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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


狂走詩

<序>
 本日の仕事も滞りなく終え、草間武彦は椅子から腰を浮かせた。
 窓の外はもう闇に包まれている。とはいえ、下の道を通る車のサーチライトや向かいのビルの明かりなどがあるために完全な漆黒とは言えない。
 時計の針は午前一時過ぎを差していた。
 今日も一日よく働いた、という充足感を抱き、椅子の背もたれに引っ掛けていた上着を手にデスクから離れようとしたその時。
 デスクの上の電話が耳障りな呼び出し音を立てた。
 草間の片眉が下がる。
「誰だよこんな時間に」
 ちらりともう一度時計に目をやる。仕事の依頼か? と思うとなんだか取るのが億劫になった。
 用事があるなら明日にでもまた電話してくるだろう。
 そう思い、コール音に背を向けた。
 が、呼び出しが止む気配はない。
「……ああもうっ」
 苛立たしげに髪を荒々しくかき回すと、やむなく受話器を手に取った。
「もしもしっ? 草間興信……」
 言いかけた言葉は途切れ、その眼鏡の奥の双眸が見開かれる。受話器の向こうから、涼やかな男の声が耳に流れてきた。
「お前……鶴来、か?」
『電話、無視する気かと思った』
「あ、いや。っていうかお前、何だよこんな時間に。しかもこないだっから一度もこっちに顔見せないで変な事件ばっか送り込んできやがって」
 旧知の者のその声が、受話器の向こうで小さく震えた。笑っているらしい。
『悪いが……また厄介ごとを持ち込ませてもらいたい』
「また?」
『大した依頼じゃないんだ、何も起こらなければそれはそれでかまわないから。頼まれてくれないだろうか?』
 変に下手に出ている相手に、草間が受話器を肩で挟みながら煙草を取り出して火をつける。そして苦く笑った。
「あんまりお前からの依頼は請けたくないな」
『…………』
「なんてな。あんまり仕事選り好みしてられるほどに左団扇ってわけでもないからな。仕事内容にもよる、聞かせてみろ」
 話は、以下のようなものだった。
 とある女が中古の車を買ったのだが、その車、妙に事故などを起こしやすいというのだ。
 前バンパーをいつのまにか擦られていたり、いつの間にか側面にへこみができていたり。何かにハンドルを取られて縁石に乗り上げてタイヤをバーストさせたり、運転していると眩暈がしたり目の前が真っ暗になったり。
『それで、何か憑いているのではないかと心配しているんだ』
「ただ単に運転が下手だということじゃないのか?」
『いや、他の車だと彼女の運転はさほど危ないものじゃない。が、その車に限り』
「おかしくなるのか」
 デスクに腰半分を乗せて灰皿に長くなった煙草の灰を落とす。
「だがお前、そういうの『視る』力に長けていなかったか? 視た限り、どうなんだ」
『何も視えなかった』
 答えて、電話の相手――鶴来那王(つるぎ・なお)は吐息を漏らしたようだった。
『何か条件がそろえば視えるのかもしれないが、ただ停めてある車をざっと視ても何も妙な感じはしなかった』
「つまり、その『条件』とやらを探してほしい、と?」
『彼女は今、怖がって車を運転できない状態だ。が、彼女以外の者が車に乗っても同じことが起こる。だが、起こらない者もいる。起こらない場合も、ある。いまいち判然としないんだ』
「だったらお前が乗っていろいろ試してみればいいだろう?」
 その草間の言葉に、鶴来はわずかに沈黙した。そして。
『……いや、多分俺が運転すると、別の意味で危ないと思う』
「何だ? お前、車の運転できないのか?」
『いや、できないわけじゃない。が、……極力しないほうが身のためだと思っている』
 とつとつと答える鶴来の声に、草間は笑い出したい衝動を何とか押さえて、デスクの上のメモ帳とボールペンを手にした。
「で? その車種とかは」
『今の持ち主は七鞘深月(ななつさや・みつき)。車はスカイライン、GTS−TタイプM。平成2年式の2ドアタイプ。色はワインレッド、AT車だ。あとは……少し車高を下げてあったり、マフラーが改造ものだったり。元々の持ち主が男だったようだ』
「MT車じゃないんだな? ……スポーツタイプなら多くて4人は乗れるな」
 確認すると、草間は一応いろんな可能性を試すために様々な知人の顔を思い浮かべた。女、男、大人、子供、独り者、恋人つき……。
