 |
The Past Diary
≪華眠〜kamin〜≫
開け放たれた窓に、薄ピンク色のカーテンがそよいだ。
舞い込んだ風が、優しく頬をくすぐる。その心地好さに、僕は一瞬だけ目の前の現実を忘れて瞳を閉じた。
「で、どうなんでしょう？ 娘は目覚めるんでしょうか‥‥？」
遠慮がちに問いかける声が、フッと僕を現実に連れ戻す。
あぁ、そうだ。僕は依頼を受けに来たんだったっけ。
自分にそう言い聞かせながら、僕は先程まで読んでいた彼女の日記をそっと閉じる。
彼女 ＝ 橘香織（たちばな・かおり）
この春、都内の名門進学校に入学したばかりの高校一年生。ただいま両親が離婚訴訟中。当然、彼女の親権なんかでも大もめにもめている‥‥らしい。
「えぇ、なんとかなるとは思いますよ。今すぐに――ってのは無理ですけど」
僕の言葉に香織ちゃんの母親の顔が、グルグルと表情を変える。そんなに心配なら、どうしてこんなに子供を追い詰めるまで放置しておいたんだって言いたくなるのは、他人である僕の勝手だって分かってるから口にはしない。
事の起こりは一週間程前。いつも通りに眠りに着いた香織ちゃんは、それから全く目を覚まさなくなった。
医者にも来てもらったけど、体には何の異常もなかったそうで。
そうして数日する内に香織ちゃんの母親は、机の上に置かれた彼女の日記の異変に気付いたらしい。
最初のページは小学校の入学式。両親に手を引かれて潜った校門。
２ページ目は同じ年の夏休み。家族で旅行した北海道。
次のページも、そしてまた次のページも。楽しかった思い出ばかりが綴られた日記。
「私達は‥‥それほど娘を追い詰めていたんでしょうか？」
何を今更。
そんなこと、当然言わないけれど。
彼女の日記の日付は覚めない眠りについた、そこから始まっていた。そして毎日毎日１ページづつ増えて行く。
現実のプレッシャーに潰された、多感な少女の心の叫び。
＊＊＊ ＊＊＊
「というわけで。過去に閉じこもっちゃってる香織ちゃんに自分の体験談を聞かせて‥‥って言うか、彼女の日記に書いて聞かせて上げられる人を募集しますっ」
場所は草間興信所。いつも通りフラリとやって来た仲介依頼人の京師紫（けいし・ゆかり）の言葉に、居合わせた所員達は顔を見合わせた。
「今の自分がここにあるワケって言うのかな？ どんな転機があって、その時どんなことを考えて、どんな選択をしたのか。そして今、その事をどう思っているのか」
開け放たれた草間興信所の窓からも、あの日と同じ初夏の風が吹き込んでいる。
小さく聞こえる喧騒の中に混ざる、おそらく学校帰りであろう学生達の声。
「香織ちゃんが目覚めるか目覚めないか。そしてもし目覚めたらその後どんな道を選ぶのかは皆の話次第。ねぇ、誰か手伝ってくれないかな？」
静寂が支配した室内に、どこからか風で運ばれて来た楽し気な笑い声が響いた。
＊＊＊ ＊＊＊
その日、橘家を訪れたのは仲介依頼人である紫と、五人の面々だった。
フリージャーナリストの花房翠。
監察医を目指す医学部生の紫月夾。
何かある度に京都の自宅から日本全国に出現する高校生、鷹科碧。
幼顔の派遣社員、唐縞黒駒。
そして作家活動などに勤しみながら草間興信所でアルバイトをしているシュライン＝エマ。
軽く挨拶をしただけで通された香織の部屋は、どこにでもあるごくごく普通の少女の部屋だった。
「それじゃ、一人一人順番にその日記に自分の思い出を書いていってくれるかな？」
紫の指示に、五人は眠る少女と、まだほとんどが空白の日記帳を交互に見比べる。
「取り敢えず……そうだね、最初は花房くんってことで」
そう言いながら、そっと紫は閉ざされていた窓を開け放つ。
太陽はまだ空高く、世界は気だるい昼下がりに薙いでいた。
≪接触 …【花房翠】…≫
触れる事を コワイと思った
