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さよならを、あなたに
●中ノ鳥島
ようやく目的地だ。
ほぅとシュライン・エマは息をつく。
長い船旅はお世辞にも快適とは言えなかった。
古びた船の油埃がついた手すりから周囲の海を眺める気にもならなかったから、船室から出なかったのだが、固い、所々綻びの生じた座席の座り心地は最悪だったし、何よりも船室まで響いて来るエンジンの音や息が詰まりそうな匂いが彼女を苦しめた。
だが、この島に来る為にはこの船に乗るしかない。選択の余地はなかったのだ。この『中ノ鳥島』に来る為には。
「‥‥よくもこんな船で、あんなぼったくりな料金を請求出来るものね」
タラップを降りる際、船員へと投げた嫌みも、丁寧なお辞儀と人を小馬鹿にしたような笑顔で無視されて、彼女の心を逆撫でした。
「さて、と」
ヒールの一撃で穴が開きそうに朽ちた桟橋へ、わざと乱暴な音を立てて降り立つ。
桟橋と彼女を見比べる先ほどの船員が瞬時に青ざめたのに溜飲を下げて、彼女は大きく腕を伸ばし、二度、三度と首を動かした。まだ油の匂いが強い潮風を吸い込むと、未だに白く泡立って船の軌跡を残す海の彼方に向かって呟く。
「ここ、にいるのね?」
中ノ鳥島の島影が見えたと同時に、彼女の中から吹き飛ばされた意識。船が中ノ鳥島へと向かう中、唐突に彼女に入り込んだ誰かの意識は、恐らく男性のものであったと、シュラインは感じていた。
シュライン自身に害を及ぼすわけでもない、無力な意識体。ただ、伝わって来た執着にも似た想いに抱いたのは同情に似ていた。
その男性の一途な願いと後悔が、彼女の体を媒体にしてまで島へ向かおうとしていた事を彼女に訴えていた。切なく激しいいまでに強い後悔の念と共に。
「あんたと「彼女」を僅かでも癒す為の寄り道ぐらい、してあげてもいいわよ」
浮かんだ微笑みには、強さの中にある優しさが垣間見える。
シュラインは、「彼」に託された記憶を辿った。「彼」の想いと後悔の中にいる「少女」を探す為に。
「‥‥でも、それで何がしたかったの‥‥?」
島自体に弾き飛ばされてしまったかのように消えていった男の意識に語りかけ、しばし宙を見上げていた彼女は、長い黒髪を些か乱暴に背中へと流し、色々と一式放り込んで来た大きめのショルダーバッグを肩に掛け直す。
「何が‥‥なんて、どうでもいいわ。要は、その子を見つければいいだけでしょ」
そう、それだけ。そうすれば、きっと「彼」の伝えたくて伝えられなかった気持ちを伝えられる。
「彼」の意識が胸が切なくなる程に訴えかけていた叫びを。
人が2人いれば、2つの考え方がある。
それを言葉に出さなければ、互いの考えも想いも一方通行のままで止まってしまう事もある。
もしも、それが時代という、逆らい難い波によって途切れたものだとしたならば尚のこと。
「‥‥「彼」はきっと、もう亡くなっているのね‥‥」
きゅっと唇を引き締め、強い意志を感じさせる瞳を前へと向けて、彼女は足を踏み出した。
●伝えたい気持ち
特別に霊感が働くわけではない。
けれど、彼女はこれまでに何度も「神秘的現象」に出くわして来た。
日本という国に暮らす多くの者達が、それを知らずに一生を終えていくであろう事を思えば、その遭遇率は半端ではない。そして、今回も。
真夏の暑い太陽が照りつける下、シュラインは、自分の中に記憶と呼べるほどもない‥‥未練にも似た想いが見せた光景を思い返した。
蛍の舞う田舎道。
寄り添うように、けれど互いに手を触れ合わせる事なく見上げた満天の星。
柔らかで、どこか寂しい少女の笑顔。
そして、遠い場所‥‥そう、島が小さく見えるほど遠い沖合いで船を見つめ続ける少女の姿。
「‥‥船を見ていたという事は、港か波止場‥‥のどこかよね」
霊感はさほど強くなくても、シュラインには冷静に現状を把握し、分析する判断力がある。
荒れ放題に荒れた港を見回して、どんな小さな事も見逃すまいと目を凝らす。
桟橋の向こうには、破れた日よけが辛うじて影を作る待合い所、そして、生え放題になっている雑草と道路との仕切に張り巡らされた錆びた鉄線。
鬱蒼と生い茂る雑草が低く薄くなっているのは、朽ちかけてはいるもののコンクリートで固められているからだろうか。
迷う事なく、シュラインは雑草の中へと足を踏み入れた。
雑草の汁が生成のパンツスーツの裾を汚すのに眉を潜め、それでも、彼女は歩みを止めずにコンクリートまで辿り着くと、そこから港全体を見回してみる。
長年、雨風に晒されて来たコンクリートは風化しつつあった。
寄せ返す波の音に、シュラインの乾いた靴音が混じる。幾分早めの、その硬質な足音が止まったのは、彼女を乗せて来た、あの古びた定期便が港から出て行く姿を何の障害もなく、水平線に消えて行くまで見通せる場所だった。