『何もなければそのままドライブでも楽しんでもらえばいい。ちょうどいい季節だろう?』
 何もなければ。
 その言葉に小さく笑うと、草間は電話越しの相手に承諾の意を返した。

<思案>
 頭上から、柔らかい透明な光が降り注ぐ。
 新緑の季節。
 芽吹く緑の音が聞こえてきそうな、季節。
 片手を持ち上げて目の上にひさしを作る。夏ほどに強くはないが、それでもかなり光はまぶしさを増してきている。
 春から夏へ、移る時期。
「いい天気」
 思わず声に出して言いながら、シュライン・エマは大きく一つ息を吸い込んだ。
 まさしく、ドライブ日和である。
 が。
「……ただの車じゃないものねぇ……」
 乗っている者を危険へと導く謎の車。
 その危険は一体何により引き起こされているのか。
「うーん……。微妙な改造のせいでってことはないかしら」
 頬に手を当ててわずかに首を傾げるようにして一人ごちる。
 車高などが改造で変えられているため、空間把握、のようなものが微妙にずれているのかもしれない。それに気づかず普通に運転していたりするから、つい知らず知らずにあちこちで車を擦ってしまう、とか。
 眩暈のほうも、改造されたマフラーから発せられる変な振動や音のせいで引き起こされているのかもしれない。
 さらりと風にゆらされて乱れた前髪を片手で梳きあげて、青い怜悧な眼差しを上げる。
 駅から少し歩いた所にある閑静な住宅街。その一角のマンション前の道に停められてあるワインレッドのスカイライン。
 どうやらそれが問題の車らしい。バンパー左側にかすかに擦ったような傷がある。
「さて、と。前の持ち主にも話聞ければいいんだけど……まあまずは七鞘さんにお話聞いてみましょうか」
 乗ってみて、何かあった人。そして何もなかった人。
 その人たちに身体的共通点があったかなかったか等、調べてみたら、今は見えない何かが徐々に見えてくるかもしれない。

<待ち伏せ>
 七鞘の部屋はマンションの九階にあった。
 エレベータから降りたシュラインは、腕の時計にちらりと視線を落とす。待ち合わせの時間丁度くらいだ。
 と、その眼差しをふと上げる。
 フロアの先に、ドアの一つに背を持たせかけている、黒スーツの青年がいた。
「鶴来さん?」
 掛けられた言葉に、青年が視線を返した。そしてドアから背を離して軽く頭を下げる。
「ご足労かけてすみません」
「もしかして、ずっとここで待ってたんですか?」
「仕事とはいえ、一人暮らしの女性の部屋にお邪魔するのは気が引けたので」
 苦笑しながら答える青年――鶴来那王に、シュラインは歩み寄りながら笑った。
「そういうの、割り切れる人だと思ってた」
「俺が割り切ったとしても、先方が割り切れるとは限らないでしょう?」
 柔らかい笑みとともに紡がれた言葉に、ああ、とシュラインは得心がいったように頷いた。繊細な気遣いができる人なんだなと思いながら、目をドアから少し外れた場所につけられているネームプレートを見やった。
 Mitsuki-Nanatsusaya、とローマ字で書き付けられている。細い線と可愛らしい文字が、なんとなくマンション前に停めてあった車とかけ離れた雰囲気の人物を頭に思い描かせる。
 シュラインはゆっくりとした所作でインターホンへと手を伸ばした。

<謎解き>
 ワンルームの室内は、大きな窓から差し込む光に満ちていた。
「どうぞ」
 七鞘が、アイスコーヒーが注がれたグラスをそっとシュラインの前に置いた。ローテーブルに置かれていた小さな銀皿の上に飾られている貝殻を眺めていたシュラインははっと顔を上げた。
 まだ二十歳前後くらいのその人物が、七鞘深月だった。
「ありがとう。綺麗な貝殻ね」
「先日、海へ行った時に拾ってきたんです」
「例の車で?」
 それに、七鞘は肩を小さくすくめて頷いた。肩口で切りそろえられた黒髪がさらりと揺れる。
「その帰りに、縁石に乗り上げちゃったんですけど」
 言って、左手を持ち上げる。薄いグリーンのシャツから覗くその手首には白い包帯が巻いてあった。
「その時にハンドルにぶつけて打撲しちゃって」
「大丈夫なの? 他に怪我は?」
「なんとかこれだけで済みました。縁石にぶつかったタイヤはパンクするし、ホイールもへこんじゃうほどの勢いだったから、これだけで済んで本当によかったです」
