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飛べない小鳥
●オープニング
鳥になってどこか知らない世界に飛んで行きたい。
それが北山つぐみの幼い頃からの願いだった。
つぐみという名は、亡くなった母が付けてくれたそうだ。ツグミのように己の翼で羽ばたき、望んだ夢にたどりつけるように、願いをこめて。
だが結局つぐみは飛べなかった。彼女の小さく繊細な翼にとって、この世界はあまりにも厳しく冷たすぎたから。
だからあの日の放課後、つぐみは校舎の屋上から飛び立った。十六年間苦痛だけを与え続けたこの世界に別れを告げ、母の待つ世界へ旅立つために。
しかし……。
目を覚ましたつぐみが見たのは、救急車で運ばれる自分の姿だった。彼女の身体を乗せた救急車が、野次馬を追い払うように激しくサイレンを鳴らして走り去っていく。
呆然とその様子を見送りながら、つぐみはようやく悟った。自分が魂だけの存在……幽霊になったことに。
それでも最初、つぐみは絶望しなかった。こうして魂が存在するなら本当に母に会うことが出来るかもしれない。そしてあの空の上の世界で、誰にも邪魔されず二人で……。
だが次の瞬間、つぐみの背筋をゾクリと悪寒が走った。気づいたのだ、自分が空の上の世界に行く方法など何も知らないことに。
試しに軽くジャンプしてみた。しかしほんの少し飛び上がるだけですぐ地面に着地してしまう。恐怖にかられて無茶苦茶に手足を動かす。それでも体は浮かない。つぐみはバランスを崩して校庭に倒れた。
その拍子に口の中に砂利が入る。体の重さ、砂利の感触、すべてが生身の頃と同じだった。ただひとつ、砂利の味を全く感じないこと以外は。つぐみは味のない砂利を噛み締めて泣いた。
それから三日。つぐみはただ校庭の片隅でひざを抱え続けている。
いずれ天使か死神が迎えに来るかもしれないという淡い期待も、今はもう捨てた。
自分はこのまま永久に地上に縛られ続けるのだろうか? 誰の目にも映らず、誰の耳にも声が届かないまま……。
恐怖と絶望に視界が歪んだそのときだった。つぐみは誰かが自分の前に立っているのに気づいた。
まさか自分が見えるのだろうか? いや、そんなはずない、一番仲が良い友達さえ気がついてくれなかったのに。
しかしつぐみの困惑をよそに、その人はひざを折ってまっすぐ彼女の目を見つめた。
「もしかして……私が見えるの?」
恐る恐るたずねるつぐみに、その人が優しく微笑んで名刺を差し出す。
名刺にはこう記されていた。『草間興信所』と。
●銀の小鳥
たまらねえ……。
陣内十蔵(じんない・じゅうぞう)は目の前の光景に眉を歪めた。
無意識に上着の内ポケットに手が伸びる。
だがすぐにここが病室――しかも面会謝絶の集中治療室だということを思い出し、十蔵は探り当てた煙草の箱をグシャリと握りつぶした。
病室のベッドには一人の少女が横たわっている。その顔は白く、まるで生気を感じさせない。身体につながれた何本かの細いチューブが少女の命をかろうじて保ち、心電図の無慈悲な電子音が彼女の心臓がまだ止まってはいないという事実だけを規則的に告げる。
たまらねえ……。
十蔵の眉間に刻まれたしわがさらに深くなる。
刑事という職業柄、このような光景は何度も見てきた。だがそれでも慣れるということは決してない。年端もいかない者の生死に関わる度に、言葉にならない虚しさに胸を締めつけられる。それは刑事を廃業し、私立探偵となった今でも少しも変わらない。
少女の名前は北山つぐみ。十六歳の高校二年生だ。
彼女は三日前の放課後、校舎の屋上から飛び降りて自殺を図った。だが落ちた先が花壇だったことが幸いし、彼女はこうして一命を取り留めた。脳にまったく損傷がなかったことは、奇跡とさえ呼んでいいのかもしれない。
