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調査コードネーム:黒い嘲笑 〜邪神シリーズ〜
執筆ライター :水上雪乃
調査組織名 :界鏡線シリーズ『札幌』
募集予定人数 :1人〜6人
------<オープニング>--------------------------------------
「それで? わたしにコレをどうしろと?」
不機嫌そうに、新山綾が言った。
北斗学院大学心理学研究所の一角。茶色い髪の助教授の研究室である。
眼前にたたずむのは壮年の男性。
北海道大学宗教学部の助手たる飯田泰之だった。
大学時代の先輩でもある。
「北斗学院で引き受けてもらいたいんだ」
苦渋に満ちた口調。
「あのねぇ先輩。そういうのって、ちゃんと上を通してもらわないと」
溜息混じりに綾が応える。
正論ではあったが、裏の意味もある。
北大には、彼女を敵視する教授がいるのだ。安易に飯田氏の要請を受け入れれば、当の先輩の立場が悪くなろう。
下手をしたら、研究を盗んだとして訴訟沙汰にもなりかねない。
「新山君の言いたいことは判る。だが、そんな悠長なことを言っている場合じゃないんだ。もうすでに、うちの研究室では四人の発狂者が出ている」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げる綾。
たかが本の解析で発狂する人間などいるとは思えない。
性質の悪い冗談であろう。
軽く決めつける。
しかし、飯田氏は真剣そのものだった。
渋る綾に古ぼけた革表紙の本を押し付けると、さっさと帰ってしまう。
引き留める暇もあればこそ。
「困ったわねえ。とりあえず、理事長に相談するしかないかしら」
呑気に呟く助教授だったが、その余裕は長命を保ち得なかった。
飯田氏が殺害されたのだ。
彼女の研究室を出てから、わずか一時間後のことである。
白昼の大通りで、まるで見えない剣に切り刻まれたかのように、肉塊と化したという。
ブラウン管が垂れ流すニュースを声もなく見つめる綾。
そして、真の凶報はその次に訪れた。
『自衛隊真駒内基地に数十体の怪物が出現!! これは、映画ではありません!!』
音程の狂った絶叫をあげるアナウンサー。
「‥‥いったい‥‥何が起こってるの‥‥?」
呆然とした呟き。
デスクの上に置かれた本が、ただ不気味に沈黙していた。
※邪神シリーズです。
※バトルシナリオと調査シナリオの二本立てです。
研究室で本の解析。真駒内でのバトル。どちらかをお選びください。
※水上雪乃の新作シナリオは、通常、毎週月曜日と木曜日にアップされます。
受付開始は午後8時からです。
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黒い嘲笑 魔導書編
ゆらゆらと海面が揺れる。
内浦湾の波は今日も静かだ。
こんな日は、のんびりと釣り糸でも垂らしていたいものだが、そのようなゆとりとは無縁のものたちもいる。
「問題は、どうやって札幌に戻るかやな」
漂流中の護衛艦「みょうこう」の甲板上、藤村圭一郎が口を開いた。
「ヘリを呼ぶってのはダメだな。発着甲板をぶっ壊されちまった」
深刻な声で巫灰滋が応える。
艦自体のエンジンも破壊されているため、自力走行も不可能だ。
となれば、救命艇あたりで陸地に戻るしかない。
外海ではないので、別にこれでも問題ないのだが、時間がかかりすぎるのだ。
「‥‥ダメですね。星辰があいません‥‥」
舳先で何やら作業をしていた星間信人が、ぶつぶつ言いながら戻ってきた。
現状、彼らは急いで札幌に戻らなくてはいけない。
自衛隊真駒内駐屯地からの救援要請が無線機から垂れ流されていた。
そして、ブラックファラオによる「みょうこう」への攻撃。
示す事態は一つである。
すなわち、陽動作戦というわけだ。
むざむざと奸計に落ちたのは痛恨ではあるが、放って置くこともできなかった。