 確かに、そんなに激しい衝撃だったのならそれくらいで済んだのは運がよかった、のかもしれない。
 シュラインはグラスにストローを差し入れながらベランダを見た。
 開け放たれたガラス窓の向こう。
 そこに鶴来はいた。外の景色に向けていた顔を、七鞘に向けて問いかける。
「その事故の後、車に乗られていないんでしたね」
 こくりと、七鞘が頷く。
「はい。かなり怖かったので……次にまた何か起きたら、今度は手の打撲ぐらいじゃすまないと思って」
 鶴来の分のグラス下にコルクのコースターを置きながら小さく笑って七鞘が肩をすくめた。
「その……友達も、もう危ないから乗るのやめたほうがいいって言うし」
「友達? ああ、海に行った時、誰かが一緒に乗ってたの?」
 微妙な「友達」の前に置かれた間に、シュラインが首を傾げた。それに、わずかに七鞘が頬を赤らめて頷く。
 その様子で、その時誰が一緒だったのかピンと来た。
「彼氏、ね」
「は、はい。彼……まだ免許持ってないから」
 恥ずかしげに俯いて言う七鞘の様子に、シュラインが目を細めて微笑む。が、ふと頬に手を当てて表情を改めた。
「七鞘さん、もしかして今まで変な目にあった時って、彼氏が一緒に車に乗ってたりした?」
 言われて、七鞘が少し考えるように口許に手を当てた。
「ええと……はい。そうかもしれません。一人の時に起きたのも、そういえば彼を迎えに行く途中とかだった気がします」
「確か、他に試乗してみた人がいるのよね? その時何か起きたのはどういう人たちだったのかしら? 身体的な特徴とか、ある?」
「一〇人ほどに試してもらったんです。大学のサークルの友達とかに。体の特徴……うーん」
「何か起きたのって、もしかして男女ペアで誰かが乗った時じゃない?」
「ええと……確かタカコちゃんとカズくんと、ミヤマさんとイチハラさんだけだったと思うんです。何か起きたのって」
 テレビの上にある写真立てに手に取り、こくりと七鞘は頷いた。そしてシュラインの前にその写真立てを置く。
「これがタカコちゃん、カズくん、ミヤマさん、イチハラさんです」
 言うと、順に写真の中の人物を指差していく。タカコちゃんとミヤマさんが女性で、カズくんとイチハラさんが男性である。
 男性の方は、この写真に写る者たちの中ではまあまあ男前、と言ったところだろうか。女性の方もなかなかきれいな顔立ちで、おとなしそうな、清楚な雰囲気の人物である。それは今ここにいる七鞘にも共通して言えることだった。
「その四人って、男女ペアで乗ってたのかしら?」
「はい、確かそうでした」
「……キーワードは『男女ペア』かな」
「でも、他にもペアで乗った人もいたんですけど」
 七鞘のその言葉に、ふとシュラインはもう一度写真に目を落とした。
 男女ペアでも、さらにその中で「何かが起こるための条件」が絞り込まれているのだろうか。
 映っている人物一人一人の顔にゆっくりと視線を滑らせる。青い瞳が、何度か一〇人余りの顔の上を何度か移動する。
 そして、すっとその中の一人の青年を、形のいい指が指し示した。
「もしかして、これが七鞘さんの恋人かしら」
 指の先にいた人物を見て、七鞘が驚いた顔でシュラインを見た。
「ど、どうしてわかるんですか?」
「うーん」
 人差し指を頬に当てて、シュラインは天井を見た。そして悪戯っぽい笑みを浮かべて七鞘を見る。
「かっこいいから、かな」
「え?」
 シュラインはただ、写真の中でさっきのカズくんとイチハラさん以外で男前な人物、を指差しただけである。
「そうか、多分そういうことね」
 どうやら、条件が判明したらしかった。
 ストローに唇をつけて、シュラインはコーヒーを口にする。からんと氷がグラスの中で軽やかな音を立てる。
 それにしても、きれいでおとなしそうな女性と男前な男性、が条件とは、一体車に憑いている「もの」は何を考えているのだろう。
 ちらりと、ベランダにいる鶴来を見る。
 また彼は風に髪をなぶられながらぼんやりと外の様子を眺めていた。

<お題は『おとなしい女』>
 七鞘に鍵を借り、シュラインはマンションの前に停めてあったスカイラインの傍らに立っていた。その隣には鶴来もいる。
 とりあえず、乗ってみないことには見つけた条件が合っているのかどうかもわからないので、乗ってみることにしたのである。
 が、シュラインは人差し指を唇に当てて緩く首を傾げた。
「綺麗でおとなしい女性ねえ。難しいなぁ」
「綺麗、の部分では何の問題もないと思いますが?」