しかし、だ。
なぜか一向に意識が戻らないのだ。家族や友人の必死の呼びかけにも応えることなく、つぐみは死人のように眠り続けている。そしてその間にも彼女の身体は刻一刻と衰弱していく。このままの状態があと半日も続けば、その先に待つものは――本物の死だ。
そこでかつての上司から十蔵に急遽連絡が入ったのだ。こいつはおまえさん向きのヤマかもしれない、と。
そしてその言葉どおり、十蔵は一目でつぐみを救えるのが自分しかいないことを悟った。つぐみの肉体からは、魂の存在がまったく感じられなかったからだ。つぐみを救うには、抜け出した彼女の魂を再び肉体に戻してやるしかない。
十蔵はベッドの脇に立ち、つぐみの顔を見下ろした。視線を彼女に向けたままポケットを探り、あるものを取り出す。
小鳥をかたどった銀の髪留め。つぐみの父親から預かったそれは、彼女が自殺を図ったときに身に着けていたものであり、また彼女の母親の形見でもあるという。
「嬢ちゃん、あんた今どこで迷子になってるんだい?」
十蔵はそう呟いて目を閉じると、髪留めを握りしめて意識を集中した。
それと同時に、さまざまな思念が洪水のように一気に十蔵の意識に流れ込んでくる。
強い念が残された物や場所に触れれば、死の瞬間の心理を読み取ることが出来る。それこそが十蔵の能力、そして十蔵がここに呼ばれた理由だった。
つぐみの心がわかれば、なぜ彼女の魂が肉体に戻らないのか、どうすれば彼女の魂を肉体に戻せるのかわかるかもしれない。
それにしても……。
全身を襲うすさまじい痛みに、十蔵はギシリと奥歯を噛み締めた。
死者の心を読み取るということは、同時に十蔵自身が死を疑似体験することでもある。
絶望。孤独。嘆き。つぐみを自殺へと追いやった負の感情が、十蔵の精神に容赦なく爪を突き立てる。それでも十蔵は強靭な精神力でそれに耐え、わずかな希望を求めてつぐみの思念を泳ぎ続けた。
そしてついに苦痛の海を泳ぎ切ったそのとき、十蔵の前に異質な景色が開けた。
そこは病室だった。つぐみが今いる病室ではない。もっと小さく設備も乏しいが、不思議と温かい光に満ちた部屋だ。
ベッドには優しく、そして少しだけ寂しげな目をした女性が座っていた。娘だろうか、そのひざで幼い少女が幸せそうに寝息を立てている。女性は自分の髪を束ねた髪留めを外し、それを少女の髪へと――。
「まさか、こいつは……」
思わず漏らしたうめきに反応するように、女性が十蔵に顔を向けた。真剣な目で十蔵を見つめながら唇を動かす。
次の瞬間、まばゆい光が空間を満たし、そして弾けた。
急速に現実世界に引き戻されながら、十蔵の頭の中では最後に聞いた女性の声がいつまでもリフレインし続けていた。
「お願い、この子を助けて」と。
●草間武彦からの電話
身体が泥のように重い。一歩踏み出す度に関節がギシギシと悲鳴を上げる。
「チッ、さすがに力を使いすぎたか」
十蔵は舌打ちし、壁に手をついてふらつく体を支えた。
だが今は休んでいる時間などない。つぐみを救うには、もはや一刻の猶予も残されていないのだ。
「それしても嬢ちゃん、どこへ行きやがったんだ……」
病院を出て十蔵はまずつぐみの高校へと向かった。だがそこにはもうつぐみはいなかった。わずかに残された思念から、つぐみがごく最近、それもわずか数時間前までその高校にいたことはわかっている。では、今はどこに……。
その時だった。十蔵の携帯が、デフォルトのままの事務的な呼び出し音を鳴らした。電話の主は草間武彦――いわば同業者で、十蔵も彼の事務所を通して依頼を引き受けたことが何度かある。
「悪いが小僧、おまえと遊んでる暇はねぇんだ」