海底に何か異変が起きたとなれば、この件に携わるもののほとんどが、ある事実を思い浮かべる。罠の可能性を考慮しつつも座視することは出来ぬ。
このあたり、敵の策略は理に適い変に応じて侮れない。
「とはいえ、敵の目的ははっきりしてるぜ」
「足止め、やな」
浄化屋の言葉に占い師が頷いた。
あまりにも自明なことなので、嘘八百屋と三浦陸将補が怪訝そうな顔をした。
「せやないんや」
言葉が足りなかったことを自覚した藤村が説明を始める。
彼らをこの海域に誘い寄せたということは、敵にとってこの場所が価値を持たないことを示す。重要なポイントに対抗勢力を呼び込む馬鹿はいないからだ。
おそらく、海底の隆起現象なども、怪物どもに命じて何らかの小細工をしたのではないか。
「つまり、ここには何もないってことや」
「でも、裏の裏をかいてって可能性はありませんか?」
穏やかに星間が反論した。
サカナの下僕どものことは置いても、ブラックファラオは端倪すべからざる敵だ。人間たちの思考を読んで罠を仕掛ける可能性は高い。
「それはないな」
一言のもとに否定したのは巫だ。
敵がもう一つ罠を仕掛けるとすれば、それは当然、人間たちが札幌に急行することが前提条件になる。
要するに、兵力を別の場所に集中させておいて、本拠地を急襲する。罠を悟った兵力は慌てて本拠地に戻るが、じつはそれこそが真の罠で、最初に移動した場所こそ、大事なポイントだという筋書きである。
ありそうな話ではあるが、現実問題として可能性は低い。
理由は、ブラックファラオの行動だ。
彼は艦のエンジンと発着甲板を破壊した。これは、人間たちの行動を封印するために他ならない。
「そう思わせることが、目的なのかもしれませんよ」
論理的な巫の説明だったが、なおも慎重に星間が疑問を提示する。
相手のことを考えれば、どれほど慎重になっても過大ということはなかろう。
「そん場合、俺らがここを動けんかったら、アイツのアテは外れてまうで」
何やらメモ帳に書き込んでは唸っていた藤村が、顔を上げて指摘した。
抽象的な言いようではあったが、図書館司書が軽く頷く。
もしも彼らが札幌に向かえなかった場合、裏の裏とやらが成立する余地はない。現場に最も近いのが彼らという図式になるからだ。
「なるほどね。僕たちがヤツらの予想より早く戻ることができれば、それこそが敵にとっての誤算になるというわけですね」
改めて確認するように言う。
じつのところ、藤村と巫の説明したことなど、星間は最初から判っていた。
だからこそ、舳先で、ある儀式を行おうとしたのだ。
にもかかわらず、こんな話をしたのは、一種の思考実験である。それに、仲間の論理思考力を試す意味もある。失礼の極みではあるが、想像以上の視野の広さを持った仲間たちに、彼自身は満足している。
と、
「よっしゃ! 何とかイケルかもしれんで!」
突然、藤村がメモ帳を放り出して立ち上がった。
小さな字がびっしりと紙を埋め尽くしている。
「なにやってたんだ? いったい」
「もちろん陸地に戻る計算や! 三浦はん! あんたの車、室蘭に回してもらえるか?」
「あ、ああ。無線は生きてるから指示は出せるが‥‥いったい何をするつもりだ?」
「説明は後や! 艦長はん! 救命ボートいっこ貸してな! ゴムボートでええから!」
矢継ぎ早に指示を出しつつ、仲間たちを甲板から艦橋最上部へと押しやる。
「ええか? こっから室蘭までは四キロちょっとや。ここに橋を架けるで」
『はあ!?』
あまりに無茶な提案に全員が驚く。
氷結能力をもつ藤村だが、むろん、これほどの距離を凍らせたことなどない。
「藤村‥‥」
心配そうに問いかける巫に、
「大丈夫や。計算したらギリでなんとかなる。それに、海の上でボッとしてたかて、なんの解決にもならへんで」
明るく笑い飛ばした。
このあたり、普段は戯けていても、占い師の肝は座っている。
どうするのが最善か、きちんと把握しているのだ。
「ほな、覚悟ができたらいくで! 世界一豪勢なアイスラフティングや!!」
藤村の声と共に、五人の男を乗せたゴムボートが宙へと飛び出した!
