|
さよならを、あなたに
●佇む少女
中ノ鳥島に船が着く。
僅かばかりの乗客が降り、また乗り込んで戻って行く定期便。本当に定期便として運行されているかいないかは別として、1日に1度、来るかどうかも分からない船を待ち、見つめ続ける少女がいた。
自分も乗りたいのか、それともこの島に未練でもあるのか。
羨ましそうに‥‥諦めに満ちた表情で遠くなって行く船を見送る。
降り立つ者も、乗り込む者も、その姿に気づいていないのだろうか。そこに何も存在しないかのように、彼女の隣を通り過ぎて行く。
そして、今日も。
●出会い
「いつまでそうしているつもりかは知らないが」
ふいにかけられた声に、少女は警戒心を抱いた猫のように素早く身を翻した。いつでも逃走出来るように身構えながら、それでも僅かな好奇心が彼女の足をその場に引き留めていた。
だれ‥‥?
まだ幼さを残す唇が紡いだ声は、直接、頭に響いて来る。
「心配する事はない。ただ、好奇心が勝っただけだ」
旅行鞄を片手に、武神一樹は少女に近づいた。
警戒を解かない少女の、身を守ろうとする素振りは一樹から見れば児戯に等しい。何の攻撃力も持たない少女に微かな胸の痛みを感じる。
−何故、彼女はこの島にいる‥‥?
骨董品類を鑑定する時と同じ、真剣な眼が少女を頭から爪先までを観察した。
年の頃は、17、8‥‥だろう。
長い黒髪を背中へと流し、流行からはかけ離れた質素な服に身を包んでいる。見た所、どこにでもいる少女だ。だが、現在、多数を占める女子高生達とはかけ離れた雰囲気の持ち主でもある。
一言で現すとしたら、純朴。
恐らく、戦前に多く存在したであろう「お国の為」だの「贅沢は敵」だのと言う言葉で構成された思考を持つ女子学生‥‥の1人か。
ここまでの鑑定は数十秒も必要はなかった。
一樹は鞄を置くと、ハンカチで顔を拭う。ついでに眼鏡のレンズも拭く。
強い日差しを遮るものがないこの場所では、体中の水分が汗として噴き出すのではないかと思えるほどに暑い。年代を感じさせる朽ちたコンクリートに伸びる影も焼き付いてしまいそうだ。
そんな中で、太陽に焼かれる事なく白く透きとおった肌をした少女は汗を浮かべる事もなく、ただ一樹の様子を窺っている。
「キチクベイエイ」‥‥そう教えられたであろう‥‥仮想の敵を見るような目で。
「言っておくが、俺は日本人だぞ」
一樹は、自分の容貌がどこからどう見ても日本人であると自覚している。彼が欧米諸国の人間に見えるのであれば、その理由を問いつめてやりたいくらいだ。
てき‥‥じゃないの‥‥?
−だから、俺のどこが‥‥
心中、深く溜息をついた一樹は、ふと、ある考えに思い至った。
−‥‥ああ、そうか‥‥
この中ノ鳥島の由来は聞き及んでいる。彼女にとって、欧米人だけが「敵」ではなかったのだ。
「心配しなくてもいい。俺は武神一樹。『櫻月堂』という骨董屋の主人をしている」
少しだけ膝を屈めて、一樹は少女と目線を合わせた。
骨董‥‥。
「そうだ」
僅かばかり、少女は警戒を解いたようだ。
逃げる方へと向けていた爪先を巡らせて、一樹へと向き直る。
「それから、君の‥‥仲間と言っていい者達もよく知っている」
人外の者達‥‥と括ってしまえば、この少女もその仲間と言えるだろう。だが、かつて人であったものとか、人ではないものとか‥‥そんな括りで分類するのは困難であり、また、当人達にも失礼だ。
わたしの、なかま‥‥?
戸惑った表情の少女に、一樹は大きく頷いて見せた。
「だからこそ、君と出会えたのかもしれないな」
彼女の存在に気づかずに通り過ぎて行く者達もいる。だが、一樹にはこの島に到着した時から、港に1人佇む少女が見えていた。そこに根でも生えているかのように動く事もせず、ただ、船を見つめる少女が。
−波長が合ったのかもしれないな‥‥。
一樹の頬に浮かんだ苦笑を何と取ったのか、少女は彼に背を向けて、水平線の彼方へ消え行かんとしている船の影を探すように大海原を見渡した。
「この島を離れたいのなら、船に乗ればいい」
島を出たいという気持ちが強ければ、願いは叶うかもしれない。『島』が彼女の魂を捕らえて離さないというのであれば、その呪縛は自分自身で打ち破ればいい。
だが、少女はゆっくりと首を振った。
緩慢な動きが伝えるのは、否定。
「この島を離れたいのではないのか?」
ずっと、羨ましそうに島から出て行く者達を見ていたのに。問う一樹に、少女は微笑みを見せた。悲しい、切ない、そして諦めの混じった笑み。
はなれたい‥‥。でも、はなれられないの‥‥。
「それは、君の意志次第だと思うがな」
‥‥帰る所は、もうないの‥‥‥。
項垂れた少女の横顔に、癖のない黒髪がさらりと落ちる。
「離れたい、帰りたいと思う気持ちが強ければ、君はここから出て行く事が出来る」
語尾に力を込めて、一樹は少女の肩を掴んだ。
感触のない、空気を掴むように感じる一樹の手を伝って、少女の記憶らしき映像が流れ込んで来るのを感じた。
●間近たる永遠
蛍の舞う田舎道。
満点の星を見上げる2人の男女‥‥。服装、風景からして戦前の日本だろうか。
何かを語りかける男に、微笑みを返すのは、目の前にいる少女だ。
「‥‥‥ああ‥‥そうだったのか」
少女から感じた後悔の念。帰りたいという願いだけは強く一樹の心に響くのに、罪悪感と言ってもいいほどの悔いが、『島』の呪縛に彼女自身を縛りつけているのだろう。
それは、多分‥‥。
おもむろに、一樹は旅行鞄を開いた。
?
