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鎮魂
第一 1944.ヒラデルヒヤ
一九四三年二月、スタアリングラアドにおいて独逸軍決定的敗北。期を前後して、第二次大戦の趨勢が逆転する。
同年五月、チユニジヤで独逸軍、及び伊太利軍降伏。
同年九月、伊太利無条件降伏。
同年十二月、日本、第一回学徒出陣。
そして、独逸無条件降伏まで約一年を控えた、一九四四年四月、米国ヒラデルヒヤ海軍工廠地下、極秘実験施設――
「本当に『転移』する心積もりかね? エルドリヂの末路を知らない訳ぢゃあなかろう? こりゃあ、まだ人間に適用出来る段階ぢゃないぞ」
口髭を蓄えた白髪混じりの初老の男性が、消磁処理の施された二重の耐圧硝子越しに、無線で最後の確認をする。硝子の向こう、巡りを頽廃的なコイルに囲まれた円形の密閉空間に、白衣を着て片手に往診鞄を提げた金髪の若い女性が、佇んでいる。
「まだ――私を人間だと思ってくれてたの? でも、ただ目的地に着きさえすれば、それで良いのよ。私は死なない――いえ、死ねないの、絶対にね」
彼女の緑の双眸を受け止めると、老紳士は既に設定し終えた操作卓の最終安全配線を差し替え、作動鍵を右に九十度倒した。
……ンウウウウ――。
低周音と共に、円形施設全体が鈍い振動を始める。
――ぱち。ぱちぃッ。
女性の髪が静電気を帯びて舞い拡がり、その金色が、何やら緑の蛍光を帯び始めた。
「夢を見たのよ――遠い記憶のような、それでいて、まだ見ぬ既視感のような……。魔術師の一葉として、取れる責任は取っておきたいの。きっと、あなた達科学者にも分かる時が来る――研究者の意思とは無関係に、技術はそれ自身、残酷な意思を持ち得るんだってことを」
ゥイイィィィィィ――
機械の悲鳴が高く、細くなり、やがて可聴域を越えた。光は女性の総身に及び、霞の如くその姿を包み込む。閃光に溶け込むその姿に向かって、老科学者が告げる。
「十五分だ! 約十五分を限度に、君は自動再転移に突入するだろう! それまでに、為すべきことを終え給え! 健闘を祈るよ、ドクトル・レイベル!」
「ありがとう! ドクトル・アルベルト!!」
アルベルト――アルベルト・アインスタインの目の前で、光の収縮と共に、「レイベル・ラブ」はその姿を消した。
第二 1944.ナカノトリ
壁一面を覆う、いかにもそう、巨大な桐箪笥といった印象。無数の真空管と配線が群がる、異形の機械。
「まさか、まだ『エニアツク』も出来てない――って、ん? 今、私何て……?」
己の口から聞き慣れぬ単語が吐き出されたことに、レイベル自身、困惑した。
太平洋上、日本近海某地点に浮かぶ、周囲七キロメイトル程の小島「中ノ鳥」。日本軍と独逸軍の共同地下研究施設内に「転移」してからこの部屋に至るまで、レイベルはその迷路のような施設内で、迷うことも関係者に遭遇することも無かった。途中、少しく危うい場面も無いでは無かったが、まるで既視感の如く、採るべき道や人の居る場所が悟られたのだ。もっとも、この部屋に居た研究員二名には、お眠り戴くことと、相成ったが。
