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調査コードネーム:旧支配者
執筆ライター :水上雪乃
調査組織名 :界鏡線シリーズ『札幌』
募集予定人数 :1人〜2人
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「誰よアンタ?」
研究室に入るなり、新山綾は不機嫌な声を出した。
機嫌も悪くなろう。見ず知らずの人間が自分のデスクでふんぞり返っていたら。
「お初にお目にかかります。新山助教授」
無礼な闖入者が口を開く。
「その制服、旭ヶ丘高校ね。女子高生が何の用? 恋愛相談なら受け付けないわよ」
「もちろん、そんな用件ではありませんよ」
「じゃあ、性の相談かしら? そんなのはスクールカウンセラーか婦人科医にでもしてちょうだい」
「やれやれ。どうしても韜晦がお好きなようですね」
口調は丁寧だが、どことなく見下したような雰囲気がある。
「私の名は槙野奈菜絵(まきの ななえ)。貴女を迎えに来ました」
「はあ?」
素っ頓狂な声をあげつつ、綾は目前の女子高生に違和感を感じていた。
イマドキの高校生とは、何処か異なる。
「むろん、一緒に来ていただけますね?」
「誰が、何のためにわたしを必要としているのかしら?」
用心深く訊ねる。
ついてゆくつもりなどさらさらないが。
「我々が、あの方々の眠りを醒ますためにです」
「ひょっとして、カルト?」
からかうように言いながら瞳に力を込める。
どうやら、まともに話ができる相手ではないようだ。少し可哀想だが、強制的に退場してもらおう。
黒曜石のような瞳が、暗さ深さを増してゆく。
「あなたは、わたしから目が離せない」
「無駄です。私に催眠術は効きませんよ」
「え?!」
驚愕の表情を浮かべる綾。
「‥‥手荒なことをする気はありませんでしたが、仕方がありません」
奈菜絵の声と同時に、綾は左右から腕を掴まれた。
「な!?」
このクソ生意気な高校生の他にも人がいたのだ。
迂闊だったわ‥‥。
口にハンカチが当てられ、無限の後悔とともに綾の意識は闇に落ちた。
新山綾、誘拐さる。
そのニュースは、事件発生から一〇分後には真駒内に届いていた。
「なんてこった! 護衛の連中は何やってやがった!!」
三浦陸将補が怒鳴り声をあげる。
綾は各国の諜報機関が是非にと求める人材だ。だからこそ、二十四時間体制でガードしていたのだ。
にもかかわらず、こうもあっさり誘拐されるとは。
「俺が出る! 何人か一緒に来い! それと、アイツの仲間だったヤツらにも教えてやれ! 一刻を争うからな。急げよ!」
ヒートアップしながら、部下たちに命を下す三浦であった。
※水上雪乃の新作シナリオは、通常、毎週月曜日と木曜日にアップされます。
受付開始は午後8時からです。
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旧支配者
空港に降り立つと、なぜかほっとする。
飛び交う言葉が日本語なのが原因の一つかもしれない。
それに、適度に暖かく乾いた気候も。
「東京もこのくらいだったら過ごしやすいのにね」
青い瞳を持った背の高い女性が呟く。
「北海道は、この季節が一番のウリだからな」
野生的な容貌の男が応えた。
シュライン・エマと巫灰滋である。
さすがに二人とも疲労の色が隠せない。
一〇時間ほど飛行機に揺られた後なのだ。
アメリカから日本まで。
短時日でこれだけの距離を移動するのは、体力に自信のある彼らでもなかなかに厳しい。
「べつに一緒にくる必要はなかったんだせ」
ぶっきらぼうな口調に同行者への気遣いを隠し、巫が話しかける。
「報酬を踏み倒されちゃかなわないからね」
露悪的な言い回して行為を謝絶するシュライン。
アメリカを出国する前に、幾度も話し合われたことだ。
黒髪の浄化屋はともかくとして、女性である翻訳家に強行軍は辛かろう。先に東京に戻って吉報を待っていてはどうか。
だが、興信所事務員は首を縦に振らなかった。
「たいして時間が変わるわけじゃないし、灰滋と綾さんのアツアツぶりをからかうのも一興だしね」
冗談めかして答えたものである。
むろん、本心は別のところにあるだろう。
ダゴンの一件が気に掛かっているのだ。
インスマウスの地から消えた邪神。
札幌に現れた魚人。
この二つを結ぶ線は‥‥。
想像は戦慄を孕む。
シュラインの白い肌が僅かに粟立っていた。
