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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


恋牙〜裂魂ノ万華心〜

≪偽りだらけの依頼≫

 兄さんしか要らない
 身勝手な両親や、何を考えてるか分からない友人達なんて要らない
 俺の側にいて欲しいのは兄さんだけ
 生れる時に魂を分かちあった、元は一つの存在の兄さんだけ
 兄さんだけ……タダ兄さんサエイテクレレバイイ………


「兄を……兄の魂を、俺から解放してもらえませんか?」
 案内された来客用のソファに腰を下ろすやいなや、そう口火を切った少年に、草間武彦の吸っていた煙草から、重力に逆らいきれなくなった灰がポトリとテーブルの上に落下した。
「――京師?」
 武彦は思わず、少年の傍らに立つ「金にならない依頼を持ち込む事が趣味」と公言してはばからない、仲介依頼人の京師紫を振り仰いだ。が、意味深に笑う彼の表情にぶつかったとあっては、がっくりと肩を落として少年に向き直るしかない。
「えっと、斐多(ひだ)……吾鈴??」
「『あべる』です。鈴と書いて『ベル』と読むんです」
 紫から渡された簡単な調査依頼書上の名前の読みにつまづいた武彦に、少年は慣れた風にそう名乗った。
「なるほど、アベル君ね。で、お兄さんが都祁――って苗字が……」
「はい、ぼ――俺達の両親は子供の頃に離婚しているので。でも、俺と兄の都祁彼音(つげ・かいん)は双子ということもあって、仲が良いんです」
 そう言うと、吾鈴は学生手帳の中から一枚の写真を取り出した。
 写っているのは、薄茶と黒という髪の色と、ブレザーと詰め襟という制服の違いこそあれ、全く同じ顔をした二人の少年。深い漆黒の瞳に標準よりやや細めの体格。それに端正な顔とあっては、同年代の少女から絶大な人気を誇っている事だろう。
「こっちが君かい?」
 目の前の少年の容貌から、写真の薄茶の髪でブレザーを着た少年を指差した武彦に、吾鈴は一瞬だけ間を置いて肯いた。
「あの日も、学校が終わってから待ち合わせして。なんだかんだで遅くなってしまったので、そんなに遠くない俺と母の家まで二人で向かっている途中でした」
 目の前で起こった惨劇を脳裏に思い描いているのか、吾鈴の眉根がきつく寄せられる。
「突然、歩道に車が突っ込んできて……兄は俺をかばって……」
「で、それが何で『兄の魂を解放して』になるんだ?」
 これ以上、少年が深みに囚われる前に、と絶妙のタイミングで武彦は話を元に戻した。
「あ、はい。えっと……見えない人には信じてもらえないかも知れないんですが……あの事故の日から兄の魂がずっと俺の側にいるんです」
「はぁ?」
「俺達、自分の顔を見てるより互いの顔を見ている時間の方が長かったから。だから事故のショックで兄は自分の器を勘違いしてるのかもしれなくって。俺も見えるだけで話は出来ないから……兄を還してあげられなくて」
 あまりに急な話の展開に、ポカンと口を開けた武彦に、それまでずっと無言で立っていた紫が口を開く。
「嘘じゃないよ。確かに彼の側にもう一人の彼がずっといる」
 実際、興信所に居合わせた面々の中でも、霊視の能力がある者の目には、吾鈴に抱き付くような格好の彼そっくりの少年の姿が映っていた。
「お願いします、力を貸して下さい」
 深々と頭を下げる吾鈴の悲痛な声に、武彦は多少半信半疑ながらも、にっこりと大人の笑みを向けて応える。
「ま、なんとかなるだろう。この依頼、引き受けよう」
「ありがとうございます! ……あ、もし兄の病院に行かれる事があったら俺に連絡してからにして下さい。兄を引き取った父は、俺が言うのもあれなんですが、あまり出来た人ではなくて……病院には誰もいないので」
 ここを訪れて以来、ずっと張り詰めた表情だった少年が初めて見せた笑顔に、武彦は優しく微笑んで、自ら興信所の出入口まで吾鈴と紫を見送りに席を立つ。
 そして、歩き出した吾鈴に気取られぬよう紫の腕を掴んだ。
「京師……いったい何なんだ?」
「何? って」
「ごまかすな。お前が依頼人を直に連れてくること自体異様だし……あの少年は間違いなく嘘をついている」
「……流石だね。そんな草間さんにご褒美☆」
 低く耳打たれた言葉に、人の悪い笑みを返した紫は、武彦の腕を振り解くと吾鈴の背を追って走り出した。
 武彦の手に残されたのは、小さな一枚の新聞記事と旧約聖書。
「ったく、また妙なモン持ち込みやがって。……おーい、誰かこのナゾナゾにチャレンジするヤツはいるかー?」

『6月6日、深夜に起こった交通事故。被害者の都祁彼音君(17)は即座に病院に運ばれたが意識不明の重体。事故現場は見通しの良い直線道路で、街灯も多く明るい道である事から、警察は車を運転していた少年(19)の脇見運転が原因として調査を進めている。なお、車を運転していた少年は「何かに反射したようなまぶしい光に目が眩んだ」と話している』


