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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


The Past Diary

≪華眠〜kamin〜≫

 開け放たれた窓に、薄ピンク色のカーテンがそよいだ。
 舞い込んだ風が、優しく頬をくすぐる。その心地好さに、僕は一瞬だけ目の前の現実を忘れて瞳を閉じた。
「で、どうなんでしょう? 娘は目覚めるんでしょうか‥‥?」
 遠慮がちに問いかける声が、フッと僕を現実に連れ戻す。
 あぁ、そうだ。僕は依頼を受けに来たんだったっけ。
 自分にそう言い聞かせながら、僕は先程まで読んでいた彼女の日記をそっと閉じる。
 彼女 = 橘香織(たちばな・かおり)
 この春、都内の名門進学校に入学したばかりの高校一年生。ただいま両親が離婚訴訟中。当然、彼女の親権なんかでも大もめにもめている‥‥らしい。
「えぇ、なんとかなるとは思いますよ。今すぐに――ってのは無理ですけど」
 僕の言葉に香織ちゃんの母親の顔が、グルグルと表情を変える。そんなに心配なら、どうしてこんなに子供を追い詰めるまで放置しておいたんだって言いたくなるのは、他人である僕の勝手だって分かってるから口にはしない。
 事の起こりは一週間程前。いつも通りに眠りに着いた香織ちゃんは、それから全く目を覚まさなくなった。
 医者にも来てもらったけど、体には何の異常もなかったそうで。
 そうして数日する内に香織ちゃんの母親は、机の上に置かれた彼女の日記の異変に気付いたらしい。
 最初のページは小学校の入学式。両親に手を引かれて潜った校門。
 2ページ目は同じ年の夏休み。家族で旅行した北海道。
 次のページも、そしてまた次のページも。楽しかった思い出ばかりが綴られた日記。
「私達は‥‥それほど娘を追い詰めていたんでしょうか?」
 何を今更。
 そんなこと、当然言わないけれど。
 彼女の日記の日付は覚めない眠りについた、そこから始まっていた。そして毎日毎日1ページづつ増えて行く。
 現実のプレッシャーに潰された、多感な少女の心の叫び。

   ***   ***

「というわけで。過去に閉じこもっちゃってる香織ちゃんに自分の体験談を聞かせて‥‥って言うか、彼女の日記に書いて聞かせて上げられる人を募集しますっ」
 場所は草間興信所。いつも通りフラリとやって来た仲介依頼人の京師紫(けいし・ゆかり)の言葉に、居合わせた所員達は顔を見合わせた。
「今の自分がここにあるワケって言うのかな? どんな転機があって、その時どんなことを考えて、どんな選択をしたのか。そして今、その事をどう思っているのか」
 開け放たれた草間興信所の窓からも、あの日と同じ初夏の風が吹き込んでいる。
 小さく聞こえる喧騒の中に混ざる、おそらく学校帰りであろう学生達の声。
「香織ちゃんが目覚めるか目覚めないか。そしてもし目覚めたらその後どんな道を選ぶのかは皆の話次第。ねぇ、誰か手伝ってくれないかな?」
 静寂が支配した室内に、どこからか風で運ばれて来た楽し気な笑い声が響いた。

   ***   ***

 その日、橘家を訪れたのは仲介依頼人である紫と、五人の面々だった。
 フリージャーナリストの花房翠。
 監察医を目指す医学部生の紫月夾。
 何かある度に京都の自宅から日本全国に出現する高校生、鷹科碧。
 幼顔の派遣社員、唐縞黒駒。
 そして作家活動などに勤しみながら草間興信所でアルバイトをしているシュライン=エマ。
 軽く挨拶をしただけで通された香織の部屋は、どこにでもあるごくごく普通の少女の部屋だった。
「それじゃ、一人一人順番にその日記に自分の思い出を書いていってくれるかな?」
 紫の指示に、五人は眠る少女と、まだほとんどが空白の日記帳を交互に見比べる。
「取り敢えず……そうだね、最初は花房くんってことで」
 そう言いながら、そっと紫は閉ざされていた窓を開け放つ。
 太陽はまだ空高く、世界は気だるい昼下がりに薙いでいた。