だが不機嫌に電話を切ろうとする十蔵の耳に、思いがけない名前が飛び込んできた。
「北山つぐみ。あなたが調べてるのは、その娘のことですね?」
「……相変わらず耳が早えな。で?」
「実はうちの者が今、その娘の霊体と接触してましてね。余計な世話でしたか?」
草間の口調にわずかにからかいの色が混じる。
「いや、おまえにしちゃ上出来だ」
十蔵はニヤリと口の端を釣り上げてそれに答えた。
●伝言
細く迷路のような路地を抜けた先に、目的の場所はあった。
家々の間に埋もれるようにひっそりと建つ古寺。地元民から「六道さま」と崇められるそこには、冥界への門が存在すると古くから言い伝えられているという。
十蔵は半ば傾いた門をくぐって寺の敷地に入った。そこには三人の男と、陽炎のように揺らめく少女の姿があった。
少女は北山つぐみに間違いない。不安げにうつむいた横顔は、病室でベッドに横たわっていた少女の面影そのままだ。
つぐみに寄り添うように立つ物腰の穏やかな青年は、おそらく空木栖(うつぎ・せい)。そして鏡写しのように顔立ちの似た二人の少年が守崎啓斗(もりさき・けいと)、守崎北斗(もりさき・ほくと)の双子の兄弟だろう。草間から得た情報と照らし合わせて、十蔵はそう判断した。
「おい、おまえら――」
喉まで出かかった声を、十蔵は途中で飲み込んだ。
少年のひとりが胸の前で印を結び、低く呪文を唱え始めたのだ。
召還術、か。
十蔵は息を殺して様子をうかがった。
呪文の詠唱と共に、少年の緑色の瞳が輝きを増していく。
だが少年は不意に印を解くと、肩を落としてフッと息を吐き出した。
「ダメだ、呼びかけてもまるで反応がない」
「……反応が、ない?」
問い返す栖に、代わりに青色の瞳の少年が答える。
「要するに失敗ってことだよ。こいつの母ちゃんはもうとっくに転生しちまったか、それともよっぽどこいつに会いたくねえと思ってんのか」
会いたくない、という言葉に反応してつぐみがビクンと肩を震わせた。
「北斗!」
緑色の瞳の少年が、青色の瞳の少年に厳しい視線を向ける。
「な、なんだよ兄貴、俺はただ本当のことを言っただけじゃねえか」
「いや、どっちも不正解だな」
十蔵は一同の前に進み出て会話に割り込んだ。
全員がハッと十蔵を振り向く。
「……おっさん、テメェ何者だ?」
「ったく、ガキが慌てるんじゃねえよ」
今にも飛びかかりそうな勢いの北斗を無視して、十蔵は栖の前に立った。ザッと見たところ、この面子の中では栖が最も話の通じそうな相手だと判断したのだ。
「俺は陣内十蔵。草間の小僧におまえらのことを聞かされてな」
「あなたが、あの……。でも、どうしてここに?」
「俺も嬢ちゃんの件で依頼を受けたのさ、おまえらとは別口だがな。今も病院で嬢ちゃんの身体と対面してきたところだ」
その答えに栖は少し警戒を解いたようだ。つぐみをかばうように広げた手を下ろし、十蔵をまじまじと見つめる。
「さっきの言葉、どういう意味ですか?」
無言で成り行きを見守っていた緑色の瞳の少年――啓斗が不意に口を開いた。
「そのままだ。つぐみの母親を召還できなかったのは、転生しちまったからでも、つぐみに会いたくないからでもねえ。魂が最初から別の場所にいたからだ」
「別の……場所?」
「ああ、こいつの中にな」
十蔵はポケットから銀の髪留めを取り出した。
つぐみがそれを見てハッと息を飲む。
「こいつはつぐみの父親から預かったもんだ。つぐみの母親はこの中にいる。死んでから今日まで、ずっとな」
「まさか、そんなことが!?」
「強い想いが魂をこの世に留めることは、別に珍しくなんかねえ。つぐみの母親は娘の側で成長を見守ることを望み、そして願いは叶えられた」