この件に関わって以来、幾度か味わう不快感だ。慣れることもなく快感に転じることもない。
「‥‥度しがたい性格。我ながら‥‥」
内心に呟く。
これほどの恐怖と不安を抱えなら札幌に乗り込み、何を為すというのか。
戦う力など持たぬというのに。
それは、この国とこの世界を守るため。
呆れるくらい馬鹿馬鹿しい理由だ。
「‥‥英雄でも勇者でもないのに、ね‥‥」
だが、彼女の心理には自分自身すら気付かぬ欺瞞が隠されている。青い瞳の美女が守りたいのは、国でも世界でもない。ただ一つ。煙草をふかしながら報告書を読む不機嫌そうな横顔。それだけである。
人類の未来や文明の行く末など、自称救世主たちにでも任せておけばよい。
彼女の肩は、二人分の人生を背負うだけで精一杯だ。
「まったくだ」
突然、巫の声が思考に割り込んできた。
口に出していたのだろうか。
思わず赤面するシュライン。
巫が笑う。好意的な微笑だった。
なるほど、と、納得する。
べつに、浄化屋は彼女の内心を読んだわけではない。
同じなのだ。
興信所事務員の心は、そのまま浄化屋の心に敷衍できる。固有名詞が異なるだけで。
「そうね」
と、シュラインも微笑した。
さて、空港を出た二人は、意外な人物の出迎えを受けた。
黒い髪と黒い瞳。
東京の地で骨董屋を営む男である。
名を、武神一樹という。
「武神のダンナじゃねえか。また仕入れかい?」
「一樹さん。どうしてここに?」
だが、武神は二人の質問に応えなかった。
真剣な眼差しで浄化屋を見据える。
「巫。悪い報せがある」
「な、なんだよ」
「綾が誘拐された」
簡潔きわまる言葉。だが、その意味を帰国者たちが理解するまで、数秒が必要だった。
「攫われた? 綾さんが?」
目を見開いたシュラインが、確認するように訊ね返す。
驚くのも無理はない。あの茶髪の魔術師が誘拐されるとは。
かなり控えめに表現しても、新山綾という女性は米軍特殊部隊並の戦闘力を持っている。彼女を拉致するなど、普通の人間に可能なこととは思えない。
であれば、
「‥‥諜報機関か」
巫が口を開く。
冷静な口調だった。
しかし、彼が言葉ほどには落ち着いていないことは明白だった。
固く握りしめられた拳が血の気を失い白くなっている。
「まだ判らん。だが、自衛隊と内調が必死になって行方を追っている。遠からず事情は明らかになるだろう」
淡々と告げる武神。
このような場面では、事実が伝われば充分である。
希望を持たせたり絶望を与えたりすべきではない。
峻厳なようにも見えるが、調停者なりの気遣いであろう。
巫が一瞬だけ目を伏せ、小さく息を吐く。
ふたたび顔を上げたときには、完全に復調した浄化屋だった。
「事件発生から、どれくらい経ってる?」
「まだ三時間も経過していないな」
「そうか。じゃあ、まだこっちに運が残ってるってことだな」
肩の力が自然に抜け、過剰な気負いからも解放され、巫の頭脳は本来の明敏さの支配下にある。
初動捜査が迅速だということは、救出できる可能性は高い。
今回の件は、どう考えても身代金目当てのものではない。犯人の目的も、ある程度はっきりしている。
知識か身体か。
後者の可能性は低かろう。たしかに綾は美人だが、希少価値を主張できるほどのものではない。そんな目的なら、もっとずっと誘拐しやすい女性は幾らでもいる。
となれば、
「宗教学の知識‥‥あるいは、物理魔法か‥‥」
「そういうことだ。綾が攫われたということは、物理魔法のノウハウがそっくりそのまま攫われたということだ。そして、そんな技術は、普通に生きるものたちにとって、さして価値のあるものではない」
「‥‥やっぱり、諜報機関が?」
「わからん。判っているのは、綾を連れ去った女が高校の制服を着ていたらしい、ということだ」
「女? 高校?」
シュライン怪訝な顔をする。
情報部が高校生を雇用するなどということがあるだろうか。
「まあ、そのあたりは道々話すとしよう。車を用意してある。一緒に来い」
二人を誘う調停者。
必ず助け出してやるからな。
我知らず、長い包みを握りしめる巫だった。
嫌な夢を見た。
生きたまま四肢を引き千切られ、血まみれで異形の怪物に喰われる夢だ。
猿轡の隙間から小さな悲鳴をあげ、眠りの園から逃亡する。
冷たい汗が茶色の髪を額に張り付かせ、不快感をさそう。
右手でそれを拭おうとした綾だったが、腕が動かないことに気が付いた。否、腕だけではない。足にも感覚がない。
まさか!?