≪接触 …【花房翠】…≫

『聞かせてあげる話か……まあ、あることはあるな。
 じゃあ、話すとするか……

 俺さ、サイコメトリーが使えるんだけど、力に気づき始めた頃はそりゃぁひどかったぜ。
 俺んちは旧家だから家に縛られるのがいやで高校出てすぐ飛び出したんだ。
 で、今の仕事……フリーのジャーナリストなんだけどさ、そういう記事を書き始めたのもその頃。
 最初は力のコントロールがうまくできなくて、人の多い所避けて、物にもやたらに触れなくて……とにかく全部が怖いんだよ。
 なんでだろうな、そういうのに触ってくる感情って人の悪意とかの方が強烈でさ。
 物に残っていた記憶片っ端から読んじまうもんだから、もうひどいもんだったよ。
 でもさ、こんな俺の事見捨てないで助けてくれたやつがいるんだぜ。
 世の中って、けっこう不思議に出来てるもんだよな。

 ん、何が言いたいのか?
 あのな、幸せの中にひたってるだけだとそこからは進まないぜ。
 普通に生きてりゃ幸せな記憶もっとたくさん増えるもんだぜ?』

  ***   ***

 ………ワカラナイ。
 ワタシには特別な力なんてないから。
 アナタみたいに強くはなれないから。
 みんなみんな、ワタシから離れて行ってしまうから。
 誰もワタシなんて助けてくれる人はいないから………


≪永櫻 …【紫月夾】…≫

『……次は俺の番か。
 多少重い話だが……出来れば聞いて欲しい。
 目を逸らさないで、こういう現実もあるのだと知ってほしい。

 四条叶……それは親友、そして俺が初めて屠った者の名。
 出会いは中学入学後。柔和な笑みと親しげな口調は不思議と嫌ではなく、他と係わり合いを持とうとしなかった俺を初めて動かした。
 出会いから二週間後の夜、俺は初めての任を父から言い渡された。
 依頼内容は――叶の殺害。
 それは四条グループ総帥の座を狙う者の企て。
 四条家に潜入した俺は迷わず叶の部屋へと向かった。
 そして……信じられないかもしれないが、俺の顔を見た叶は笑みを浮かべて『待っていたよ』と告げてきた。
 叶には『夢視』という未来を見る力があり、その力で俺の来訪、そしてその意図を予見していたと言うのだ。
 自らの死を予期して何故逃げなかったのか、そう問うた俺に帰って来た叶の答えは『未来は変わらない』。
 叶は己の力を疎み、運命を断ち切る俺の訪れを待っていた。
 ………俺は躊躇わず糸を放った。
 最後に見た叶の表情は穏やかな笑みだった事を俺は今でもはっきりと憶えている。
 消えて、初めて知った喪失感。
 俺は……我知らず泣いた。
 だが後悔はしない。
 例え決められた未来だとしても、その道を選んだのは自分なのだから。

 香織……運命とは自分の手で選んだ先にあるものだ。
 今ここで全てを投げ出すには……全てを諦めるにはお前はまだ世界を知らなさ過ぎる。
 だから香織。
 もう夢は終わりだ。
 目を覚ませ………』

   ***   ***

 ………カワイソウ。
 アナタは親友を自分の手で殺したの?
 それでもアナタはそれが自分の選んだ運命だと……そう言うの?
 何故、どうして?
 どうしてあなた達はそんなに強くいられるの?


≪宣誓…【鷹科碧】…≫

『で、今度は俺の番ってね。
 ……過去話なんてあんまりしたいもんじゃねえんだけどさ。
 実は俺、六つの時、俺は東京に住む家族から引き離されて、京都に住む祖母の家に連れてかれたんだよな。
 祖母が預かる小さな神社の後継になる修行の為にってさ。
 その時の俺は、ただ兄貴と離れたら寂しいなって、思ってた。
 でも、あの時離れた事、俺は今でもものすごく後悔してる。
 俺が家族と離れて過ごして過ごしてた時にさ、事件があってさ……両親が殺されたんだ。で、兄はその時の衝撃で記憶をふっ飛ばしちまっててさ。
 あの時離れたりしなければ、兄は記憶をなくさずに済んだかもしれない。
 俺がいたら、兄は一人で……無惨に引き裂かれた両親の遺体の傍にいずに済んだんだかもしれない。
 兄一人にツライ思いをさせずに済んだんかもしれない。

