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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


恋彩日

<序>

『デートして欲しいんだ』

 突如電話から聞こえたその言葉に、草間は飲んでいたコーヒーを盛大に吹き出した。喜劇かかった大仰なリアクションではあったが、今の彼にはそうするより他なかったのである。
 男から「デートして欲しい」などと頼まれたとあっては。
「は……はアッッ?! おおおお前何言ってるんだっ?!」
 書類の上に散った琥珀色の液体を慌てて手近にあった雑巾で拭いながら、草間武彦は電話の向こうにいる古くからの知人、鶴来那王(つるぎ・なお)に頬を引きつらせながらやや上ずった声を投げつけた。
 前から変な奴だ変な奴だとは思っていたが。
(やっぱり……こいつは変だ)
 雑巾を片手に握り締めつつ勝手に心の中でそう決め付ける草間に、受話器の向こうからかすかに涼やかな笑い声が聞こえた。
『違う、これはれっきとした依頼なんだ』
「ならなおさらだ。うちはデートクラブじゃないぞ」
『だから……判らないか? こんな依頼をお前の所に持ち込む理由が』
 かすかに耳に届く相手のため息に、草間が眉をしかめた。
「ただのデートじゃないってことか」
『そういうことだ』
「……話、聞かせてもらおうか?」

 つい数日前のこと。
 鶴来は普通に街中を歩いていたのだが、その時ふと道路の脇にいる一人の少女を目に止めた。特別綺麗な容貌だったというわけでもなんでもない。ごくごく普通の容姿の、ごくごく普通にどこにでもいる女子高生のようだった。
 ただ、霊体だったということを除いては。

「……お前、普通に出歩いてる時くらい意識的にそういうモノから目をそらせないのか」
『少し前まではそれも可能だったんだが、最近何だか上手くいかないんだ』
 草間のツッコミに苦笑しながら答えると、鶴来は話を続けた。

 少女は自分の姿に目を止めた鶴来に気づいたらしく、道路の先に向けていた視線を彼へと転じた。目が合ってしまった以上、なんとなく放っておくわけにも行かず、彼女に近づいたのだが――…

『そしたら取り憑かれてしまったんだ』
「……お前」
 あっさりと言い放った相手に、草間は額を押さえる。
「じゃあ何か。今お前はその女の子に憑かれてる状態なのか?」
『自我で押さえ込んでいるから、彼女は表には出て来れないけれど。……今、少し彼女と意識が融合気味なんだ。このままだと完全に融合してしまうまで時間の問題かもしれない』
「で? それがなんでデートに繋がる? さっさとお祓いでも何でもしてもらえばいいじゃないか。うちのヤツ、何人か回してやろうか?」
『手荒な真似しなくても、彼女は誰かと一日遊んでもらえたらそれでいいって言っているから。気が済めば行くべきところへ行ってくれると思う』
 常より幾分柔らかい口調なのは、その少女との意識の融合のせいなのか。
 煙草を一本取り出して、フィルターを唇に当てながらため息をつく。
「ということは、お前に憑いた状態で遊ぶってことだな? つまりはお前とデートってことだな?」
『……ということになるかな。費用は俺が持つから、適当に一日相手してもらえると助かる』
「もしそれでお前から離れなければ?」
『その時は、付き合ってくれる人の判断に任せる』
「了解」
 それじゃあ、と言葉を残して鶴来が通話を切る。ふと、受話器を電話に戻そうとして、草間は首を傾げた。
「そういや男か女、どっち回そうか?」
 鶴来は男だが、中に憑いているのは少女だ。
 中にいる少女に合わせるのなら男を回すべきだが、それだと外見上、鶴来と男同士でデート、という何となく不毛な状況に陥るような気がしなくもない。
 けれど女なら、外見上はデートに見えるが、中にいる少女にとってはデートにはならない。
「……まあ、どっちでもいいか」
 話を回してみて「行く」というヤツに任せればいい。
 あっさりとそう決めると、受話器を置いた手でライターを取り、くわえた煙草の先に火をつけた。