急角度の滑り台を滑走し、その加速度を利用して海面すれすれに作られた氷の道を高速で疾走する。
占い師の計算では、途中で止まるはずなのだが、ボートは速度を落とすことなく走り続けた。
「どうなっとるんや!?」
「物理魔法さ。接地面の摩擦力をゼロにしてるんだ」
巫が笑いながら応える。
初夏の陽射しを受け、氷と水がキラキラ輝く。
ゴムボートは、スケルトンボブスレーも舌を巻く速度で森蘭航路を駆け抜けていった。
札幌の街が近づいてくる。
「みょうこう」を脱出してから二時間あまり、三浦の運転するランドクルーザーは、万人の予想を覆す早さで、現場へ到着しようとしていた。
だが、むろん敵に先制を許した事実は動かない。
これからが正念場であった。
ハンドルを握る三浦、助手席の嘘八百屋、後部座席の星間、それぞれに緊張感を表情に出している。
ちなみに、残りの二人は更に後部で睡眠中であった。
ふざけているのではない。
消耗しきった精神力を一時的な睡眠で回復させているのだ。
二時間やそこらでは大して効果も望めないが、たとえ僅かでも回復させねば、怪物どもと戦うことなどできはしないだろう。
やがて、自動車は高速道路をおり、混乱の渦中にある市街地へと乗り入れた。
「二人とも起きてください。そろそろ着きます」
振り返った星間が雑魚寝している男たちに声をかけた。
「う‥‥わかった‥‥」
「たいして回復でけへんかったか‥‥」
気怠そうに身を起こす巫と藤村。
「いま、どのへんだ?」
「大谷地インターをおりたところです」
「‥‥そうか。じゃあ、北斗学院は目と鼻の先だな」
自分に語りかけるように、浄化屋が頷く。
「三浦。すまんが、このへんで降ろしてくれ」
「わかった。綾のことは頼んだぞ」
振り向きもせず三浦陸将補が応じ路肩に寄せる。
なんだか声が笑っていた。
考えてみれば、この自衛官と魔術師の付き合いは、浄化屋のそれよりずっと長いのだ。
嫉妬めいた感情が巫の心に生まれかけたが、一つ頭を振って追い出す。
埒もない。
いまは恋人の元に駆けつけるのが最優先だ。まったく、心が裂けるような不安に陥るのは、一度きりで充分すぎる。
スライドドアを勢い良く開けた巫が、貞秀を携えて飛び出した。
一瞬だけ見送ったランドクルーザーは、すぐさま発進する。
長々と別離を惜しむ時間はない。
「藤村さま」
「なんや、オッチャン」
「どの程度回復なさいました?」
「‥‥正直に答えた方がええか? 大きいの四、五発で打ち止めやな」
「‥‥判りました。三浦さま。真駒内に行く前に私の店に寄ってください」
「‥‥少しロスになるな‥‥」
「その代わり、格段に戦力が向上します」
「なんやっちゃうんや? いったい」
「お貸しいたしますよ。当店の秘蔵品。藤村さまに最も相応しい『秘剣グラム』を」
かつて、ファファニールドラゴンを倒した竜殺しの剣(ドラゴンスレイヤー)。
レイピアのように細い刀身が、何故ドラゴンの硬い鱗を貫くことができたか、その伝承までは伝わっていない。
「じゃあ、現場に着くまでは、まだ少しだけ時間がありますね。一応、作戦を考えてみました。武神さんには及びもつきませんが」
謙遜しながら星間が切りだす。
だか、穏やかな微笑は自身に満ちあふれていた。
「で? 結局なんなのよ? この本。武神くんなら知ってるんでしょ?」
綾が不機嫌そうな声を出す。
まあ、不機嫌にもなろうというものだ。
突然怪しげな古文書のようなものを持ち込まれ、しかも持ち込んだ人間が殺され、市内では化け物が大暴れしている。
沈着犀利な助教授も、事態の急展開についていけない。
「先回りして言うとな、これは魔導書だ」
武神が応える。
「魔導書? つまり、綾さんの物理魔法とかそういうの?」
問いかけたのはシュラインだ。
「わたしのは、書物にはなってないはずだけど‥‥」
「すこしニュアンスが違う。これはネクロノミコンといってな‥‥」
『ねくろのみこん〜〜!?』
調停者の説明を、驚愕の女性二部合唱が中断させた。
宗教学を研究している綾ばかりでなく、シュラインにも聞き覚えのある単語だ。
遙かな昔に封印された異形の神々。
それに纏わる記述がなされているという伝説の魔導書。
読む者に狂気と絶望を与えるといわれる禁断の書物。
「なるほど‥‥それで北大で発狂者が続出したわけか‥‥」
奇妙に納得する魔術師であった。
