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<PCシナリオノベル(シングル)>


人魚の泪石

 砂浜に取り付けられたビーチパラソルの下に、草間武彦は身体を横たえていた。
 熱い日差しがさんさんと降り注ぐ砂浜は、太陽と潮の匂いが満ちている。インドア探偵を自称する草間は、こうやって屋外へやってきても日陰の下にいるばかりだ。
 シュライン・エマは草間に向かってビーチボールを投げつけた。
 草間はそれを片手で受け止める。
「じゃあ、シュラインにも聞こえるんだな。あの歌声は」
 投げた。
 ボールがシュラインの方をかすめ、海の方へと飛んでゆく。
 シュラインは頷いた。
 草間が言っているのは、夜毎聞こえてくるある歌声のことだ。啜り泣きのような、祈りのような、もの悲しいメロディを繰り返す美しい歌声。シュラインは、この中の鳥島に来てからそれを聞き続けている。
 シュラインの耳は特別製だ。だから聞こえるのだろうと思っていた。
「他の奴らは聞いてないらしいぞ」
 草間が顎をしゃくり、海に入っている少女達を示す。ゴーストネットOFFを根城にしているオカルトマニアの少女と、アトラス編集部の二人組だ。シュラインたち同様、現在この中の鳥島に滞在中である。
「じゃ、私と武彦さんだけってわけなのね」
 シュラインは踵を返す。ビーチボールは並にさらわれ、もうかなり遠くに行ってしまっている。
「よっこいしょと」
 草間が立ち上がり、シュラインを追いかけてくる。パーカーを脱ぎ捨て、水着一枚になった身体は細身だが逞しい。
 海に入ってくる。
「あんな寂しげな歌を毎晩聴かされたんじゃ、慰めたくなって眠れやしない。あれは一種の力なのかもな。
 ちょっと島の人間や旅行者たちに聞いて回ったんだが、人魚の歌声だって説が有力だな。『人魚の泪石』って宝石を知っているか? 相当珍しい代物だから、俺も実物を見たことはない。なんでもその泪石を作るために人魚が泣いているとか泣かされているとか」
 草間がビーチボールに手を伸ばす。
 シュラインはさっと水に潜り、ボールを下から叩いた。
 水面から飛び上がったボールは、更に沖へと流れてゆく。
――人魚の、泪石。
 シュラインは水に潜ったまま、ボールを追う。
 物語で出てきたことがある。人魚が泣いたときに生まれるという泪石。ダイヤモンドを越える輝きを持つ透明な石で、水に浮くのが特徴だ。羽のように軽く、つるりとしたフォルムをしているらしい。
 翻訳をする上でどうしても必要を感じたのだが、結局著者自身も想像で書いたということだったという苦い思い出もある。それから、胸の一部に引っかかり続けてきた、宝石。
 この島の何処かにあるというのならば、見てみたい。
 シュラインは手を伸ばし、ボールを掴んだ。
 草間がシュラインの肩を捕まえる。つま先が僅かに砂を掻く。もう随分と深くなっている。
「人魚が泣いてる洞窟が海の中にあるとかないとか……シュライン」
 草間がシュラインのビキニの上に手を伸ばす。
「なっ!」
「クラゲか?」
 乳房のすぐ前の水をすくう。
 草間の手の中で、水と一緒に丸い何かがきらめいていた。
 