慌てて自分の身体を観察する。
そして、ほっと息をついた。
縛り上げられているため、一時的に感覚が麻痺しただけだ。
「‥‥どのくらい時間が経ったのかしら?」
次第に明瞭になってくる意識が、彼女に問いかける。
むろん、解答の持ち合わせなどあろうはずもない。
窓もない暗い部屋。
倉庫だろうか。それとも地下室?
知る術もなかった。
「‥‥こんなもの噛まされてなきゃ、なんとでもなるんだけど‥‥」
無理やり口に押し込まれた猿轡のせいで、物理魔法を使うことすらままならない。
「あとは、最後の手段しか残ってないけど‥‥」
催眠術。犯人に効果がなかったことは実証済みだが、敵に使うだけが能ではない。
自己催眠というテクニックである。
世界一の格闘家などと思い込ませることによって、限界を超えた能力を発揮することができる。
「‥‥ダメね‥‥この縄を解いてもらえない限り意味ないもの‥‥」
いくら世界最強の武道家でも、両手両足をがっちり縛られていては、どうにもならないだろう。
そして、犯人にロープを解くつもりがあるとは、とても思えなかった。
犯人の目的は物理魔法であろう。どうやって知ったのかは知らないが、口と手を拘束されていることから考えても、まず間違いない。
問題は、いかなる目的に物理魔法を利用するか、ということだ。
地球の平和と発展のためでないことは確かだろうし、よしんば高尚な目的があったとしても、そのノウハウを渡すわけにはいかない。
この技術を受け入れるには、人類はまだ幼すぎる。
だからこそ、信用に足る人間にしか教えていないのだ。
「‥‥でも、教えないと殺されるんだろうな‥‥やっぱり‥‥」
拷問死という残酷な方法で。
どうやら、彼女の使う最後の術は、心に鍵をかけるため催眠術になりそうだった。
「‥‥灰滋‥‥ごめんね‥‥短い間だったけど楽しかったよ‥‥」
心の中で愛しき男に別れを告げる。
黒曜石のような瞳から落ちた雫が一条、頬を伝う。
不思議だった。
あの日から、もう二度と涙は流すまいと決めていたのに。
感情の泉とは、尽きないものらしい。
奇妙なことに納得しながら、綾の耳は近づいてくる足音を聞いていた。
武神の携帯電話が鳴った。
「出てくれ」
運転中の調停者が言う。
千歳から一時間半あまり、自動車は札幌市内へと入っていた。
「もしもし」
『武神か?』
「いや、巫だ。武神が運転中なんでな」
『かんなぎ‥‥ああ、綾の恋人だな。那須では世話になったな』
「それはお互いさまだ。で?」
『朗報だ。綾の居場所が判明した』
「どこだ!」
『落ち着け。クイーンムーというクラブを知っているか?』
「いや」
『一年ほど前に潰れたディスコだ。アイツはそこに監禁されている』
「わかった。すぐに向かう」
『待て。こちらから人を出すから。そっちは何人だ?』
「三人だ」
『あまり多くなっても仕方がないな。俺を含めて四人で合流する。お前らの現在位置は?』
「現在位置か‥‥」
ランドマークを探そうと巫が周囲を見渡す。慣れぬ土地だから大変だ。
「国道三六号線を千歳から札幌方面に向かって走ってるわ。ついさっき、豊平郵便局を通過したところよ」
心得たもので、後部座席から身体を伸ばしたシュラインが、さっと端末を受け取り状況を説明する。
その声は、電話回線の向こうにいる三浦陸将補にも届いたようだった。
『了解した。そのまま直進して豊平橋を渡れ。更に道なりに進むと、西急インというホテルがある。そこで待っていろ。二〇分で合流できる』
「ススキノのど真ん中じゃない? 大丈夫なの?」
『クイーンムー自体がススキノにあるからな。だから、大人数で囲むわけにはいかないんだ』
