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深く静かに……
海の底からつぶやきが聞こえる。
アノ頃ニ戻リタイ。アの頃ニ戻リたイ。――アノ頃ニ戻レナイ。
それは海底から立ち上るうたかたのささやき、月の引力で繰り返される満ち引きと同種の正確さで。
変わること無く繰り返される。
全くもって「ソレ」は唐突であった。
夏の怪談の定番であり、海あるところに必ずあるという節操のないシチュエーション。
にもかかわらず「ソレ」の怪談が根絶しないのは、やはり、噂にも真実の一端が隠れていると言うことなのであろうか。
砂に足をとられながら、シュライン・エマは見えない「ソレ」により少しずつ海底に引きずり込まれていた。
(そういえば昨日、怪談話をした時に誰かがでっち上げていたわね)
曰く、海で死んだ人の霊が出ると。
その霊は、たったひとつだけ『想い出』を蘇らせてくれるというのだと。
しかし、心の弱い人は想い出の中でそのまま死んでしまうこともあるのだとか……。
同行してきたお子さま達を怖がらせる為の、草間のヘタな創作かと想っていたのだが……。
掴むものもなく、無意味に腕をばたつかせながらシュラインは舌打ちした。
人を呼ぼうにも、顔が海面から出ているか出ていないかのきわどい状態とあっては、叫ぶより早く、口の中に海水が流れ込み、呼吸が阻害されるだけである。
想い出……つまり、過去とやらに捕らわれて、自分を見失うほど心が弱いとは思わないが、これでは取り憑き殺される前におぼれ死んでしまう。
一歩踏み出しても、すぐに見えない「ソレ」に捕らわれ、つま先が白い砂の上をずるずると虚しく滑っていく。
冷たく心地よい筈の海水も、今は時間とともに体温を奪い、波でもってシュラインを翻弄する悪意の集団でしかない。
必死になって手を前に出し、水を掻こうとするが、バランスを完全に失った体では虚しく水面を叩くだけである。
(波際で遊んでいる武彦さん達には、私が一人で泳いでるようにしか見えないんだわ)
だれ一人も気づかず、このまま海の底で息絶えるしかないのだろうか。
水を掻きすぎたためか、腕はだるく、もうこれ以上動かすことが出来ない気がした。
シュラインの疲労を察知したのか「ソレ」はいっそうの力をいれて、足首を掴み海中へと引き込みに掛かる。
束ねていた髪がほどけ、海底に広がる繊細な黒い樹木のように、波に揺れながら髪が広がっていく。
透明度の高い海中では、波によって歪められた光が、なにかの神聖な模様のようにゆらゆらと頭上で揺れていた。
冷たい色をした海底の砂の上に、ぽつりと一つだけ似つかわしくない深紅の何かが落ちていた。
(ああ、観光客が捨てていったジュースの缶だわ)
まったく、最近はマナーが悪い。自然を汚せば己に返って来るというのに。
そんな場合ではないのに、つまらない事を気にしている自分に苦笑する。
美しい海底の光景に、抜けないトゲのように残されている人工印刷の缶を目の端に捕らえながら、シュラインは目を細めた。
酸欠状態に陥っているのか、頭の奥がぼうっ、としてきた。
手足の感覚も、徐々に薄れてきている。
――目の前が、酷く暗い。
アノ頃ニ戻リタイ。アの頃ニ戻リたイ。――アノ頃ニ戻レナイ。
遠くから寄せては返す波のように、つぶやきが聞こえる。
歌のように旋律的で、吐息のようにかすかなつぶやき。
海の底に沈んでいって居る筈なのに、閉じたまぶたの裏は奇妙に白く明るい。
水中に居るはずなのに、波の音が聞こえる。
――ああ、ちがう。波ではない。
それは遠くから聞こえる蝉の鳴き声。
しゃわしゃわと、断続的にどこかから聞こえる。
遮るものなくどこまでも高い空に、ゆっくりと尾を引いていく銀色の飛行機。
船の通った後のように、まっすぐと白い雲が航路の果てまで伸びていく。
暑くて不快な筈なのに、何故か気はすがすがしい。
(これは興信所にはいって間もない頃だわ)
ぼんやりと思い出す。
なれない事ばかりで、それでも全てが新しく、楽しかった。
所長である草間武彦の事もまだ何も知らず、知らないが故の気恥ずかしさがお互いにあった。
怪奇探偵とよばれるずっと前、仕事も今より少なく、時々ストライキを起こす冷房と、今と変わらず煙草の匂いの染みついた所内。
そうだ。あの日は確か切れてしまった煙草と珈琲の買い出しに行っていたのだ。
他のことは全てにだらしなく適当であるというのに、煙草と珈琲の銘柄だけはきっちり指定してきたのがおかしかったのを覚えてる。
ああ、夕立がくるわ。
遠くから急速に広がってくる雲をみて、ハンカチで汗を押さえた。
白いビニール袋を持ち直し、ふと目線を落とすと、民家の庭先に青い、空より、海より青い花が一つだけぽつりと咲いているのが見えた。
朝顔。
つるについた花は全てしおれているというのに、一つだけ、こんな真昼に咲き誇っていた。
軒先の黒々とした影にまもられて、ひっそりと、しかし、目を引かずに居られない鮮やかさで。
(おかしいわね)
シュラインは微笑む。
普通こんな時はもっと重要な物を思い浮かべる筈なのに。
たとえば、体験したいくつもの出会い。そして別れ。
命をうばわれかけた事、結婚式で身代わりとなり撃たれてしまった事。
雰囲気の良いバーで、ぽつりと漏らされた草間の――武彦さんの告白。
それら人生のターニングポイントではなく、なぜ、日常を思い出しているのかしら?