<デートのお誘い>

 草間から連絡を受けた時、抜剣白鬼は耳を疑った。
 ちょうど、久々に時間が空いたので京都の知人の寺を訪れ、その広い庭先を借りて、中国拳法の鍛錬をしていたところだった。生えている大木に拳を打ちつける。真夏も間近の太陽の下、拳を振るうたびに汗が飛び散る。それがまた清々しくていい。
 ……と、そんなところにかかって来た一本の電話。呼びに来てくれた住職の夫人は、この電話が仕事の話だと判っているのか、電話が置かれている玄関口とは離れた所にある居間の方へ移動している。
 もう一度、先刻草間が紡いだ言葉を脳内でリピートさせてきちんと言葉の意味を理解する努力をしてから、こめかみから頬へと流れてきた汗を首に引っ掛けた手ぬぐいで拭って電話に向かう。そして少し声を押さえ気味に問いかけた。内容を誰かに聞かれるのを憚るかのように。
「……デートって、俺と鶴来くんがかい?」
『ああ』
 あっさりと返って来るその言葉に眩暈を覚えそうになり、白鬼は掌で顔を覆った。
 草間興信所からの依頼は、今までも何回か請けている白鬼である。だが、この依頼はどうなのか。
 依頼、すなわち。
「鶴来那王と一日デートしてくれ」
 難しいなぞなぞでも解くかのような表情で、眠そうな眼差しを持ち上げて宙を見る。
(デートって、鶴来君……なんでそんな依頼を草間興信所に……)
 考えて、ふと、この間の依頼の時の別れ際のことを思い出す。
 なんだか微妙に様子がおかしかったが――何か関係があるのだろうか。
 うーんという短い唸り声が聞こえたのか、草間が回線の向こうで小さな笑い声を発した。
『はは、俺も人が悪いな。すまない。正しくは「ヤツに憑いている女子高生の霊とデートしてくれ」、だ』
 わずかに眉を持ち上げて、白鬼は受話器を逆の手に持ち直す。
「憑いているって、鶴来君、霊媒体質だったっけ?」
『いや、こないだ街中で憑かれたらしいんだ。で、その女の子が一日遊んでくれたら離れるとか言っているらしい』
「ああ、そういうことか」
 事情を飲み込むに至り、怪訝そうな表情を解いてふっと吐息をつく。
 なるほど、それならば草間興信所に依頼を持ち込んだ理由が判る。
 霊的要素が絡む事象ならば、デートとはいえいつもの彼の依頼となんら変わらないからだ。デートはつまり、その依頼を解決させるために依頼者である鶴来から提案された手段にすぎない。
 ようやく事の次第を飲み込んだ白鬼に、「もちろん蹴ってもらってもかまわない」と言葉を添えてしばし草間は沈黙する。考える時間をくれるということなのだろうが、白鬼は間髪おかずに答えを出した。
「明日には東京に戻る予定だから、時間と待ち合わせ場所教えてもらえるかな」
 言いながら、その脳裏でこの間の西瓜とメロンにまつわる事件の時に鶴来から受けた印象を思い出す。
(……かなり不安定気味だったからなぁ)
 張り詰めすぎて、今にもぷつりと切れてしまいそうな――そんな危うい精神バランス。なにか、もう一撃でも打撃を食らえば、そのまま容易く闇に心を落としてしまいそうな……。
(この依頼をうまく利用すれば、少しは張り詰めたものをほぐしてやれるかもしれないし)
 考えながら、白鬼は草間から聞かされた場所を電話の横に置いてあったメモ帳に書き記し、ふっと短く吐息を漏らした。

<待ち合わせ>

 午前十時。
 行き交う車の流れを、少女を受け入れたちょうどその場所でしばし眺めていた彼は、やがて右手首にはめた時計の文字盤に目を落とし、一つ吐息を漏らす。
 そして、ゆっくりとその眼差しを持ち上げた。
 その耳に届くのは、低く唸るようなVツインエンジンの音。
 道路沿いに立つ鶴来のその前に、一台のバイクが停まった。
 黒く流麗なフォルムを持つアメリカンバイクだ。クラシカルな形ではあるものの、古臭さを感じさせないその姿。
 ホンダ・シャドウ七五〇。
「待たせたかな?」
 ひらりとその車体から下り、メットを外して穏やかな笑みを浮かべるのは、抜剣白鬼だった。何度か目を瞬かせている鶴来に、白鬼が怪訝そうな顔をする。
「ん? どうした?」
「……いえ、僧衣を纏っておられないところを見たのが初めてだったので、なんだか別の人のような気がして」
「俺だってTPOくらいは考えるよ。せっかくのデートにあの格好じゃあまりにもハズしすぎだろう?」
 片目を閉じてニッと笑う白鬼のその姿は、確かに一見、僧のようには見えない。コバルトブルーのTシャツの上にライトグレーの半袖シャツ、ダークグレーのパンツというカジュアルな格好だった。
 引き換え、鶴来はいつものように黒のスーツ姿。自分の姿を省みるようにわずかに俯き視線を落としてから、苦笑しつつ顔を白鬼の方へと戻す。
「すみません、仕事だという意識が抜けなくて」
「まあここまではそれでかまわないけど、ここから先はその意識は横に置いといてもらわないとな」
 言って、タンデムシートの近くに引っ掛けてあったメットを鶴来の方へと放り投げる。そして空いた手で自分の顎を撫でながら片目を細めて笑った。
「まあ、年齢的には俺だとキミに憑いてる子は不満かもしれないけど」
「いえ……では今日一日、よろしくお願いします」
 メットを抱きとめて丁寧にいつもどおり頭を下げる青年に、やれやれと宙へと上目遣いに見上げながら肩をすくめてみせる。
「言ってる傍からそれじゃあ、こっちとしてもどうしていいものやら」
「あ……すみません」
 困った顔で謝罪を口にするその様に、白鬼も苦笑を禁じえない。
 まあ、彼らしいといえば彼らしいのだが。
 もう一度ひょいと肩をすくめてみせてから、車体にまたがってくいと自分の後ろを親指で肩越しに指し示す。
「さて。こんなところで話し込んでいても時間がもったいないしね。とりあえず後ろにどうぞ」
「そうですね、では失礼します」
 一歩バイクへと歩み寄る鶴来に、白鬼は自然に手を差し伸べる。不思議そうにその手を見る鶴来に、穏やかに笑いかけて。
「何かあったら呼んでくれていいと言っているのに、キミは全然俺を頼りにはしてくれないんだなぁ」
 今も、シャツの胸ポケットには彼から貰った小さな瓢箪を入れている。鶴来の持つ瓢箪と対になっているものらしく、こちらから呼びかければ鶴来は答えてくれる。今までも何度か、彼の依頼を受けて調査している時に、呼びかけに応えて現れてくれた。
 けれども、鶴来の方からは呼ぶことができないのか、それとも彼が呼ぼうとしないのか――今までまだ一度も彼からの呼びかけを感じたことはない。
「まあ、今日はキミにも気休めしてもらえればいいと思ってるから。だから仕事だと考えず、むしろただ遊びに行くんだと思ってくれたほうがいいんだ」
 困った顔でバイクの手前に立ち止まった鶴来に差し出していた手を、ひらりと一度振る。
「手を貸すよ」
「……すみません」
 本当ならば手を貸されずとも一人でタンデムシートに乗る事くらいはできたのだが、苦笑を浮かべて、鶴来は白鬼の言葉に従うように片手を差し出された手の上に乗せた。

