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鎮魂
ざわざわと。
あるかなしかの微風に枝が揺れる。
昼なお暗い森の中。
刻に忘れられたように、ひっそりとたたずむ洋館。
夢の通りだ。
ふん、と、シュライン・エマは鼻を鳴らした。
黒髪が、さらさらとなびく。
「ストレスのせいじゃなかったってわけね。あとでフロイトには苦情を言っておかなくちゃ」
昨夜、シュラインは奇妙な夢を見た。
深い霧。
とめてほしいと願う少女。
鮮血で彩られた洋館。
普通に考えれば、よくある悪夢である。
だが、そうではないことに、青い目の美女は気が付いていた。
呼ばれもしないのに夢の園に現れた少女の顔は、シュラインの記憶になく、声には聞き覚えがなかったからだ。
どんな荒唐無稽な夢でも、まったく知らない人間が登場することはありえない。
医学的にみて、夢とは、記憶層の再構成作業なのだ。
したがって、登場人物は全員、どこかで出会っている者である。
むろん、それは現実生活に限定されない。テレビや雑誌の画像を通して見た人物も含まれている。
ごく端的に表現すれば、「夢のお告げ」に現れる神が、必ず人間の理解力の範疇に収まっているのは、想像の限界を越えた像を人は生み出せないからだ。
この件に関していうなら、見たことのない洋館や見知らぬ少女というファクターが、単純な夢ではない証左である。
眠りの苑から撤退したシュラインが最初におこなったのは、自分の記憶の確認と島にまつわる資料の再検討だった。
このあたりは、さすがに怪奇探偵の薫陶よろしきを得ている女性といえる。
どのような経緯で夢を見たかを知るには、綿密なデータと健常な判断力が最大の武器となる。
忌むべきは、論理的考察を怠って、勘と称した確率論に耽溺することだ。
探偵はギャンブラーや山師ではない。
資料を集め、観察し、考え、結論を導く。
一種の思考実験のような趣もあるが、探偵にはこの他にアクティブな能力も要求される。
その点、シュラインの行動の速さは特筆に値するだろう。
もっとも、
「私の本業は探偵じゃないんだけどね」
ノートパソコンから携帯電話を外し、本人は呟いたものだ。
インターネットを通じて、中ノ鳥島の資料を収集していたのである。
もちろん、表側に流れる情報など、たかが知れているし、無責任な噂の域を出ない。彼女が活用したのは、裏側の情報網だ。
蛇の道は蛇。
警視庁や防衛庁のホストコンピューターに侵入してデータを閲覧する方法など幾らでも存在する。ただ、今回使ったのは正規の手段であって、けっしてハッキングなどをおこなったわけではない。
ともかくも、この島に秘密はある程度、掌握することができた。
元になる情報から少なすぎるため、相当に苦労はしたが。
「まあ、苦労を売り物にするってのも大人げないから」
などと嘯きつつ、彼女はメモ帳を片手に森へと入ったのである。
洋館は、降り積もった年月ほどには痛んでいなかった。
たしかに老朽しているものの、手入れは行き届いているのだろう。
「‥‥掃除もしてくれるわけね‥‥ウチの事務所に欲しいかも」
シュラインが呟く。
軽口は、おそらく内心の恐怖と緊張を打ち消すため。
彼女の視線の先には、オートマタの笑みを浮かべる一人の少女。
かつて、世界を覆そうとした者どもによって造られた心霊兵器。
――霊鬼兵――
名を、零という。
六十年以上前の記録を電子回路から引きずり出して知ったことだ。
ただ、この少女は夢に登場した人物とは違う。
あの娘は見事な金髪だった。
「‥‥この島に関わらないで‥‥」
空虚な微笑のまま、硬質な拒絶。
滑稽ではある。
「そうもいかないのよ。こういう頼まれ方されると断れないのよね。悪いんだけど」
わずかに呼吸を整え、シュラインが反論する。
零と夢の少女は同一人物ではない。したがって、どこまで事情に通じているか判らぬ。だが、尻尾と見なして引っ張れば、何かしらのリアクションがあるかもしれない。
現状、できることはそのくらいしかなかろう。
「‥‥もうすぐ‥‥ここは戦場になるから‥‥」
「ほら。やっぱり何か知ってるわね」
「‥‥ウィルドは‥‥私にも夢を見せた‥‥」
なるほど、と、シュラインが笑う。
これだけで充分だった。
ウィルドとは、金髪の少女の名前だろう。
ドイツ名である。となれば、島の歴史から演繹的に事態は要約できる。
零を造ったのは旧日本軍とナチス・ドイツ軍。
館を襲うと予告した少女。
この二つを繋げると、
「ネオナチ‥‥優生思想にかぶれた馬鹿どもね‥‥」
舌打ちをこらえる表情で、シュラインが呟いた。
黒髪蒼眸の美女には、嫌いなものがいつかある。
ムシムシした夏の暑さも嫌いだし、ゴの付く黒いのも大嫌いだ。そして、極めつけに嫌いなのが、自らの優秀さを示すために他者に損害を与える低能どもだ。
自分の気高さは自分だけが知っていれば良い。
わざわざ他人に宣伝する必要などない。他人を劣っていると決めつけるなど論外だ。
ネオナチかぶれどもは、ご大層にも、自らを歴史修正主義者(リビジョニスト)と称しているようだが、いったい何を修正するつもりなのやら。
軽く頭を振り、溜息とともに不快感を体外に追い出す。
いまは、阿呆どものことはどうでもいい。
「たぶん、私が見たのも同じ夢だと思うけど、あの娘、自分を止めて欲しいみたいなこと言ってたわよ」
命令に忠実な人形ならば、そのようなことは言うまい。
人の心を残しているのか。
それとも罠か。
「‥‥それは‥‥」
零がなにか言いかけたとき、軋んだ音をたてて扉が開いた。
訪れる人とてない館は、この日、二人の客を迎えた。
旧日本軍が敗滅して以来、幾十年ぶりのことだろう。
残念なことに、友好的な客人ではなかったが。
呼びかけたものと呼びかけられたもの。
倒すべきものと守る宿命をもつもの。
死せるものと命あるもの。
三者三様の思いを胸に、等距離の位置を保つシュライン、零、そしてウィルド。
ホールの空気が熱雷を孕む。
「‥‥あなたが呼びかけたのね? ウィルド?」
シュラインの声。
応えはない。
ただ無言で、金色の髪の少女は右手を振った。
その手が霞に包まれ、半瞬の後、細身のサーベルが握られていた。
氷のように冷たい光を放つ双眸には、夢で出逢ったときの面影は残っていない。
昨夜のあれは何だったのだろう?