 ……後悔先に立たずっての見本みたいなもんだぜ。
 だから俺は、これからはどんな時でもずっと兄の傍にいて、もう誰からも何からも傷つけられずに済むように護ってやるって決めたんだ。
 それがこそが俺の生きる理由。

 ……なあ。縋れる過去があるなら、まだいいじゃん。
 あんたはまだ親だって生きてるじゃねえか。
 言いたいことあるなら言えるじゃねえか。
 話くらいなら聞いてやるからさ……そろそろ目ェ覚まさねえ?』

   ***   ***

 あなたも……強い人なのね。
 それともこんなに弱いのは私だけ?
 そして……縋れる過去があるって……それだけで幸せなの?
 ワタシ、そんな風に考えたこともなかった。
 ワタシは……ワタシは……私は……――――


≪改革…【唐縞黒駒】…≫

『今度はボクの番ですね。
 そろそろ香織さん、目を覚ましてくれないでしょうか?

 僕の仮定環境が……あっ、家庭環境のミスです。ごめんなさい……なんかチャットでミスしてる見たいですね。ボクって本当にこういうの多いんです。
 って笑ってるる場合じゃなかったですか?
 ごめんなさい変わりにこの砂時計あげますね。
 こないだ貰った見たい夢を見せてくれる不思議な砂時計らしいんですよ。

 僕の家は両親とも忙しくて、なかなか家にいてくれませんでした。
 下手に裕福な事もあって、何かに心配して会いに来てくれるなんてなかったです。
 だからこの依頼を受けた時、正直羨ましいなって思いました……ごめんなさい。
 学校もエスカレ−タ−で何の苦労もなくて、ただ生きて来て……それでいいと思ってたのです。
 でもある日、お医者さんになっていた中学時代の友達に「お前は15歳のままだ」って言われてショックを受けました。
 そんなことないって思っていたんです。
 ちゃんとボクだって成長してるって。
 でも……違ったんです。違ったからこそ、悲しくて悔しくかったんですね。
 でも、今までのままじゃ何にも変わらないから。
 だから自分に出来ることをやってみようと思ったんです。
 取り敢えず、色々な資格試験や免許をとりました。
 免許の種類とマ−クが増える度に自分の空白が埋まっていく気がして……

 ごめんなさい、ボクの話、楽しくなかったですよね。
 でもでも、香織さんも変わらないまま諦めちゃだめだと思うんです。
 どんな状況だろうと心配してくれる人がちゃんといるじゃないですか!
 だから、だから。
 起きて下さい』

   ***   ***

 私が羨ましい?
 私も変わらなくちゃいけない?
 私も変わる事が出来る?
 私が自分の意志で選んで………?


≪言葉…【シュライン=エマ】…≫

 言葉
 人と人とを繋ぐもの
 ことば
 意志を伝え、想いを渡す
 コトバ
 ヒトという種族が持つ、伝達の手段

 当たり前に在って
 何も考えずに使っているもの
 けれど、それに潜む恐怖を知るものは少ない

 言葉
 人と人とを切り離すもの
 ことば
 妬みを伝え、悪意を渡す
 コトバ
 ヒトという種族が持つ、伝達の手段

   ***   ***

 少女は、まだ自分の身に何が起こったのか分からずにいた。
 人気の絶えた公園。
 さらに人の目からは死角になる植え込みの影。
 四散した鞄の中身。
 かろうじて差し込む街灯の光に照らし出された、もっとも身近に転がっていたシャープペンシルを取り上げる。
 不意に襲った肌寒さで、シャツのボタンが半分以上なくなり、それが本来の役目を殆ど果たしていない事を僅かに疑問に思う。
 刹那。
 カタカタと肩が震え始める。
 唇を自分の意志で閉じられない。
 乾いた青い瞳を、冷たい風が刺し貫く。
「シエラ!」
 茫然と薄い草に覆われた地面に座り込んだままの黒髪の少女に、新たに現れた金の髪の少女が駆け寄った。
「シエラ! 大丈夫っ!?」
 金の髪の少女が、反応を返さない黒髪の少女の顔を必死な面持ちで覗き込みながら、乱れた着意を自身も震える手で整えて行く。
「シエラ! ねぇ、返事してってば!! 私が分かる?」
 今にも泣き出しそうな金の髪の少女が、黒髪の少女の肩を掴んで激しく揺さぶった。
 その衝撃でか、黒髪の少女の瞳がゆっくりと焦点を結ぶ。
 自分が手にした、シャープペンシル。
 突端が、何かに濡れている。
 黒髪の少女は、ゆっくりとそれを指先で拭い取ると、光の届く顔の近くへ手をかざした。
 ツンっと鼻孔をくすぐる酸化した鉄の匂い。
「シエラ?」
 スローモーションのように黒髪の少女の瞳が見開かれる。
 日の光の下では、空を写した海のように澄んだ青いそれが、月の輝きも届かない暗闇で、絶望にも似た色に染まった。
「ねぇ、シエラ! シエラってば!!」
 細波のような痙攣が全身を覆い尽くしていく。
 ねっとりと指先につく、紅いモノ。
 自分のものではない、他人のそれ。
 フラッシュバックする、ほんの少しまで自分の身を襲っていた事実。
「―――――ッ!」