≪兄と弟≫

「ん、明日の11時に東京駅八重洲中央口のポストのトコな。……誰が忘れ物なんかするかよっ! あんたじゃあるまいし」
 昼過ぎから降り出した雨は、やむ気配を一向に見せない。
 湿気を含み重みの増した雨戸を、いつもより労力を使って閉めながら、少年は僅かに眉根を寄せた。
 夕方過ぎから勢いを増した雨が、神社境内に植えられた木々の葉を打つ。木霊するように四方から響くその音が、いっそ無気味なまでの静寂に支配された漆黒の世界に唯一の旋律となって流れる。
「あー、まぁそっから先は未定。取り敢えず加害者の方に会ってみねぇと何も始められないから」
 明るい室内から漏れ聞こえてくる弟の言葉に、兄は彼の翌日からの予定を初めて知った。
 ……あぁ、また東京に行くんだ――って、そんな話、聞いてたっけ?
 ふと捕われた思いに、少年の手が止まる。
 一瞬、強く吹いた風に躍らされた雨粒が、乾いた室内を、そして窓際に立つ少年に容赦なく降り注ぐ。
「おい、兄貴! 何やってんだよ!! んなトコで濡れてたら風邪ひくだろ」
 不意に、少しだけ見上げる高さからかかった声に、少年は小さく肩を揺らして、それの主を振り仰いだ。
 いつの間に電話を終えたのか、彼の弟――鷹科碧が、顔に『心配』の二文字を浮かべて、己の兄の顔を覗き込む。
「あ、いや……何でもないよ」
 なんでもないヤツが雨に濡れるのを気にしないで、んなトコに立ってるワケねぇだろ。
 いつもに増して線の細く見える兄の様子に、碧はそう断言すると、闇夜にうっすらと浮かび上がる仄白い兄の腕を強引に掴み、立ち位置を入れ替えた。
 半開きのままで忘れられていた雨戸は、その任を交代した碧の片腕一本で、やや乱暴な音を立てながら閉ざされた。
「なぁ、碧。お前、明日東京に行くの?」
 豊かな能力を見込まれ、幼い頃より親許を離れて神道の修得に勤しんだ碧の能力は、血の繋がった兄弟とは言え、彼の兄とは比較にならないほど強大なもので――あくまでもそれは表層に出る意識的制御下における行使可能な能力での比較だが――今までも幾度か『仕事』として依頼を受けた事はある。
 そのことに彼の兄は不満を言った事はないし、否やを唱えた事もなかった。
「あれ、俺ちゃんと兄貴にこないだ言ったじゃん。……さては、寝ぼけて聞いてなかったのか?」
「……いつ?」
「こないだの土曜。仕事が決まった時に俺ちゃんと兄貴に言ったぞ」
「そうだっけ?」
 屈託なく言われて記憶を遡る。
 先週の土曜と言うと、今日を合わせて五日程前の話だ。良くも悪くも記憶が曖昧な時分。淀みなく言い切られてしまうと、確かに聞いた気もするし、それでもやはり覚えがない事にわだかまりが残る。
 同年代の少年より、やや細めの指を顎に当てて考え込み出した兄の様子に、碧は軽く声を立てて笑うと、揺さぶるように肩を叩いた。
「というわけで、明日からちょっと留守するから。その間、戸締まりには十分に気を付けるように」
 ぐしゃりと兄の髪をかき混ぜる。途端に、思案に耽っていたその顔は、多少の不満を含んだものに変わって碧を睨みかえす。
 ピシッという乾いた音と共に、肩に置かれていた碧の手が叩き落とされた。
 いつもの勢いを取り戻した兄に、瞬きするほどの刹那、碧の強い意志を秘めた黒曜の瞳が、安堵の輝きを纏わせた事には誰も気付かない。
「分かってるよ、それくらい。子供じゃないんだから」
「悪ぃ。って、兄貴はまだ寝ないの?」
「ん、もう寝る。でも俺より碧の方が明日は早いんだから、さっさと寝なきゃ」
「あーまー……そうしたいのは山々なんだけど」
 そう言うと、碧は視線を流した。
 点々と続いたその先に鎮座していたのは、何やら革表紙の本。丁寧にダイニングテーブルの上に置かれたそれを手に取った碧の兄は、一応『神社』という位置付けにある我が家に、それがある不自然さに小さく首を傾げた。
「……旧約聖書?」
「そ。今回の依頼のヒントがその中にあるんだと。カインとアベルとか言ってたかな」
 兄の手からそれを取り上げると、無造作に碧はページを捲った。
 パラパラと乾いた紙が立てる音と共に鼻先を付いた独特の匂いに、兄はそれがどこかの図書館からの借り物であるらしい事を知る。
 勢い余って破いてしまいそうな弟の行動に、そっと碧の手に自分のそれを重ねて静かに止めさせた。
 代わりに、自分の知る情報を口にする。
「あぁ、あの有名な」
「へ? 兄貴は知ってるの?」
 神道、ひいては日本の宗教には極めて詳しい弟の、他国宗教の無知ぶりに兄は僅かに頬を綻ばせた。
「双子の兄弟の話だよ。カインが兄で、アベルが弟。神様に愛された弟を羨んで、兄が弟を殺すんだ。だから兄の名『カイン』は『人類最初の肉親殺しの名』とも言われる事もある」
 さらりと兄の口から紡がれた内容に、碧は目を剥く。
「……信じられねぇな。兄弟で殺しあうなんて」
 独白にも似た力ない言葉が、彼の受けた衝撃の強さを物語っていた。
 碧にとって、兄はこの世の何よりも、そして守らなければならない大切なもの。
 殺すどころか、いがみ合うことさえ信じられない。
 世の『兄弟』が全て自分達と同じだとは思いはしないが、それでも血の繋がった者同士で、意図的に殺害するなどとは、とても考えられなかった。
 無意識に唇を噛み締める。
 旧約聖書を握り締めたままの手のひらに、唯一触れた小指の爪がきつく痕を刻んだ。
 見た目には殆ど分からない、密やかな変化。けれどそれこそが碧自身を形作るモノであり、何よりも激しいモノ。
 けれど、そんな碧の様子に気付いた風ではない兄は、残酷なまでの言葉を続けた。
 そう、あくまでも『一般論』として。
「どうだろうね。誰よりも近いからこそ、そして愛しいからこそ堪えきれない憎しみに変わる事もあるのかもしれないよ」
 告げられるだけの情報を告げられて満足したらしい兄は、重ねていた手をそっと解いて『あまり遅くまで起きてると仕事に障るぞ』と優しく笑う。
 屈託のない笑みに、彼の言葉に、言葉以上の意味はない事を碧は分かっていた。
 分かってはいたけれど、心がキリキリと痛みを訴える。
「兄貴もそうなのか?」
 『それじゃ、おやすみ』と残して向けられた兄の背中に問いかけた。
 けれど、今にも消え入りそうなほど小さく呟いた言葉は、当然、兄の耳に届く事はなく――届く事を碧自身も望んではいなかったが――ただ遠くに雨の降り続ける音だけが世界に溶けて消えた。
「……カインとアベルか」
 今回の依頼主は確か吾鈴、弟の方だった筈だ。
 弟を殺したのが兄だというなら、今回の件は兄と弟の立場が違う。
「まぁ、まだどっちも死んじゃいないけど」
 抱えた旧約聖書が、どうしてだか酷く重く感じる。まるでこれから起こるであろう何かを予言するように。
「俺が事件の当事者で、目の前で兄貴に事故に遭われたら――狂うかもな」
 それは自分が生きて兄の側にいる以上、決して起こり得る事ではないけれど。
「さっさと何とかしてやりてぇよな……」
 兄の後ろ姿が消えた廊下の向こうに目を馳せて、一人立ちすくむ。
 言葉にしたことに、嘘偽りはなく。そして『だからこそ』請け負った依頼であったのに。
 一人きりになった部屋に、外界を濡らす音が一際大きく響いた。
 雨はまだ止みそうにない。


