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鎮魂
鬱蒼とした森。
針葉樹と広葉樹が無原則に生い茂る。
森林特有の清涼感は感じない。
感じるのは、強すぎる緑の匂いと、得体の知れぬ不快感だけである。
「まるっきり虚仮威しっちゅうわけやなさそうやな」
黒い髪と黒い瞳を持つ青年が呟いた。
ラフなシャツにデニム。
薄く色の付いた眼鏡。
藤村圭一郎である。
「せっかく楽しんでんのに、邪魔せんでもらいたいもんや」
見えない誰か、存在しないかもしれない誰かに向かって、苦情を申し立てる。
むろん、返答など期待していない。
夢。
不可思議な夢。
深い霧の中にたたずむ少女。
悲しみに満ちた言葉。
「止めてください、か。ほっとくわけにもいかへんからな」
ただの夢でないことは、藤村にはすぐ理解できた。
何者かが夢の形を借りてメッセージを送っているのだ。
アットランダムにか、彼を選択してのことなのかまでは判らないが。
どちらにしても、助けを求めていることだけは確かなようである。
見なかったことにするのは容易い。
否、無視すべきだ。
危険がないと断言することもできぬし、報酬も望めまい。
彼は占い師であって厄介事請負人(トラブル・シューター)ではないのだ。百歩譲って、騒動の解決を行ったとしても、ボランティアである必要は些かもないし、そんな余裕もない。
「せやけど、こない意味深な頼まれ方してまうとな‥‥」
頭を掻く。
商売人としての藤村は、少しばかり情に脆すぎるようだ。
独立して開業するためには、ドライさに欠けているだろう。
もちろん、けっして恥と思う必要はない。
人の心の内側を覗く占い師が無味乾燥では、客など掴めるはずもないからだ。
無作為な思考に精神の半ばを委ねつつ歩く。
いつの間にか、目前の空間が開けていた。
人為的に森が切り取られ、古めかしい洋館が鎮座している。
「ちっとばかり、雰囲気だしすぎやな」
内心で呟き、彼は館へ歩を進めた。
いまさら引き返すこともできない。
鬼が出るか蛇が出るか、まずは扉を開けてみよう。
「だれ?」
だが、藤村に制動をかけた者がいる。
館の影から現れた、黒い髪の少女だ。
庭の手入れでもしていたのだろうか、白いブラウスに所々土が付着している。
夢に登場した娘ではない。
あの少女は、金色の髪をしていた。
「‥‥べつに怪しいもんやない」
応えてから、あまり説得力のない台詞だったことに気付き、小さく肩をすくめる。
「藤村圭一郎や。東京で占い師をしとる」
先に名乗ったのは、まあ、儀礼のようなものだ。
「‥‥そう」
興味なさそうに少女が呟き、そのまま踵を返す。
「ちょい待ち。ちっとばかり訊きたいことがあるんや」
「‥‥この島に関わらないで」
「なん?」
「‥‥この島に関わらないで」
正確に繰り返す少女。
まるで自動人形(オートマタ)のようやな、と、藤村は思った。
「はいそうですか、と答えるわけないやろ? 煽ってるとしか思えへんで」
僅かに恫喝するような口調をつくる。
「‥‥それがあなたのためだから」
儚げな微笑を浮かべ、少女が言った。
「‥‥ウィルド」
「!?」
藤村が核心をつく。
「昨夜、変な夢を見た。その顔からすると、アンタも知ってそうやな」
「‥‥‥‥」
「あの娘が襲う言うてたんは、アンタのことやろ?」
「‥‥‥‥」
「答えたないなら無理に答えんでもええ。せやけど、俺は勝手にアンタを守るで」
「‥‥あなたも‥‥」
「なんや?」
「‥‥あなたも『力を持つ者』なの?」
軽く頷き、藤村は疑問を確信に変えた。
あの夢のメッセージは、一定範囲において流されたものだ。
いみじくも、少女が「あなたも」と言ったように。
「もうそろそろ、自己紹介くらいしてくれてもええやろ?」
「私は‥‥零」
「ウィルドとの関係は?」
「彼女はわたしと同じ存在‥‥それ以上は言えない‥‥」
