さんと……唇を……その……何というか……俺には三下さんが……
 いや待てそれは違う。これはただの人工呼吸。人命救助。医療行為。けして……ではない。 
 龍之助はよろよろと百合子に近づいていった。意識のない少女を雨が打ち据えている。
 すぐわきに座り込む。
 覆い被さり顔を近づけた。楚々とした顔が死人のように蒼い。急がなくては。
 息を吸い込む。その瞬間を先延ばししたくて必要以上に長く深く吸う。
 言ってることとやってることが逆さまだ、などと思いながら顔を近づけ。
 唇を重ねた。
 固い。本来なら柔らかいはずの唇が寒さで強張り切っている。
 ふぅーっと息を吹き込んだ。
 全部百合子の愛らしい鼻から漏れてきて龍之助の頬にかかった。
「きしゃ──!」
 突然、何者かが奇声を上げながら龍之助の襟首をつかんだ。ものすごい力で放り投げられた。河原の小石でしたたかに打ち、目の前が一瞬白くなった。
 回復した視界で見ると、異様なものが百合子のわきに跪いている。
 鱗に覆われたざんばら髪の人間。体長(身長?)は成人男子と同じくらい。顔面は皮膚で首から下は緑色の不気味な鱗だ。目鼻口の造作は人間と同じ。しかし、皮膚は鱗同様くすんだ緑色だった。
 半魚人だ。いつの間に忍び寄ったのか。
 半魚人は百合子の襟元に手をかけた。一気に引きちぎる。着衣のすべてが薄紙のように破け、薄い乳房がまろび出た。
 百合子が半魚人に襲われる。襲われてしまう。
『実録! 私は半魚人の子を身籠もった』
『本誌記者、UMAの実在をその身で証明』
『私は女子高生半魚妻〜〜恥辱の野外調教』
 おぞましいタイトルが龍之助の頭を駆けめぐった。そんな事態を記事にするなんて狂ってるとしか思えないが、あの鬼編集長ならやりかねない。いや絶対やる。
 助けなきゃ。
 龍之助は立ち上がろうとして……全身に痛みが走って再び倒れた。叩き付けられたダメージが想像以上に大きいらしい。動けない。このまま半魚人の凶行を、指をくわえて見ていることしか出来ないのか。
 半魚人は右手首を百合子のうなじの下にねじ込んだ。百合子の顔がのけぞる。空いている手で鼻をつまむと唇を奪った。ややあって顔を上げ彼女の胸を見た。再び唇を奪い、胸を見た。数度それを繰り返すとうなじから右腕を引き抜き彼女の胸に添えた。左手を重ねる。五六回胸を押した。
 もう一度うなじに腕を突っ込み、数度唇を奪った。そして胸を押す。
 半魚人は唇と胸の間を何度も何度も往復した。そのうち。
 げぼっと水を吐いて百合子が地面をのたうった。意識を取り戻したのだ。助かった。助かったのだ。もう友達も家族も恋人も悲しまない。鬼編集長も怒鳴り散らさない。龍之助も三下も保身は必要ない。すべては救われた。
「滝沢さん」
 龍之助は立ち上がった。体中がぎしぎしと痛いが今度は無事立ち上がれた。半魚人も立ち上がりすたすたとこちらへ近づいてくる。龍之助はぎくりとした。いちおうボクシングのファイティングポーズの真似事みたいなものを構えてみる。
 今度は何すか……?
 半魚人はするりとわきを抜けて川へ入った。ただすれ違っただけだ。龍之助など眼中にない。半魚人はジャブジャブという音を立てて濁流に消えた。あとには嘔(えず)いている百合子と立ちすくむ龍之助が雨の中に取り残されただけだ。
 何だったんすか、いったい。
 何だっていい。とにかく百合子は助かったのだ。よかった。龍之助は百合子に歩み寄った。足を持ち上げるたび降ろすたびに筋肉という筋肉に軋み痛みが走った。が、それも一歩ごとに薄らいでいく。
 百合子がこちらを見上げた。ああ生きている。こんなうれしいことはない。
「よかったッス。全然目を覚まさないから、死んじゃったかと思ったッス」
 ジャケットを脱いで百合子に渡した。彼女は状況を掴めていないようだ。しばしきょとんとしていたが、手を差し伸べてジャケットを受け取った。百合子は何か言った。ちゃんとしゃべれるようだ。完全復活している。何の問題もない。オールグリーン。すべては解決した。龍之助は喜びを抱擁で表現した。
「よかった。本当によかったス」
 百合子の体をきつく抱きしめる。かなり冷えている。スポーツで鍛えているらしく、肌は柔らかさとしなやかさを併せ持っていた。触れる指先が心地よい。
 触れる?