 声にならない絶叫が、静寂に支配された空間を引き裂いた。

   ***   ***

 家は少し離れていたけれど。
 仲の良い三人の子供達がいた。
 三人は親に連れられて行った教会のバザーで最初に出会う。偶然、年齢が同じだった事もあってすぐに意気投合し、何をするにも一緒になるようになった。
 一人は金の髪の少女。
 控え目な性格で、いつも残りの二人の後ろを歩きながら細やかな配慮が出来る優しい少女。
 二人目は黒髪の少女。
 物怖じせず、言いたい事は誰にだって正面から言える、まっすぐで気風の良い少女。
 そして三人目。
 薄茶の髪の、明るく面倒見が良い周囲の誰からも愛される、行動力に富んだ少年。

 三人はいつだって一緒だった。
 学校は当然、教会のボランティア作業も……笑うのも、泣く事も。

 そう、あの日の出来事があるまでは。

   ***   ***

「シエラ、本当にもう大丈夫?」
 気遣わしげに自分の瞳を覗き込んでくる金の髪の少女に、黒髪の少女は穏やかに微笑みを返した。
「大丈夫よ。ただの未遂だし、何もなかったんだもの」
 取り乱したのは一時の事。
 とっさに手にしたシャープペンシルで無理矢理、事に及ぼうとした暴漢に傷を負わせたことと、小さく届いた悲鳴に気付いた金の髪の少女の到来のおかげで、実際には何もありはしなかった。
 否。
 あるにはあったが、全てが未然に防げたのだ。
 だから、何も気にする事はない。
 気分が滅入っていたのも事実だったが、これ以上親友に心配をさせてはいけないという強い想いから、黒髪の少女は翌日、普段通りに肩を並べて学校へと向かっていた。
 朝夕は微妙に温度の下がる季節特有の、爽やかな風が二人の背中を押して行く。
 新緑の間から零れる陽光が、金の髪と黒い髪に祝福を送る。
 黒髪の少女は、その清涼感に身を任せ、悪夢一歩手前の出来事を頭の隅にねじ込んだ。

 悟られてはいけない。

 固く唇を引き結ぶ。
「あれ? 今日は日直か何かだったっけ?」
 いつもの待ち合わせ場所、三人の中で一番学校に近くに住んでいる少年と毎朝合流する場所。
 いる筈の人物がいないことに金の髪の少女が、小さく首を傾げた。

 気付かれてはいけない。
 少なくともこの少女だけには。
 
「そうね……何か急用でもあったのかもしれないから、取り敢えず学校に行きましょ」
 黒髪の少女が、そっと金の髪の少女の背を押して先を促す。
 少年の不在を心配に思っていない風の黒髪の少女の態度に、金の髪の少女は僅かに頬を膨らませ、「シエラの事、守ってもらおうと思ったのに」と口惜しげに呟いた。
 少女達の歩く速度に、街並がゆっくりとその表情を変えて行く。
「大丈夫! 変なヤツからなんて絶対に守ってくれるから」
 まるで自分の事のように、金の髪の少女が胸を張る。その頬が淡く色付いている事を、視線を動かす事なく黒髪の少女は知っていた。