 その言葉に、シュラインはわずかに片方の肩をすくめた。
「私、おとなしそうに見えるかしら? きつい目してるからどうかと思うんだけど」
 綺麗、と言われたことについてはあえて触れずに、自分の両目尻を指で指し示して鶴来に問いかける。それに、優美に微笑んで鶴来はすっとシュラインの髪を束ねている飾りを取った。さらりと黒髪が肩の上に広がる。
「このほうが」
「そう? あと、男前……は鶴来さんで問題ないわよね」
「いや……俺だとダメだと思うんですが」
 苦笑して、鶴来はシュラインに髪留めを差し出した。
「草間を呼んでおくべきだったかもしれませんね」
「武彦さん?」
「彼なら問題ないでしょうし、なにより恋人同士を『演じる』必要がなかったでしょう?」
「えっ?!」
 思わず取り落としてしまいそうになった髪留めを慌ててバッグにしまいながら、シュラインはわずかに赤みが差した頬で鶴来を上目遣いに見る。
「ち、違うのよ、そうじゃないのよ。私と武彦さんはただの」
 雇い主とそのバイトなのよ、と言いかけたが、鶴来が小声で笑うので言葉を切った。そしてじろりと上目遣いに軽く睨む。
「実は嫌な人だったんだ、鶴来さんって」
「失礼」
 笑いを収めて言う鶴来に、シュラインはため息を漏らした。そしてとん、と車のボディを指で軽く叩いた。
「どちらにしても、鶴来さんに乗ってもらわないと私一人じゃ何も視えないから調査にならないのよね。一緒にいてもらえると助かるんだけど」
「ああ……そうでしたか。わかりました」
 短く答えて、鶴来は風に揺れて肩にかかる髪をかき上げたシュラインにかすかに笑った。
「運転はお任せします」
 それだけを言うと助手席側に回る。
 シュラインも胸元にぶら下げていた眼鏡を目許に持ち上げながら運転席に滑り込んだ。
「ま、とりあえず行きましょうか」

<ドライブ>
 車内は、七鞘の趣味なのか、スポーティな車に似合わないクラシックが流れていた。
 ロベルト・シューマン。子供の情景 第七曲・トロイメライ。
 ゆったりとした曲の流れに乗るように、車もゆったりと柔らかい日差しの中を走っていた。
「意外とマフラーの音って中に響かないものなのね」
 聴覚が鋭いシュラインには音楽の中に混ざるその無用の重低音がしっかり捕らえられてはいるが、普通の人レベルの聴覚ならば気にならない程度の音でしかない。
 それに、流れる窓の外の景色へと視線を向けていた鶴来が頬杖をついたままかすかに頷いた。
「振動もあまりないですね」
「としたらやっぱり原因は改造のせいじゃないのかな」
「どうでしょうか。まだ決めかねます」
「どう? 何か視える?」
 ちらりと横目で鶴来の様子を伺うが、それにゆるりと鶴来が首を振った。
「いえ、まだ何も」
 走らせ始めて一〇分で原因を掴もうというのは甘い考えか。
 思い、いつもは束ねている黒髪が肩から頬へかかるのを厭うように手で払いのけ、シュラインは視線を前に固定して、違う話題を口に乗せた。
「そういえば、あの……綺くん、どうしてるの?」
「綺?」
 鶴来が、視線を窓の外からシュラインに移す。
「ああ、そういえば先日お世話になったそうですね」
「綺くんが依頼を事務所に持ってきたとき、ちょうど私がいたからその場で請けちゃったの」
「ええ、あなたに請けていただけてよかったと感謝していました」
 迷子になった桜の枝を連れて行く場所を探してほしい、という奇妙な依頼。
 桜の守人の一族である七海綺(ななみ・あや)が持ってきたその依頼のことを、シュラインは忘れていなかった。
 その日の別れ際に綺が見せてくれたあの笑顔を思い出し、シュラインは優しい笑みを浮かべる。
「あの時もらった桜のお礼を、ずっと言いたいと思っていたの」
「桜?」
「永遠に枯れない桜をね、綺くんにもらったのよ」
 雪のような純白の花をつけた、桜の枝。その桜を大切に思う心がある限り、枯れないという不思議な桜。
「ちゃんと今でも枯れていないって、伝えてもらえるかしら」
「ええ、わかりました。きっと喜ぶと思います」
 目を伏せて微笑するその鶴来の横顔をちらりと見て、シュラインは小さく笑った。気づいて鶴来が怪訝そうに目を上げる。
「なんですか?」
「だって、なんだか子供のこと考えてるお父さんみたいな表情だったから」
「父親……ですか。……一応、まだあんな大きな子供を持つような歳ではないんですが」
「お父さん『みたいな表情』よ」