<デートコースリクエスト>

「ところで」
 タンデムシートに座った鶴来を肩越しに振り返り、白鬼はメットを持ち上げた手を止めた。
「どこか遊びに行きたい場所は? 希望の場所へ向かおうと思うんだけど」
「希望の場所ですか」
「キミと彼女で相談してくれていいよ。行きたい場所、どこへでも連れて行くから」
「……わかりました。少し待っていただけますか」
 言うと、鶴来はふと視線を斜め下に落とした。何かを考え込むような表情で、しばし黙り込む。おそらくは、中の彼女と対話しているのだろう。
 頭上には青い空が広がり、眩い太陽が地上を照らしつけている。まだまだこれから気温は上がってきそうだ。
 一メートルほど横をひっきりなく通り過ぎる車が残して行く排気ガスにまみれた風に、鶴来の髪がゆるくなぶられる。それをメットを抱えるのとは逆の手で押さえながら、ふと鶴来が目を上げた。
「水族館……」
「水族館?」
 おうむ返しに問い返す白鬼に、首を縦に振る。
「ええ。水族館へ行きたいそうです」
「どこか指定の水族館とかあるのかな?」
「いえ、どこでもいいらしいです」
「そうか。それじゃ、まずは水族館へ向かうとしようか」
 都内にはいくつか水族館がある。そのうちのどこへ向かおうかと頭の中の地図を広げながら、白鬼はメットを被ってもう一度肩越しに振り返った。
「落ちないようにしっかり捕まっててくれよ?」
 それに、メットを被ろうとした手を止めて、鶴来が優美に微笑んだ。
「ええ、わかりました」

<希望の場所>

 車の流れに乗るように、白鬼の愛車・シャドウが疾駆する。強い日差しにさらされて熱された風が車体を撫でて行く。
 メットからはみ出した鶴来の髪が、肩の辺りでせわしなく風にもてあそばれた。
 信号などで止まるたびに、白鬼は肩越しに振り返り、大丈夫かとか疲れてないかなど問いかけた。メット越しに意を伝えるように頷いて鶴来が答えると、ぽんぽんとメットに軽く手を乗せてまた正面へと向き直ってバイクを駆る。
 第一京浜を川崎方面へと走り、平和島口の交差点を左折。海岸通りに突き当たったところをさらに左折。勝平橋を渡りきったところ、さらに左折。
 着いた場所はしながわ区民公園南駐車場だった。近くにはしながわ水族館がある。
 平日のせいか、駐車場に止まっている車の数はやや少ない。
「ここでいいかな?」
 シャドウを停めて、ようやくメットを外して顔に風を受け止める。わしわしとメットの形にぺったりとへこんだ髪を手でかき回しながら、鶴来を振り返った。鶴来もメットを外し、ふるりと頭を振る。そして指先で髪をかき上げながら微笑んだ。
「ええ、かまいません。彼女も来たことがないそうですし」
「ならきっと喜んでもらえると思うよ。ココ、見所いろいろあるから」
 ちらりと腕にはめた時計に目を落とす。
「ああ、確か今からならイルカショーに間に合うかな」
 鶴来がアスファルトの上に降り立ったのを確認してから、白鬼もシャドウから下りる。
 さっきまでより太陽の位置は高くなっている。自然に、周囲の空気も熱を増してきている。
「さ、それじゃ行くとしようか」
 きっと館内はこの熱気に負けないよう、冷えた空気が満ちているに違いない。
 自分も確かに暑いが、それよりもこの黒スーツの青年を長い間この強い日差しの下にさらしておくのは考え物かもしれないと思ったのである。