「ついでにいうと、このネクロノミコンは原本中の原本、キタブ・アル=アジフと呼ばれるものだ」
「詳しいのね。一樹さん」
「詳しいのは俺じゃない。最近、この件で一緒になっているヤツだ」
やや憮然とした武神の言葉から、双方の情報が交換された。
これによって、綾は初めて、自分を誘拐した者どもの正体を知ったのである。
「‥‥てことはハイジは‥‥」
「おそらく、巫が戦うのはお前のためだ。何も聞いていないのか?」
「‥‥まったくバカなんだから‥‥帰ってきたらオシオキしてやる‥‥」
嬉しさやら恥ずかしさやら心配やらが入り交じり、いつもの強がりすら精彩を欠く。
武神とシュラインが秘やかな微笑を交わし合った。
かつて、敵として戦った冷徹な魔術師の姿は、そこにはない。
恋人のみを案ずる普通の女性だ。
催眠術と魔法を操るような女を普通と呼ぶかは疑問だが。
「でも、その星間って人、かなり怪しいんじゃない? 大丈夫なの?」
表情をあらため、シュラインが訊ねる。
話を聞く限りでは、敵ではないものの味方とも思えない。
「たしかに怪しい。だが‥‥」
言い淀む調停者。
心の秤が揺れているのだ。星間の知識は得がたいものである。だが同時に諸刃の剣となって仲間たちを傷付ける危険性も秘めている。
「じつは、水の邪神を奉ずる教団には天敵とも呼べる存在があってな」
いきなり抽象的な話題に変える。
軽く綾が頷いた。
「なるほどね。憎しみが紐帯ってわけか‥‥」
「え? どういうこと?」
「つまりね、シュラインちゃん。その星間って人は信頼には値しないわ。でも、水の邪神教団‥‥他に言いようもないからこう言うけど‥‥それに対する侮蔑なり憎悪なりは、人間と手を結ぶ材料になってるのよ」
「あ、そうか。腹背に敵を作らず、ね」
「そういうことだ。さすがだな二人とも」
武神はそれ以上この話題に深入りするのを避けた。
気になることは幾らでもあるが、先に片づけなくてはいけないことが多すぎる。
それに、出自が明らかでないからといって、むやみに仲間を疑うのは、考えてみれば調停者らしくない。
組織にせよ集団にせよ、排除の論理で動くことの愚かしさを彼は認識していた。
もしも星間が、武神の想像する通りの人物だったとしても、矛を逆しまにする瞬間まで信じていたいと思う。
むろん、それは無原則に発揮される寛大さではない。
最終的に致命傷となりうる情報は可能な限り秘匿する。
たとえぱ、このネクロノミコンだ。
解析したとして、そのすべてを彼に伝える必要はないし、現物を渡す必要はそれ以上にないだろう。
「じゃあ、わたしのところで調べちゃっていいのね? さっそく取りかかるわ」
雑談に興じている時間はあまりない。さっそく、助教授が本を取りあげた。
「ちょっと待って綾さん。これ、すごく危険な本なんでしょ? 大丈夫?」
「大丈夫よ。多少なりとも、みんなのバックアップをしないとね」
「ふふ。みんなじゃなくて灰滋でしょ。素直じゃないんだから」
シュラインがからかう。
しかし、魔術師はゆっくりと首を振った。
意外なほど真剣な眼差しを興信所事務員と調停者に向ける。
「みんな、よ。わたしだって仲間のつもりなんだから」
言ってから、照れたように頬を染めた。
本音を口に出すのは存外に恥ずかしいものだ。
人前で裸になるのに近いかもしれない。
そして、目の前に裸の人間が現れたら、たいていの人は目のやり場に困る。
武神もシュラインも、表情の選択に困ったような顔をしていた。
魔導書の解析といっても、いきなり始められるわけではない。
まして、色々と曰くの付いた厄介な代物だ。
きちんとした下調べが必要になる。
幸い、新山研究室のコンピューターは北斗学院大学の巨大なデータベースに直結しているし、インターネットにも接続できる。シュラインも綾も外国語が堪能なので、海外のサイトから情報を引き出すことも可能だろう。
それに、調停者が持っている知識も、この際は強みである。
さすがに一四〇〇年以上もの長きに渡って、神と魔と人の間を調整してきた一族だ。文字通り、調停者の二つ名は伊達ではない、といったところだろうか。
「なるほど。この本の著者は、アブドゥル・アル=アズラッドっていうのね」
ディスプレイを見つめながらシュラインが呟く。
アブドゥル・アル=アズラッド。
七〇〇年頃イエメンのサナで生まれた魔術師。天文学、科学、哲学にも造詣が深かったらしい。