怪訝な想いを抱きながら、ゆらゆらとうたかたのように海水に身をゆだねている。
『海底に沈む霊が一つだけ”貴女の想い出”をよみがえらせてくれる』
そうやって想い出にとらわれて帰ってこなくなった少女の怪談、昨日の夜の話を思い出す。
――鮮烈な蒼の想い出がこの海の色で思い出されたのかしら?
そして、一体何故この霊は人に想い出をよみがえらせるのだろう。
仲間を引きずり込むにしても、婉曲的で、そして……優しすぎる。
かといって、この霊が自分の想い出に捕まったままとは思えない。
こういう場合、想い出に捕まった霊は、自分の無念の思い出を相手に押しつけてくるのが定番ではないか。
思い出したくなかった事の為に命をおとしたとか……反対に自分がおもいだせずにいるのだろうか?
(すっかり、怪奇探偵の助手ね)
定番、という言葉に苦笑する。いつのまにこういう自体になれてしまったのだか。
いずれにしても、このままではいけない。
(なんとかして、彼らの想い出は見れないかしら?)
力のぬけた白い腕を、それでも何とか動かそうとする。
海底に泳ぐ黒髪がゆらりと揺れて首筋をなぶっているのが目を閉じてもわかる。
どこまで沈んでいくのだろう。
――わからない。
アノ頃ニ戻リタイ。アの頃ニ戻リたイ。――アノ頃ニ戻レナイ。
また、声が聞こえた。
「一体いつに戻りたいの?」
気泡になることを覚悟して放った声は、なぜか、凛と海底に響いた。
否、響いたように感じられた。
突然、柔らかなものの一群が身体を撫でていった。
それが地底より放たれた大量の気泡だと気付くのに数秒の時を要した。
泡の弾ける音、遠くから聞こえる地鳴り、それよりもっと遠くから聞こえる雷鳴。何かの鳴き声。
それらの音、一つ一つを聞き分けるのは、人並み外れた聴覚と音感を持つシュラインにはたやすい事であった。
そして「それら」が何かを表現することも、ゴーストとはいえライターの仕事もこなすシュラインにはたやすかった。
しかし脳が「それら」の最後に聞こえた声を「聞き分ける」事を拒絶していた。
怒りではなく、悲しみでもない。どこか諦めたような寂しげな鳴き声。
鮮やかな夏の海の中で揺らぐ大きな影。
視界が閉ざされているため、何があるのかわからない。しかし、心のどこかが「それ」を見ることを拒絶していた。
アノ頃ニ戻リタイ。アの頃ニ戻リたイ。――アノ頃ニ戻レナイ。
繰り返される海の泡と、つぶやきの交響曲。
――何かが、居る。
霊などではない、ちゃんと呼吸して栄養を補給している「生物」が。
想い出が歪む。
うねうねと歪み消えていく飛行機雲。
野放図に伸びていく朝顔の蔓が、民家を、町を、軒先を覆っていく。
アスファルトがぼろりと崩れ落ち、割れ目から土くれがのぞきだし、その土塊の上におちた朝顔の種から、別の植物が生えてくる。
どこかから這い出したシダと苔が、ゆっくりと植物の影の部分を侵略していく。
電柱はもうない。
ブロック塀も、車も、ビルも、何もない。
ただ、あるのは深い緑と、見たこともない植物と、遠い生物の声。
変わらないのは、どこまでも青い夏の空。
遠く白亜の時代から変わらない夏の空。
アノ頃ニ戻リタイ。
つぶやきに、意を決して目を開ける。
――それは海底で最も暗い場所。
深く、静かで、太古から変わらない静謐な領域。
人が踏み入れてはならない禁域。
目が細かく、隆起の少ない砂の海底に、林のように乱立する珊瑚。
波にゆらりと揺れる緑の海草。
時折小さな魚の群がナイフのような銀色の腹をひらめかせながら通り過ぎる。
それよりも向こうの深く、暗い場所に、大きな影があった。
(何?)