そこから先は どこまでも どこまデも ドコまでも どこマデも ドコマデモ
ただ無限に 続いて行く 果てのない 闇
人の 心と言う
悪意 の 巣窟
触れることが、ただ怖かった。
伝わる感情が、俺の正気を崩壊させた。
＊＊＊ ＊＊＊
高い天井の梁を見上げて俺は長い溜め息をついた。
今よりそれが遥か遠くに感じられていた幼い頃、木目が人の恐ろしい顔に見えて仕方なかった事がフッと脳裏を過る。
そういう時は、とにかく天井に目を向けるのがイヤで、眠る時も頭まで布団に潜り込んで丸くなってたんだっけ。
今思えば、あまりに可愛らしい幼い自分を思い出し、翠の頬に苦い笑みが浮かんだ。
脅えた子供を温かく包んでくれる腕さえ持たない冷たい家。
泣くのも、そして笑う事さえたった一人だったこの家。
由緒正しいどっかの誰かの血をまっすぐに引いたとか、未だに近所の人が思わず門の前で頭下げちまうとか、俺の知らない人が俺を知っている事が当たり前の家。
視線を馳せる。
重い木の柱に、擦っても決して崩れ落ちる事のない土の壁。何とか時代の有名な作家が筆を取ったという随分と色のあせた、それでも品の漂う襖。
防音効果も何もあったもんじゃない障子には、精巧な透かしの入った和紙が張られている。
古い格式をそのまま絵に描いたような世界がそこにはあった。
不似合いなオーディオ機器が、僅かな人工光を灯しているのが何故だか笑える。
俺を縛り続けた『旧家』という家。
「……息が詰まるんだ」
誰に聞かせるでなく呟いて、取り敢えず当座の荷物を詰め込んだだけのスポーツバッグを肩にかける。
足音を消して慣れ親しんだその部屋から一歩踏み出す。
ギシリ、と音のない漆黒の世界に床板の軋む音が小さく響いた。
「…………」
最後に振り返ったのは、開けた玄関から差し込んだ月の光に照らされた長い廊下。
終わりの見えない深遠の闇へと続くそれは、まさにこの家そのもののように思えた。
春先とはいえ、夜明け前にはかなり気温の下がる冷たい風がチクリと俺の頬を刺す。
全身に走った細かな震えは、寒さからだったのか、ここから開放される事への歓喜からだったのか、これから始まる新しい生活への不安からだったのか、それとも第六感が告げた俺自身への警告だったのか。
高校卒業と同時。
その日、俺は生まれ育った家を捨てた。
空には優しい微笑みを浮かべた月が浮かんでいた事を、覚えている。
否。
ひょっとして、彼女はこれから先に起こる事を知っていて、俺というちっぽけな存在を嘲笑っていたのかもしれない。
＊＊＊ ＊＊＊
赤茶色に隅々が変色した階段は、一歩足をかける度にやたらと響くイヤな音を立てた。
剥き出しの蛍光燈が、周囲の闇にまるで謎かけをするように明滅を繰り返す。
家を出てから数日、親に気付かれない交友関係を選びながら――いや、家を否定する子供など我が子ではないと、いきなり縁を切られていたかもしれないが――友人宅を転々とし、ようやく保証人無しで借りる事の出来た部屋は、築年数なら俺の実家に匹敵するのではないだろうかと思える程のボロアパートだった。
小さな流しとトイレ、半間に満たない押し入れと六畳の和室。東南向きと不動産屋は言っていたが、目の前に鉄筋コンクリートのマンションが建っているせいで、日が窓から差すことは一日中ない。
今や唯一の財産とも言えるバイクはありったけの鍵をかけて、屋根のない共同駐輪場に置いてある。
街灯に照らされたその姿を視界に写しながら、俺はそっと溜め息を吐き出し鈍い痛みを発し始めたこめかみをキツク押さえた。
不定期に襲ってくるそれはいつ始まったのか。
家を出る前からだったような気もするし、ここに越して来てからのような気もする。
ただ毎日、その痛みが酷くなっていく気がする事が、まだアルバイト先も決まらない現状とあいまって、俺の気分を陰鬱な物にしていた。