不思議そうな顔をした少女へ、一樹は鞄の中を探る手を止める事なく尋ねた。
「君の‥‥名前は?」
な‥‥まえ‥‥。
呼ばれなくなって久しい言葉に戸惑って、少女はたじろいだ。この『島』に来てからというもの、一緒にいる事を強要された者達は、皆‥‥彼女自身も含めて、自分の事だけで精一杯だった。他人を気遣う余裕のある者など、いなかった。
そうして、彼女の名は呼ばれる事なく、合理的に付けられた数字だけが彼女の識別の印となった。
記憶の中にいるあの人だけが、彼女を呼ぶ。
ちさ‥‥と‥‥。
「ちさと‥‥。いい名前だ」
一樹自身の身の回りの品と、そして商売道具が詰め込まれた鞄の中から、年代物の懐中時計を取り出すと、表面に刻まれた浮き彫りを愛しそうに撫でる。
「子細までは聞いていないのだが」
そう切り出した一樹を、少女の澄んだ瞳が映す。
僅かに首を傾げた「ちさと」の手の中に、一樹はその懐中時計を押し込んだ。
エアークッションか何か柔らかいものへと押し込む感覚が一樹の手に残る。
懐中時計は地面へと落ちる事なく、少女の手の中におさまった。
「それは、俺の祖父から預かった物だ。いつか「ちさと」という名の女性に渡してくれと‥‥今際の枕元で頼まれた」
え、と見開かれる彼女の瞳。
「例え、魂だけになっても‥‥あなたの元へと辿り着く。この時計と共に‥‥だそうだ」
彼の真意を見出そうと言うのか。
一樹の眼鏡の奥にある瞳を見つめて、少女はしばし口を閉ざした。彼女に注がれる眼差しは、あの日の「彼」のように温かい。
面影は、どこも似てはいないのに、ただ、その瞳だけは‥‥。
あの日、彼を捨ててまでして選んだ道。
国を守る事は、彼を守る事と同義だった。反対する彼を押し切って、この『島』へとやって来た彼女は‥‥。
ぽたたと、実体を持たない瞳から涙が頬を伝って地面へと落ちる。
衣擦れの音さえ聞こえてきそうな「人」の仕草で、彼女は一樹へと手を伸ばした。
避ける事なく、一樹は彼女の思念が作り出した幻の手の感触を頬に受ける。それは、この葉を揺らす風のように軽やかに、心地よささえ残して一樹の中をすり抜けた。
「‥‥ああ、そうか‥‥」」
瞬間、重なった彼女と一樹の意識。
恐らくは、この長い年月の間、何度も何度も思い返したであろう、彼女の大切な思い出が、一樹に伝えられる。
眼鏡を押し上げて、一樹は僅かばかり肩を竦めた。
「野暮を‥‥してしまったか」
その記憶の中、一際輝きを放つのは銀色のペンダント。彼女と過去を繋ぐ、唯一の鍵‥‥なのだろう。
苦笑いを強めた一樹に、「ちさと」は首を振った。その動きに従って、長い黒髪が宙を舞う。
あ‥‥りがとう‥‥。
大きな瞳に透明な雫を一杯に溜めて、彼女は手の中の懐中時計を頬へと押し当てた。手入れされ、今も時を刻み続ける時計の針の音が空気を振るわせ、波動のように彼女へと伝わる。それは、何十年振りかに感じる温かな鼓動に似て‥‥。
いつか、きっと‥‥。
「ああ、そうだな」
「ちさと」の祈りにも似た呟きに、一樹は静かな笑みで応えた。
彼女の中にある後悔の念を利用して、この中ノ鳥島に縛り付けているモノの見当はついている。それさえ無くなれば、彼女の魂はこの島から飛び立つ事が出来るであろう。その人の元へと。
「ならば、一刻も早く‥‥負の遺産、封滅してくれよう」
だんだと薄くなり、空気に溶けていくように姿を消した「ちさと」を見送って、一樹は決意も新たに鞄を取り上げた。
コンクリートで固められた地表に映る影は、いつしか長く伸びている。
青にほんのりと朱が混じり始めた空を一瞬だけ見上げ、彼は今宵の宿へと足を向けた。
|
|
|