 大丈夫。
 私達は今まで通りにやっていける。
 一時の気の迷いで、この優しい少女を傷つけてはいけない。
 黒髪の少女は知っていた。
 金の髪の少女が、薄茶の髪の少年に恋心を抱いている事を。
 だから絶対に知られてはいけなかった。
 昨日自分を襲った犯人が、薄茶の髪の少年である事を。
 彼も馬鹿な事をしたと思っている筈だ。どれほど思い詰めたかは知らないが、あのような凶行に走った事を。
 昨日の事を、悔いてくれさえすれば自分はそれで良い。そうして自分の事を忘れてくれさえすればかまわない。
 三人がバラバラになって、何の罪もない金の髪の少女を悲しませるくらいならば。
 だから、口にはしない。
 まだ約束の場所を振り返りながら、不安げな様子の金の髪の少女の背を、黒髪の少女はもう一度だけそっと押した。
 始業の鐘がなる時間まで、もう余裕がない。
「大丈夫。学校に行けば会えるって」
 会って、いつものように挨拶を交わして。
 下らない日常の会話をして。
 大丈夫、大丈夫。
「ほら、そんなウロウロしてるとまた立たされるわよ」
 何時の間にか吹き付ける方向が変わった風に、二人は立ち向かうように走り出す。
 
 一瞬、ドロリとした血に濡れたシャープペンの影が黒髪の少女の脳裏を過った―――

   ***   ***

 声が出なくなった。
 言葉を紡ごうとして、喉を震わせる度に言い知れない薄ら寒さが少女を襲う。
 自室の窓から見える外の世界は、木々の緑が色濃く、アスファルトの大地に落ちる陽の輝きは、いっそ苛烈なほど目に痛い。
 季節は、確実に巡っている。
 全ての音を遮断するように勢いに任せて朱色のカーテンを引くと、黄昏時にも似た薄闇が少女一人の部屋を静寂とともに満たした。
 ギシリ、とスプリングを軋ませベッドに腰を下ろすと、癖のない艶やかな黒髪が、一瞬だけ宙に舞う。
 膝の上で手を組むと、指先から伝わる鼓動に、自分が生きている事を実感する。
 小さく零れた溜め息は、僅かな音をたてて少女一人きりの空間に溶けて行く。
 溜め息は、出るのに。
 失ったものの大きさに、少女は苦い笑みを頬に刻んだ。

      ***

 まだ新緑が鮮やかだった頃に起きた事件の後、少女しか知らないもう一人の当事者は、翌日学校を休んだ。
 見舞いに行こうと言う金の髪の少女の誘いを、「やはり体調が悪いから」という理由で断わりその日は早々に帰途に着いた。
 結果、金の髪の少女は黒髪の少女の事を想い、その日は一日黒髪の少女にずっと付き添う事を選んだ。
 それほどまでに互いを思いやれる、信頼しあえる心を許しあえた存在だったのに。
 翌日、いつも通りに登校した二人の前に薄茶の髪の少年が姿を見せた。黒髪の少女は一瞬背筋に走った嫌悪感をねじ伏せ、少年に平素と変わらぬ笑みを向けた――筈だった。
 けれど、どこかに違和感があったのか。
 それとも少年の腕に残った、鋭いものに突刺されたような傷に何かを感じたのか。
 ある日を境に、金の髪の少女は黒髪の少女の前では薄茶の髪の少年と微妙な距離を取るようになってしまった。

 それから数日後。
 黒髪の少女は、事実無根の噂に我が耳を疑った。

『ねぇねぇ、聞いた?』
『え?』
『ほら、隣のクラスにいるじゃない、黒髪の子』
『……成績良くてけっこう性格キツメの子?』
『そうそう、その子。その子さ、かなりヤバイらしいわよ』
『何それ?』
『彼女と仲の良い男の子いたじゃない? なんでも自分から彼に迫った挙げ句に振られた腹癒せで、その子に怪我させたらしいんだって』
『嘘! なに、それって本当なの?』
『ホント、ホント。教えてくれたのってその黒髪の子の親友の女の子だって話だし。けっこうみんなもう知ってるよ』
『うわー……サイアクじゃない、それって』
『だよねー、逆恨みもいいトコって感じ。元から言いたい事は言っちゃう性格らしくて親友の子、色々迷惑してたらしいよ』
『うわっ、かわいそー』
『そういう人とだけは友達になりたくないよね』