バビロニアの遺跡やメンフィスの地下洞窟。南アラビアの砂漠で何年の時を過ごし、名もない都市の廃墟の地下で、人類以前の古い種族の書いた年代記を発見したという。
この知識を元に編纂されたのがキタブ・アル=アジフだ。
これが七三〇年頃の話である。
ちなみにネクロノミコンとは、後年になって呼ばれるようになった名だそうだ。
結局、この書を著したことで、彼は自身の命を縮めることになる。
イブン・カリカンという人の著述によれば、アズラッドは七三八年に死亡している。
逆算すると四〇歳前後になるだろう。
当時としても短命の方であるが、死因は老衰や病死ではない。
殺されたのだ。
白昼堂々、目に見えない怪物にむさぼり喰われるという凄惨な最後だったらしい。
「‥‥見えない怪物ねえ」
シュラインの説明を聞き終えた綾が胡乱げな声を出す。
「じつは、見えない怪物の伝承は世界各地にある。ストーカーの語源になったインビジブルストーカー。イギリスの黒犬(ブラックハウンド)。日本のカマイタチ。極めつけは『ゾシモスの秘法』に登場するエクスタメヌスだな」
肩をすくめながら、武神が補強した。
このあたりは、さすがの知識量である。
「切るとか、そういうのだったら自然現象で片づけられるけどね」
うそ寒そうにシュラインが肩をすくめる。
動作に合わせて黒髪が揺れた。
「‥‥喰うって表現を用いてるってことは、よ。その怪物は実体を持ってたってことよね‥‥」
考え込む助教授。
実体のない存在、すなわち、幽霊などを彼女が苦手としていることは、一部では有名である。
「ごく順当に考えると、アズラッド氏は誤って何かを呼び出しちゃって、それに殺されたんじゃない?」
「そうだな。シュラインの考えは良い線を突いているだろう」
「見えないって部分は、えーと、光学迷彩みたいなものってのはどうかしら?」
「なるほどな。人の目に見えぬだけか‥‥」
武神が腕を組む。
ありえぬ話ではない。
となれば、防御策は幾らでも存在する。
「色水でも用意する?」
とは、興信所事務員の提案だ。
まあ、わざわざそのようなものを準備しなくとも、人間レーダーのシュラインと気配を読むことができる武神がいれば、怪物についてはなんとでもなるだろう。
問題は、
「読むと発狂するって伝説の方よね」
困った顔で綾が言う。
伝承だけならまだ良いが、事実、北大では発狂者が出ているのだ。
おそらくこれは、スタッフの精神力の問題であろう。
怪奇事件を何度も手掛けているシュライン。
卓絶した胆力を持つ武神。
物理魔法を発見した綾。
たかが一冊の本ごときで精神崩壊を起こすような脆弱なものはいないはずだが、むろん、保証があるわけではない。
とはいえ、本を前にして困った困ったと唸っていても事態が進展しないのも事実だ。
「しかたないわね。ちゃっちゃっと始めちゃいましょ」
意を決したように、助教授が表紙を開く。
大胆というか、豪放というか。
「‥‥じつに綾さんらしいわ‥‥」
シュラインが呟き、武神が重々しく頷いた。
「なるほどねぇ。要するに、この旧支配者だの外なる神々だのいうのを召喚する方法とか、その力を借りた魔術なわけね‥‥」
魔導書を読み進みながら綾が呟く。
「平気なの? 綾さん?」
心配そうに尋ねるシュライン。
「ぜんぜん平気。こんなの、宗教学やってれば慣れっこよ」
宗教学を修める人間は、特定の宗教を信仰しない。
冷静かつ細密に分析と研究を行うためだ。
信仰は、時として人に大きな力を与えるが、同時に凝り固まった偏狭さをも与えることがしばしばある。
したがって、学問の徒としては邪魔なだけなのだ。
「それとこれとは、事象も次元も驚くほど違うと思うが」
疲れたような溜息を、武神が漏らした。
「おんなじだって。これが危険だったら、聖書も仏典も全部あぶないわよ」
いとも簡単に切り捨てた助教授が更に続ける。
「異形の神ってのも、べつに珍しくないわ。だいたい、カミサマなんて大抵はヘンな造形してるもんよ。マルドゥクしかり蚩尤しかりね。これはね、人間とかけ離れた姿を示すことで神性を誇示してるの。もちろん、彼らにはそうすべき必然性があるんだろうけど」
肩をすくめる。
どうやら彼女は、魔導書も旧支配者も全く畏れていないようだ。
軽い驚きを込めて、シュラインが見つめた。
いつものことながら、まったく、この人ときたら‥‥。
「とにかく、必要な部分は写しをとって訳しちゃいましょ」
気を取り直したように提案する。