≪被害者と加害者≫

「ところで、何で俺はアンタと一緒なんだろう?」
 どうせ奢らせるなら高いものを、と食後のデザートに頼んだやたら背の高いフルーツパフェの最後の一滴を、ストローで飲み干しながら実に今更な事を碧は口にした。
 ズズズッと響いた行儀の悪い音に、午後の一時を満喫していたらしい主婦と思しき四人連れが眉をしかめたが、そんなことをいちいち気にする碧ではない。
 否、正しくは兄以外の人間はどうでも良い――と言った方が的確か。
 可愛らしい意趣返しに、碧の対面に座した青年・京師紫は、片手で頬杖を付きながら、うっすらと唇の端を上げて微笑んだ。
「だって、碧クンは未成年でしょ? しかも見るからに高校生。そんないたいけな少年が、こんな平日昼間に一人でウロウロしてたら、こわーいおまわりさんや、角を生やしたPTAのおばさんなんかに拉致られちゃうかもしれないでしょう」
 <拉致られる=補導される>
「すいません! アメリカン追加でー」
「あら、まだ頼むんだ」
「良いだろ。こちとら京都からわざわざ東京くんだりまで出てきてんだから。さっき食べたパフェのせいで口の中、甘ったるいんだよ」
 日本語は正しく使え、と相手の年齢を忘れて叱り付けたくなった衝動を、碧は追加オーダーを取る事で紛らわせる。
 出会いからして、いきなり背後から抱き付いてきた、と言うふざけぶりに始まる紫の、妙に人を煙にまくような態度は、必要以上に碧の神経を刺激した。
 どうにもこの年代の大人とは色々相性が良くないらしい。
 ふと脳裏に浮かんだ某警察関係の男の顔を、しっしと追い出して、タイミング良く運ばれてきた少し温めのアメリカンコーヒーを碧は一気に煽った。
 淡い苦みに、残存していた甘さが拭われて行く。ようやくスッキリとした口内に、碧の思考もようやく落ち着きを取り戻す。
「で、イチロウくんと会って話を聞いた感想は?」
 手にした陶器製のコーヒーカップが、定位置であるソーサーの上に納まったと同時に紫が碧に問いかける。
「だから……イチロウ君じゃねぇだろ」
「でも名無し君ってのも味気ないでしょ?」
 紫の言葉に、確かにそれはそうだ、と珍しく同意しながら、碧は先程まで紫の隣に座っていた青年の事を思い出した。
 今回の事件の加害者となってしまった青年。
 未成年である事を配慮してか、紫は碧と彼を引き合わせる前から彼の事を「イチロウくん(仮名)」と呼んでいた。
 特に変わった所があるような青年ではなかった。無茶や無謀を好む性格にも見えなかった。
 自分が起こしてしまった事故に対して、多大な責任と反省を感じているのは、彼の言葉だけでなく、纏う色自体が偽らざる真実である事を碧に示していた。
「なんつーか、純粋に過失の事故を悔いているって感じだったよな」
 口にするまでもない感想に、碧の表情が僅かに自嘲めいたものに変わる。
「救急車を呼んだのも吾鈴くんだったっけね」
「それに関しては、俺が目の前で兄貴に事故に遭われたら、んな冷静に対処できねぇよなぁ……とちょっと反省したかな」
「それだけお兄さんが大切って事でしょ」
 目にみえて凹んでしまった碧の栗色の髪の毛を、紫がそっと撫でた。
 ガキ扱いするんじゃない! と噛付こうかと思ったが、その手から伝わってくるのが混ざり気のない優しさであるのに気付いた碧は、相手の気が済むまでそうさせておくことにする。
 瞳を閉じて寄り掛かった煉瓦製の壁は、程よく効いたクーラーに冷されていて、とても心地好かった。
「でもさ……『意識失うなっ』って名前呼び続けたんだろ。なんつーか……すっげぇ冷静過ぎてこえーとかも思っちまった」
 先程交わされた会話を、伏せた目蓋の奥で再現する。
 イチロウが車を飛び降りた時には、既に吾鈴が彼音を抱えて彼の名を呼び続けていたらしい。
 吾鈴の制服にもベッタリと付着した血で、彼音が自分の身を呈して弟を庇ったらしい事は一目瞭然だった。
 放り出されて飛び散った鞄の中身。
 彼音の名を呼び続ける事をイチロウに任せた吾鈴は、散乱したそれらの中から携帯を見つけだし、救急車を呼んだ。
『年齢的には俺の方がしっかりしてなきゃいけない筈なのに。本当に彼がいてくれて助かりました。あとは彼音くんが目を覚ましてくれるのを祈るばかりです』
 イチロウや吾鈴の呼び声は虚しく、救急車が到着した時には既に彼音の意識はなくなっていた。
 救急車に付添いで乗り込んで行く吾鈴が見せた、イチロウを励ますような笑顔を彼は事故から一月以上たった今でも夢に見るという。
「でも、やっぱ気になるのは『目が眩むようなまぶしい光』だよな……」
 独白にも似た確認の問い。
「オレンジ色って言ってたっけ」
 そっと離れた気配に、碧は僅かに眠気を孕んだ目蓋を押し上げる。
 最初に視界に入ったのは、窓ガラスの向こうを眺める仲介依頼人の深紫の瞳。
 重い雲に覆われた東京の空は、まだ夕方前だというのに、纏わり付くような薄暗さに支配されている。
 行き交う車のヘッドライトが、アスファルトの地面に張った薄い水の膜に反射して、碧の網膜に残像を焼き付けた。
「シュラインさんとの待ち合わせまであんまり時間ないけど。取り敢えず事故現場に行ってみる?」
 