なるほど、と頷いて了承の意を伝え、興信所事務員は電話を切った。
犯罪組織が市街地に拠点を設ける。これは意外そうに見えてよくある話なのだ。
そもそも、都心から遠く離れたアジトなど行き来に不便なだけだし、官憲だって攻撃しやすい。
極端な例を挙げるなら、サリンを密造したカルト教団の本拠地がススキノにあると仮定すればよい。もし強制捜査するなら、一〇万単位での避難が必要になるだろう。
要するに、民衆を盾に取っているわけだ。
あざといやり口だが、有効性を否定することはできない。
それに、夜ともなればススキノは人が溢れる。
大々的な攻勢など掛けられるはずもない。
「‥‥五時、か‥‥」
何とはなしに呟く。
茶髪の助教授が消えてから五時間三〇分が経過しようとしていた。
札幌の街に少しずつ闇が迫ってくる。
古代の神殿と現代の建築技術を、無秩序に融合させたような建物。
正面(だとと思われる)壁には、男とも女ともつかない巨人の像が張り付く形で鎮座しており、その股の間に扉があった。
「出入口は、ここしかない」
三浦陸将補が口を開いた。
武神、巫、シュラインを含む六人が頷く。
合流した彼らは、不毛な話し合いに時間を掛けず、すぐさまクイーンムーへと向かったのだ。
拙速のような気もするが、事情の詮索などは後でもできる。
いまは綾を救出することが最大の急務だ。
「いくぞ」
音も立てず、武神が扉を開く。
内部は想像していたより荒廃していなかった。
バブル時代を彷彿とさせるような絨毯と、各所に灯された不気味なランプ。
それは、倒産したクラブが何者かによって使用されている証だろうか。
「ようこそいらっしゃいました。皆さん」
突然、女性の声が響き、七人の救出部隊は一様に身構えた。
「‥‥綾を返してもらうぜ」
挑戦的な口調で巫が応える。
何者だ、などという愚かな問いは、誰ひとり発さなかった。
「どうぞ、降りてきてください。既に儀式は始まっておりますよ」
詠うような嘲るような女の声。
罠か?
疑いが頭をよぎるが、ここに留まっていても事態は改善しない。
軽く頷き合うと慎重に進みはじめる。
ただ、それは五名のみだった。
自衛隊員のうち二名は出入口に残る。これは、警戒のためと退路の確保のためである。
三浦陸将補という男、なかなか正統的な思考の持ち主らしいわね。
内心で安堵しながら、薄明るい通路を進むシュライン。
やがて彼らは、かつてはダンスホールだったであろう場所に辿り着いた。
何の妨害もなく。
ローブ姿のものが幾人かと、ホールの中央には巨大な台座。
その上には、綾が全裸で鎖で繋がれ、黒いゲル状の何かにまとわりつかれている。
「‥‥この!!!」
目に映る情景の意味を理解した瞬間、巫が前方に踊り出した。
一挙動で貞秀を引き抜く。
「ダメ‥‥灰滋‥‥みんな逃げて‥‥こいつら人間じゃ‥‥」
喘ぎながらも救出者たちを案ずる綾だったが、粘着性を持った原形質の何かに口を塞がれ、言葉が続かない。
「綾を放しやがれ!!」
もちろん、浄化屋は恋人の言葉に従うもりなどなかった。
必ず護ると誓ったのだ。
大上段に霊刀を振りかざし、突進しようする。
「動かないでください。新山助教授の命が惜しかったら」
その声が、巫の動きを急停止させた。
ブレザーの上にマントを羽織った、奇妙な女が進み出る。
若い。まだ高校生くらいだろうか。
とすれば、この女が綾を攫った張本人か。
ぎりぎりと、巫が奥歯を噛みしめる。
「私たちが必要なのは、彼女の頭脳と記憶だけです。用が済んだら返して差し上げますよ」
穏やかに語りかける女。
これで譲歩しているつもりなのだろうか。
記憶はともかくとして、脳を奪われて生きていられる人間などおるまいに。