今のところは、水の邪神に関する記述だけで事が足りる。それ以外の部分は、解析を後日に延ばして問題あるまい。
より端的にいえば、封印解除の方法さえ判れば良いのだ。
それによって、邪教徒どもの思惑を知ることができるし妨害も容易になる。先手を打つことも可能になるだろう。
彼女らの目的は真理の探究ではない。
今の世界を守ること。
少し格好をつけていうと、そういうことである。
むざむざと壊されてしまっては、先人たちに申し訳が立たなかろう。
「そうだな。そのあたりは早急に頼む。あまり時間もないようなのでな」
武神が口を挟んだ。
その顔には緊張感が滲み出している。
「どうしたの? 一樹さん?」
訊ねるシュラインに、調停者は窓の外を指さした。
「‥‥なにこれ‥‥?」
掠れた声を絞り出したのは綾だった。
「インスマウスよ‥‥」
シュラインが解説する。
調停者と興信所事務員にとっては、もう馴染みとなった魚人たちが三〇匹ほど、敷地内にひしめいている。そして、その中央部に、助教授の見知った顔があった。
「城島教授よ。北大の。どうやら邪神に魂を売り渡したようね」
一時はパニックを起こしかけた魔術師だったが、すぐに立ち直り事態を要約した。
「茶会の誘いに来たわけではなさそうだ。二人は解析を進めていてくれ。俺は、少しばかり相手をしてくる」
不敵に笑みを黒い瞳に浮かべ、調停者が扉へ向かう。
「一樹さん‥‥」
シュラインが声を詰まらせた。
さくらといい武神といい、どうして危険に身を晒したがるのだろう。
解答は、おそらく明白である。
そしてそれは、青い目の美女の心理とも通底する。
むろん、茶色い髪の魔術師とも。
「わたしも‥‥」
と、何か言いかけた綾を、電話の着信音が遮った。
やや慌てて受話器を取りあげる助教授。
「ハイジ!?」
『いま札幌に戻った。そっちの状況はどうなってる?』
挨拶に時間をかけることなく、巫の声が告げる。
「インスマウスとかいうのが研究所を包囲してるわ。こっちの戦力は、わたしと武神くんとシュラインちゃん」
「‥‥私は戦力外だと思うんだけど‥‥」
ぼそりと呟くシュラインだったが、むろん一顧だにされなかった。
『判った。五分で到着するから。それまで保たせられるか?』
「楽勝よ。ゆっくりでいいからね」
ごく軽く言って電話を切る。
大言壮語のなかにある恋人への思いに気づいた武神とシュラインは、揶揄するようなことを口にしなかった。
口に出したのは別のことだ。
「では行ってくる」
黙然と見守る女性陣に軽く手を振った調停者の姿が、戸口から消えた。
三〇対一の饗宴が幕を開ける。
むろん、武神はたった一人で魚人すべてを倒せるなどと自惚れてはいない。
要は、魔導書と女性二人を守りきれば良いのだ。
それも、永遠にではなく、巫が戦場に到着するまで。
五分と浄化屋は言っていたそうだが、実際はそんなに待つ必要はなかろう。
物理法則の許す限りの速度でこちらに向かっているはずだ。
「三分というところだな‥‥」
胸中に呟く調停者。
ただ、この上なく長い三分間になりそうだった。
他方、研究室に残った女性たちも、おとなしく守られているばかりではない。
「決めた。わたしも戦う」
「ちょっと待ってよ綾さん。物理魔法使ったら、また一樹さんに怒られるわよ」
「判ってるって。魔法以外の方法でバックアップするの」
「武器でもあるの?」
「ない。だから作るのよ」
意味不明なことを言った綾が、隣の部屋から何やら引っ張り出してくる。
「予備のガソリンと、ビール瓶。布きれは‥‥これで良いわ」
自分の白衣を引き裂く。
「なにするつもり?」
「火炎瓶を作るの。シュラインちゃんも手伝って。ガソリンは三分目くらいまでしか入れちゃダメよ。空気が足りないと燃えづらくなるから」
「‥‥‥‥」
もはや何も言うまい。
黙々と作業を手伝うシュライン。
ほどなく、一〇本ほどの危険な瓶が完成した。
「一樹さん! 援護射撃、いくわよ!!」
窓から顔を出した青い目の美女が、戦場に向かってそれを投じる。
綾の遠投力では、とても戦場まで届かないのだ。
たちまちのうちに、火の海と化す内院。
「‥‥無茶なことをする‥‥」
やや呆れた顔で、武神が首を振った。
慎重派のシュラインすら、茶髪の魔術師とともにあると過激になるらしい。
「まったくだぜ!」
突然の声が鼓膜を叩き、同時に、数匹の魚人がまとめて吹き飛んだ!