霊ではない。
霊という観念が生まれるより古く、この世界を見続けてきた物。
謎を残したまま消え去った、太古の生物。
――それは海竜。
人間はプレシオサウルスと呼んだだろうか。いや、それとはまた違う種類なのだろうか。
なぜなら彼らは「とうの昔に滅んでしまった」のだから。
訳の分からない焦燥感と、訳の分からない悲しみがシュラインを襲う。
アノ頃ニ戻リタイ。
海竜がつぶやくたびに、白い泡が海面に向かっていく。
その海竜を責め立てるように、あるいは封印するように、砂の上に何かが散らばっている。
(ジュースの、缶?)
それだけではない。
割れたガラス瓶、つぶれたペットボトル。破れた浮き輪、何故あるのか理解しがたい洗剤の箱、CDケース。
ありとあらゆるゴミが、人間が放った悪意の様に海竜を取り囲んでいる。
いくら水面が綺麗だといっても――これでは、あまりにも酷すぎる。
(コレ、を見せたかったの?)
呆然とシュラインが想う。
うずくまった海竜の黒い瞳が、ぎろりと動く。
想い出にとらわれて帰られないのではない。
自分たちがこの惑星を責め立てていることに気づかない人間が、おそらく、帰られなかったのだろう。
――溺れてしまったのか、それとも、この海竜が。
かすかに気泡の漏れる口元を見て、ぞくりとする。
同時にいらだちが心の中を占める。
自分は熱烈な環境保護論者ではない。それでも、この海の有様にはいらだたずには居られない。
もし、人が居なかったらこの海は原始のまま青いままだっただろうか……?
――アノ頃ニ戻レナイ。
ぼんやりと考えていると、海竜がつぶやいた。
大きな口からもれた白い気泡の群がシュラインを包む。
すぐに、は無理かもしれない。それでも。
(戻してあげるわ。いつかきっと)
つぶやき返す。
刹那。
海竜が首をもたげ、おおきく身じろいだ。
(食べられる?!)
驚くや否や、海竜が動く。
大きく水が揺らぎ、シュラインの身体を押し流す。
――アノ頃ニ戻ロウ。アノ頃ニ戻ロウ。アノ頃ニ戻ロウ。
歓喜に満ちあふれた鳴き声が海底に響く。
押し寄せる大波、うごめく海竜。わき出る白い気泡。
身体のバランスを何とかしようとするが、大きな水の流れにそれは無力であり、シュラインは為す術もなくながされた。
暑い。
夏の太陽が容赦なくシュラインの肌を焼き始めていた。
身体を起こすと、乾いた肌から白い砂が落ちた。
「大丈夫か、シュライン」
草間が心配そうにのぞき込んでいた。いや、草間だけではない、麗香やほかのメンバーものぞき込んでいた。
「海竜に会ったわ」
「はぁ?!」
ぼんやりとつぶやくと、草間がすっとんきょうな声をあげた。
「この浅瀬じゃ、海竜は無理ね。溺れて夢でもみたんじゃないの?」
麗香がくすくすと笑いながら答えた。
確かに、延々と浅瀬が続くこの島の周囲で海竜がいれば、すぐに波の上に頭が突き出てしまう。
第一、そういう類の生き物はとっくに地上を去って長い。
「そう、かもね」
夢だったのだろうか。あのつぶやきも、悲しげな黒い瞳も、海の底の光景も。そして――想い出も。
そう思いながら砂を払おうと、浜辺に付いたままの手を持ち上げた。
と、そこには太陽の光をうけて、とろりと輝く黄色い固まりがあった。
極上の洋酒を懲り固めたかのような固まりを手に取る、と麗香が驚きのままに声をあげた。
「それ、琥珀じゃないの!」
そうだ。琥珀だ。
山ならともかく、こんな海辺に――しかも人の手に取れるほど大きく、透き通るほど純度の高い琥珀の原石があるなど、奇蹟以外のなにものでもない。
しかし、シュラインは驚かなかった。
おそらく、これはあの海竜の記憶なのだ。
深く、静かに沈んだ……白亜の記憶。
あの海竜が……否、この惑星が見せた遠い想い出のカケラ。
この惑星がみた夢と悲しみを忘れないで欲しい、と伝えるように。
柔らかい肌触りの貴石を握りしめながら、シュラインは海を見た。
――海は、すべてを見守るように、ただ静かに波を寄せては返していた。
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