「‥‥‥‥‥」
そこに佇む1人の少女。
既視感が、シュラインを襲う。幾重にも重なるイメージが、彼女の中で1つの像を結んだ。
「‥‥‥‥ねぇ」
振り向く事なく、少女の視線は水平線に消えて行く船影を追う。
やれやれと溜息をついて、シュラインは託された『名』を乗せた。
「ねぇ、『ちさと』‥‥。いつまでここに立ってるつもり?」
その名に弾かれたように、少女は振り返り、そこに立つシュラインの姿に口元に手を当てた。
「ようやく見つけたわ、『ちさと』。私、あんたに会う為にこの暑い中、歩き回ったのよ」
腰に手を当て、綺麗に引かれたルージュの唇に笑みを浮かべる。
わたしのなまえ‥‥‥‥。
化粧気ない少女が紡ぐ「声」は、直接シュラインの聴覚神経に届くような錯覚を覚える。
「ええ、そう。あんたの名前でしょ?」
怖じるでもなく、シュラインは彼女‥‥『ちさと』の隣に立った。
「ここからなら、船がよく見えるわね」
ふね‥‥。
「ええ、船。この島から出て行く定期便」
言われて思い出したように、『ちさと』は今まさに水平線に消え行かんとする船へと視線を戻す。
「ここで船を見てたのね、ずっと‥‥ずっと‥‥」
自分よりも低い位置にある少女の頭が小さく肯定を示して動いた。
「‥‥そんなあんたを、この島に近づけるぎりぎりの所で見守ってる人に会ったわ」
はっとシュラインを振り仰ぐ少女に、彼女は水平線の彼方を指さす。
「船の中で、私は誰かの意識と出会った。その人の記憶が見せてくれたのは、蛍の舞う田舎道、そして、ここで佇むあんたの姿‥‥」
ゆっくりと、シュラインは『ちさと』を見た。
「『彼』は、ずっとあんたを見てる」
大きく見開かれた瞳は、すぐさま沖へと向けられる。
み‥‥えない‥‥。
−やっぱり、ね
息を吐き出したシュラインの中、1つの仮説が勢いよく構成されていく。それは、彼女が彼の意識が弾き飛ばされた辺りから薄々と感じていた事だ。
−この『中ノ鳥島』には、結界のようなものが張り巡らされているんだわ。きっと‥‥。
島自体が何かを拒むように、守るように。
みえ‥‥ない‥‥‥‥。
虚ろだった硝子の瞳から、透明な雫が頬を伝う。
泣き崩れるような、激しい嘆きではなかった。
けれども、静かに静かに、彼女の慟哭はシュラインの胸に届く。
−‥‥ねぇ、あんたの気持ちを伝えれば、彼女は癒されると思う?
夏の夜、川を隔てた恋人達のように1度だけの、それも仮初めの逢瀬だとしても‥‥?
もし、それが彼女の嘆きを深くしてしまったら‥‥。
ううんと首を振ると、シュラインは意識を集中させた。
例え、彼に会えない寂しさを増長させてしまっても、長くは続かないだろう。彼女がこの島に来て幾年過ぎたのか分からないが、それも、きっとこの夏で終わり。
彼女と、そして彼女と同じように『島』に訪れた者達の手によって彼女は解放される。そう、きっと、絶対。
『‥‥‥で、ちさと』
一度だけの意識の共有で、しかも直に聞いたわけではない「彼」の声を、シュラインは『音』に託した。嘆きの中にあった少女が驚きに一瞬だけ、泣き止む。
『泣かないで欲しい。いつか逢えるから、僕は、ずっとここで待っているから』
シュラインの中に「彼」が残して行った言葉を、そのままに伝える。
「‥‥って言ってたわ。本当に‥‥少しだけだったから、これだけしか伝えてあげられないけど」
泣く事を忘れ、じっとシュラインを見上げて来る少女に、固く信じた自分の決断の正しさに僅かな揺らぎを感じ、彼女は居心地悪そうに髪を掻き上げて視線を逸らした。
穏やかな海があかね色を映し出す。
見上げると、水平線に沈んで行く太陽の代わりに、一番目の星が輝きを増していた。
「えーと‥‥だからね‥‥‥」
‥‥ま‥‥つ‥‥。
「え?」
見下ろした少女『ちさと』は変わらずに涙を流し続けていたが、それは悲しみを流しているだけではないと、シュラインは気づいた。
うっすらと、その口もとに笑みが浮かんでいたからだ。
「ちさと‥‥?」
まつ‥‥わ。わたしも‥‥いつか、あえるひを‥‥。
安堵と共に胸を満たす温かな気持ち。
「ええ、そうしなさいな。それは、きっと遠い日じゃないから」
こくりと頷く彼女の姿は、濃度を増していく夕焼けのあかね色の中に消えていく。シュラインへ、そして彼へ、穏やかな笑顔を残して。
彼女の姿が消えてしまうまで見送ると、彼女は海に背を向けた。
「‥‥これでよかったわよね」
自分自身に問いかける小さな呟き。
その答えは、はっきりとシュラインの中に在る。
虫の声が聞こえ始めた草むらを、彼女は再度、迷いのない足取りで踏み越えた。
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