×

 シュラインは畳の上に透明な雫を転がした。
 水がそのまま固まったような、恐るべき透明度である。触れればそのまま指に吸い付いてきそうだった。
 布団の上に寝そべっているシュラインを、草間が眺めている。窓を開け放ち、外に向かって煙草の煙を吐き出していた。
「これが、泪石……」
「本当に水に浮くとはな」
 草間がため息をつく。
 大粒の真珠よりも更に一回りほど大きな粒だ。完全な円形ではなく、少し歪んでいる。
 雫の形に見えた。
 シュラインの耳に、微かな女性の泣き声が聞こえてくる。耳のいいシュラインにとって、泣き声や悲鳴は神経を突き刺し高ぶらせるものであり、本来ならば不快な音であるはずなのに。
 今夜も聞こえてくるこの啜り泣きは、胸が締め付けられるように切なく、メロディアスで、そして哀しいまでの美しさに満ちている。
「人魚が恋人を慕って泣くんだという話を聞いたな。創作かもしれないが、人魚が人間の男と恋に落ちた。しかし罪深い人間たちは人魚を捕らえ、彼女を泣かせるために男を痛めつけ、苦しめ続けたそうだ。男は死んでしまった。人魚は男を恋しがり、悔しさと絶望の中で泣き続けるんだとか。そういう事を言っているヤツがいたな」
「ロマンチックね。哀しすぎるけれど」
 シュラインは布団の上で寝返りを打つ。
 愛は決して永遠ではない。そして人は、その儚いものをつなぎ止めるために、必死になるのだ。
「♪人は強いものよ そして儚いもの ……」
 ある歌のフレーズを呟き、ばさっと枕に突っ伏した。
「人魚は、いるんじゃないのか」
 草間が窓から顔を出したまま呟く。
「人魚の洞窟ってところがあるんだ。方角的には合ってる気がするな」
「また金儲けのこと考えてる」
「悪いか。あの事務所維持するのは大変なんだぞ」
「知ってるわ」
 草間が立ち上がる。
「まあいい。その探索は明日にしよう。さて」
「ちょっと。なんで布団の上に座るの」
「電気は消した方がいいか」
 シュラインはガバッと起きあがった。
「武彦さんの部屋は隣。あっち。襖の向こう。ゆっくり休んでね」
「おいおい、こんな時間まで部屋にいさせといてそれは」
 草間の腕がシュラインの肩を抱く。
「この、ケダモノ!」
 シュラインは枕を掴む。
 草間の顔に投げつけた。

×

 木々が鬱蒼と茂っている。
 青いシャツにジーンズという姿の草間が、シュラインの数歩先を行く。急勾配が続き、華奢な木や背の高い草花が行く手を阻む。
 草間が手を差し伸べる。シュラインはそれに掴まった。
 ぐいと引き上げられる。
「見てみろ」
 視界が突然開ける。
 足元が崖になっていた。
 眼下は美しい海である。切り立った岩に波がぶつかり、白い泡を作っている。
 シュラインは草間の腕をしっかりと掴んだまま、先へ進んだ。身を屈めると、崖の下が見える。
 ……?
 シュラインは眉を顰めた。微妙に色が異なっている部分がある。
「武彦さ」
 草間の腕が、シュラインを抱きすくめた。
 悲鳴を上げるまもなく、草間の腕の中に閉じこめられる。胸に顔を押しつけられた。
 頬が火照るのを感じる。
「探偵さん、そこで何をしてるんですか」
 低くこもった男の声が聞こえた。
 草間が手を離す。
 二人は六人ほどの男性に囲まれていた。
 一様に難しい、何処か籠もったような暗い表情をしている。苛立っているようにも、恐れているようにも見えた。
「見て判らないか。ラブシーンの途中だ」
 草間がシュラインの腰を引き寄せる。
「野暮をするなよ」
 一人がずいっと一歩踏み出す。
「本当は、人魚を捜しているんじゃありませんか?」
 男が腕を振り上げる。
 その手の中に、小振りな鉈が光った。
 
 草間の腕がシュラインを抱きしめる。すぐ側の木に腕を回し、一歩崖に飛び出す。
 ぐるりと回転し、一番端にいた男を蹴り飛ばす。
 シュラインは必死に草間にしがみついた。
「走れ!」
 草間が叫ぶ。
 シュラインは草間の腕にしがみついたまま、急勾配を滑り落ちた。
 走る余裕などありはしない。ツタが、枝が、シュラインのむき出しの腕と足を叩く。
 丸太で舗装された道までたどり着く。罵声が聞こえた。
 坂の上から、男たちが下りてくる。
 草間がシュラインを抱き上げた。
「ちょっと、武彦さん!」
「こっちの方が速い」
 草間はシュラインをしっかりとささえ、道を走り抜けた。
 