<イルカの瞳>

 水しぶきが上がる。
 最前席にいたため、太陽の光にさらされてキラキラと光りながら宙を舞う飛沫のいくつかから顔を庇うように、鶴来は思わず片手を持ち上げた。
 バシャンと大きな水音を立てて、すうっとしなやかな体を水中へともぐりこませるのは、体長二メートル半ほどのイルカだ。トレーナーの笛の音にあわせて、もう一度宙へと高く跳び上がる。そして大きくしぶきを上げてまた水中に戻る。
「はーい、それでは頑張ってジャンプしたサラに、大きな拍手をお願いしまーす!」
 トレーナーの声に、場内から一斉に拍手が沸きあがる。
 降り注ぐ陽光の下、青いプールに張られた水の中でゆったりと泳ぐイルカを、拍手しながらひどく楽しげに見ている鶴来のその横顔を白鬼は見て笑った。ふと首を傾げて鶴来が不思議そうに白鬼へと視線を転じる。
「?」
「ああいや、キミでもそんな風に笑うんだと思って」
 言ってから、あれ? というようにふと、鶴来同様に首を傾げる。
 なんだか彼から発される気配に違和感を感じたのだ。いつもの鶴来の気配ではなく、もっとひんやりとした――それは霊体から感じる気。
「あれ? もしかしてキミ、鶴来くんに憑いているコかい?」
「あ、はい。鶴来さんが代わってくださったんです」
「代わるって……」
 そんなことが簡単に出来るのか?
 思わず疑問を口に乗せかけたが、すぐにその口許に手を当てて言葉を止めた。別に今、それを追及するようなことはないかと思ったのである。
 こんな楽しい顔をしているところに水を差すのは、野暮というものだ。
(……まあ、このコに聞いたところでわかるわけでもないしな)
 止めた言葉の代わりに、ぽん、とその頭に手を乗せて白鬼はのんびりと微笑む。
「さて、それじゃ館内回るとしようか」
 イルカのショーはすでに終わり、このイルカ・アシカスタジアムにいた客たちはみなバラバラと席を立ち、館内へと移動している。
 いくら水辺の近くで頭上にはひさしがあるとはいえ、やはり外は暑い。そっとその手を取り、白鬼は鶴来――の姿をした少女を立ち上がらせる。誘われるように腰を上げながら、少女はもう一度プールの方を見て微笑んだ。
「可愛いですよね」
「イルカ、好きなのかい?」
「はい。ペンギンも好きですけど、やっぱりイルカが一番好きかな。目が優しいから」
 言って、パンパンとスーツについている水滴を手で払う。そしてふと目を上げて、少女は抜剣を見て笑った。
「ああ、なんだかイルカに似てますね」
「俺がかい?」
「そういう目です」
「目? うーん、よく眠そうだとはいわれるけどね」
「優しい目です。だから鶴来さんは……ああ、そうですよね、ごめんなさい」
 意味不明な自己納得の言葉を紡いで、少女は肩をすくめてくすりと小さく笑った。
「余計なことは言うなって、鶴来さんに怒られちゃいました」
「さて、一体どんな余計なことなのか、そこで途切れさせられたら俺としては微妙に気になるんだけどな」
 仕草を真似るようにひょいと肩をすくめてみせてから、とんと少女の背を促して館内に向けて歩き出す。観覧席を抜けて館内に戻ると、ひんやりとした冷気が体を包み込んだ。熱された肌に触れるその冷たさが心地いい。
 ふと少女が顔を上げた。そしてしばし白鬼の顔をまじまじ黒い瞳で見る。
 あまりにもじっと眺められて、白鬼がその細い目を瞬かせた。
「? なんだい?」
「ふふ、なんでもないです」
 なんだか悪戯っぽく意味ありげな笑い声を残し、壁に穿たれた小窓に取り付けられたモニターがあるフロアへと小走りに駆けて行く。
「???」
 なんなのだろう?
 常とは違って表情をくるくると変える鶴来のその姿と、謎な少女の言葉とに緩く首を傾げながら、白鬼も薄暗い通路をゆったりとした足取りで歩いて行く。
(まあ、彼女が楽しんでいるのならそれでいいか) 
 モニターの前に張り付いて真剣にそこに映される海の姿を見つめているその横顔を見、白鬼は唇にかすかな笑みをこぼした。