「もしかして、つぐみさんがこうしてここにいるのは……」
栖の問いかけに、十蔵は重々しくうなずいた。
「ああ、母親が必死で魂をつなぎとめようとしてるからかもしれねえな」
しばしの間、誰もが言葉を失っていた。
色を待たない霊体であるはずのつぐみの顔が、今は明らかに青ざめて見えた。
「なあ、嬢ちゃん」
十蔵は初めて真正面からつぐみの顔を見つめた。鋭い視線がつぐみの不安げな瞳を射抜く。
「自殺ってのは、この世から逃げ出すことだ。だがな、どこまで逃げ続けても天国になんか永久にたどりつけねえぞ。そいつは自分の世界で歯を食いしばってがんばった奴だけが行ける場所だからだ。ましてやそこで母親と二人で暮らすなんて甘ったれた夢、叶うはずがねえ」
十蔵はそこで言葉を切り、銀の髪留めをつぐみの目の前に突き出した。
「おまえがこの世で幸せになる、それがおまえの母親の唯一の願いだからだ。そいつを伝えるために、俺はここに来た」
「お母さん。お母さんが、この中に……」
つぐみが震える手を髪留めに伸ばす。
だがつぐみの手が髪留めに届きかけたそのとき、にわかに現れた暗雲が陽を覆い隠し、黒い風がザッと境内を吹き抜けた。つぐみの背後の空間が裂け、闇が無数の触手となってあふれ出す。
「いけないっ!」
とっさに反応したのは栖だった。振るった右腕の動きに合わせて、紅蓮の炎が闇を薙いだ。炎に包まれた触手が、異臭を放ちながらボトボトと焼け落ちる。
しかしそれでも闇の勢いは衰えない。すぐに新しい触手を伸ばし、つぐみの霊体に次々と絡みつく。
「離しやがれっ!!」
「待つんだ、彼女の魂まで傷つける!」
短刀を抜き放った北斗を、栖が制する。そのわずかな隙に、闇は一気につぐみを空間の裂け目へと引きずり込んだ。次の瞬間にはもう、つぐみのかすかな悲鳴だけを残して、空間の裂け目は跡形もなく消え去ってしまっていた。
●覚悟
「彼女は長時間、霊体でいすぎたんだ。生を呪う亡者共に目をつけられ、道連れに連れ去られた」
栖は無念さを押し殺すように唇をかみしめた。
「なんだよ、こんな終わり方ってありなのかよ!」
北斗がやり場を失った拳を地面に叩きつける。
「いや、まだだ」
重苦しい沈黙を破ったのは十蔵だった。
「嬢ちゃんの魂が完全に冥界に飲み込まれちまったら、もう手の出しようはねえ。だがその前に魂をこっちに連れ戻すことができれば、あるいは……」
「でも、どうやって?」
「おい小僧、たしかおまえは魂をむこうに送ることができるんだよな」
地面にひざをついてうつむいたままの北斗に、十蔵は言った。北斗がハッと十蔵の顔を見返す。
「おっさん、あんたまさか!?」
「ああ、そのまさかだ。嬢ちゃんがひとりで戻れねえなら、誰かが迎えに行ってやればいい」
「ムチャだ、生きた人間の魂をむこうに送るなんて聞いたことがない! 第一どうやって戻る気なんですか!」
すぐさま反論する啓斗に、十蔵はニヤリと笑みを返した。
「だからおまえの力が必要なんだろうが。俺が嬢ちゃんの魂を奪い返したら、すぐに俺たちを呼び戻すんだ。いいな?」
「それなら俺が代わりに行きます」
「いや、おまえはここに残って啓斗の手助けをしてやってくれ。俺はそういうのはどうも苦手でな」
栖の申し出に、十蔵は頭をかいてみせた。
それから再び北斗に視線を戻す。
「どうする小僧、あとはおまえ次第だ。それともビビっちまったか?」
「ヘッ、おっさんこそどうなっても後悔すんなよ」
北斗は不敵な笑みで十蔵に答えた。
●光
北斗の瞳から放たれた青い輝きが視界を満たす。
酒にでも酔わされたような、奇妙な浮遊感。次の瞬間、十蔵は跳んだ。
そこは明け方の悪夢をそのまま具現化したような世界だった。たしかなものは何ひとつなく、すべてが不気味に脈動し、ぐにゃぐにゃと輪郭を崩壊させていく。