 自分の事ではないと少女は信じたかった。
 けれど、少女の姿に気付いた噂話に花を咲かせていた二人の反応で、その対象が間違いなく自分である事に気付いてしまった。
 そして、一度知ってしまえば際限はなく。
 どんなに聞くまいとしても、耳の良すぎる彼女の元へは、日々エスカレートしていく噂が繰り返し押し寄せる波のように間断なく届き続けた。
 それは声だけでなく。
 自分の通る道を避ける足音だったり。
 顔ではにっこり笑って接しながら、侮蔑と忌避の念を込めた心音だったり。
 一人でいる時以外、その音は少女の精神を蝕んで行った。

 そして、決定打。
 金の髪の少女との会話。
 声として届く以外の、彼女が発する全ての音が語る真実。

「シエラ、大丈夫? やっぱり元気ないね?」
 『あなたなんて、いなくなっちゃえば良いのに』
「なんか変な噂が流れてるみたいだけど……気にしない方が良いよ」
 『あんたが彼を誘ったんだ。そうじゃなければ彼があんな行動に出るはずがない』
「ほら、シエラはいつだってまっすぐで強いじゃない」
 『人の気も知らないで。いつもあんたの影においやられて』
「大丈夫、私はいつまでもシエラの親友だからね」
 『あんたなんて大嫌い!!!』

 なぜ、こんなことになったのか。
 そう問いかけようとして、黒髪の少女は立ちすくんだ。
 茜色に染まる校舎、長く伸びた木の影が少女の足元に絡み付く。
 言葉には嘘ばかり。
 都合が良いようにねじ曲げられて伝わって行く。
 そして今、どれほどの言葉を紡ごうと、彼女の元へ届く事はない。

 言葉なんて、なくなってしまえば良い。
 私が聞く事の出来る音が皆にも聞こえれば良いのに。
 そうしたら、何が本当で何が偽りなのか、誤る事なく捉える事が出来るのに。

 言葉は怖い。
 言葉はこわい。
 言葉はコワイッ!

 そうして少女は言葉を、そして声を失った。

      ***

 どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
 窓を叩く小さな音に、少女はゆっくりとベッドから立ち上がった。
 怯えた子供のように、小さくカーテンを開けば、そこは既に夜の帳が支配する世界。街灯に照らし出されて、銀の糸のように細い雨が降り始めていた。
 乾いた地表を、真夏の雨が濡らして行く。
 まるで、涙さえ枯果てた自分の代わりに誰かが泣いてくれているようだ。
 ふと過った自己憐憫の情に少女は緩く頭を振り、後ろ手にカーテンを再び固く閉ざす。
 声を失ってから、自分の扱いに困っている両親。
 学校に行くことを止めても、誰も何も言わなかった。

 何にも期待してはいけない。
 誰も信用してはいけない。
 言葉を使ってはいけない。

 眠るにはまだまだ早すぎる時間だったが、少女は薄いブランケットを頭まで被り、自分しかいない夢の世界へ落ちて行った。

   ***   ***

 窓から見える木々の葉が、乾いた茶色に染まる頃。
 少女は自室の机の前に向かっていた。
 いずれ翻訳家になりたい、という夢を抱いていた彼女は、それ以外の全てから目を逸らすように語学の修得に耽っていた。
 何も出来ない詫びのつもりか、次から次へと両親から贈られる語学の本が、彼女の部屋を埋め尽くして行く。それはまるで心にあいた空白を埋めていくような勢いだった。
 寝る間を惜しみ、少女は机に向かう。
 その内、それだけでは飽き足らず、ベッドの枕許にも本が積まれた。
 英語は当然のことながら。
 ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロシア語、日本語………
 既に学問の領域は超えていた。
 とり憑かれたように来る日も来る日も本を捲る。
 声に出す事なく、ただ捲り、書き続ける。