「‥‥ジョゴス‥‥ね」
突然、シュラインが呟いた。
「なに?」
小声で武神が問い返す。
「綾さんにくっついてるアレ。たしか、旧支配者『古のもの』の眷属よ‥‥」
「詳しいな」
「勉強したもの。ダゴンの一件があってから」
「なるほど‥‥神の眷属か‥‥」
めまぐるしく武神の頭脳が回転する。
あの女の言動は、どこかおかしい。
救出者を招き込んでみたり、綾を人質にとったり。このような迂遠なことをしたのには、何か理由があるはずだ。
まともに考えるなら、ホールに入れることなく始末した方が効率的ではないか。
あるいは、普通に戦っては勝てぬと踏んでいるのか。
だからこそ、人質をとって動きを封じる。
有り得ぬことではないが。
何か引っ掛かる。
時間を稼ぐような女の態度。
「そうか!」
天啓が閃く。
「巫! かまわないからやってしまえ! どうせ奴等には綾は殺せない」
きっぱりと言い切った。
流石の胆力である。
敵は、綾の脳、つまり記憶と知識を必要としている。したがって、それを得るまで殺すことはできない。わざわざ、こちらに精神的な揺さぶりをかけているのは、目的のものが手に入る見込みが立っているからである。完全に不可能だと割り切ったなら、躊躇いなく殺すだろう。それができないからこそ、虚言や妄言で時を稼いでいるのだ。
であれば、チャンスは今しかあるまい。
「俺が、綾を助けてやる」
言葉と同時に走り込む!
いつ抜いたのか、右手には天叢雲が握られていた。
慌てたように、ローブ姿が立ちふさがる!
が、見えない腕に突き飛ばされるかのように吹き飛んだ。
「援護は任せろ」
三浦陸将補が握ったライフル銃から、薄く硝煙が立ちのぼっている。
振り向くことなく走り、台座に肉迫した武神が大きく剣を振りかぶった。
綾ごと斬るつもりなのか!?
シュラインが目を見張った。
だが、ここでも武神は凄まじいまでの計算を巡らせいてのだ。
黒い物体が綾から離れ、上下左右に形勢物質を広げる。
「テケリ・リ! テケリ・リ!!」
攻撃音だろうか、不気味な鳴き声をあげながら。
「いまだ! シュライン! 綾を助けろ!」
調停者の声で、はっとしたようにシュラインが走り出す。
武神には、こうなることが読めていた。
ジョゴスとやらいう怪物が、綾を喰らおうとしている。だが、完全な同化を果たす前に攻撃されたらどうなるか。依代を守ろうとするのが道理だ。
つまり、調停者は自分の行動全てを、囮として利用したのだ。
なんという巧緻と胆力だろう。
台座に飛び乗ったシュラインは、綾を背後に庇いながら内心で舌を巻いていた。
三浦陸将補に借りた拳銃を右手で構え、敵を牽制する。
どうせ撃っても命中するはずはないが、虚仮威しとしては充分だろう。
黒い怪物は武神が、その他の連中は巫が相手をしており、台座に迫ってくる敵はいない。
と、背後で綾が動いた。
化け物に蹂躙されたボロボロの身体で、なお立ち上がる。
「‥‥ハイジ‥‥灰滋を助けなきゃ‥‥」
躰の各所から血を流し、崩れ落ちそうになる膝を必死で叱りつけ、両手を目前にかざす。
「‥‥この人は‥‥なんて‥‥」
シュラインは唖然として見つめるだけだった。
普段なら、一番最初に綾を留めるのに。
もう聞き慣れた古代コプト語の呪文が、魔術師の口から流れ出る。
かざされた両手の間に風が収束されて‥‥いかなかった。
「悪いが、俺のいる前で物理魔法は使わせん」
武神の声が聞こえる。
「‥‥そう‥‥ついに理解したのね‥‥」
綾が呟く。
かつて、武神は綾の魔法を無効化しようとして失敗している。それは、すでに発動した魔法を消そうとしたため。なぜこの魔法が物理魔法と呼ばれるか知らなかったため。