いずれが天でいずれが地かも知れぬその空間に、十蔵はひとり浮かんでいた。己の体がぼうっと弱々しい燐光を帯びている。肌に触れる空気が、異常に冷たい。
これが本物の死、か。
十蔵がわずかに身震いしたそのときだった。
「うわ、寒っ」
背後で場違いな声が聞こえた。
「まさかっ!?」
十蔵は弾かれたように振り向いた。
そのまさかだった。そこで背中を丸めて震えているのは北斗だったのだ。
「おまえ、どうしてここに?」
「鏡を使って自分に術をかけてみたんだよ。やればできるもんだな」
「そんなこと聞いてるんじゃねえ! 今すぐ啓斗に戻させるんだ!!」
「嫌だね」
北斗は十蔵の目を見てキッパリと言い切った。
「ただ待ってるだけなんて性に合わないんでね。第一おっさんこそ一人でどうするつもりなんだよ? こっちから啓斗に連絡できるとしたら、そいつは俺だけだ」
しばし無言の睨み合いが続く。
沈黙を破ったのは、つぐみの悲鳴だった。
「なあ、今はこんなことしてる場合じゃねえだろうが!」
「……バカが、勝手にしろ」
結局、根負けしたのは十蔵だった。十蔵はフンと鼻を鳴らし、つぐみの悲鳴がした方に飛んだ。北斗もすぐさまそれに続く。
だがまもなく、二人の前に無数の亡者たちが立ち塞がった。半ば人の形を失い怨念のみの存在と化した亡者たちが、二人の放つ生の輝きに群がるように次々と襲いかかってくる。
「おっさん、あそこ!」
すがりつく亡者を短刀で薙ぎ払いながら、北斗が叫んだ。
巨大な渦を描いて蠢く闇の中心、そこにつぐみはいた。亡者たちが幾重にも覆いかぶさり、彼女を闇に押し沈めようとしている。
「まずい、あいつは冥界の入口だ。あそこに引きずり込まれたらお終いだぞ!」
「いけ、おっさん!」
北斗が気合と共に短刀を振るった。刀身から生じた凄まじい炎が亡者たちをまとめて焼き尽くし、つぐみまで一直線に通じる道を作り出す。十蔵は雄叫びを上げながら一気にそこを突き抜けた。
頼む、届きやがれ!
今にも渦に飲み込まれようとするつぐみに、十蔵は必死に手を伸ばした。指先が間一髪でつぐみの手首をつかむ。十蔵は懇親の力を込めて彼女の体を一気に闇の中から引きずり上げた。
「……どうだおっさん、俺もけっこう役に立つだろうが」
「ああ、よくやった小僧! 早く啓斗に――」
だが北斗を振り仰いだ十蔵は、予想だにしなかった光景に続けるべき言葉を失った。幾十もの亡者がヘドロのように醜く溶け合いながら北斗に絡みつき、その姿をほとんど覆い隠してしまっていたのだ。
北斗はそのまま亡者たちと共に、十蔵から少し離れた場所に落下した。
「北斗っ!」
すぐに北斗を助けに向かおうとする。だが足がビクとも動かない。そのときになって十蔵はようやく気づいた、自分もいつのまにかひざ下まで闇に飲み込まれていたことに。
次の瞬間、渦の表面が津波のように盛り上がり、一気に十蔵たちを押し流した。
……すまねえ、約束は果たせそうにねえ。
十蔵はズブズブと渦の底に沈んでいきながら、心の中でつぐみの母親に詫びた。闇が泥水のように口から流れ込み、すべての力を容赦なく奪っていく。
だがあきらめかけた十蔵の指先に、何か硬いものに触れた。ポケットの中に入っていたそれは、あの銀の髪留めだった。どうしてここにあるのかはわからない。ただそれでも、これをつぐみに返してやることがせめてもの義務だと、強くそう思った。
そして十蔵が最後の力を振り絞って髪留めを手に取ったそのとき、不思議な光が周囲にあふれ出した。冷たく重い闇が溶け消え、再び全身に力が満ちていく。
光はやがて人の形をとり、つぐみをそっと抱きしめるように包み込んだ。
こいつは、つぐみの母親が!?