精一杯、足音を殺して冷たい鉄の扉の前に立つ。
作り付けの郵便受けには前の住人が転居届けを出していないのか、俺宛ではない封書がピンクチラシと一緒になって詰め込まれていた。
「……ただい…っ」
「あるだけ」と言った感の鍵を開けてドアノブに手をかけた瞬間、目眩を伴った激しい頭痛に、俺は傾ぐ体をドアに預け、崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
『っち、今日も留守かぁ……』
自分より幾らか年上の男の物と分かる声が聞こえた。
『けっこう良いナリしてたから、押せば新聞くらいとってくれると踏んでるンだけどよぉ』
着古したジーンズに、よれたパーカー。
見るからに金に不自由してそうなその男は、ドアノブに手をかけたままガンっと鉄の扉を蹴り付けた。
『居留守、使ってンじゃねぇよな』
バイクは下にあるし。
けれど室内からは物音一つしない。
主の不在に諦めたのか、その男は郵便受けの中から一枚のピンクチラシを抜き取り、部屋の前を後にした。
「……なっ……んでっ」
額に冷たい汗が玉のように浮かんでいたが、そこまでは意識が回らない。ただ酸素を求めてあえぐ金魚のように荒い息だけを繰り返す。
何だ？
今、俺は何を視たんだ？
いや、違う。
視たんじゃ、ない。
脳裏に人の声と姿と行動が浮かんだんだ。
そこまで思い至り、俺はドアノブを握り締めたままだった手が、まるで死人のように白く硬直してしまっている事に気付いた。
気を取り直してゆっくりと立ち上がり、あいた手で固まった手の指一本一本をそっと引きはがして行く。
固まっていた手が完全に自由になって、今度は両手でドアノブに触れる。
幻は何も視えなかった。
そう、あれは幻だったのだ。
急激な生活の変化に疲れていた体が、安寧を求める訴えだったのだ。
いつの間にか消えていた頭痛に、俺は気付かないままその日は遅い夕食を摂ることも忘れていつもより早い眠りについた。
今日の出来事は、全て疲労が見せた幻だったのだと、そう結論付けて。
けれど、その考えこそが甘い幻だったという事を、俺はすぐに思い知る事になる。
＊＊＊ ＊＊＊
その日は、朝から重い雲が天を覆っていた。
新聞社で雑用の仕事をしながら機会がれば記事を書かせてもらえるチャンスを与えられることになり、収入の安定が多少は約束された事もあって、俺は久し振りにバイクで走る事にした。
時折やってくる偏頭痛は相変わらずだったが、それにも慣れてしまったのか。目覚めと共に痛み出したそれを抱えながらも、俺は出かける予定を覆すつもりはなかった。
しまいっぱなしだったヘルメットを持ってアパートの階段を降りる。カンカンカンという夜聞くと不気味に響くその音も、明るい内に聞けばなんだか小気味良いリズムのようだと俺は思った。
あぁ、これからこういう感じが俺の日常になるんだ。
気持ちに久々の余裕があったからかもしれない――その瞬間は俺を嘲笑うように突然やって来た。
クルーザータイプの愛車に近寄り、念には念をで幾つもセットした鍵の一つに触れた瞬間、俺は目には見えない雷撃に打ち抜かれる。
『っつか、外れないってこの鍵』
『げーサイアク。よっぽどコイツの持ち主セコイんじゃねぇの？』
『言えてるよな〜。んなボロアパート住んでる癖に、んなもんに乗る方が間違いだって』
『そうそう、だからオレ達が貰ってあげようっつてんのにさ〜』
外れない鍵と格闘する、私服姿の少年が三人。
身元に繋がるような物は持っていないようだが、三人とも揃いのスポーツバッグから、恐らく近辺にある学校の同じクラブ仲間であろう事が知れた。
『やべっ、人が来るぜ！！』
少年の内の一人が小さく耳打ちする。
すると即座に顔を見合わせた彼等は、すぐさま何事もなかったようにその場から不自然にならない速度で遠ざかった。