そのレイベルの脳裡に浮かんだ「エニアツク」は、これより二年の後、弾道計算の為に米国が開発に成功するはずの真空管式計算機である。独逸では優れたリレエ式計算機が開発されていたが、現在の日本軍に大規模な真空管式計算機を作る技術は、無い。今、レイベルが目にしている桐箪笥は、日本軍によって独自に研究された真空管式計算機の「失敗作」を、この研究施設が引き取って猶太人数秘術師の怨霊を取り憑かせたもの――「怨霊式計算機」である。
とさり。
レイベルは、床に往診鞄を置いた。
中から取り出された、ヒヨス、ドクニンジン、マンドラゴラなどの混合粉末が入った薬瓶が、同じく怨霊式計算機の前に安置され、その中に、今、火が投じられた。
ぱちッ。ぱちぃッ。
常人が嗅いだことの無い、蠱惑的な煙が立ち昇り、レイベルは手術用のランゲンベツク扁平鈎を、まるでヘルメスのカヅケウス杖のように振りかざす。
『我は、聖なる復活と地獄に堕とされたるものの苦悩とに依り、汝死せる数秘術師の霊を此処に喚び出し、命ず。我の求めに応じ、永遠の苦悩を逃れる為、この聖なる儀式に従わんことを。ベラルド、ベロアルド、バルビン、ガブ……』
んぉぉおおお――。
待機状態だった怨霊式計算機が俄かに動きを見せ、まるで憑依霊の呻きのような稼動音と共に、真空管内を青白い霊気が巡り――
『シメオン、凍結せよ』
んぅぅぅ――怨霊式計算機、機能停止。
いつの間に戸口に出現したのか、白髭の恰幅の良い老人が、その言葉で計算機を強制停止させた。
「連合国のおイヌかな? どこから侵入なさった? ん?」
背広に山高帽――一見、人の良さそうな印象を与えるが、どこか笑っているかのような顔でレイベルを凝視するその瞳の奥に、狂気の光が宿っている。そして、手にした杖の握りには、血と社会的理想を示す赤地に、国家主義と民族の純血を現す白の円、その上に記された紋章は、アアリア人種勝利のための闘争を意味する鉤十字――ハアケンクロイツ。
第一次大戦中に印度、中国、日本、朝鮮を歴訪した退役将校であり、その体験から東洋神秘主義者として「ヴリル協会」を組織。地政学教授にして、若き日に神秘思想を伝授したヒトラアの外交顧問――「カルル・エルンスト・ハウスホウハア」。
「計算機を破壊するつもりだったのかな? ん? だが、失敗だなぁ?」
ハウスホウハアが、笑顔のままにじり寄る。レイベルは往診鞄を拾うと、ランゲンベツク扁平鈎を彼に向け、啖呵を切る。
「古の知識の乱用は、自らに破滅を招く」
「笑止。アムヒスバエナの毒牙を抜く術(すべ)を、我が協会が受け継いでおらぬとでも?」
「死なないだけの――」
レイベルは、この部屋に来る途中で見た、開発中の初期型霊鬼兵の姿を思い浮かべる。そして静かに、だがどこか皮肉染みて、こう続けた。
「――死なないだけの超人なんて、何の意味も無い――それで世界がどうにかなる訳ではない」
「ほう、愉快愉快。『初期型』のことも御存知か? 益々、帰せませんなぁ?」
ハウスホウハアは、トネリコの杖を左手で正面垂直に保持し、右手でその柄を掴む。杖には、数十のルウン文字が刻み込まれていた。彼の右手が示しているのは「眠り」を表すSのルウン。
『我がヴリルは、ヴォータンの眠りの棘――』
杖の先端の鉤十字が回転する。途端、レイベルを強烈な睡眠欲求が襲った。瞼が重くなり、全身のだるさ、意識は霞む。
遠のく意識の縁で、レイベルは往診鞄の口に手を差し入れる。握り締めた小さな円筒。
シウウウッ……!!