   ***   ***

 事故現場は自宅に届いた新聞のコピーに書いてあったとおり、とても見通しの良い道路だった。
 日頃であれば、まだ点灯時間ではない筈なのに、一定間隔で並ぶ街灯は既に輝きを灯している。
 厚い雲に覆われた暗い風景に、最近推奨されている橙色の光が僅かな彩りを添えていた。
「なんつーか……本当にここで事故があったのか、って聞きたくなるような場所だな」
 視界が効くよう、透明のビニール傘をさした碧が周囲を見渡しながら、そう感想を口にする。
「そうだね。雨が降っていてもこの程度なんだから、普通は事故なんて起こりそうにない場所だよね」
「事故あった日って晴れてたんだっけ?」
「晴れてたって言うか……可もなく不可もなく曇り空って感じだったと思うけど」
 降り頻る雨の中に、傘から手を出しながら紫が碧の疑問におぼろげな記憶の中から答えを返す。
 器のように広げられた掌に瞬く間に水が溜まり、指の間から零れ落ちて行く。
「やっぱり事故は人為的って可能性があるのかな……って、おい、アンタ! 眩しいから手ぇ引っ込めろ!」
 不意に碧が鋭く指摘する。
 雨に晒した紫の腕。その手首に巻き付いた腕時計のガラス製の文字盤が、まるで鏡のように街灯の光を反射して、碧の目を刺していた。
 ほんの小さな煌き。しかし直撃となると、思わぬ衝撃に身を震わせる事になる。
 そこまで考えて、ふと碧は足を止めた。
 地面に墜ちて飛沫を上げる小さな水滴が、碧の靴の先を濡らす。
 もし、今回の依頼人が、意図的に事故を計画していたとしたら?
 血の繋がった兄弟を殺すために、予め光を反射させる何かを持ち歩いていたとしたら?
 カインとアベル。
 弟を騙して呼び出し、殺害した兄。
「なぁ……なんで『旧約聖書』がヒントになるんだよ?」
 一瞬浮かんだ恐ろしい考えを否定したくて、碧は数歩先を歩いていた紫の背中に向かって怒鳴りつけた。
 すれ違った車が派手な水飛沫を上げて走り去る。舞い踊った水滴に、オレンジ色の街灯の光が弾けた。
「もしかして……あんたは依頼人が本当は彼音で、事故に遭った方が吾鈴だって言いたいのかよ」
 立ち止まらない背中に、知らず、声が怒気を孕む。
 ありえない、そんなこと。
「それで、実は兄が弟を殺そうとして企んだとでもっ」
 遥か昔の夢物語じゃあるまいし。
 実の兄弟でそんなことが――――
 「ない」とは言い切れない現実に、碧は息を殺した。
 日々ワイドショーを賑わせる事件の中に、そういうものが混ざっている事は知っている。
 親が子供を殺し、子供が親を殺す。
 その血の繋がりが濃ければ濃いほど、よりセンセーショナルに。
 TVの向こうの世界の出来事で、どこまでが真実か否か判断しにくく、それこそ『物語を聞く』程度にしか捉えていなかったが――否、意図的に聞かないようにしていたのかもしれない。
 どれだけ脚色されようと、そこにあるのは血の繋がった者同士の殺人劇。
「だいたい、そんなことして何の得があるって言うんだよ!」
 仮に入れ代わって……否、入れ代わらずとも兄弟同士で殺し合って何のメリットがあると言うのだ。
 更に言い募ろうとした碧の脳裏に、昨夜の兄のセリフが蘇る。そして、それを後押しすようにゆっくりと紫が足を止めて振り返った。
「何事も可能性だよ。その全てを否定してはいけない」
 淀みなく告げられる言葉に、碧は口の中が一気に乾くのを感じた。自由に動かない舌が邪魔をして、上手く言葉を継げない。
 水気を失った喉が、呼気を絡ませ細い音を立てた。
 何か反論しなくては、そう思うのに、碧はただ喘ぐように呼吸する事しか出来ない。
「いつだって真実は一つなんだ。例え、それが理に適おうが適わなかろうが」
 紫が再び背を向け歩き始める。
「さぁ、行こう。病院で吾鈴くんとシュラインさんが待ってる」
 糸に手繰られる人形のように、碧は深い水たまりを避ける事さえ忘れ、足を踏み出す。
 乱れた思考を強制的に冷ませるほど、雨は大地を激しく叩いてはいなかった。


≪最初の真実。裂かれた魂≫

 病室は不思議な静寂に支配されていた。
 全ての扉を閉ざし他の一切から隔絶した白い世界に、ずっと降り止まない雨の音だけが何処か無情に響く。
 彼音と吾鈴。二人が不幸な交通事故に遭遇してから一月半程度。ベッドに横たわる少年の姿は、見た目はただ眠っているのと判断がつかないほど美しかった。
 それゆえに、命の灯火を繋ぎとめる為に取りつけられた数本の管が痛々しさを倍増させる。
 初めて二人の少年の顔を並べて見たシュラインは、小さく胸が痛むのを禁じえなかった。
「………目覚める兆候とかは、ないの?」
 学友からの見舞いと思われる花の水を替えて戻って来た吾鈴に、シュラインは会話の糸口を探そうと声をかけた。
「いえ。事故の時に頭を強打してるみたいで――というか、彼音の魂……つまりは意識はずっと俺と一緒にあるからだと思っているんですけど」
 切なげに眉を顰めて、吾鈴がシュラインには見る事の出来ない誰かに向かって笑みを向ける。
「なんで俺なんかに纏わりついているんだか……」
 そこで会話が途切れる。
 居心地の悪い静寂に、シュラインは我知らず溜息を零した。
「そう言えば、あと二人。遅れちゃっててごめんなさいね」
 他に聞きたいことや試したいことはあるのだが。この場所でそれを実行することを躊躇われて、当たり触りのない会話を続けてしまう。
 実際、既に合流している筈の鷹科碧と京師紫の姿は、まだ病室内にはなかった。
「一人がね、京都から来る人なの。途中で何かあったのかしら?」
「構わないですよ。それに俺達の為にわざわざ来てくれるっていうだけで嬉しいですから」
 困ったわ、と首を傾げたシュラインに、吾鈴が穏やかな笑顔を返す。
 ふっと、その少年の表情にシュラインが動きを止めた。
 今の笑顔――写真で見た。
 武彦に渡された資料の中にあった写真の中の一枚。それに全く同じ表情を吾鈴が形作る。
 元が同じ顔なのだから、当然のことなのかもしれないけれど。
 試すなら今、なのかもしれない。
 シュラインは大きく一度、息を呑んだ。
 そしてトリガーを引く。