『っち、だっせーの』
最後までバイクに触れていた少年が、そう言い捨てマフラーを蹴り飛ばす。
鏡のように世界を映すその銀色のマフラーに、少年の靴がキッチリと跡を残した。
胃から何かがせり上がって来るような不快感に、俺は咄嗟に口元を覆う。先ほどまで我慢できる程度だった頭痛が、首筋に冷や汗が浮かぶほどの激痛に変わっている。
なんだ、今のは？
脳裏に走ったあまりにもリアルな幻に、俺は息をする事も忘れて立ち竦んだ。震え出す足元。
しっかりしろ！
そう言い聞かせる様に自分の足に目を落し、見てしまった。
今、幻で見た映像と同じ現実を。
少年がバイクのマフラーに残して行った足跡。
違う、違う！
そうじゃない！！
そうだ、最初にきっとあの足跡に気付いて俺は勝手に自分であんなことがあったのだろうと想像したんだ。
そうだ、きっとそうに違いない。
頭痛も酷いし、きっと風邪でも引いて熱があるんだ。
だからあんな事を思いついたんだ。
必死になって自分にそう言い聞かせ、元来た道を駆け足で戻る。もうバイクで走ろうなんて気分じゃなかった。
一刻でも早く、薬を飲んで眠るんだ。
それしか頭になかった。
乱暴な足音を響かせて、自分の部屋に転がり込んで後ろ手で鍵を閉める。カチャリという冷たい金属音が、一瞬だけ俺の沸騰寸前の思考回路を冷やしてくれた。
小さな冷蔵庫から買い置きのペットボトルを取り出し、一杯分だけコップに注ぐと一気に飲み干す。
ゴクリと鳴った喉が立てた音に、更に自分を取り戻した。
先日、買ったばかりの風邪薬の箱に手を伸ばす。
指先がそれに触れた瞬間、俺の思考は完全にスパークした。
『これさー、一気に全部飲んだらドラマみたいに死ねるのかなぁ？』
『何、あんた自殺願望でもあるワケ？』
『チガウ、チガウ。あたしじゃないよー。今のカレシ、そろそろウザくなって来たから逝ってくれないかなーなんてサー』
『別れりゃイイじゃん』
『えー、でもたまにはそういうスリルがあっても面白いと思わない？』
新聞社の近くにあるドラッグストアー。
女子大生らしい二人連れの秘密の会話。
互いをバカだバカだと言い合いながら、けたたましい笑い声を上げている。
「――――っ！」
声にならない悲鳴を上げて、俺は手にした薬箱を部屋の隅めがけて投げ付けた。
ぐしゃりと潰れた箱から、今の衝撃で保護ホイルが破れたのか、白い小さな錠剤が転がり落ちる。
ころり。
ころ、ころころ。
叫ばなかったことは奇跡だったかもしれない。
いや、実際には叫んだのかもしれない。
けれど俺の意識は、それを認識できるほど自分自身へは向いていなかった。
他人の意思に押し流されて行く自我。
狂う――そう、確信した。
＊＊＊ ＊＊＊
『まぁ、その後は酷かったな。
街に出るなんて……いや、俺以外の人間がいる場所に足を運ぶ事が出来なくなった。
分かるか？
ぶつかった肩、すれ違いざま衣服を掠めた指先。
たったそれだけで、そいつの中にある全ての感情が流れ込んでくるんだ。まるで崩壊したダムみたいな勢いで、濁流になって。
おまけにだ、それに気を取られてその辺の壁になんてもたれてみろ。
それこそ地獄だったな。
飛び込んでくる声、声、声、声。
甲高い女子校生の金切り声に、酔っぱらった大学生のバカみたいな雄叫び、公園デビューしたばっかのオバサンのヒステリックな苛立ちに、世間を嘆くだけで、手段を講じず流されてるだけのオッサンの恨み言。
そいういうのが映像と一緒になって頭の中を掻き回すんだ。
雑菌だらけの素手で、容赦なく。
鷲掴みにして、グチャグチャって音が俺以外の人間にも聞こえるんじゃないかってくらいの音をたてて。
……本当に狂ってしまわなかったのは奇跡だと思う。
いや、一度は狂ったのかもしれない。
この忌まわしい「サイコメトリー」という能力のせいで。