いや、それだけじゃない。たしかにつぐみの母親の力も感じるが、たったひとりの力でこれほどの闇を浄化することなど出来るはずがない。
振り返ると、北斗の体もやはり光に包まれていた。ただ光の色合いがつぐみを包むものとは微妙にちがう。そして十蔵自身もまた――。
もしかして、おまえは……。
十蔵の問いかけに答えるように、十蔵を包む光がさらに輝きを増していく。十蔵は薄れゆく意識の中で、たしかになつかしい少女の笑顔を見たような気がした。
●折れ曲がったタバコ
一面の青が視界に広がっていた。
それが雲ひとつない青空だと気づくまで、十蔵は驚くほど長い時間を費やした。大地に手足を投げ出し、青空を見るともなく見上げているうちに、靄がかかっていた意識が少しずつクリアになっていく。
そこは、あの古寺だった。青空と降り注ぐ陽光が、先刻までの重々しかった雰囲気を、今は嘘のように拭い去っている。
戻ってきたのだ、その事実がひどく奇妙に感じられた。
十蔵は手をついてゆっくりと上体を起こした。まだうまく腕に力が入らず、よろめいてしまう。
「あまり無理はしない方がいいですよ」
そう言って十蔵を後ろから支えたのは栖だった。
「いや、もう大丈夫だ」
十蔵の体を再び横たえようとするのを軽く手で制して、十蔵は改めて栖にたずねた。
「どうやら、死にそこなっちまったようだな」
「ええ、つぐみさんも無事肉体に戻れたようです。今頃は病院で目を覚ましているころだと思いますよ」
「北斗と啓斗は?」
栖は微笑んで十蔵の視線を促した。その先では、北斗と啓斗が寄り添って寝息を立てている。
「もちろん無事ですよ。力を使いすぎたので、目が覚めるまでもう少し時間はかかりそうですが」
「そうか……」
十蔵はタバコを取り出すためにポケットを探った。その指先に、あるものが触れる。
十蔵はそれをポケットから取り出し、無造作に栖に投げ渡した。
「そうだ、そいつを嬢ちゃんに返してやってくれねえか」
「これは……。いいんですか、自分で渡さなくて?」
栖が十蔵に戸惑ったような視線を向ける。その手には小鳥をかたどった銀色の髪留めが握られていた。最後の最後という瞬間に、皆を救ってくれたあの髪留めが。
「そういうのは俺よりおまえの方が得意そうだからな。俺はガキ共のお守りでもしてるさ。それに……」
十蔵の声に、無防備で何かをなつかしむような響きが混じった。
「陣内さん?」
「……いや、なんでもねえ」
不思議そうに見つめる栖に、十蔵はゆるゆると首を振った。ガラリと口調を変えて栖をけしかける。
「さあ、とっとと行きやがれ。俺はさっきから静かに一服したくてしょうがねえんだよ」
「わかりました、必ずお届けします」
栖は髪留めを握りしめてニッコリとうなずいた。
十蔵は栖の背中が門のむこうに消えるのを見届けてから、今度こそポケットからタバコを取り出した。
タバコはつぐみの病室で握りつぶしたままに、一本残らず折れ曲がってしまっている。だが十蔵はかまわずタバコを口にくわえ、愛用のライターで火をつけた。濃密な煙が、心地よく肺を満たしていく。
十蔵はさっき栖に言いかけた言葉を、頭の中で呟いてみた。それに俺はもう、十分いい思いをさせてもらったから、と。あのとき闇に沈みゆく十蔵を包み込んだ温かな光、あれはやはり……。
「チッ、らしくもねえ」
いつになく感傷的になっている自分に、十蔵は我ながら苦笑した。吐き出した紫色の煙が、青空をどこまでも高く昇っていく。
あのとき見た光景が現実だったのか、それとも目前に迫った死が生み出した幻なのか、本当のところは誰にもわからない。でも、それでいいのだと思った。
折れ曲がったタバコが、なぜかやけに美味く感じられる。今の十蔵には、ただその事実だけで十分だった。
Fin
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0044/陣内・十蔵/男/42/私立探偵
0723/空木・栖/男/999/小説家
0554/守崎・啓斗/男/17/高校生
0568/守崎・北斗/男/17/高校生
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■ ライター通信 ■
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はじめまして、ライターの今宮和己と申します。
今回は『飛べない小鳥』へのご参加、ありがとうございました。
最初はわりと簡単なシナリオを予定してたんですが、みなさまのプレイング内容とPCの能力を検討した結果、思いがけず危険で長大なシナリオになってしまいました(汗)。
また他PCとの兼ね合いで思い通りに行動できなかった方もいらっしゃると思いますが、そのぶんせめて各キャラに愛情をたっぷり注いで描かせて頂いたつもりです。
少しでも気に入ってもらえれば本当に幸いです。
ではまた。どこかでお会いできることを祈りつつ。
ありがとうございました。
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