「カイン?」

 その『声』に吾鈴の肩が大きく震えた。
 一瞬で蒼白になった表情が、凍りついたまま眠る少年を凝視する。大きく見開かれた瞳孔が、あり得ない筈の出来事に、白く濁る。
 そのまま――ゆっくりとシュラインを見返った。
「………今のは貴女――が?」
 わななく唇からやっとの思いで紡がれた少年の言葉に、特技の領域を超えた声帯模写で吾鈴自身の声を写して「彼音」の名を呼んだシュラインは、その効果の絶大さに自ら絶句する。
 そして、同時に自分の立てた仮説のいずれかが真実である事を確信した。
「君……やっぱり彼音君? それとも……魂だけ彼音君?」
「眠ってる方が吾鈴で、そいつは彼音で間違いなし――かな」
 シュラインの問い掛けに吾鈴――否、彼音が反応を返すより早く割り込んだ声。
 新たな登場人物の容赦なく現実をつき付ける言葉。
 それにより、色を失くした少年の表情が、冷たい陶器で出来た仮面を被ったような無感情な物へと変化する。
「なんつーかさぁ……そういきなり開き直られると、こっちとしても色々ツライもんがあるんだけどっ」
 発言を肯定する無表情の抵抗に、真実をつきつけた声の主が、半分開けた状態の病室の扉にもたれ掛かりながら、棘を含んだ表情を彼音に向ける。
「鷹科くん! 京師さんもっ!」
「ごめんねー、ちょっと遅れちゃった。でも……なんだかタイミング良過ぎたみたいだね」
 微妙な安堵と非難の混ざったシュラインの声に、遅れて現れた紫が軽く手を上げて謝罪しながら、ドアに寄りかかっていた碧を病室内に押し込み、素早く後ろ手で扉を閉めた。
「というわけで……君は都祁彼音くん――で良いんだよね?」
「確認するまでもねぇよ。そんだけ露骨に反応してりゃ『はい、そうです』って答えたのと同じだし、魂が入れ替わってる訳じゃねぇのも俺が見れば一発だ」
 そいつの側にいる魂の糸はそっちの眠ってるヤツの方に繋がってる。
 シュラインには見ることの出来ない『糸』の存在を誇示するように、碧の指がスゥッと彼音の肩口から眠る少年の額までを、一本の線で結んだ。そしてシュラインの仮説の一つ『彼音の魂が吾鈴の肉体に宿っている』ことを真っ向から否定する。
「あは……あはははははっ! 両親でさえ気付かないから絶対にバレないって思ったのに」
 突然、吾鈴のベールを脱ぎ捨てた彼音が、身を捩りながら笑い出した。
「残念。上手く僕から吾鈴の魂を引き剥がしてもらえれば、キレイサッパリ死んでくれると思って依頼したのにな」
 見た目、綺麗ですけど。コイツの中身、ボロボロなんですよ。だから意識が戻ったら、その負担で完全に消えてくれる予定だったのに。
 彼音の口から発せられる、正気の沙汰とは思えない言葉の数々に、事態の成り行きを見守っていたシュラインの表情まで険しくなる。
 ギッと寄せられた眉根に、不快・認識不能の文字が刻まれた。
「お前! お前マジで自分の弟を殺そうとしたのかよ!!」
 碧の腕が彼音の胸倉を乱暴に掴み上げる。
 二つの双眸が競めぎあい、絡み合う。
 自由を束縛されたままの彼音の瞳に、碧に対する明かな侮蔑の光が浮かぶ。
「痛いんですけど。離してもらえませんか?」
 冷ややかに告げられたその言葉に、シュラインが二人の少年の間に割って入った。労わるような手に、怒りの対象から引き剥がされ、力なく項垂れ落ちる碧の両の腕。
 それだけはあって欲しくない。ずっとそう願い続けていた祈りが、砂の城のように崩壊して行く音が聞こえる気がした。
 訪れた沈黙の帳。
 降りしきる雨の音だけが、世界の全てを支配する。
 膠着。
 それを最初に破ったのは彼音だった。
「貴方達に何が分るって言うんですか?」
 真っ直ぐに自分の前に立つ三人の人間を見つめて。その瞳が宿した耀きには、何一つ迷いはなかった。
 自分が正しい――そう信じている者の目。そのあまりの身勝手なエゴとしか思えない態度に、碧が短く舌を打つ。
「わからねぇよ。でも、それでも兄弟で殺しあうなんて絶対間違ってるだろ」
「……殺しあい? なんですか、それ? 確かにあの日、僕は鏡を持っていたかもしれない。けれど、鏡が街灯を反射させてドライバーの目を眩ませた事は純粋に事故だ。誰も僕の意図的な犯罪だなんて決めつける事は出来ない」
 あまりにも平然と言いきられた内容に、碧の顔からも表情が抜け落ちる。
「でも、貴方は吾鈴君の名を騙った。それは明かな虚偽行為だと思うけれど?」
 シュラインの的を得た問い。けれどそれに対しても彼音はほんの少しも取り乱す事のないまま、真っ直ぐに彼女の青い瞳を見つめ返した。
「母親の身を案じたんですよ。自分の存在すべてを『子供』にかけている人だから、吾鈴が事故に遭った――なんて言ったらきっとショックで狂ってしまう」
「………お前はっ!」
 耐えかねた碧のやり場のない怒りが、病室の壁に向けられる。
 意思を吹き込まれた拳によって、病室内の大気自体が、碧の怒りを代弁するように大きく震えた。
「吾鈴は何もかも持っていた。不自由のない生活。母の愛。なのに……それなのにアイツは僕しか要らないと言うんですよ?」
 刹那、完全に表情を殺していた彼音に、自嘲という感情が僅かに滲む。
 その表情に潜む陰の濃さに、シュラインと碧はこの兄弟の間に流れる特異性を一瞬垣間見た。
「傲慢だと思いませんか? 全てを持っているくせに、他の全てを否定してたった一つのものしか要らないなんて」
「君は何も持っていなかったの? 少なくとも貴方は吾鈴君を持っていたんじゃないの?」
 訥々と語られる言葉の内容の全てを理解しないまでも、シュラインは諭す様にそう彼音に問いかける。
 しかし、返って来た言葉に、再び二人は言葉を失くすしかなかった。
「……実の父親に『仕事』をさせられるような子供が何を持てると言うんですか?」
 『仕事』
 確たる証拠があったわけではない。
 何かを見せられたわけでもない。
 けれど、その言葉に隠された独特の香りを嗅ぎ分けることは造作もないことだった。そう、今の彼音の表情を見ていれば。
「だからって―――おい、待てよ! なんでお前が逝くんだよっ!」
 突然、碧が天を仰ぐ。
 その視線の先に捉えられていたのは、今までずっと彼音に寄り添っていた吾鈴の魂。
「何っ? どうしたの?」
 両手を突き出して、何かを引き止めるような仕草に、シュラインも事の急変を悟った。彼音の表情が、いままでにないほどの深い笑みに変わる。
「アイツの弟! 吾鈴の方っ!! 兄貴にそんな想いさせるくらいなら自分は消えるって! ――だからっ! お前が消えてやる必要はどこにもねぇだろっ!」
「そう……お前は本当に僕の為を想っていつも行動してくれるんだね」
 繋ぎとめる声と、突き放す声が同時に響いた。
「ねぇ、京師さんっ! なんとか出来ないの? 止める事は出来ないのっ」
 背後で何故か沈黙を守り続けていた紫に、シュラインがしがみつく。
 しかし、紫はそれに静かに首を横に振る事で応えた。
「僕に出来るのは……これくらいだよ」
 言葉と同時に、紫が小さく腕を振る。その瞬間、病室内に淡い紫色の靄が立ち込めた。
 そして、それを影を映し込んだかのように、ぼんやりと浮かんだ人影と、そしてその声をシュラインさえもが目に、耳にした。
『俺は……俺は兄貴しか要らないから。兄貴の為ならなんだってするから――例え万人を欺いたとしても』
「さよなら、吾鈴」
 溶け込む様に触れ合う少年達の唇。
 次第に密度を失っていく靄が完全に取り払われた時、そこには一条の涙を瞳から溢れさせた少年だけが佇んでいた。
「……それ、何のつもりの涙なわけ?」
「――――」
 最後に碧の問いに、返る答えはなかった。