 ゆっくりとブレーキを踏んで速度を落としながら、青信号を左折する。
「ところで、鶴来さんってお幾つなの?」
 見たところ、自分とさほど離れていないだろうとは思うのだが。
 問いに、緩く首を傾げて鶴来がシュラインへ顔を向ける。
「歳ですか? 二六ですが」
「えっ、同い歳なの?」
 思わず自分の歳をバラしてしまい、あああと口許に片手を当てるがすでに遅い。それに、口許に拳をあてて鶴来が小声で笑った。
「まだ隠すようなお歳でもないと思いますが?」
「あんまり言いたい歳でもないのよ」
「だったら俺もこれからは伏せたほうがいいでしょうか」
「鶴来さんは男でしょ」
 赤信号で車を止めながら、シュラインが笑って肩をすくめた。横断歩道を通る見知らぬ人を眺め、ハンドルの上に両手を組んで置くと、ちらりと鶴来を見た。
「そういえば、一体どれだけぶりだったのかしら? 武彦さんとの会話」
 旧知の間柄、ということを草間から聞いているだけで、一体いつからのどういった知り合いなのかまではシュラインは教えられていなかった。
 それに、小さく笑って鶴来が答えた。
「そうですね。多分……五、六年ぶりくらいじゃないかと」
「そんなに?」
 驚きの眼差しを一瞬だけ鶴来に向けてから、シュラインは盛大なため息をついた。
「久しぶりの連絡だったのに、どうせ昔を懐かしんだ、というわけでもないんでしょうね」
「ええ、依頼内容だけ言って切りましたから」
「やっぱり。これだから男っていうのはダメよね」
 もっとも草間が過去話をして昔を懐かしみたがっているかどうかは謎だが、少なくともこれが女同士だったら、きっと夜中だろうが何だろうが、どうでもいいような昔話をして盛り上がったに違いない。
「ドライなのね、二人とも」
 呆れたように言われて、鶴来は困ったような顔で苦笑をもらした。

<顕現>
 車内は、シューベルトの即興曲D八九九の第四番・変イ長調が流れている。
 もうかれこれ、ドライブを始めて二時間あまりが経過しようとしていた。
「大丈夫ですか」
 助手席に身を置く鶴来が、問いかけた。労わりの響きを持つその言葉に、シュラインが頷く。
「少し肩が凝ったかな、ぐらい。でもまだ何も起きないからもうしばらく頑張らなくちゃいけないわね」
「変わりましょうか、と言いたいところなんですが……申し訳ないです」
「本当に運転、ダメなの?」
「ええ」
 深刻な様子で呟くように低く答える鶴来に、シュラインはちらりと悪戯っぽい目を向けた。
「あのね、鶴来さん」
「はい?」
「これが無事に終わってからでいいんだけど」
「はい」
「少〜しだけ、鶴来さんの運転、見てみたいかなー、なんて思うんだけど」
「えっ」
 今までの泰然とした様が嘘のような高速の反応で、鶴来がシュラインを見る。そして慌てて左手を顔の前で振った。
「だめです。それだけは申し訳ないですが」
「大丈夫よ、これでも幾多の危険を乗り越えてきた身だし」
「いや、そういう問題ではなく」
 顔を伏せながら片手で覆い、鶴来が緩く頭を振った。
「もし何かあったら、草間になんて言えば……」
 その言葉に、シュラインがぴくりと眉を動かした。
「だからね鶴来さん、武彦さんと私は」
 言いかけたところ、ふと鶴来が顔を上げた。真顔でシュラインの横顔を見る。
 そして、ゆっくりと唇を開いた。
「そうだ、草間はどうでもいい」
「え?」
「あなたと草間は無関係であり、今はあなたと俺の関係が大事だと、そういうことですね」
「え? ちょっと鶴来さん?」
 いきなり意味不明なことを言い出した鶴来に困惑しながら、シュラインはちらりと横目で鶴来を見やる。と、その頬に向けて鶴来が手を伸ばしてきた。
「シュライン……」
 甘ったるい声で呼びかけられて、シュラインが本気で何事かと鶴来の方に顔を向けた。その頬に、ひんやりとした鶴来の指先が触れる。
 と、その刹那。
 かかっていた音楽が奇妙に歪んだ。変にスローになったりハイテンポになったり、ボリュームが大きくなったり小さくなったりし始めた。そのひどく耳障りな音に、目を眇めてシュラインが右耳に手を当てる。片手はハンドルを握ったままだ。
「何これっ」
「来たようです」
 さっきまでの甘ったるさを微塵も残していない鶴来が、冷めた声で答えながら目を細めてフロントガラスを見た。はっとシュラインも聴覚に意識を集中する。
 カタカタと、妙な音がする。
 どこからだ? ……バックミラー?