 窓の外の景色は、薄い灰色に覆われた世界に変わり、やがて時折純白に染まるようになった。
 けれど、彼女は外に目を向ける事なく。
 ただ語学を学び続けた。

   ***   ***

『で、また新緑が芽吹く季節だったかしら?
 それとももうちょっと早い頃だったかしら?
 その語学オタクになっていた女のコはふとしたキッカケで気付いたの。
 語学って、人と人とが交流する為の道具だって事に。
 おかしいわよね、翻訳家になることが夢だったからと言って、言葉を否定して逃げ込んだ先が語学なんですもの。
 結局、自分を否定した人達に自分を正しく理解して欲しいっていう表れだったんじゃないかってね。
 ねぇ、この日記もそんなことになってない?
 逃げ込みながら、助けて欲しいって叫んでない?
 私には……そう『聞こえる』わよ?
 そうそう、言葉を……声を失った女のコだけど。
 その後頑張って、失くしたものちゃんと取り戻したらしいわよ。
 で、ちゃんと親友だった二人の所に文句を言いに行ったんですって。
 声を取り戻して間もなかった頃で、まだ心が少しだけ弱かったから、二人がどんな反応をするかは怖くて聞かずに逃げ出しちゃったみたいだけど。
 今はそのコ。
 夢だった翻訳家の仕事をしながら、とある興信所でアルバイトしてるんですって。
 興信所よ興信所。
 出入りする人は、心に何かを抱えた人ばっかりだし、当然、言葉を選ぶなんて余裕のない状態ばっかりだし。
 もう毎日が色々な音の洪水らしいわ。
 でもね、それのおかげで彼女、随分図太くなったらしいわよ。
 ひょっとすると、声を失う前より強くなったんじゃないかって、時々自分で思ってるらしいし。

 世界はね、目を向ければどこまでだって広がって行くの。
 閉じこもってなんかいたら、本当にもったいないの。
 振り回されて目や耳を閉ざすんじゃなくて、自分の手で掴み取っていかなきゃ。
 誰かの為に人生損するなんて、本当にもったいないわよ。

 私は、貴女に聞いて欲しいわ。
 私の声を。
 今の声、昔の自分の声の模写なの。
 ……失ってしまっていた間に忘れてしまった本当の声。
 昔の私を知らない貴女に、自然と響く音なのか。
 ちゃんと私の声になっているのか。

 だから、そろそろ起きましょうよ。
 これ以上寝てたら、本当の自分の記憶を忘れちゃうわよ?』


 言葉
 人と人とを繋ぐ(切り離す)もの
 ことば
 意志(妬み)を伝え、想い(悪意)を渡す
 コトバ
 ヒトという種族が持つ、伝達の手段

 当たり前に在って
 何も考えずに使っているもの
 けれど
 人は無意識の内に
 その中に隠された何よりも鋭い凶器を納めることを知っている
 その大切さを、知っているから

   ***   ***

 世界は自分の手で広げる物?
 誰かに振りまわされて生きていくのはもったいないこと?
 ……私も、強くなれるのかな?
 あなた達みたいに、私も自分で自分を変えていけるのかな?


≪選択…【橘香織】…≫

 そっとシュラインが最後の筆を置いたと同時に、黒駒が香織に送ったガラスの砂時計の砂が全て落ちきった。
 夕暮れ色に染まり始めた西の空から贈られた風が、擽るようにその部屋にいた全員の頬を掠めて消える。
 無言の時が、ゆるゆると流れていく。
 息を詰めた重苦しい空気が、室内を満遍なく覆うとした瞬間、それはやって来た。
「……………んっ……」
 香織が小さく身じろぐ。
 突然舞い込んだ強い風が、彼女の日記の空白のページをパラパラと捲ると、再び天を目指して外の世界へと駆けぬける。
「香織?」
 たまらず翠が、ベッドの傍らに立つ母親に並んで彼女に呼びかけた。
 碧が口の中だけで小さく謳う。
 シュラインと黒駒が両手を合わせて祈った。
 夾は部屋の片隅に立ち、ただ穏やかに見守りつづける。
「………お母さん?」
 ゆっくりと目蓋が押し上げられ、閉ざされていた唇が小さく言葉を紡ぐ。
「香織!!」
 母親が香織に縋りつくように、ようやく長い眠りから覚醒した娘を抱き締めるのを横目に見ながら「混乱させちゃ悪いから」と紫が五人の協力者の背中をそっと押す。
「この日記、僕が貰って行きますね」
 それぞれに安堵の表情を浮かべた五人と共に部屋を去り際、紫が香織の日記帳にそっと手を触れた。
 その瞬間、戦慄が走るように脳裏を走りぬけたヴィジョンに、シュラインは足を止めた。

 真昼のように灯りの焚かれた何もない畳敷きの大広間。
 その中央に、純白の着物に身を包んだ長い黒髪の子供が一人。
 澱んだ瞳は何も映さず。
 虚無と静寂に支配された空間にじっと座り続けている。
 時折上下する肺の動きが、その子供が人形ではなく、生きていることを告げていた。