スプレイ状の気付薬――それを、自らの鼻先に噴き散らした。レイベルは顔を顰め、何度か頭(かぶり)を振ると、覚醒した視線をハウスホウハアに再び据える。奴は杖の握りを持ち替え、振り掲げていた。
「剛毅剛毅ぃ。だが、素直に眠りに落ちておく方が良かったろうなぁ? ほぉら?」
届かぬ位置に居ながら、ハウスホウハアが杖を振り下ろす。
鈍痛ッ。
まるでそれに打たれたかの如く、左肩に衝撃が走った――思わず、片膝を突いて崩れるレイベル。ハウスホウハアは三度(みたび)、触れるルウンの位置を変え、今度は両手で杖を絞るようにゆっくりと締め上げる。
「地下は万能力ヴリルの根源ぞ。ルウンはヴリルの秘め鍵。第三帝国はヴリル・ヤの栄光国なりィィ!!」
きりきりきりぃ。レイベルの首に、不可視の絞殺手が浮き上がる。
「くッ……ぃぎ――」
「金髪、碧眼――その容姿、アアリア人の純血が濃密濃密ぅ。全てを吐露した暁には、『生命の泉協会(レーベンスボルン)』の、優越人種復活計画に参加させてやろう、そうしよう。SS達も貴女が相手なら喜ぶ――ん?」
ハウスホウハアが空想の産物であるアアリア民族について空虚な見立てをしたそのレイベルの金髪が、仄かに蛍光を帯び、浮き拡がる。
「ヴリルに異常? 何だ? 何騒動だ?」
見る見る緑の光を纏う様子に呆気に取られるその隙を突き、レイベルはハウスホウハアに飛び寄って、その右手を捻り上げた。
「ぃい゛ッ! あ゛ばばッ!!」
予想外の強力(ごうりき)に、逆らう間も無く右腕の骨身が軋む。だが、叫び声の意味はそれだけでは無い――光に触れたハウスホウハアの腕の血管が、尋常でないほどに隆起し、脈打っている。
「一つ、良いことを教えてあげる――」
時間切れによって再び光に溶け込み出したその中から、レイベルの声が響く。
「――今から一年後、あなた達はこの戦争に敗れる」
「笑止ぃ! くッ!……我らにはっ……この基地で間も無く産み出されるであろう……切札がッ! ぐぅッ!……独日の反撃はぁ……これからぞぉッ!?」
「いいえ。私は知っている。もう、知っているのよ――」
そう言い残すと、レイベルの存在確率を示す波動関数集束点が――或いは宇宙それ自体の恒常性によってか――元の場所へと空間的に転移し、彼女はその場から姿を消した。
第三 2002.ナカノトリ
2002年、夏――太平洋上、日本近海某地点、中ノ鳥島。
レイベルがその夢を見たのは、二度目だった。
濃い霧の中に佇む少女。記憶と感情の奔流――私達を止めて下さい、同じ作られたモノ同士のこの争いを。そして願わくば全てを開放――。
間も無く、この島の洋館に住む少女姿の心霊兵器『初期型霊鬼兵・零』の元を、その残存資料から作られたレプリカ『亡霊猟兵(ゲシュペンスト・イェーガー)・ウィルド』が襲うだろう。だが、彼女達の核となる複数の霊能者の魂魄――それを纏め上げるヴィクトル方程式には、六十年前、レイベルがハウスホーファーに阻止される前に怨霊計算機の霊魂に仕込んだ、余剰計算項=エリザベート定数が組み込まれている。彼女達同士が出会ったその瞬間、エリザベート定数によってヴィクトル方程式は崩壊する。当時、既にかなり研究の進んでいた零における効果は期待出来ないが、後に作られたウィルドは、これによって魂魄が解放され、消滅する。
これからレイベルは、一度目の夢を自分に見せる為、そして何をすべきかを伝える為、過去の自分と精神を繋ぐ儀式を執り行う――六十年前と変わらぬ、その姿で。
レイベルは抱えた往診鞄から、奇妙な、かつ醜怪な何かを――六十年前と現在とを繋ぐ儀式の触媒を――引き摺り出した。それは、1943年にアメリカの駆逐艦エルドリッジの対レーダー不可視化を目的としたフィラデルフィア実験で確認されたものと同じ現象、ランゲンベック扁平鈎と融合した、とある老人の右腕のミイラだった。
六十年前の交感が数十分に過ぎなかったとは言え、今日の儀式には丸一日、掛かることとなろう。
洋館には行けそうにない――だがレイベルは、少女兵器達の間に、争いが「無かった」ことを知っている。
鎮
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