 途端。
「ッ!」
 ギッ、と溝にはまったかのように不意にハンドルが取られた。すぐさま右耳を押さえていた手を下ろし、取られてなるものかと強くハンドルを握る。
「鶴来さんっ、どうするの!」
 何か出てきたとしても、自分には説教するくらいのことしかできない。が、この状況では説教に気を取られていたら一気にハンドルを持っていかれそうである。
 ハンドルにかかる力が徐々に強くなってくる。
「く……っ」
 取られるのと逆の方へハンドルを動かす。車は勝手に左側の縁石の方へと寄ろうとする。何とか右へハンドルを切ってそれを回避する。
 が、次の瞬間、ふっとそのハンドルにかかっていた力が薄れた。力をかけていたために一気にハンドルが回り、車がセンターラインを割り込んで反対車線に入る。
 正面から、大型トラックが走ってくるのが目に入る。トラックがけたたましくクラクションを鳴らした。
「……っ、ええいっ!!」
 危険だということくらい承知しているのだと思いながら、ハンドルを左へ切ろうとするが、今度はそのハンドルが固定されて動かなくなる。
「なっ」
 正面からトラックが迫る!
「じっ、冗談じゃないわよっ!!」
 解いた髪を揺らせて、シュラインは腕の力すべてをかけてハンドルを左へ切る。そこに、シートベルトを外して懐から呪符を取り出した鶴来が、呪符ごとそっとハンドルに手を添えた。
 途端、ふっとハンドルにかかっていた力が弱まる。一気にシュラインがハンドルを切って元の車線に車を戻す。
 その横ギリギリを、トラックが通過していった。窓から手を出せば容易く触れられるほどの距離である。
 ほっと安堵の息を漏らし、シュラインが鶴来を見た。ハンドルに呪符ごと手を添えたまま、少し身を運転席側に乗り出して、端に吸盤でマスコットがつけられているバックミラーを見つめている。
「……鶴来さん、どうするの? そこに何かいるんでしょう?」
「少し、手を離します」
「え?」
「気をつけて。またハンドルを取られるかもしれない」
 緊急事態だとは思えない静かな口調で言って、素早く鶴来がハンドルから手を離す。
 と、また左側へとハンドルが取られる。くっとそれを押し留めるように力を込めて握り締め、シュラインは叫んだ。
「冗談じゃないわよ! 一体何の恨みがあってこんなことするの!」
 さっきのトラック。
 鶴来が呪符でハンドルにかかる意味不明の力を軽くしてくれたから避けられたようなものの、七鞘などが運転していたときに同様のことが起きていたらきっと、大惨事になっていただろう。
 ググッとシュラインの言葉に反発するように、またハンドルにかかる力が強まる。徐々に車が左へと揺らぎ始める。
 ガリッと何かが削れるような音がした。わずかにホイールが縁石と接触したらしい。
「つ、鶴来さんどうするのっ、ねえっ!」
 腕が、力の込めすぎでわずかに震え出す。ここでまた相手の力が抜けたら、対向車線に突っ込むこと間違いなしだ。
 目を上げたシュラインの前で、鶴来はポケットから掌サイズの小さな弓を取り出した。そして静かに弓を射る時のようにバックミラーに向けて弓を構えると、その弦を指で弾いた。
「鳴弦!(めいげん)」
 ビィン、と鋭く空を切る音が走る。シュラインが超聴覚でその音をとらえて、端正な顔をわずかにしかめた。
 酷い耳鳴りのような音である。頭がくらくらした。が、ここで意識を飛ばすわけにもいかない。キッと鋭く目を上げたところ、バックミラーのあたりに浮かんだ人の顔と目が合い、ぎょっとする。
 ぽっかりと開いた口に、虚ろな眼差し。土気色とも青色ともつかない変色した肌。
 それはひどく恨めしげな顔でシュラインを見ていた。
「な……っ、これが原因?!」
「のようです」
「どうするのっ?」
 変わらずハンドルにかかる力に抵抗しながら、シュラインがそれを睨みつける。
「一体何のためにこんなことをするの? あなたは一体誰なの!」
 けれども、人の顔は答えず、虚ろな顔でそこに浮かんでいる。ただ、ハンドルにかかる力が強くなったことで、相手が敵愾心を持ったことだけはわかる。
 いや、もとから敵愾心しかなかったのだろうが。
 唇を噛み締めて、強くハンドルを握る。そしてふと、何かを思い出したように鶴来を見た。
「……鶴来さん確か、霊を吸い取る瓢箪を持ってたんじゃあ……?!」
「……そうするしかないようですね。もう少しだけ耐えてください」
「ええ、任せて!」