シュラインの胸郭に疑問の雲が湧き上がる。
と、ウィルドが動いた。
零へと向かって。
裂帛の気合いとともに、白刃を打ち下ろす。
大気すら罅割れるような刃鳴りが響く!
いつの間にか、零も抜刀していたのだ。
日本刀とサーベルが鬩ぎあい、無明の火花が戦場を彩る。
青い瞳を曇らせて、シュラインは見守るだけであった。
彼女には戦闘的な技能はない。むろん、幾多の修羅場をくぐっている分、普通の生活を送る人に比較すれば強いが、殺戮のために生み出された歪んだ命と戦う術など持ち合わせていない。
例えていうなら、下町の腕白小僧と職業的な剣闘士。
そのような差である。
割って入ることなど、できるはずもなかった。
じっと戦況を見つめる。
陰鬱な戦いだ。
先人が遺した負の遺産と、現代の狂科学者が創造せし歪んだ命。
哀しき宿命を背負わされた少女たちが、たった一人の観客の前で死闘を繰り広げる。
それは、いつ果てるともなき戦い。
斬撃が光弾が、互いの身体を切り裂き焼き尽くす。
どうして‥‥?
疑問の声は音波にならず声帯の中に蟠った。
二人の少女は、なぜ身を守りながら戦わないのだろう。
あえて危険に身を晒すように、ノーガードでの斬り合い。
まるで、死によってしか終わることを許されない古代の奴隷闘士のようだった。
痛々しすぎる‥‥。
何のために、こんな哀しい命を地上に投げ落としたのか?
日本軍。そしてノイエナチス!
こんなものまで使って、どのような未来を創造しようというのか!
あるいは、彼女らに改造を施した人間も、なにかしらの事情があったのかもしれない。悩まなかったという保証もない。心を痛めなかったという証拠もない。
だが!
改造される側より改造する側が不幸だ、などということはありえない。
絶対に!
理不尽さに対する怒りが、シュラインの心を灼く。
「もうやめなさい!!」
迸る声は、命令だったのだろうか。
それとも、単なる感情の奔流?
見ていられなかったから?
当のシュラインにも、それは判らなかった。
ただ一つ判っていることは、青い目の美女の声で金色の髪の少女が動きを止めたということである。
万分の一秒の間に、二人の視線が絡み合う。
哀しいほどピュアな眼差し。
夢の少女そのままに。
と、ウィルドの胸の中心部を、零のカタナが貫く。
戦場で意識を逸らした相手を攻撃しないような兵士は、けっして優秀だとは称されない。
そして、館を守る少女は、この上なく優秀な兵士だった。
自らの叫びが招来せしめた結果に、声を失うシュライン。
ウィルドの顔に微笑が浮かぶ。
穏やかな、まるで聖母のような表情‥‥。
「‥‥これ‥‥で‥‥瞑れ‥‥る‥‥」
途切れ途切れに聞こえる声。
夢の中で聞いた、あの声。
このとき、シュラインは少女の心を知った。
もはや、少女を救う手だては残されていなかったのだ。
死によってしか。
‥‥崩れる。
崩れてゆく‥‥。
かつて少女だったものが、一握の砂と化してゆく。
未練を残すまいと決意したように‥‥。
敗者に一瞥を与え、零が踵を返す。
引き留める形に腕を伸ばしたシュラインに、黒髪の少女の言葉が届いた。
「‥‥お礼を言ってた‥‥クリステルっていう名前だって‥‥」
「‥‥クリステル‥‥?」
呟きを返す青い目の美女。
霊感のないシュラインは、死者の声を聞く術を持たぬ。
「‥‥呼びかけをおこなった娘の名前‥‥」
歩みを止めることなく零が言い、それ以上なにも語ることなく館の奥へと消えていった。
やや呆然としたように立ち竦むシュラインだったが、やがて、ゆっくりと歩き出した。
館の外へと向かって。
海に沈んでゆく陽が、残照で周囲を紅く染める。
シュラインの白い肌も、返り血を浴びたように朱に染まっていた。
少しだけ強さを増した風が、唇から流れ出す歌をのせ彼方へと飛んでゆく。
それは、鎮魂の詩。
生前まみえることがなかった少女への哀悼の思い。
西の空で、宵の明星がキラリと輝いた。
流されなかった少女の涙のように。
精一杯の感謝であるかのように。
終わり
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