「じゃ、質問を変えるで。零の誕生日は?」
唐突な質問である。
だが、占い師にとっては慣れた質問であり、大事な事だった。
問いそのものには、あまり意味はない。
表情、視線の動き、応え方。
そういったところから、相手の考えていることや望んでいることを見出す。
心理学的占術とでもいうのか適当だろうか。
黒瞳の青年が得意とする易法である。
「‥‥皇紀二六〇五年‥‥」
「‥‥聞いたことない元号やな」
苦笑を浮かべた藤村。
だが、言葉は嘘であった。
もう半世紀以上も昔、皇紀という暦が使われていた時代がある。
有名な零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の名称は、皇紀二六〇〇年の末尾から取られたものだ。
逆にいえば、この少女はゼロ戦が開発された年より五年遅く生まれたことになる。
とてもさんな年齢には見えないが。
「ま、ええやろ」
藤村が不器用に片目をつむった。
中ノ鳥島にまつわる奇怪な噂。
暴いて喜ぶほど、彼は子供ではない。
もう六〇年近くも経っているのだ。
「で、ウィルドが零を襲うってのは、どういう了見なんや?」
「‥‥わからない」
「さよか」
占い師が笑う。
よくよく観察すると、けっこう面白いではないか。
どうやらこの少女、基本的に韜晦が苦手らしい。
知らないことはストレートに知らないと答え。
答えられないことはストレートに答えられないと拒絶する。
腹芸もなにもあったものではない。
「最後の質問や。零はどうするつもりなんや?」
「どう、とは?」
「おとなしく殺されるか、ということや」
「私は死なないから‥‥」
「護衛はいらんか? 安うしとくで」
「べつに‥‥」
「そか。ならボランティアや」
「‥‥‥‥」
強引な論法には、零が唖然とした。
‥‥ような気がしたのは、藤村の考えすぎだろうか。
「でも‥‥私は‥‥」
「かまへんかまへん。二対一の方が勝算高いやろ」
ごく軽く言ってのける。
「あ‥‥その‥‥ありがとう‥‥」
孤独な少女が見せた、初めての戸惑い。
その方が良い、と藤村は思った。
少女の過去を知っているわけではない。詮索するつもりもない。
しかし、機械人形のような顔をしているより、ずっと魅力的ではないか。
いっそ口説いてみても良いくらいだ。
「ま、そんな暇もないけどな」
「なんのことだ?」
「気にせんとき。ただの不埒な妄想やから」
にやにや笑いかけられて、思わず零は自身の身体を手で隠した。
「な、何を想像した!?」
「そりゃまあ、あんなことやこんなことに決まっとるやん」
「‥‥‥‥」
頬を染めつつ藤村から離れる。
生理的嫌悪にかられたためではない。
「可愛いトコあるんやな」
笑いながら更にからかい、藤村も視線を転じた。
ふたりとも気が付いていたのだ。
森の中から接近する気配に。
と、閃光が煌めく!
いきなりの攻撃であった。
間一髪、藤村の防御氷壁が鏡面のように、光を上空にはね飛ばす。
「問答無用ちゅうわけか! あんま好きやないで!!」
叫ぶ暇もあればこそ、森から飛び出してきた影が、すでに零と斬り結んでいた。
最初の閃光はフェイントだったのだ。
注意を逸らしておいて、直接邀撃を仕掛ける。
そして、動じることなく受けとめた零。
とんでもない次元の戦いである。
金色の髪をリボンでしばった襲撃者も黒い髪の護り手も、もはや一言も発しない。
斬り、突き、払い、薙ぐ。
力量は互角だろうか。
同じ存在と零が言ったことは、あながち間違いではないかもしれない。
「と、見物しとる場合やない」
目を奪われるくらい華麗で壮烈な戦いであった。
「おまけや思て無視せんとき!!」
藤村が生み出した数十の雹が金髪の少女に迫る。
が、ウィルドは微動だにしなかった
避けない!?
半分ほどのつぶてがクリーンヒットし、少女の身体から血が噴き出す!