発動した術は、万物を支配する物理法則に従って効果を現す。つまり、自然現象と同一の存在になるのだ。いくら武神でも、地球の自転を止めることはできない。昼と夜を逆転させることはできない。地震を止めることも台風を消し去ることも。
そういうことである。
だが、発動以前ならどうか。
魔術師は呪文とジェスチャーによって、物理法則に少しだけ手を加えている。自然現象ではない、ということだ。
「分子の結合力を少しだけ強化して反応を鈍らせた。諦めて休んでいろ」
綾の方を見ないようにして、冷たく言い放つ。
なんだか気が抜けたように、ぺたんと座り込む魔術師。
その肩に、自分の野戦服を掛けてやりながら、不思議そうな顔でシュラインが訊ねた。
「一樹さん、分子が云々って言ってたけど、それって物理魔法なんじゃないの?」
「‥‥その通り‥‥でも、武神くんは気付いてるのかしらね‥‥」
疲れたように魔術師が微笑する。
つられてシュラインも笑った。
台座の下では、戦いが佳境に入ろうとしていた。
暴風の如き剣戟が、ローブ姿のものたちをまとめて吹き飛ばす。
猫科の猛獣のような動きだ。
天性のハンターは、情けも容赦もなく敵を狩っている。
そう、巫は怒っているのだ。
ただし、先ほどまでの不安に押しつぶされそうな怒りとは全く異なる。
彼が命を賭けて守るべき女性の無事は確認された。
あとは、綾に汚れた手を出してきた連中に制裁を加えるだけである。
何の遠慮があろうか。
綾を攫い、こともあろうに服を剥ぎ取り、あまつさえ邪神の生贄にしようなど。
一万回死んだくらいで許してもらえると思ったら大間違いだ。
「俺の綾にあんなことしやがって! ブッ殺ス!!」
『孫娘の玉の肌に傷を付けおって! 往生せい!!』
浄化屋とインテリジェンスソードは抜群のコンビネーションで、次々と敵を叩きのめしていった。
一方、武神の相手は、たったの一体である。
ただし、並の一体ではない。
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
生理的嫌悪を誘う奇怪な鳴き声を発し、黒い怪物が攻撃をかける。
たいした速度ではない。
危なげもなく身をかわしている武神だが、不敵なその表情ほどに余裕があったわけではなかった。
まがりなりにも、邪神の眷属である。
このままで封印することは不可能だ。ダゴンのときのようにもっと弱らせなければ。
しかし、彼には恋人たる金髪の美女のような攻撃系の技はない。
天叢雲から放つ衝撃波で、少しずつダメージを与えてゆくしかないのだ。
「退け! 武神!!」
突然、背後から声がかかる。三浦陸将補だ。
言葉の意味を理解するより速く、調停者は右に大きく跳んだ。
間一髪をおかず、凄まじいまでの数の銃弾がジョゴスを襲う。
アサルトライフルに大型弾倉をつけた三浦ともう一人の自衛官が、驚くべき正確さで連射している。命中率は九九パーセントほどだろうか。
巨大な原生多細胞生物の一つひとつの核を丁寧に潰していっているようだった。
やがて、黒い怪物がぐらりと傾いた。
同時に銃撃がやむ。
弾丸を使い果たしたのだ。
衝撃そのものはダメージとして蓄積されるはずである。
再び武神がジョゴスの前に立った。
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
戦意も新たに身体を広げる黒い怪物。
だが、明らかに動きが鈍くなっている。
静かな自信をたたえ、調停者が天叢雲を下段に構える。
「‥‥できればもう少し削って欲しかったが‥‥まあ、仕方がない」
シニカルな笑い。
「テケリ・リ!」
肉迫する怪物。
一閃!