<リキッドスカイ>

 一階のフロアをすべて回りきり、次は地下一階へと移動する。
「下には何があるんでしょう?」
 階段の下りの途中で傍らから問いかける少女に、白鬼はさっきの少女の謎な言葉と微笑に復讐するかのようにふふふと意味ありげに笑ってみせた。
「きっとびっくりすると思うよ。すごいから」
「なにがあるんですか?」
「見ればわかるよ」
 言って、少し暗い足元を注意してやりながら彼女の背中を促して階段を下りきり、通路を歩く事しばし。
 不意に目の前に、真っ青な世界が開けた。
「うわ……っ」
 少女が横で絶句して立ち止まるのを見、白鬼も視線をわずかに前方、やや上へと持ち上げる。
 水のドームだった。
 一八〇度ガラス張りの、トンネル型水槽である。ゆうらりと光差す青い水の中に、数多の魚がゆったりと泳いでいる。光を受け、その体がきらきらと光る。
 頭上を魚たちが回遊するという、まるで水底にいるかのような光景がそこにはあった。
「すごい、きれい……!」
「こういうのがある水族館はなかなかないからね。きっと喜んでくれるんじゃないかと思ったんだ」
 まるで子供のように、頭上を見上げたままその場でくるりと三六〇度回り、嬉々とした顔をしている少女に片目を細めて笑いかける。それにこくりと大きく頷いて、少女は白鬼へと視線を返した。その頬は、この見事な光景を前にして興奮しているのか、わずかに桜色に上気している。
「すごいです、本当にすごいです!」
 それ以外の言葉がみつからないかのように同じ言葉を繰り返すと、少女は小走りにトンネルの中央まで駆けて行く。そして両手を広げて頭上を見上げた。
 ポケットに手を入れてゆったりと歩きながら、白鬼も頭上を見上げた。
 水色と白と青の光がきらきらと通路を彩る。白い空気の粒までもが光の加減で、まるで至高の宝石のように見える。非現実な世界に迷い込んだようだ。水の迷宮に閉じ込められたかのような、そんな錯覚すら覚えそうになる。
 その水の壁の中を泳ぐ魚は、まるで宙を舞う蝶のようだった。その蝶を捕まえようとするかのように少女はしばし両手を頭上に向かって広げていた。
 水でできた空を仰ぎ、何かを祈るかのように。
 どんな表情をしているのか、白鬼には見えない。けれども静かにその背に歩み寄り、そっと傍らからその肩を抱くように手を乗せた。
 肩に乗せられた大きな手に、はっと我に返ったように少女が白鬼へと顔を向けた。それに、お茶目なウインクを一つしてみせる。
「なんだか水の中に消えて行ってしまいそうだね、キミは。さしずめ海に帰りたがる人魚姫ってところかな?」
 くささとジョークを織り混ぜたその台詞に、少女がぷっと吹き出した。
「やだ、抜剣さんったら。違うの、鶴来さんの手なら天井に届くかなって、そう思っただけなんです。本当の私の背丈とは違うから。視線がとても高いから」
 でも、と言葉をつないで、少女はまた頭上を見上げる。
「こうしてると、自分がどこにいるのかわからなくなりそう。本当に、海の中にいるみたい……」
 青い光が鶴来の白めの肌の上に降り注いで奇妙な陰影をつける。青い光が入るせいか、いつもは黒い瞳が青く透けていた。
「でも抜剣さんが近くにいてくれると、なんだかとても安心していられる。ちゃんと大地に足がついてるって感じかな」
 唇に穏やかな微笑を浮かべ、独白のように少女は言った。
「それは鶴来さんも同じだと思うんです」
 ガラス越しの水中を見つめたままぽつりと紡がれたその言葉に、白鬼はぽんと抱いたままの肩を軽く叩いた。そして彼女の視線を追うようにガラス越しの海へと目を向ける。
「その割に、あまり頼りにされていないんだよ、俺は」
「そんなことないですよきっと。あ、でも、鶴来さんは」
 ふっと、言いかけた言葉が途切れる。上げていた視線をゆっくりと降ろして間近に白鬼の顔へと視線を移し、苦笑を浮かべた。
「余計な事は言うなと言っているのに」
 その容貌に浮いている表情は、くったくのない少女のものではなく、いつもの鶴来那王のものだった。はたと白鬼がその細い目を瞬かせる。
「あれ? 鶴来くんかい?」
「すみません、さっきから彼女が変な事ばかり言うので、ちょっと見かねて出て来てしまいました」
 気だるげに微笑むと、緩やかに視線を持ち上げる。そして少しまぶしそうに目を細めた。
「綺麗ですね、本当に」
 その横顔を眺め、白鬼はゆるく首を傾げ、空いた手で顎を撫でた。
「さっきから彼女を黙らせるのは、聞かれたくないことを言おうとしているからかい?」
「いえ、別に言ってもかまわないんですけど」
 泳ぐ魚を眺めながら、鶴来はしれっと言った。
「俺は恥ずかしがりやなんです」
「……は?」
「だから、おいそれと人に頼る事ができないんです。恥ずかしがりやゆえに。……いや、恥ずかしがりやというよりは、遠慮深いというのかな」
 大真面目に紡がれたその言葉に、思わず大声で笑い出しそうになってしまい、白鬼は顎ひげを撫でていた手をずらせて口許を覆った。さすがに静かなこの場所を乱すような大声を出してしまうわけにはいかず、どうにか笑いを噛み殺す。
「ちょっと今、キミのお茶目な一面を見てしまった気がしたよ」
 ちらりと鶴来が視線を寄越す。そして優美に微笑んだ。
「きっとあなたの茶目っ気がうつったんですね。このあたりの茶目っ気が」
 肩に乗った白鬼の手を指先でつつく。ああ、と思い出したように白鬼が肩に乗せていたその手を離して鶴来の頭をくしゃくしゃと撫でた。そして間近で視線を合わせ。
「あんまりにもキミが可愛いからだよ」
「……は……?」
 きょとんとしたその鶴来の表情。うまく言葉の意味を理解できなかったかのような顔だ。
 それに、ニヤリと唇の片端を吊り上げて笑う。してやったり、な顔だ。
「なんてね。こういうのが俺の茶目っ気ってヤツだろう?」
 もう一度その漆黒の髪をくしゃくしゃと大きな手のひらでかき回して、白鬼は肩を揺らせて笑いながらトンネル水槽の出口に向かって歩いて行く。
「…………」
 かき乱された髪を片手で押さえて、鶴来はなんともいえない表情で遠ざかって行く広い背中をしばし眺め、そして苦笑をこぼした。その意識のアンテナに、体内に同居している少女が笑っている声が引っかかり、大きく一つため息をついて苦笑を深くする。
 だが次の瞬間、ぱたぱたと白鬼の背を追って駆け出す時にはまた鶴来は意識の水底へと引っ込み、表には少女のくったくのない笑みが浮かんでいた。
 きらきらと、青い光は絶えず頭上から降り注いでいる。