×

 草間が、吸いさしの煙草を足元に落とした。踏みつぶして揉み消す。
 あたりは闇に包まれていた。
 旅館に戻るのも危険かも知れないと判断した草間は、人目の多い海水浴場で時間を潰す事に決めたらしい。
 今はあたりには誰もいない。シュラインはビーチパラソルの下から、星空と海を見つめていた。
「人魚の件は――どうやらかなり本当らしいな」
 草間がため息をつく。
「泪石と無関係ってわけでもなさそうだ。恐らくはあのあたりに人魚が」
 シュラインは立ち上がった。
 聞こえる。
 あの、哀しい歌が。
 海で聴くと、それは遙かに近く聞こえた。潮騒と混じり、哀しく美しい歌声が何処までも響いていく。
 私の耳なら、いけるかもしれない。
 シュラインはシャツを脱ぎ、草間に投げつけた。
「見たら承知しないわよ」
 ジーンズを脱ぎ、ブラジャーを外す。
 長い髪を一つに纏める。
 最後に下着を脱ぎ捨て、海へと踏み入った。
 潜る。
 水の中でも声は聞こえる。
――あいつらに、どんな事をされたの?
 真っ暗な水中で、シュラインは水をかき分ける。
 歌声に向かって、泳ぎだした。
 
×

 余り深く潜らなければ、月の光はかなり明るい。
 シュラインは丁度あの崖の下あたりに、目的のモノを発見する。
 一カ所だけ、色が違う場所がある。こけや水草がへばりついているので判りにくいが、明らかに岩の感触ではない。コンクリートか何かを塗りつけたような部分がある。
 シュラインは水中に潜る。壁に触れ、ゆっくりと下がる。
 あった。
 壁が終わりを告げている部分がある。どうやら、元々洞窟の入り口だった場所をある程度まで塗りつぶしたようだ。
 シュラインは意を決し、壁の向こうへ潜り込む。
 
 壁は、幸いなことに薄かった。
 
 ぴたりと声が止んだ。
 シュラインは思い切り壁を蹴って上昇する。
 水面に顔を出した。
 
 そこには、人魚がいた。
 
×

 艶やかな黒髪が水に濡れ、所々に泪石を絡ませて光っている。肌は蜜蝋を溶かして作ったように滑らかで、色は黄色人種のものにちかい。白目に溶けてしまいそうな、青白い瞳が印象的だ。
 痩せた腰から、黒い魚の尾が続く。尾びれは大きく、彼女の肩幅の二倍はありそうだった。
 尾の部分は広範囲に渡って鱗が剥がれ、血が滲んでいる。大きな尾びれも破れていた。
 人魚の手は鎖で戒められている。大したことのない鎖だが、痩せている人魚には手に負えぬモノなのかも知れない。
 洞窟の壁には血がこびりついている。何度も何度も、鱗が剥がれるまで壁を尾で叩いたのだろうと想像が付いた。
 人魚がいる場所のすぐ側に蝋燭が灯され、水面には無数の泪石が浮かんでいる。蝋燭の光を受け、幻想的に輝いていた。
「大丈夫、敵じゃないわ」
 シュラインはそう囁き、人魚の側による。
 人魚の瞳から涙が零れ、痩せた胸を伝わって水面に落ちる。
 新しい泪石が生まれた。
「私を、ここから、出してくれますか?」
 人魚がシュラインにそう言う。その瞳は執念とも言える一途さで、シュラインの瞳を見つめていた。
 
 そして、シュラインは人魚の話を聞いた。
 泣き続け、何度も身体を岩の壁に打ち付けた人魚の話を…。
 
×

 蝋燭の側に、一枚の写真があった。純朴そうな、しかし陽気そうな青年が写っている。中の鳥島で漁師を営んでいたという、人魚の愛した人だった。
 人魚は男を愛していた。水辺から、何年も見守っていた。
 そして、男が人魚を見つけた。人魚は誤って、彼の垂らしていた釣り針で大けがをしてしまったのだ。
 人魚は男の家に匿われ、傷が治る頃には愛し合うようになっていた。
 男は貧しく、人魚は泪石を渡した。綺麗だから、何かの足しになると――そう思っただけだったのだ。
 それが原因で、人魚は捕らえられた。抵抗した男は人魚の目の前で島の男たちに殴られ、そして――
「身捧ぎの岬」と呼ばれる岬から、捨てられてしまったのだと、いう。
 人魚はここに閉じこめられた。島の男たちは「海で死んだ男は、愛した女の歌でのみ慰められて天国へ行く。あいつが成仏するまで、あいつを殺したお前は泣きながら歌い続けるんだ」と告げた。
 人魚はそれから、泣き続けている。
 もう一度あの人に会いたい
 側にいて欲しい
 でも、もう二度と会えなくても、
 お願いだから生きていて。
 この歌が、泪が、無駄でありますように。
 