下から上に、すくい上げるように放たれた剣戟がジョゴスを両断する。
そして、返す刀でもう一撃。
今度は袈裟懸けに斬り捨てる。
が、振り抜いた手に神剣は握られていなかった。
ジョゴスの躰の中程で止まっている。奪い取られたのだ。
「テケリ・リ! テケリ・リ!!」
勝利の雄叫びをあげる怪物。
だが、
「お前の負けだ」
静かな宣言。
武神の両手が白く輝いている。
すべて計算の上だった。敵に躰を開かせたのも、剣を奪わせたのも。
今の状態で封印は難しいが、複製品とはいえ神気の宿った剣を体内に抱いているなら、それを媒介することができる。
「永久(とこしえ)に瞑れ。邪神の眷属」
調停者の言葉に呼応するように天叢雲が純白の輝きを発し、やがて、カランと乾いた音を立てて床に落ちた。
ジョゴスの消滅とともに。
「‥‥馬鹿な‥‥」
ブレザーを纏った女が呆然と呟く。
「バカはてめえだ!!」
声と同時に巫が斬りかかる。
既に他の者は床に伏して動かぬ。切れぬ刀だけに死んではいないだろうが、骨の一本や二本は覚悟して欲しいものだ。
「くっ!!」
女が身を捻ってかわす。
女子高生、否、人間に可能な動きではない。
「‥‥てめえ、何モンだ‥‥」
乱暴な口調で問いかけ、巫は油断なく貞秀を構え直した。
女は質問に応えず、
「‥‥巫灰滋、武神一樹‥‥お前たちの名は刻んでおきます」
と、言った。
「憶えてもらわなくてけっこうだぜ!」
横殴りの一撃。
だが、貞秀の刀身は、女の影を斬ったに留まる。
「な!?」
驚きの声をあげる浄化屋。
まるで霞のように、女は姿を消していた。
消えたのは女ばかりではない。
ローブ姿のものたちも、一人残らず消え去ってしまった。
跡に残っていたのは、汚れたロープと悪臭を放つ砂のみである。
「‥‥いったい、何が起こってるの‥‥」
綾が呟く。
「‥‥あとで説明する。それより今は、傷の手当てが先だ」
駆け寄ってきた巫が優しく話しかける。
「‥‥そうね‥‥灰滋、武神くん、シュラインちゃん、それに三浦さん。助けてくれてありがとう。正直、もうダメかと思ってたから‥‥」
なんとなくしおらしい魔術師。
まあ、あれだけの目に遭えば、気の強い綾でも失調するということだろうか。
「歩く核弾頭のお前がそんなことを言うとは、新機軸だな」
「まったくよね」
武神とシュラインが笑う。
毒のある笑いではなかった。
なんだかんだいっても、この腐れ縁の助教授の救出に成功したことを喜んでいるのだ。
また多くの謎が残ってしまったが、この際はこれで満足すべきだろう。
「ひどーい。みんな、どういう目でわたしを見てるのよ」
敏感に察した綾が、照れを隠すように戯けた口調をつくった。
「どうって」
「なあ」
和んだ空気が流れたが、それに感応しない男もいた。
「‥‥心配したんだぞ‥‥」
巫である。
「‥‥うん」
「すぐに駆けつけてやれなくて、ごめんな」
「‥‥うん」
言いながら、恋人の身体を抱き上げる。
綾も抵抗しなかった。
「‥‥本当に無事で良かった。俺の可愛い綾」
臆面もなく言ってのける。
「‥‥‥‥」
熟れすぎたトマトみたいに真っ赤になった魔術師が、何も言わずに恋人の逞しい胸に顔を埋めた。
「あー 野暮で済まんが、そろそろ撤収せんか? 続きは病院でも自室でも、とにかく俺の目の届かないところでやってくれ」
すっかりあてられた三浦が、そっぽを向きながら言う。
「まったくだ」
「まったくよね」
笑いながら、先に立って歩き出す調停者と興信所事務員。
三浦も続く。
「‥‥ばか」
取り残される二人。
胸に抱かれたまま、綾が言う。
「‥‥すまん」
なぜか笑いながら謝った巫が、ゆっくり歩き出した。
地上では、満天の星空が彼らの帰りを待ってる。
少しだけ照れたように瞬きながら。
終わり
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0086/ シュライン・エマ /女 / 26 / 翻訳家 興信所事務員
(しゅらいん・えま)
0143/ 巫・灰慈 /男 / 26 / フリーライター 浄化屋
(かんなぎ・はいじ)
0173/ 武神・一樹 /男 / 30 / 骨董屋『櫻月堂』店主
(たけがみ・かずき)
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
お待たせいたしました。
『旧支配者』お届けいたします。
少しだけ長いお話になってしまいました。
今回は、前作から継続のお客さましかおりませんでしたので、続き物として書いてみました。
楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、またお会いできることを祈って。
☆コマーシャル☆
クリエイターズルームのダウンロード販売(300円)に、新しい作品をアップしました。
界鏡線「札幌」の番外編で、商品番号は3番です。
新山綾の過去のお話です。
前編は札幌を舞台に、後編は東京が舞台となります。
まだ前編のみの公開ですが、よろしかったら覗いてみてくださいね。
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