 指に伝わる触感が、百合子が布をまとっていないことを思い出させてくれた。着ていた服は半魚人が破いてしまったし、渡した服は胸から腹にかけて隠しているだけだ。まだ着ていない。
 急に龍之助は恥ずかしくなった。半裸の少女を抱きしめるなんてシチュエーション、生まれて初めてだ。慣れていない。どうしたらいいのかわからなくなってしまった。
 わからないので龍之助は、とりあえず百合子の反応を待った。が、少女は身じろぎもしなければ一言も発しない。完全に膠着してしまった。
 カァー。
 カラスが大きく啼いた。あのカラスだ。
「あ、さっきのカラスっす」
 龍之助はこれ幸いとカラスにかこつけて百合子を放した。立ち上がる。見れば川原と森の境界線のあたりにカラスが陣取り、カーカーと鳴いていた。一二歩あゆみ寄って百合子に背を向ける。向けている間に服を着てくれればと思った。さすがに龍之助の面前で着替えはできないだろう。
 本降りとなった雨の中、カラスは雨宿りをする気配もなくこちらを見据えている。不思議な鳥だ。普通こういう天気のとき、カラスはどこか露のしのげる場所へ行くものなのに。
 森の中で何かが動いた。
 人影だ。こちらに向かってくる。あの体形、シルエットは……三下だ間違いない。龍之助は駆け出した。
「三下さーん!」
 向こうもこちらに気づいたようだ。手を振っておーい、おーいと叫んでいる。
 ああ、三下さん、三下さん、三下さん。よかった、無事だったんだ。
 龍之助の心に喜びが広がった。また会えた。生きて会えた。一時はもうどうなることかと思ったのに。
 下が砂利なのが恨めしい。普通の地面より速く走れない。
「三下さーん!」
 最後の二メートルをひとっとびに三下へと抱きつく。勢いがつきすぎた龍之助の慣性をひょろっとした三下が受け止めきれるはずもなく、二人は川原へと倒れこんだ。
 ジャケットを着込んだ百合子が二人へと近づいてくる。
 三下救出作戦はこうして幕を閉じた。

●結
 人間どもが去ったあと、鴉は再び川原に戻った。カーと鳴いて「彼」を呼び出す。
 しばしの間の後、水面から「彼」が現れた。鱗に覆われたざんばら髪。顔面は皮膚で首から下は緑色の鱗だ。目鼻口の造作は人間と同じ。しかし、皮膚は鱗同様くすんだ緑色だった。
『ありがとう。世話をかけたわね』
『何、気にするな』
 鴉の謝辞に「彼」は答えた。人間どもが川に落ちたので慌てて「彼」に助けを求めたのだが――「彼」が気のいいやつだったのは人間どもにとって幸いだっただろう。「彼」に人間を助ける義理はない。無視され見殺しにされても文句をいえた筋合いではないのだから。
『まあ、たまにはこんなこともいいやな』
 「彼」はそういって川へと帰っていく。顔まで沈んだところで振り返り、手首から先を出してひろひろと振った。ぺこり、と鴉は頭を下げる。
 「彼」は川へ帰った。それを見届けてから鴉も飛び立つ。
 雨は上がりつつあった。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0057/滝沢百合子(たきざわ・ゆりこ)/女/17/女子高生】
【0218/湖影龍之助(こかげ・りゅうのすけ)/男/17/高校生】
【0553/須和野鴉(すわの・からす)/女/999/古木の精】


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■         ライター通信          ■
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 このたびは、当作品をお買いあげいただきありがとうございます。
 鴉さん、初参加、ありがとうございます。999歳のカラスってどんなカラスなんでしょうね。カラスの老若なんて人間には見分けがつかないんですが、カラスから見るとわかるんでしょうね。カラスと会話する鴉も書いてみたかったですね。
 またの参加をお待ちしております。
 では、今夜はこのへんで。