でも、不思議だろ？
今俺はこうして普通に立ってここにいる。
泣くことだって、笑う事だって、誰に干渉される訳でなく、誰に影響されることなく自分の意志で出来てるんだ。
そして忌々しいばかりだったこの能力とも、今はキチンと付き合えてる。
制御さえ上手く出来るようになれば、結構使えるモンだったんだぜ？ 信じられるか？
俺、この力で困ってる人を助ける事とか出来るようになったんだぜ。
生活だって充実してる。
ずっとやってみたいと思ってたジャーナリストなんてもんに運良くなれちまって……っつか、まだ新米だからとにかく足で情報集めて体当たり勝負な所もあるけどよ、とにかく今、生きてて良かったって思えるんだ。
自分の意志で家を出て、自分で選んで道を決めて。
苦しい事ばっかだったけどよ。
でも、楽しい事だってあるんだ。
そして……俺を必要だって、『花房翠』という俺自身を大事だって言ってくれるヤツにも出会えたんだ。
だから、なぁ。
あんたもこのまま眠りっぱなしってのはあんまりにも勿体ねぇんじゃないの？
もう一回、目を開けて周囲を見てみろよ。
世界は絶望だけに満ちてる訳じゃないって事、俺が教えてやるからさ』
そう、俺は知っている。
触れた指先から伝わる感情が絶望だけではない事を。
人の心の中には、いつだって希望って光があることを。
俺は、この能力でそのことを誰よりも深く深く知っている。
触れる事は、もう恐怖ではない。
確かに容易に開けて良いパンドラの箱ではないけれど。
もう コワクはナイ
人の心には 悪意だけが 潜んでいる わけでは ない から
＊＊＊ ＊＊＊
………ワカラナイ。
ワタシには特別な力なんてないから。
アナタみたいに強くはなれないから。
みんなみんな、ワタシから離れて行ってしまうから。
誰もワタシなんて助けてくれる人はいないから………
≪永櫻 …【紫月夾】…≫
『……次は俺の番か。
多少重い話だが……出来れば聞いて欲しい。
目を逸らさないで、こういう現実もあるのだと知ってほしい。
四条叶……それは親友、そして俺が初めて屠った者の名。
出会いは中学入学後。柔和な笑みと親しげな口調は不思議と嫌ではなく、他と係わり合いを持とうとしなかった俺を初めて動かした。
出会いから二週間後の夜、俺は初めての任を父から言い渡された。
依頼内容は――叶の殺害。
それは四条グループ総帥の座を狙う者の企て。
四条家に潜入した俺は迷わず叶の部屋へと向かった。
そして……信じられないかもしれないが、俺の顔を見た叶は笑みを浮かべて『待っていたよ』と告げてきた。
叶には『夢視』という未来を見る力があり、その力で俺の来訪、そしてその意図を予見していたと言うのだ。
自らの死を予期して何故逃げなかったのか、そう問うた俺に帰って来た叶の答えは『未来は変わらない』。
叶は己の力を疎み、運命を断ち切る俺の訪れを待っていた。
………俺は躊躇わず糸を放った。
最後に見た叶の表情は穏やかな笑みだった事を俺は今でもはっきりと憶えている。
消えて、初めて知った喪失感。
俺は……我知らず泣いた。
だが後悔はしない。
例え決められた未来だとしても、その道を選んだのは自分なのだから。
香織……運命とは自分の手で選んだ先にあるものだ。
今ここで全てを投げ出すには……全てを諦めるにはお前はまだ世界を知らなさ過ぎる。
だから香織。
もう夢は終わりだ。
目を覚ませ………』
＊＊＊ ＊＊＊
………カワイソウ。
アナタは親友を自分の手で殺したの？
それでもアナタはそれが自分の選んだ運命だと……そう言うの？
何故、どうして？
どうしてあなた達はそんなに強くいられるの？
≪宣誓…【鷹科碧】…≫
『で、今度は俺の番ってね。
……過去話なんてあんまりしたいもんじゃねえんだけどさ。