 シュラインは岩壁を殴りつけた。
 唇を噛み締める。
 人魚を捕らえている鎖を掴んだ。
 歯を立て、髪飾りで引っ掻き、引き抜こうとする。
 一枚爪が割れる。大切に長くのばしていた爪だった。
 鎖が緩む。
 引き抜いた。
 
×

 人魚を連れて砂浜に戻ってきたシュラインを、草間が驚いたような顔で迎えた。
 草間の側には、襲ってきたららしい男性が二人ばかり延びている。
 草間はシュラインに駆け寄り、ぐったりとした人魚を助け起こした。
「身捧ぎの岬、知ってる?」
 シュラインはシャツをかぶり、男たちを睨んだ。
「そこに行くわ」

 身捧ぎの岬は、人魚の捕らえられていた崖から少し離れた場所にあった。
 かなりきつい傾斜が続く。草間が人魚を肩に担ぎ上げた。
 元々かなり弱っていたのだろう。人魚はもうじっと前を見つめることしかしない。苦しげに、痩せた胸が上下していた。
「もう少しだ、我慢しろ」
 草間が何度も人魚に声を掛ける。
 シュラインの目には、しっかりと目的の場所が見えていた。
 惨殺されてもなお、暖かみを失わない魂が、岬の上にいる。
 
×

 夜が、空けようとしていた。
 シュラインは苦しげに息をしながら、最後の数メートルをよじ登る。このあたりになると傾斜は坂の域を超えようとしていた。
 先に頂上にたどり着いた草間が、シュラインの身体をひっぱりあげる。
 岬が薄明るくなっている。人魚が草間の肩から飛び降りた。
 地を這って、岬の先端に向かう。
 そこに、暖かな魂がいた。
「静雄さん」
 人魚が手を伸ばす。
 魂がゆっくりと男の姿を取る。よく日に焼けた精悍な顔立ち、穏和そうな表情。そして手足は太く逞しい。
 人魚の手に、薄く透けた男の手が重なる。
 すり抜ける。
 人魚の瞳から、大粒の涙が幾つも転げ落ちた。
 固形化した石は、ころころと岬を転がる。海へと落ちてゆく。
 男は成仏しかけていた。
 人魚の歌が、彼の魂を慰め続けていたのだろうか。
 太陽の光が強まるたび、男の魂が薄れ、浄化されてゆく。
 
 人魚が、岬から身を投げた。
 
 消える寸前だった男の身体が、人魚を追って岬の下へと向かう。
 日が昇りきる。
 水音が響くのと、男が消え去るのが同時だった。
 
 シュラインは土の上に座り込んだ。
 涙が滲む。視界が揺らぐ。
「こんなものの、ために」
 掌の泪石の上に、シュラインの涙がぽたりと落ちた。
 
×

 シュラインの目の前に、透明な雫が差し出された。
 水を固めたような、美しい宝石。
 人魚の、泪石――
 少し尖った部分が金属で包まれ、涙型のペンダントになっている。
 チェーンではなく、透明のテグスが通してあった。
「捨てたんじゃ、無かったの」
 テーブルに突っ伏したまま、シュラインは力のない声で答える。
 草間が正面に座った。
「一つくらいと思ってな」
 草間はペンダントをシュラインの前に置く。
 気分転換にと来てみたホテルのプールサイドである。白く華奢なデザインのテーブルと椅子、そしてそれを囲むように二つほどのパラソルが開いてある。
 シュラインは顔を上げた。
「お前が持ってたらいいんじゃないかと思ったんだ」
 草間はペンダントを指さす。
「俺が作ったんだぞ。
 あの人魚の髪に付いてた泪石だ」
 シュラインは手を伸ばし、ペンダントを摘んだ。
 少しいびつな、美しい宝石。
 シュラインは立ち上がり、羽織っていたパーカーを脱ぎ捨てる。
 ペンダントを首に通す。
 プールの中に飛び込んだ。
 
 水に透ける、泪石。
 
 涙は海に流れたから。
 再会したら、もう好きな人に涙なんて見せたらダメよ。
 
 目をつぶったシュラインは、水中で涙を拭った。