「はい、持って行ってしまってください」
 まだ何が起こったか分らない様子の香織を抱き締めたままの母親の、そう告げる声でシュラインは我に返った。
 何が起こったのかは分らなかったが、周囲を見るとそれは全員同じようで。五人が揃って何らかの精神的影響下に置かれた事を悟った。
 まぁ……京師さんの依頼だし。
 一瞬目があった紫に微笑まれて、シュラインは肩を竦めて再び歩を進め始める。
 閉ざされた部屋の扉の向こうからは、泣きながら娘に謝る母親の声が密やかに漏れ聞こえていた。

   ***   ***

 後日、五人の元に郵送で手の平サイズの包みを添えられた手紙が届けられた。
 以外と綺麗な字で手書きで記された差出人の名は「京師紫」。

『香織ちゃんは、家を出て一人暮しを始める事になったそうです。
 さらに、どういった経緯ではかは知りませんが、草間興信所にとても興味を持ったそうで。今は興信所近くの不動産屋さんを片っ端からあたっているそうです。
 近々新しいアルバイトの女の子が増えるんじゃないんでしょうか?(笑)

 そうそう、同封したのは今回の報酬です。
 その人の望む記憶を一つだけ消してくれるガラスの小ビン。
 使い方は至ってシンプル。忘れたい事を念じて、蓋を閉めてから近くの川に流しちゃってください。
 例によって例の如く、僕が近くにいる時でないと使えないのが難点ですが。

 ではでは本日はこの辺で。
 また良ければ別の依頼で皆さんにお会い出きる事を楽しみにしています。』

 世界を覆う風には、迫り来る夏の息吹が内包されていた。
 時が巡り、また新しい季節がやって来る。
 一つの出来事を思い出にして、また新たな出会いを繰り返す為に。
 そうして時間は、時に厳しく、時に優しく流れていくのである。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0054/紫月・夾(しづき・きょう)/ 男 / 24 /大学生】
【0086/シュライン・エマ/ 女 / 26 /翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0418/唐縞・黒駒(からしま・くろこま)/ 男 / 24 /派遣会社職員】
【0454/鷹科・碧(たかしな・みどり)/ 男 / 16 /高校生】
【0523/花房・翠(はなぶさ・すい)/ 男 / 20 /フリージャーナリスト】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、OMCの魅惑にとり憑かれたひっそりライター、観空ハツキです(←はい?)。この度は京師紫からの依頼を受けて頂き、ありがとうございました。
 今回は、事前申告とおリ変則シナリオで皆さまの過去を書かせて頂きました。なんだか皆さま、本当に色々と重いものを背負ってらっしゃる方が多く……実は追い詰められネタを書くのが大好きな観空的に非常に楽しませて頂きました(すいません〜)

 シュラインさん、またまたまたまたまた(←いい加減に止めなさい、私)のご参加ありがとうございました。
 付け足し削り自由と言う事でしたので、思いっきり色々なおまけをつけさせて頂いてしまいました。PLさまのシュラインさん像を壊していない事を祈るばかりです。あと愛称、勝手に捏造してごめんなさい(汗)。個人的には自分の声の模写の下りにはプレイングを拝見させて頂いた時、かなりグっと来ました。その辺りが上手く表現できていれば良いのですが……

 えっと、ご報告(?)なのですが。ただでさえトロくて皆様とお目にかかれる機会の少ない観空ですが、療養のため少々お休みさせて頂くことにしました。いえ……「滅多に募集しないし遅いし、元からいるんだかいないんだか分らないよー」と言われればそれまでなのですが(自爆)。一応、お休み(仮)期間中も様子をみつつ極少数依頼を思い出したように募集させて頂こうかなぁ……なんて事を考えておりますので、見かけた時は……よろしくお願いします(礼)。
 それでは改めて今回はご参加頂きましてありがとうございました。少しでも皆さまのお気に召して頂ける事を切に祈っております。ご意見・ご指摘・ご感想などございましたら、クリエーターズルームもしくはテラコンより送ってやって下さいませ。
 陽射しの強い季節になって参りました。紫外線対策等(特に女性の方かな?笑)に気をつけつつ、太陽の下での日々をお過ごし下さい。