実は俺、六つの時、俺は東京に住む家族から引き離されて、京都に住む祖母の家に連れてかれたんだよな。
祖母が預かる小さな神社の後継になる修行の為にってさ。
その時の俺は、ただ兄貴と離れたら寂しいなって、思ってた。
でも、あの時離れた事、俺は今でもものすごく後悔してる。
俺が家族と離れて過ごして過ごしてた時にさ、事件があってさ……両親が殺されたんだ。で、兄はその時の衝撃で記憶をふっ飛ばしちまっててさ。
あの時離れたりしなければ、兄は記憶をなくさずに済んだかもしれない。
俺がいたら、兄は一人で……無惨に引き裂かれた両親の遺体の傍にいずに済んだんだかもしれない。
兄一人にツライ思いをさせずに済んだんかもしれない。
……後悔先に立たずっての見本みたいなもんだぜ。
だから俺は、これからはどんな時でもずっと兄の傍にいて、もう誰からも何からも傷つけられずに済むように護ってやるって決めたんだ。
それがこそが俺の生きる理由。
……なあ。縋れる過去があるなら、まだいいじゃん。
あんたはまだ親だって生きてるじゃねえか。
言いたいことあるなら言えるじゃねえか。
話くらいなら聞いてやるからさ……そろそろ目ェ覚まさねえ？』
＊＊＊ ＊＊＊
あなたも……強い人なのね。
それともこんなに弱いのは私だけ？
そして……縋れる過去があるって……それだけで幸せなの？
ワタシ、そんな風に考えたこともなかった。
ワタシは……ワタシは……私は……――――
≪改革…【唐縞黒駒】…≫
『今度はボクの番ですね。
そろそろ香織さん、目を覚ましてくれないでしょうか？
僕の仮定環境が……あっ、家庭環境のミスです。ごめんなさい……なんかチャットでミスしてる見たいですね。ボクって本当にこういうの多いんです。
って笑ってるる場合じゃなかったですか？
ごめんなさい変わりにこの砂時計あげますね。
こないだ貰った見たい夢を見せてくれる不思議な砂時計らしいんですよ。
僕の家は両親とも忙しくて、なかなか家にいてくれませんでした。
下手に裕福な事もあって、何かに心配して会いに来てくれるなんてなかったです。
だからこの依頼を受けた時、正直羨ましいなって思いました……ごめんなさい。
学校もエスカレ−タ−で何の苦労もなくて、ただ生きて来て……それでいいと思ってたのです。
でもある日、お医者さんになっていた中学時代の友達に「お前は１５歳のままだ」って言われてショックを受けました。
そんなことないって思っていたんです。
ちゃんとボクだって成長してるって。
でも……違ったんです。違ったからこそ、悲しくて悔しくかったんですね。
でも、今までのままじゃ何にも変わらないから。
だから自分に出来ることをやってみようと思ったんです。
取り敢えず、色々な資格試験や免許をとりました。
免許の種類とマ−クが増える度に自分の空白が埋まっていく気がして……
ごめんなさい、ボクの話、楽しくなかったですよね。
でもでも、香織さんも変わらないまま諦めちゃだめだと思うんです。
どんな状況だろうと心配してくれる人がちゃんといるじゃないですか！
だから、だから。
起きて下さい』
＊＊＊ ＊＊＊
私が羨ましい？
私も変わらなくちゃいけない？
私も変わる事が出来る？
私が自分の意志で選んで………？
≪言葉…【シュライン＝エマ】…≫
『で、いよいよ私で最後ってワケね。
香織ちゃん、ちゃんと目を覚ましてよ？
……で、過去話だけど……不幸自慢回避にぼかしときましょうか。
昔ね、自分の声を失った女のコがいたの。
多感な年頃でね未遂だし何て事ないある人の行動に傷付いて。
でも完全な人間不信に陥ったのは周囲の人間が裏で噂してた事実無根の中傷でよ。
その中傷は耳の良い彼女には丸聞え。
それから彼女は……逃避したの語学に。
ありとあらゆる言語をものにする為に没頭。