「早かったな」
にやりと、武神が笑う。
「走ってきたからな。綾がキレる前に到着しないと、この辺一帯が消し飛んじまう」
いつの間にか隣に立った男、すなわち、巫が冗談めかして言った。
「かなりの線で同意見だ」
「じゃあ、意見が合ったところで」
「もう一仕事いくか」
炎を背景に二人の男が動く。
鍛え抜かれた体術と、獣のような剣技。
魚人どもは、みるみるうちにその数を減じていった。
「まったく、後先ってものを全然考えないんだから」
「ごめんなさい‥‥」
年少のシュラインに説教され、綾が身体を小さくする。
戦闘そのものよりも、後始末の方が大変なこともあるのだ。
魚人が逃げ散った後の内院では、武神と巫が消化器を抱えて走り回っていた。
まあ、実際に火炎瓶を手当たり次第に投げまくったのはシュラインなのだが、発案は綾から為されたものゆえ、素直に謝るしかない。
やがて、消火活動を終えた男たちが研究室に戻ってくる。
「まったく‥‥」
「綾! 無事だったか!」
おそらく、武神はシュラインと同様の説教をしたかったに違いない。
だが、それを上回る声で叫んだ巫が魔術師に駆け寄り、華奢な身体を抱きすくめる。
「灰滋‥‥」
「綾‥‥」
たちまち周囲は二人だけの世界だ。
やれやれと肩をすくめる武神に、シュラインが身体を寄せた。
「ご苦労さま」
「シュラインもな」
「これ、解析結果と写し。それから、魔導書も一樹さんに預けるって」
「なるほどな」
受け取りながら頷く武神。
どのみち、魔導書を世に出すわけにはいかない。
混乱を招くだけだからだ。
どうせ発表できないものなら、最も安全な保管場所に預託するべきだろう。
大学の書庫ではセキュリティー面での不安が大きすぎる。
なかなかの慧眼といえよう。
恋人に抱かれてデレデレしているボケ助教授の頭脳から出た発想とは思えない。
要するに、実務レベルにおける大人であり個人レベルにおける子供なのだろうな。
同年の魔術師の性格に、論評を加える調停者だった。
午後の風が研究室に吹き込む。
「‥‥切り札を得たわね‥‥」
小さく呟いたシュラインの声が、ゆっくりと室内を回遊した。
窓の外では、緑の木々がざわざわと梢を揺らしている。
終わり
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0173/ 武神・一樹 /男 / 30 / 骨董屋『櫻月堂』店主
(たけがみ・かずき)
0134/ 草壁・さくら /女 /999 / 骨董屋『櫻月堂』店員
(くさかべ・さくら)
0377/ 星間・信人 /男 / 32 / 図書館司書
(ほしま・のぶひと)
0146/ 藤村・圭一郎 /男 / 27 / 占い師
(ふじむら・けいいちろう)
0143/ 巫・灰慈 /男 / 26 / フリーライター 浄化屋
(かんなぎ・はいじ)
0086/ シュライン・エマ /女 / 26 / 翻訳家 興信所事務員
(しゅらいん・えま)
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
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お待たせしました。
「黒い嘲笑」お届けいたします。
今回は二部構成となっており、話が錯綜しています。
技量の及ばないことをすると混乱する、という証左ですね(倒)
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、またお会いできることを祈って。
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