 がり、とまたタイヤのあたりで音がする。修理代どうしよう、やっぱりウチ持ちかな。だったら経費で落とすしかないか。などと頭のどこかの冷静な部分が考えたりする。
 すっと、ポケットから鶴来が小指くらいの大きさの瓢箪を取り出した。そしてバックミラーのあたりにいるモノに向けてその瓢箪の蓋を開け放つ。
 異形のものを呑み込む悪食な瓢箪が、解放される。
 まるでブラックホールのように、瓢箪がその異形のものを吸い込み始める。必死にもがくようにバックミラーにしがみつく異形のものに、シュラインが青い瞳を鋭く射るように向けた。
「これ以上、誰にも手出しはさせないわよ。何のためにここにいるのか知らないけど、これで終わりね」
 紡がれた言葉が、その異形のものに最期を悟らせたのかどうかはわからない。
 だが、それまでの執着が嘘のようにするりとバックミラーから離れると、それは瓢箪の中へと吸収されていった。

<終>
 道端でハザードを出して車を止めると、シュラインは一つ大きく伸びをした。
 そして手を下に向けてぶらぶらと振りながら、案じるようにその様を見ている鶴来に肩をすくめた。
 さっきの、異変が起こる直前の不可解な鶴来の態度の理由が、ようやくわかったのである。
「出てこない霊に苛立って、芝居を打ったのね」
「ええ、まあ、そういうことです」
 苦笑しながら、鶴来はバックミラーを助手席の方へと向けた。そして、そっとそのミラーに手をかける。
 と、その鏡の部分が外れた。元のバックミラーの上にもう一枚、鏡がかぶせてつけられていたのである。
 その外れた鏡の後ろから、一枚の呪符が現れた。
「それのせいであんなものが憑いていたの?」
「おそらくは」
「鶴来さんはあれが何者か、わかったのかしら?」
 問いに、鶴来は呪符を綺麗に折りたたんで小声で何かを呟くと、スーツの内ポケットから取り出したライターで火をつけ、車備え付けの灰皿に放り込んだ。一気に炎は呪符を嘗め尽くし、瞬く間に消え去る。
「前の車の持ち主、でしょうか」
「どうしてそんな人が?」
「……この車でよく彼女と出かけていたのでしょう。その彼女に裏切られ、失意に陥ったその男が、思い出の残るこの車に悪戯で呪詛をかけて売りに出した。そんなところでしょうか。最近は呪詛のための本などいくらでも売っていますから」
「じゃあ前の持ち主はもうこの世にいないのかしら。ものすごい形相だったけど」
「あれは生霊です」
 眉宇をひそめるシュラインに、鶴来が灰皿の蓋を閉めながら続けた。
「幸せそうな恋人たちに、呪符に宿されていた憎しみの情念が反応して、彼の生霊を呼び込んだのかもしれません」
「だったら、霊障が起こる条件の『おとなしそうな女性と男前』っていうのは、おとなしそうな彼女が自分を裏切って創った彼氏が男前だったから、とかそういうこと?」
「……かもしれません」
 やれやれと、シュラインはまた肩をすくめた。
「憎むならその自分を裏切った女だけ憎めばいいのに。傍迷惑もいいところだわ」
「まあ、すべては予測にすぎませんが」
 懐にライターをしまいながら、鶴来はふと神妙な顔になってわずかに頭を下げた。
「先ほど、お名前を呼び捨てにしてすみません」
「え? ああ……びっくりしたけど、まあ結果オーライだから気にしないで」
 言いながら、バッグから取り出した髪留めで広がった髪を一つに束ね、シュラインはシートベルトを外した。そして運転席から降りようとするシュラインに、怪訝そうに鶴来が問いかける。
「あの、どちらへ?」
「どちらへって? 決まってるじゃない」
 にっこりと艶やかな微笑を浮かべて、シュラインは鶴来の座る助手席を指差した。
「そっちへ」
「……まさか」
「だって、私もう握力ほとんど残ってないし」
 さっきのハンドルを挟んでの霊との格闘で酷使した腕をぷるぷると振りながら、シュラインはさらににっこりと微笑む。
「帰りはお願いしますね、鶴来さん」
「……本気ですか?」
「本気です」
 あっさりと答えられて、鶴来はしばし困ったようにシュラインを見ていたが、シュラインがさっさと運転席から降りてしまったのを見て、諦めたように彼もまた助手席から降りた。
「どうなっても知りませんよ」
 運転席についた鶴来のその言葉に、助手席に収まったシュラインが頬に手を当てた。
(……もしかして、泣くほど怖い運転だったりして)
「しっかりシートベルト締めておいてください、頼みます」
「ああ、はい」
 言われたとおりにしっかりベルトを締める。思いつめた顔で目を伏せて胸に手を当て、数度深く深呼吸する鶴来の様が、なんだか妙に面白いものに思える。