 窓の向こうに見える外の世界は真の闇。
 孤独な夜に抱かれた街は、久し振りに雨が上がっていた。


≪最後の真実。万華鏡の心≫

 雨に洗われ続けた空は、都会のそれとは思えないほど澄んでいる。
 見上げた夜空に浮かぶ星の数をぼんやりと数えながら、碧は長い息を吐き出した。
「どうにも……後味悪い依頼になっちゃってごめんね」
 今回の依頼の仲介者である紫は、並んで立つ二人に向かって頭を下げる。
 仕方ないわ、そう笑ったシュラインの顔にも力はない。身に纏った漆黒のスーツが、彼女自身の精神的疲弊をより濃いものに見せているようだった。
「そう言えば彼音君。お母さんの方に引き取られる事になりそうだって」
 双子の弟の死に際に居合わせた少年は、三人の『見舞い客』のいる前で、駆け付けた医師や看護婦達相手に、見事に悲劇の主人公を演じきって見せた。
 弟が目を覚ますまで、母親に心配をかけたくなかった。
 なんでこんなことになってしまったのか!
 止めど無く溢れる涙。そしてとっさに嘘をついてしまうほど母を想う気持ち。
 たたみこむ様に告げられる言葉に、医師達は驚愕の色を隠せないようだったが、誰一人、彼音の事を哀れみこそすれ疑う者は出なかった。そしてそれは警察関係者をも納得させた。
「あの時さー、ヤツが語った事をぶちまけてればどうなったんだろうなー」
 吾鈴の通夜に訪れる参列者の中に、自分と同年代の制服姿の少年の姿を発見して、無感動に碧が呟く。
「そうね……何かは変わっていたでしょうけれど……それは今回の私達の仕事の範囲じゃないし。それに……きっと余計な不幸を更に呼びこむだけだったかもしれないしね」
 人目を憚らず泣き続ける母親と、それを傍らで支える彼音の姿を遠くに見ながら、シュラインは、自分の胸に宿ったやるせない想いを押し留める。
 どうしてあの場で『真実』を語らなかったのか。
 その理由がシュラインにも碧にも分らなかった。
 けれど、語ろうという気にならなかったことだけは事実。
 明かすに値しないと思ったのか、それとも心の何処かでやはり彼音を憐れんだのか。
 自分にどれだけ問いかけても、答えは出なかった。
「あ、そうだ。今回の報酬だけど、草間さんにいつもの口座に振り込んでおくから伝えておいてくれるかな? それといつものお楽しみの不思議アイテムだけど。ごめんね、途中で変な力使っちゃったせいで作る気力がなくなっちゃった」
「えぇ、分ったわ」
「こんな依頼でも、一応依頼料なんてのは出るんだな」
 紫の言葉に、碧が皮肉げな笑いを浮かべ地面に目を落す。
 所々に水たまりが残る濡れた色のアスファルトは、どこか底のない闇ように今の碧の目には映った。
「こんばんは。お三方ともいらして下さったんですね」
 不意に背後からかけられた声。
 今はまだ聞きたくもなかったその声に、碧は思いきり不機嫌そうに顔を上げ、そして凝視する。
「お前……まさかっ」
「あぁ、やっぱアンタは目が良いんだな」
 立っていたのは、いつの間に抜け出して来たのか、黒い詰襟の制服に身を包んだ彼音。けれどその纏う魂の色の違いに、碧は我が目を疑い数度の瞬きを繰り返す。
「………ひょっとして」
「あれ、お姉さんの方も伊達に興信所なんかで働いてないってことか」
 そのやり取りを横で見ていたシュラインも、何かが違う事に気付いた。
 表情の作り方が違う。
 鼓膜を震わせる音が、常人には聞き分けられないほどの微差ではあるが、明かに昨日幾度となく耳にした彼音のものとは異なっていた。
「あなた……吾鈴君?」
 簡単に信じられる事ではなかった。
 けれど、確かに。
 紫の創り出した靄の中に浮かんだ少年と同じ色の魂をした、同じ波長で言葉を紡ぐ存在が、目の前に立っている。
「そ、ご推察の通り俺は正真証明の吾鈴だよ。肉体は彼音だけどね」
 ごく当たり前の事を告げる口調でそう言われ、予想――否、確信を持っていた二人は、それでも驚愕に体を固くする。
 そしてもう一つ。
 彼を包む凝った気配に、深く眉を顰めた。
「喜んでくれるかな〜なんて思ったけど。なーんか予想と反応が違うや」
 ちょっと残念。
 くくく、と吾鈴の喉が鳴る。
 セリフの割に、微塵もそんな様子を見せない吾鈴に、シュラインと碧は凝る気配の正体に辿りつく。
 純粋にそれだけを取り出して培養したような、気持ちが悪くなるほどの強い自我。
 他者を受け入れることを最初から否定した存在。
「君は、消えたんじゃなかったの?」
 喉の奥に声が絡みつく不快感を覚えながら、シュラインは目の前の少年に問いかける。それに対し吾鈴は、来るべき質問が来たとばかりに破顔した。