<食後の語らい>

 水族館を後にした二人(厳密に言えば三人)は、館の外にある、水に浮かんだ六角形をした建物――水上レストランで昼食をとる事にした。
「抜剣さん、どうして今日は私のお相手してくだったんですか?」
 食後のデザートのクリームソーダに差したストローを指先でもてあそびながら、少女が尋ねた。アイスのカプチーノを口に運ぼうとした白鬼が、その手を止めて目を上げる。
「どうしてって?」
「だって、抜剣さんからしたら私は……全然子供だし」
「キミ、歳幾つなんだい?」
「一七でした」
 死をきちんと受け入れているのか、自分の歳をあっさりと過去形で語る少女に、白鬼はわずかに目を細める。そして片手を軽く持ち上げた。
「亀の甲より年の功ってヤツかな。だてにキミの倍近く生きてないよ」
 楽しませる事ができないと思ったなら、いくら鶴来の依頼であったとしても、請けはしなかっただろう。
「デートといえば年齢的には役不足かもしれないけど、遊び相手なら歳は関係ないだろう? もっとも、俺としてはデートのつもりだけどね」
 ぷかりと緑のメロンソーダの上に浮いた白いアイスクリームを柄の長いスプーンの先でつつきながら、少女がちらりと目を上げた。
「役不足だなんて私……少しも思ってませんよ?」
「そうかい? なら俺としても嬉しいよ」
「むしろ、子供過ぎてちゃんと相手してもらえないんじゃないかって思ってました」
 恥じらいを滲ませつつ小声で語るその様を、白鬼はテーブルの上で肘をつき、組んだ両手を口許に当てながら穏やかな目で眺めている。窓辺の席には、ガラス越しに強い日差しが差し込んでいる。ソーダ水の鮮やかなグリーンが白いテーブルに色をつける。
 ふと黒い瞳を上げ、彼女は微笑んだ。ふと、その鶴来の顔をした笑顔に被るように、一人の少女の姿が浮かび上がる。肩口までまっすぐに伸ばした黒髪と、セーラー服。
 彼女の霊体だ。本来の彼女の姿が、そこにある。
「あとでお土産屋さん、覗いてみていいですか?」
「ああ、もちろんかまわないよ。土産物は見ているだけでも楽しいからね」
「そうなんですよね。修学旅行の時とかも、観光地を見るよりもそこのお土産屋さん回ってるほうが楽しいんですよね」
 霊体が微笑むと、鶴来の顔にも同じように屈託ない笑みがこぼれる。
 白鬼もその顔に笑みを乗せたが、眼差しだけはまっすぐに少女の霊体を捕らえていた。まだ霊的には幼い。けれど、その根はしっかりと、鶴来の中に根付いているように感じられる。
 意識はすでに半ば融合している。これ以上時が進めば、やっかいかもしれない。
(……いや。今は考えるときじゃないか)
 仕事ではなく遊びなのだと思えと、最初にそう鶴来に言ったのは自分だ。
 こめかみの辺りを指先で撫で、白鬼はグラスに残っていたカプチーノを一気に喉へと流し込んだ。

<ティーセット論議>

 土産物屋であれこれイルカグッズを見てから、二人は近くにあるウォーターフロントの複合都市・天王洲アイルへと足を伸ばした。様々なショップやビルなどが林立している中を、ゆっくりと散歩がてら歩く。
 中でもとりわけ、シーフォートスクエアの吹き抜けドーム内部の作りが気に入ったらしく、少女は何度もそこにある階段を上がったり下りたりしていた。
 ショップでは、郵船ビルショッピングモール内の紅茶屋が気に入ったらしく、功夫茶器一三点セットの前でしばらく立ち止まっていた。
「こっちのさくらんぼがついてるティーセットのほうがかわいくないかい?」
 別の白いティーカップを指差して問いかけた白鬼に、少女はふるふると首を振る。そして桜色とも土色ともつかない功夫茶器を指差し、きっぱりと言う。
「中国茶器のほうが可愛いです。この色合いが可愛いくないですか?」
「そうかなぁ? なかなか渋めの趣味なんだねキミは。まあでも俺としてもこっちのよりはそっちの方が好きだけど」
「趣味が渋いとはよく言われてました。あ、でもガラス製のお茶器も可愛いですよね」
「葉っぱが中で踊るのを見るのはけっこう楽しいね」
「じょじょにリーフから色が出てくるのを見ているのも楽しいし」
 ……傍から見れば、男二人がティーセットを眺めてああだこうだと言っては笑っている様は、実に妙なものだったかもしれない。十数分の検討の末、結局「中国茶器はかわいい」という結論に達して店を出て行く二人を、店員が小首を傾げて不思議そうな顔で見送っていた。