 そして、ゆっくりと目を開くと、鶴来がようやくハンドルを握った。
 ハザードを消し、右へ方向指示器を出す。
 硬い表情で、ゆっくりと車を発進させ――ようとしたところ、シュラインがとん、とその肩を叩いた。
「鶴来さん」
「はい?」
 顔を自分に向けた鶴来の視線を、シュラインが人差し指で下へと導く。
「サイド、引いたまま」
「…………」
 シュラインの細い指を追って視線を落とした鶴来は、下ろされていないサイドブレーキを目に留めてしばし止まる。
「……すみません。忘れていました」
「……鶴来さん、免許持ってるわよね?」
 思わず確認してしまうシュラインに、鶴来は目を逸らしながら小さく頷いた。
「ええ、一応」
「一応? もしかしてペーパードライバー、だったり?」
「……普段、乗らないようにしていますから」
 言って、目線をシュラインに戻して鶴来は問うた。
「やめさせるなら今ですよ?」
「……いいわ、行ってちょうだい」
 指でフロントガラスを指し示すと、シュラインはサイドブレーキを下ろした。やむなく、今度こそ鶴来は車を発進させた。
 が、慌ててシュラインがその肩を掴んだ。
「鶴来さん、ブレーキ!」
「っ」
 言葉に反応して、慌てて鶴来がブレーキを踏んだ。その車の前を、後ろから走ってきた車が掠めて通り過ぎていった。
 クラクションの音とともに。
「……もう一度聞くけれど」
「免許は持っています」
 すでに車を出す前から疲れた様子のシュラインに、先回りするように鶴来が答える。そして、左右を確認してゆっくりと車を、今度こそ本当に、ようやく発進させた。
 ほっとシュラインがようやく吐息をつく。が、それも束の間。
「つ、鶴来さんっ!?」
「え?」
 慌てて、横からシュラインが手を出してハンドルを左に切った。プァーン、というクラクションを鳴らし、その真横をトレーラーが通過した。
「……あれ……?」
「反対車線走ってどうするのっ!!」
 と言っているそばから、はっとシュラインがハンドルを少し右に戻す。
「ガードレールにぶつかる気?!」
「……いえ、そういうつもりでは」
「ちゃんと前見てるの?! 信号赤ッ、ブレーキっ!!」
 言われて急ブレーキで止まった車は、停止線を大幅にオーバーしている。
 まだ走り出して5分も経過していないというのに、すでにぐったりした気持ちでシュラインは鶴来を見やった。
「……もしかして、死ぬ気満々?」
「いえ、そういうわけではないんですが」
「だったらなんでこんな運転するの?」
「だから言ったでしょう、俺が運転したら危険なことになるので、と」
 言って、鶴来はハンドルから手を離すと、ポケットから再び掌サイズの弓を取り出して、大儀そうに弦を弾いた。
 途端、周囲のガラスにべったりと血まみれの人や猫、犬などの顔がいくつも浮かび上がった。まるで運転席からの視界を阻むようにべったりと貼り付いている。
「な……こ、これはっ」
 思わず顔を引きつらせたシュラインに、ポケットからさらに瓢箪を取り出して、また面倒そうに蓋を開けてガラスに張り付いたモノを吸い取り、鶴来は苦笑した。
「どうも俺は、運転しているとこういうものを自分の前に呼び込んでしまうようなんです。視る力が強すぎるから、これのせいで前が見えなくなるんです」
「そ、そういうことは先に言ってよ!」
「聞かれなかったので」
「聞かれなくても普通は言うでしょう!!」
「そうですか? ……さて、どうしますか。このまま俺が最後まで運転しましょうか?」
 にっこりと笑った鶴来に、シュラインが即座にふるふると頭を振ったのは、もはや言うまでもない。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 シュライン・エマさん。再びお会いすることができてとてもうれしいです。
 改造による異変、という面白い点に注目してくださっていたのが印象的でした。そして前回の「花散華」でのことを話題として出してくださっていたのがとても嬉しかったです。
 ちなみに、鶴来に運転させる、というプレイングをかけてくださっていたのはシュラインさんだけでした。なかなか豪気だなシュラインさん、と密かに思ってました(笑)。

 よろしければ、お手隙の時にでもこの作品についての感想などいただけるととても嬉しいです。
 それでは、また会えることを祈りつつ。
 今回はシナリオお買い上げ、本当にありがとうございました。