「言ったでしょ、俺。『例え万人を欺いたとしても』って」
 少年の声が楽しげに弾む。
「本当はさ、彼音が俺の事を本当に要らないって言うんだったら、消えてもいいかなって思ってたんだけど、そっちのお姉さんが面白いコト言ってたでしょ。だから『あー、それもありかな』って思ってさ」
 お姉さんが言った事。
『君……やっぱり彼音君? それとも……魂だけ彼音君?』
 シュラインは自分の発した言葉を思い出し、戦慄する。アレはあくまで可能性として示唆した事だ。思いついたからと言ってそう安易に出来ることではない筈である。
 それを、この目の前に在る少年の魂はやってのけたと言うのだろうか。
 それこそ双子だから成せた奇跡とでも?
 わななき震え出した全身を、シュラインは自らを抱き締める事で宥めた。
 けれど、周囲のそんな動揺を意に介した様子は全く見せず、吾鈴は一人語りを続ける。
「彼音がさ、俺は全て持ってるって言ってたじゃん。でもアレ嘘。俺も何も持ってないから。
 母親は金さえ与えておけば良いと思ってたし、それで自分は立派に子育てしてるんだって自己満足してたしな。
 俺は体の良い免罪符だよ。
 オマケに双子とは言え、俺らの見分けがつかないんだぜ。つまりは俺でも彼音でもどっちでも良かったって事だろ」
 ふとチラリと背後を見返り、吾鈴は親戚らしい女性に支えられた実の母を冷たい瞳に映した。
 そして、真っ直ぐと姿勢を正し、然程高いとは言えない都会の夜空を見上げ宣誓する。
「俺には彼音しかいなかった。ずっとずっと彼音だけが俺の全部だった」
「それなら殺されても構わないって言うのか? そんなの……違うだろ」
 ずっと黙って吾鈴の話に耳を傾けていた碧が、視線を反らしたまま呟く。同年代の少年の言葉に、ふっと吾鈴がそれまでとは違う笑みを見せた。
「そうだな。でも……そっちのお姉さんなら見ただろ、最初に興信所に行った時に彼音が生徒手帳から写真を取り出したの」
「えぇ……確かにそうだったわ」
 振られた話題にシュラインが小さく頷きを返した。
 吾鈴の表情がより一層、柔和なものへと変化する。
「つまりは、そう言う事だろ。確かにアレは俺の持ち物だったけど。彼音はそれを知っていながら捨てなかった。興信所に行く為だけだったら別の物に移し変えれば良いだけのことなのに」
 愛しさ、という言葉を顔で表現するとしたら、今の吾鈴の表情がそうなのかもしれない。
 年下の少年が見せたその顔に、シュラインは我を忘れて一瞬だけそう思った。
「どんなに否定しても、彼音の中でも俺は絶対だったんだよ」
 緩やかに語られる言葉。
 しかし、その穏やかさとはかけ離れた苛烈な想い。
「それに……彼音に俺の存在を気付かれない限り、彼音は生涯『吾鈴を殺した』という罪悪感に苛まれ続ける。本当に俺が憎いだけで殺そうと思ったんだったら、あんた等なんかに真実を話してやる必要はないだろ?」
 あれはアレで、あいつなりの懺悔だったんだよ。生真面目で優しいヤツだから。
 それは吾鈴以外の人間が理解できる話ではなかった。
 そんな理論があって良い筈がない!
 そうシュラインや碧が叫び声を上げない方が、普通に考えれば異常であると思えるほど、彼の話は明らかに常軌を逸している。
 けれど、それを分っていながら二人はその言葉を口にしなかった。
 いや、出来なかったのだ。
「これで俺は彼音の心も体も永遠に手に入れた。消えない傷になって一生俺は生き続ける」
「狂ってるわ……あんた達、二人とも」
 これ以外、言葉は出ない。
 溜息と共にシュラインが首を左右に振りながら、吾鈴の理論を否定する。胸元の眼鏡が、持ち主の気持ちを代弁するように、力なく揺れた。
「そうだね。でも……そんなもんじゃないの? 恋愛なんて。誰だって正気のままではいられないでしょ? その想いが強ければ強いほど」
「そんなただ傷付けあってるだけだろ」
「傷付け合うことでしか確認できない想いもあるんじゃないかな」
 碧の否定する言葉も、吾鈴には何の効果も持たないようだった。そして、言葉を発した碧自身が、この狂気に捕われた少年達を、自分の言葉でどうこう出来るとは、既に思っていなかった。
「救われないわね………」
「誰も救いなんか求めてない。これが最良の結果だと、俺は胸を張れるよ」
 それじゃ、今回は色々ありがとう。また会う事があったらよろしく。
 シュラインと碧にとっては皮肉にしか聞こえない言葉を残し、吾鈴は二人に背を向けた。
 絶える事のない参列者の群れが、弟を失い悲しみに暮れる兄に遠慮がちに声をかけていく。
 その胸の内に抱えられた幾つもの不条理さと身勝手さと、そして唯一無二の真実には気付かずに。