<別れの儀式>

 けれど、楽しい時間というのは得てして過ぎるのが早いもの。
 太陽が西に傾き、空にわずかばかり闇色が伸びてきた頃、二人は城南島海浜公園にいた。海を見たいという、彼女のリクエストに沿ったものだった。
「潮の香りがすごいですね」
 公園中央の高台のベンチに腰を下ろし、潮風に弄られる髪を手で押さえながら少女が目を細めて海の向こうへと視線を向けた。左手にはお台場、右手には羽田空港が見える。
 隣に腰掛けて、白鬼もまた遠くへと視線を投げた。
「もう少し暗くなったら夜景が綺麗なんだけどな」
 言って、腕の時計に目を向ける。闇が空を支配するまで、まだ数十分はかかりそうだ。すでに対岸の景色にはぽつぽつと明かりが灯ってはいるが、やはり、光は闇の中にあってこそ輝くものである。
「夜景を堪能するにはもう少し時間がかかるかな」
「残念だなぁ」
 ぽつりと漏らされた言葉に、白鬼が隣へ座る少女の方へ顔を向ける。
「残念って?」
「もうそろそろ、私……行かなくちゃいけないから」
 自分の左胸に手を当てる。
「これ以上ここにいたら、鶴来さんが困るから」
 おそらくは、融合の度合いが強くなっているのだろう。
 ふと目を上げ、彼女はふっと切なさを込めた笑みをこぼす。
「楽しかったです。これで終わっちゃうのが惜しいくらい」
「そう言ってもらえると、一日つき合わせてもらったこちらとしても嬉しい限りだ」
 ぽんぽんと、その黒髪の上に手を置く。
 その時、少女がふと遠い目をして自らの左胸にもう一度手を当てて黙り込んだ。その頬に、わずかな赤みが差すのは、斜陽のせいではない。きゅっと、その眉宇がわずかに寄せられる。
 そして緩く頭を振りながら顔を伏せる。
「……どうしたんだい?」
 その言葉に、はっと少女が顔を上げた。その唇を開きかけたところを、ぱっと自らの手で押さえてまた緩く頭を振る。
「だめだ、それは」
 厳しい口調で紡がれたそれは、少女の言葉ではない。怪訝そうに白鬼がその顔を覗き込む。
「鶴来くん?」
「お願いです、だってもう私は……それはお前の都合だ。体を貸しはしても、そこまで許す気はない」
 顔を伏せたまま紡がれる、鶴来と少女の言葉。同じ声なのにまったく違う語調で発せられるその言葉は、なんだか酷く奇妙なものに感じる。
 もっとも、今まで仕事上で霊に憑かれた状態の者には何回も会っている白鬼である。別に今更この状況を前にしても、驚きはしない。
 だが、何かを言い争っていることはわかるが、主語が抜けているため何のことを言っているのか白鬼にはわかりかねた。眉宇を寄せて、言葉を挟もうかどうしようかと迷ったところ。
 ふっと、鶴来の体が顔を上げた。どちらが今その意識を支配しているのかはわからない。判らないが、その体が、声を紡いだ。
「お別れの前に、最後のお願いを聞いてもらえませんか?」
 今にも泣き出しそうなその顔と発された言葉で、今そこにいるのが鶴来ではなく少女のほうだとわかる。わずかに首を傾げて、白鬼は先を促した。
「なんだい? 俺に聞けることなら聞くけど」
「キスしてください」
 間髪置かずに言って、少女はその頬を真っ赤に染めた。
「鶴来さんはダメだって言うけど……どうしても、この世界から消えてしまう前に一度くらい、してみたかったんです。そういうの、生きてるときにもしたことなかったから」
 けれどもすぐに、ふるっと頭を振ってそのまま少女は顔を伏せる。
「やっぱり、ダメ……ですよね」
 胸の辺りで拳を強く握り締め、ぽつりと言う。もしかしたら、意識の支配権を取り戻そうとしている鶴来を、無理矢理押さえ込んでいるのかもしれない。
 キス一つのために。
(……とは言っても、嫌がってるみたいだしな、鶴来くんは)
 かりかりと頭をかく。そこまで許す気はない、とさっききっぱり彼自身が彼自身の体から紡いだ言葉を思い出し、顎に手を添えてうーんと唸る。
 それはまあ、普通に考えたら誰だって抵抗するだろう。いくら友人とはいえ、それはちょっとすんなり受け入れられる事柄ではない。
 けれども、ノーの答えを返したら、彼女を行くべきところへ送ることができないかもしれない。心残りがあったためにまっすぐに飛び立つ事ができなかった霊の存在を、幾つも自分は見ている。
(……仕方ないか)
 肩から力を抜くと、白鬼はそっと少女の肩に右手を乗せた。びくりとわずかにその肩が震える。
「いいよ」
 白鬼の言葉に、少女がはっと目を見開いて顔を上げた。
「ほ……本当に、ですか?」
「その代わり、絶対に目を開けないでくれるかな」
「は、はい」
 素直にこくりと頷く彼女に、優しく目を合わせて笑いかける。
「あと、その前に少し話聞いてくれるかな」
「……お話、ですか?」
 目を瞬かせて、緩く小首を傾げるが、それでもすぐにこくりと首を前に倒して頷く。同じようにわずかに頷いて、白鬼は目を細めた。
 ゆっくりと一つ呼吸をし、真摯な眼差しで、言葉を紡ぐ。
 彼女のその心に、届くように。思いを乗せて。
「キミがこの世に残ったのには、何か理由があるのかもしれない。そういう形になっても、この世に残りたいと思ったからかもしれないし、もしかしたら、何かの拍子に誤ってこちらに残ってしまったのかもしれない」
 本来、死すれば必ず行くべきところというものがある。
 けれども、そこへ羽ばたくための翼を手折られて、この現世に縛されてしまうものがいる。
 おそらく、彼女もそういうものなのだろう。
 けれども彼女の念からは濁りや穢れというものが濃くは感じられない。
 何かの一念に縛られてこの世に残ってしまったのだろう。だからといって、そこに恨みや憎しみがあったわけではなさそうだった。
「何にせよ、次の場所に踏み出す勇気は必要だ。今までは多分、動く事ができなかったんじゃないかな? でも、今は違う。キミはちゃんと、行くべきところへ行ける。歩き出せるんだ」
 少女は、黒い瞳をじっと白鬼に向けていた。微塵も揺るがないまっすぐな眼差し。
 その瞳の向こうにある魂に届くように、白鬼は言葉を紡ぎ続ける。
 それは、祝詞や祭文や経文や真言よりも、きっと彼女の心にストレートに響く音。
 そしてその言葉は、彼女にのみ向けられた言葉ではなく、その瞳の向こうにいるはずの、もう一人の意識に向けても語りかける言葉。
「一つの思いに囚われてその場に立ち止まり続けずに、もっと先へ歩き出そう。歩かないと、どこへもいけない。周りにある景色はいつまでたっても変わらない。辿り着きたい場所があるのなら、先に進まなければ」
 言って、かすかに微笑む。
「次に生まれ変わった時には、きっと素敵な出会いが待ってるいるよ。だから、そのためにも、まっすぐ正しい道へ歩いていかないとな。ちゃんと俺が、道を照らしてあげるから」
「抜剣さん……」
 少女の方へ、頬を寄せるように少し顔を傾けながら近づける。迫る顔に、ごく自然に彼女がその黒い双眸を瞼で覆う。
 唇が触れるその寸前。
 すっと、白鬼は人差し指を唇と唇の間に入れ、その人差し指の背で相手の唇に触れた。
 柔らかい感触が指に触れたその瞬間。
 ふっ、と鶴来の体から放たれていた気の質が変わる。するりとその体から少女の霊が抜けた。意識をシフトする前に唐突に彼女が抜けてしまったためか、一瞬糸が切れたように前のめりになった鶴来の体を抱きとめながら空を見上げる。
 闇が迫る空と、もう闇色に染まってしまっている海との狭間。
 セーラー服の少女が恥じらいを色濃く混ぜた微笑を残し、ふわりと幻のように消え去った。