その様はまさしく語学オタクって感じだったらしいんだけど……その彼女、ふと気づいたらしいのよ。
言葉ってのは人との交流の道具だって事に。
翻訳家が夢とは言えこの逃避先選んだのは人に誤解されず理解して欲しい表れじゃないのかって。
おかしな話だと思わない？
ねぇ、この日記もそんなとこない？
逃げ込みながら、助けて欲しいって叫んでない？
私には……そう『聞こえる』わよ？
そうそう、言葉を……声を失った女のコだけど。
その後頑張って、失くしたものちゃんと取り戻したらしいわよ。
結果、気づけばとある興信所でアルバイトなんか始めちゃってて。
随分と図太くなったらしいわ。だって仕事柄依頼人嘘の言葉ほぼないし。
でもね、彼女の声……実は昔の自分の声を模写なんですって。
失ってた間に忘れちゃったらしくって。
世界はね、目を向ければどこまでだって広がって行くの。
閉じこもってなんかいたら、本当にもったいないの。
振り回されて目や耳を閉ざすんじゃなくて、自分の手で掴み取っていかなきゃ。
誰かの為に人生損するなんて、本当にもったいないわよ。
だから、そろそろ起きましょうよ。
これ以上寝てたら、本当の自分の記憶を忘れちゃうわよ？』
＊＊＊ ＊＊＊
世界は自分の手で広げる物？
誰かに振りまわされて生きていくのはもったいないこと？
……私も、強くなれるのかな？
あなた達みたいに、私も自分で自分を変えていけるのかな？
≪選択…【橘香織】…≫
そっとシュラインが最後の筆を置いたと同時に、黒駒が香織に送ったガラスの砂時計の砂が全て落ちきった。
夕暮れ色に染まり始めた西の空から贈られた風が、擽るようにその部屋にいた全員の頬を掠めて消える。
無言の時が、ゆるゆると流れていく。
息を詰めた重苦しい空気が、室内を満遍なく覆うとした瞬間、それはやって来た。
「……………んっ……」
香織が小さく身じろぐ。
突然舞い込んだ強い風が、彼女の日記の空白のページをパラパラと捲ると、再び天を目指して外の世界へと駆けぬける。
「香織？」
たまらず翠が、ベッドの傍らに立つ母親に並んで彼女に呼びかけた。
碧が口の中だけで小さく謳う。
シュラインと黒駒が両手を合わせて祈った。
夾は部屋の片隅に立ち、ただ穏やかに見守りつづける。
「………お母さん？」
ゆっくりと目蓋が押し上げられ、閉ざされていた唇が小さく言葉を紡ぐ。
「香織！！」
母親が香織に縋りつくように、ようやく長い眠りから覚醒した娘を抱き締めるのを横目に見ながら「混乱させちゃ悪いから」と紫が五人の協力者の背中をそっと押す。
「この日記、僕が貰って行きますね」
それぞれに安堵の表情を浮かべた五人と共に部屋を去り際、紫が香織の日記帳にそっと手を触れた。
その瞬間、脳裏に浮かんだ光景に、翠は足を止めた。
小さな子供を抱き上げる黒髪の青年と、傍らに薄茶の髪の女性。
子供を見つめる二人の瞳はどこまでも優しく、深い慈愛に満ちていた。
『これからだって色々なことはあるだろうけれど』
黒髪の青年が、抱き上げた子供の瞳を見つめて呟く。
『乗り越えようと言う意志があれば、どんなことにだって負けないわ』
寄り添った薄茶の髪の女性が、そっと黒髪の青年に腕を絡める。
幼い子供が青年の首にしがみつき、キャッキャと楽しげな笑い声を上げた。
「はい、持って行ってしまってください」
まだ何が起こったか分らない様子の香織を抱き締めたままの母親の、そう告げる声で翠は我に返った。
何が起こったのかは分らなかったが、周囲を見るとそれは全員同じようで。五人が揃って何らかの精神的影響下に置かれた事を悟った。
……なんかよく分らねぇけど……誰かの記憶を読んじまったのか？
一瞬目があった紫に微笑まれて、翠は何となく誰の記憶を辿ったかの当たりを付けて再び歩を進め始める。
閉ざされた部屋の扉の向こうからは、泣きながら娘に謝る母親の声が密やかに漏れ聞こえていた。