「明日も……晴れるな」
 人の波に中に消えた少年の後姿から目を反らし、再び碧が天を見上げた。
 渇いた空には雲一つなく、うすボンヤリと天の川が世界を繋いでいる。
「そろそろ梅雨も終わりね」
 並んで顔を上げたシュラインが、どこか遠くを見るように新たな季節の到来を予見した。


 夏が来る。
 狂った熱に支配される暑い季節が。


≪囚われる想い、導かれる未来≫

 東京駅、新幹線のホーム。
 その日最後になる、京都行きの新幹線のぞみ号が静かに滑り込んできた。
 腕時計のデジタル数字は、既に21時を超えている。
 しかし、週末であるせいか、それとも毎日がこうなのか。東京在住ではない碧には判断がつかなかったが、ホームは多くの人間で混雑していた。
 乗車を促すアナウンスが響く。
 ホームの柱に寄り掛かり、何をするでもなくぼんやりしていた碧は、ポケットから携帯を取り出し、そして仕舞い込んだ。
 仕事も終わり、帰途に着く。
 普段であれば、目を瞑っていても間違う事のない番号に『今から帰る』と電話をかける所なのだが。
 渦巻く様々な感情が、碧の行動を邪魔していた。

 狂うのだろうか、いつか、俺も。

 どんなにかき消しても、脳裏に双子の顔がチラつく。
 全く同じ顔で、理解不能な理論を共に掲げ、全く違う事を語った二人。
 ただ言えるのは、二人とも『執着』という狂気に囚われ、倫理という道から自ら足を踏み外した、ということ。
 そう理性では分かっていながら、碧は二人の少年をただ否定することは出来なかった。
 魂を分けた兄弟への執着。
 その感情は碧自身にも酷く覚えのあるもの。
 故に、単純な想いのままではいられない。
 ポケットの中を探り、指先に触れた携帯の感触を確かめる。
 何も迷う必要はない。自分があの二人のように兄を欺いてまで傷付けることだけは絶対にない筈なのだから。
 しかし。
 その『絶対』の根拠が今は見つけられない。
 ホームに溢れていた人々のほとんどが、車中のそれに変わる。
 とにかく、帰らなければ。
 電話をかける踏ん切りのつかないまま、碧が新幹線のタラップに足をかけた瞬間、携帯の着信を告げるバイブレーションが、衣服越しに肌を震わせた。
 着信は、兄。
 慌てて碧は車内に踏み込みかけた足を、ホームに引き戻した。
「はい……」
『あ、碧。今どこ?』
「……新幹線のホーム。もうすぐ出るトコ」
『そうなんだ。なかなか電話かかってこないからちょっと心配したよ』
「……ごめん。ちょっとバタバタしててさ」
『……碧、今回の仕事で何かあった?』
「へ?」
『声、元気ない。早く帰っておいで。帰ってくるまで起きて待っててやるから。愚痴くらいなら幾らでも付き合ってやるよ』
「兄貴……」
 新幹線の出発を予告するベルがホームに鳴り響く。
『あ、そろそろ出るみたいだね。夜遅いからってどさくさにまぎれて新幹線の中でビールなんて飲むなよ』
「んなことするかよっ! じゃ、すぐ帰るから」
『気を付けろよ』
 閉まり掛けたドアの隙間に、ギリギリで体を滑り込ませて通話を終わらせるボタンを押した。
 余分なストレスを感じさせることなく、静かに新幹線が走り出す。
 近くの自動販売機にもたれかかり、碧は片手で両目をそっと覆った。
 大丈夫。
 自分達は狂いはしない。
 何故、こんな簡単な事を迷ったりしたのだろう。
 囚われる想いは一つでも、それが向かう先が違うのなら導かれる未来も大きく異なるというのに。
 大丈夫、大丈夫。
 自分達はすれ違いはしない。
 背を伸ばし、胸を張る。自分の足でしっかりと己自身と、その全てが内包する想いを支えて。
 碧はゆっくりとした足取りで、最も身近な未来へと続く車内を歩き出した。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0086/シュライン・エマ/ 女 / 26 /翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0454/鷹科・碧(たかしな・みどり)/ 男 / 16 /高校生】


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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。毎度お世話になっております、OMC隅っこ(バリエーション募集中・笑)ライターの観空ハツキです。この度は京師紫からの依頼を受けて下さってありがとうございました。
 今回はお二人様ご案内、ということで、予定ではいつもの半分の時間で仕上げる予定だったのですが、蓋を開けてみれば……ギリギリまでお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。

 碧くん、今回もご参加ありがとうございました。事故が人為的なものであることにも気付いて頂きありがとうございました。……というか、碧くん。なんというか設定がハマリ過ぎてハマリ過ぎて。勢いに任せて書き過ぎそうになるのを堪えるのに必死でした(笑)。書きながら、何度も碧君の設定を読み直し、そして今まで参加された依頼を拝見し「あぁ、碧君は彼音や吾鈴のようにはならないだろうな」とずっと考えておりました。
 余談ですがツインピンナップ。いつも本当に楽しく目の保養にさせて頂いております。

 さて、蛇足ではありますが本編について少しだけ。今回の依頼、不幸な結末を迎えたようにも見えますが……この結果は最良の結果のウチの一つだと私は思っております。
 そして「恋牙」は「恋愛」をテーマに一つのシリーズとして後2作ほど書かせて頂こうと思っております。話自体は別物になるので、シリーズと言うほどのものではありませんが、今作に登場した二人の少年が関って参りますので、もし今作をお気に召して頂けましたら……残りの2本も少しだけ気にしてやって頂けると幸いです。

 それでは今回はこの辺にて。観空的趣味に突っ走りまくったBL依頼にご参加頂きまして、本当にありがとうございました。皆様に少しでもお気に召して頂ける事を、切に祈っております。ご意見・ご指摘・ご感想などございましたらテラコン・クリエーターズルームより送ってやって下さいませ。
 夏、到来です。暑さに負けて体調など崩されませんよう、お気を付け下さい。