<終――闇に差す光明>

「す、みません」
 彼女を見送るように空を見上げていた白鬼は、至近距離で紡がれたその言葉に目を瞬かせ、視線を空から地上へと下ろした。肩に額を乗せるようにしてしばし意識を飛ばしていた鶴来が、ゆらりと体を起こして緩く頭を振り、俯きがちにもう一度、言う。
「すみません」
 口許に手を当てたまま言うその様に、ああ、と白鬼は笑った。
「別に謝らなくても」
「ですが」
 口許から手を離さないまま、鶴来は困ったような表情で顔を上げた。
「あんな願いなど、断ってくださればよかったのに」
「ん? ……って、ああキミ、気づかなかったのかい?」
「え?」
「いや、なんでもない」
(まさかあのキスのトリックに気づいていないなんてね)
 いつもは聡いはずの彼にしては珍しいなと思いながら、ふふと余裕げな笑みを浮かべ、白鬼はぽんぽんとその頭に手を置いた。そしてその顔を覗き込む。
「キミもちゃんと俺の話、聞いてたか?」
「……ええ」
「ちゃんと前に、歩いてこうな。道に迷いそうなら、俺が手を引いてやるから」
 その言葉に、目を伏せて鶴来はかすかに笑った。そしてゆっくりと口許からようやく手を下ろすと、いつもどおり、丁寧に頭を下げた。
「お疲れ様でした。今日は本当に、ありがとうございました」
「いや。キミも楽しんでもらえたらいいんだ。それに、礼はまだもう少し先だな」
 ベンチから腰を上げて、白鬼は空に両腕を持ち上げて大きく伸びをしながら言った。それに鶴来が首を傾げる。
「ええ、俺も楽しませていただきましたが……もう少し先って?」
「夜景」
 人差し指で対岸を指差す。じょじょに重みを増してきている闇の中に、台場の光が浮かび上がっている。
「せっかくだから、見て帰ろうか。時間、大丈夫だろう?」
「ええ、それは大丈夫ですが」
「決まりだな」
 ニッと笑うと、白鬼はもう一度大きく伸びをする。
 その広い背を見上げ、鶴来がふっと吐息を漏らして穏やかな笑みをこぼした。

 夏が、黒く染まった波間でたゆたうように揺れている。
 闇を増して行く風景の中、反するように明るさを増して行く対岸の明かりとともに。

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【0065/抜剣・白鬼(ぬぼこ・びゃっき)/男/30/僧侶(退魔僧)】

【0086/シュライン・エマ(しゅらいん・えま)/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0226/斎司・更耶(斎司・更耶)/男/20/大学生】
【0689/湖影・虎之助(こかげ・とらのすけ)/男/21/大学生(副業にモデル)】
【0807/東斎院・神音(とうざいいん・かのん)/女/14/中学生】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 抜剣白鬼さん。またまたまたまたお会いできてとっても嬉しいです。
 今回は僧衣姿ではない白鬼さんということで、なんだか新鮮な感じがしました。バイクに乗ったり、というのも今までみたことがなかった面なので、とても楽しく書かせていただきました。でも、イマイチ「実はリードが上手い」ということを書ききれなくて大変申し訳ないです(汗)。
 プレイングで、彼女のことだけでなく、鶴来の最近の様子も気にかけていただいちゃってて、「ああ友達っていいなぁ」などと思いつつ(笑)。
 そして最後のあの行動…!
 プレイング見た瞬間、ニヤけてしまっておりました…(笑)。大変面白いプレイングをありがとうございました(笑)。

 さて、今回はオープニングサンプル掲載時にも告知しておりましたとおり、完全個別で書かせていただいています。
 よろしければ、お手隙の時にでもこの作品についての感想などいただけるととても嬉しいです。
 それでは、また会えることを祈りつつ。
 今回はシナリオお買い上げ、本当にありがとうございました。