＊＊＊ ＊＊＊
後日、五人の元に郵送で手の平サイズの包みを添えられた手紙が届けられた。
以外と綺麗な字で手書きで記された差出人の名は「京師紫」。
『香織ちゃんは、家を出て一人暮しを始める事になったそうです。
さらに、どういった経緯ではかは知りませんが、草間興信所にとても興味を持ったそうで。今は興信所近くの不動産屋さんを片っ端からあたっているそうです。
近々新しいアルバイトの女の子が増えるんじゃないんでしょうか？（笑）
そうそう、同封したのは今回の報酬です。
その人の望む記憶を一つだけ消してくれるガラスの小ビン。
使い方は至ってシンプル。忘れたい事を念じて、蓋を閉めてから近くの川に流しちゃってください。
例によって例の如く、僕が近くにいる時でないと使えないのが難点ですが。
ではでは本日はこの辺で。
また良ければ別の依頼で皆さんにお会い出きる事を楽しみにしています。』
世界を覆う風には、迫り来る夏の息吹が内包されていた。
時が巡り、また新しい季節がやって来る。
一つの出来事を思い出にして、また新たな出会いを繰り返す為に。
そうして時間は、時に厳しく、時に優しく流れていくのである。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
【0054／紫月・夾（しづき・きょう）／ 男 ／ 24 ／大学生】
【0086／シュライン・エマ／ 女 ／ 26 ／翻訳家＆幽霊作家＋時々草間興信所でバイト】
【0418／唐縞・黒駒（からしま・くろこま）／ 男 ／ 24 ／派遣会社職員】
【0454／鷹科・碧（たかしな・みどり）／ 男 ／ 16 ／高校生】
【0523／花房・翠（はなぶさ・すい）／ 男 ／ 20 ／フリージャーナリスト】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
初めまして、ＯＭＣの魅惑にとり憑かれたひっそりライター、観空ハツキです（←はい？）｡この度は京師紫からの依頼を受けて頂き、ありがとうございました。
今回は、事前申告とおリ変則シナリオで皆さまの過去を書かせて頂きました。なんだか皆さま、本当に色々と重いものを背負ってらっしゃる方が多く……実は追い詰められネタを書くのが大好きな観空的に非常に楽しませて頂きました（すいません〜）
花房さん、初めてのご依頼、ありがとうございました。
プレイングを拝見させて頂いて、転機詳細が記述されておりませんでしたので誠に勝手ながら観空的に能力覚醒をメインに展開させて頂いてしまいました。ＰＬさまの花房さん像と色々かけ離れていましたら……申し訳ありませんでした。
なお、本文中に出て来たバイクのタイプはキャラクターカードを参考にさせて頂きました。これまた違いましたら……ごめんなさい（平謝り）。
えっと、ご報告（？）なのですが。ただでさえトロくて皆様とお目にかかれる機会の少ない観空ですが、療養のため少々お休みさせて頂くことにしました。いえ……「滅多に募集しないし遅いし、元からいるんだかいないんだか分らないよー」と言われればそれまでなのですが（自爆）。一応、お休み（仮）期間中も様子をみつつ極少数依頼を思い出したように募集させて頂こうかなぁ……なんて事を考えておりますので、見かけた時は……よろしくお願いします（礼）。
それでは改めて今回はご参加頂きましてありがとうございました。少しでも皆さまのお気に召して頂ける事を切に祈っております。ご意見・ご指摘・ご感想などございましたら、クリエーターズルームもしくはテラコンより送ってやって下さいませ。
陽射しの強い季節になって参りました。紫外線対策等（特に女性の方かな？笑）に気をつけつつ、太陽の下での日々をお過ごし下さい。
|
|
 |