「なに考えとんのや!?」
攻撃した占い師の方が驚いた。
もっとも、この場合、ウィルドの判断は正しい。
もし藤村の攻撃に意識を割けば、零によって一刀のもとに切り伏せられるだろう。
後ろに跳んでかわしても同じだ。こちらが一歩後退すれば、二歩前進してくるような相手なのだから。
であれば、攻撃の威力を秤にかけて、小さい方を無視するしかない。
もちろん言うほど簡単なことではないだろう。
ダメージは、そのまま戦闘力の低下に繋がる。
痛みだってあるはずだ。
と、ウィルドの傷がみるみる塞がってゆく。
なるほど、と、藤村が納得した。
この回復力があるから、無茶な戦法を選べたのだ。
散発的な攻撃では埒があくまい。
脳細胞が過負荷の火花を散らしながら、めまぐるしく計算する。
零とウィルドが、大きく跳んで間合いをあけた。
金髪紅瞳の少女にしてみれば、思わぬ敵の存在に注意しないわけにはいかない。何度も、先程のように横から攻撃されては面白くない。
他方、黒髪の少女も戸惑っている。彼女にしか判らない理由で。
ウィルドの回復速度、遅過ぎはしないだろうか?
むろん常人とは比べるべくもないが、霊鬼兵としては‥‥。
「あなたは‥‥」
静謐のような瞳が、異国からきた少女を射る。
「‥‥‥‥」
藤村も動きを止めたまま、少女たちを等分に眺めやっていた。
彼らの位置は夏を代表する星空のように、三角形を描いている。
金髪の少女がどのように動いても、迎撃できるポジショニングだ。
藤村が個人戦闘術に関して充分な知識を有していることを、間接的に証明することだったろう。
ウィルドは動けぬ。
零に攻撃を仕掛ければ、藤村がフォローに入る。
藤村に攻撃を仕掛ければ、零に隙を見せる。
もはや選ぶべき道は、降伏か逃亡か、どちらかしか残されないはずだ。
戦いに長けた者なら、絶対に判ることである。
「もうやめようとか思わんか? 勝ち目ないで?」
優しげに、占い師が言った。
必ずしも好戦的でない彼だ。こんな陰気な戦いなど、本当は嫌で嫌で堪らない。
「‥‥零‥‥」
呟き。
せっかくの降服勧告も、無視されてしまった。
仕方ないやろな。
黒い目に憂愁の色を浮かべ、藤村が心を定める。
手加減して戦えるほど甘い相手ではない。
「貴様を‥‥殺す!」
走り出す。
金髪が風になびく。
そして、三歩目にウィルドは動きを止めた。
「‥‥わたしたちを止めて!!」
唇から迸るウィルドのものでない声。
立ち竦む藤村と零。
「この声‥‥夢の‥‥」
「‥‥融合に失敗しているの‥‥?」
ふたりの胸中に沸き上がる、二つの疑問。
「はやく‥‥もう保たない‥‥ケイイチロウ!!」
少女の悲痛な叫びが木霊する。
零は彫像と化したように動けなかった。
藤村が無言のまま、地面に右手をあてる。
瞬間。
大地から錐のように生えた数十の氷槍が、ウィルドの身体を貫いた。
正確に急所を。
断末魔の声すら残すことなく、少女の身体砂と化してゆく。
終わったのだ。
風が砂を飛ばし、占い師の前に、空色のリボンを落とした。
何も言わず、それを拾う。
古ぼけた洋館と黒髪の少女が、ただ静かに見守っていた。
エピローグ
その日の夕方。
中ノ鳥島を訪れていた観光客たちは、奇妙なものを目にすることになった。
島の西端部に位置する岬。
断崖絶壁の上にたたずむ小さな墓標。
木を組んで作られた簡素な十字架は、氷の結晶をまとったように、きらきらと輝いていたという。
興味を持って近づいた人は、墓に飾られた空色のリボンと、
「クリステル」
という名の墓碑銘を確認することができる。
潮風が青い布を揺らし、沈みゆく太陽が最後の余光で世界を紅く染める。
海鳥たちの声が響く。
鎮魂の鐘のように。
いつまでもいつまでも。
終わり
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