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<PCシナリオノベル(シングル)>


鬼雨
 水底から湧き上がった水泡が弾けるように、目覚めは突然だった。
 和室に延べられた床に仰臥したまま、雨宮薫は暗がりに目が慣れるのをしばし待つ…闇と雨音が分かち難く同化し、静かに五感を包む感覚は、夢さえ見ない重い眠りに似る。
 夜半から降り出した雨は、まだ止む様子がない。
 薫は半身を起こすと、庭に面した窓に視線を転じた。
 刈り込まれた常緑の低樹の濃い影、自然石に囲まれた池、石灯籠に点された灯の揺らめきが水滴が絶え間なく作る波紋に照り、万華鏡を思わせた。
「………薫様、如何なさいましたか?」
襖の向こうから声がかけられる。
 襖は続き間を仕切る形で、二部屋が連なるその間は本来ならば大人数の宿泊客向けの部屋なのだろうが、彼等はそれを主従二人だけで使用していた。
 隣の間に控えながら、音を立てた覚えもないのに薫の目覚めに気付く…青年の察しの良さには時折舌を巻く。
「呼んでいるな。」
「はい。」
主語の欠けた薫の言に心得た風な答えが帰るのは、彼等が同じ血の流れを汲む為か。
 連綿と時を列ね、続いてきた陰陽師の一族の。
 薫は、体重を感じさせない動きで立ち上がった。
 肉付きの薄そうな細身に纏った浴衣の襟元を正す…窓から洩れる光に沈んだ紺は、前の合わせや袖元に覗く肌の色の際立たせる。
「放っておくわけにもいかないか…とはいえここに招いては女将にも悪い。」
黒曜石を思わせる瞳に水面に映る灯を映し、薫は縁側の硝子戸に手をかけた。
 旅館の建物自体、年季を帯びて古びているものの余程に手入れが良いのか、硝子戸は僅かなきしみもなく容易く開き、同時に濃い水の香りが涼感を帯びて立ち上る。
「ご一緒致します。」
「いや、いい。」
動きかけた守り人の気配を言葉で止め、部屋から庭に出る事が出来るよう、縁側の下、沓掛石に据えられた下駄に足を通す。
「ですが…。」
言い募ろうとする声に、苦い笑いを口の端に上らせた。
「心配性にも程があるぞ、隼人。それとも、俺が信じられないか?」
「はい。」
間髪入れない返答に、桐下駄の二枚歯が体重を支え損ねてつるりと滑る。
 ガタタッと音を立て、咄嗟に硝子戸に手をかけて漸く転倒を免れた薫に、
「冗談です。」
と、至って真面目な口調で否定し、隼人と呼びかけられた守り人は薫が体勢を整えるのを待つタイミングで、襖を開いた。
 もう横になっていてもおかしくない時刻なのだが、青磁の淡い色合いの浴衣姿は皺ひとつない。
 彼は部屋には立ち入らずに、半身を影に溶かした正座のままで軽く頭を下げた。
「どうぞお気を付けて。」
「すぐ戻る。」
送り出す言葉は肯定と信頼の証だ。
 薫は、短い約束を残して雨の幕内に身を滑り込ませた。


 濡れた庭石の上でカラコロと、桐下駄が音を立てる。
 池の淵を巡る散策の園路に沿って敷かれた飛び石をゆっくりと辿り、薫は手にした蛇の目傘を軽く持ち上げて視界の広さを確保した。
 旅館の名が青地の部分に白く浮き出された蛇の目傘は、竹制の骨に貼られた和紙に雨粒を弾いては不思議に乾いた音をパタパタと立てる。
「雨の庭も悪くないな。」
淡い灯の領域で岩に生す苔は瑞々しい天鵞絨の質感を得、常緑樹の葉、池の水面に落ちかかる雨垂れは都度に違う音を奏でながら調和を乱すことはない。
 その自然を模して意図的に配された庭の風景に自身も苦もなく溶け込みながら、薫は目にかかる前髪を掻き上げて足を止めた。
 池の周囲を覆う低樹が切れ、背後に緩い傾斜の広がりを見せる…日本庭園によくある技法、どこかの入り江を描写したらしい。
 薫は顎を上げた。
「俺に用があるのだろう?」
声は静かに、雨音よりも強く。
 視線は揺れる水面に向けられている。
 が、彼が見ているは其処ではない。
 深く、暗く沈んで視線の届かない…この世に最も近く、また限りなく遠い場所。
「お前達は既にこの世の者ではない。」
呼びかけは続く。
「憶い出せ、己の存在を。」
コポ、と小さな音を立て、底から水泡が立ち上った。
 薫が空に手を差し伸べる。
「その苦しみから解き放たれる為に。」
天へ向けた掌が雨粒を受け止め、溜まり、溢れて池の水面に注ぎ落ち、生まれた波紋は他のそれを打ち消す波で水面をさざめかせる。
 一定の律と間隔で広がり、戻る事のない水の輪が、ある地点でふ、と。
 消える。
 ワレラハナニダ。ヒトデハナイノカ。
 微かな声は、雨音よりも低い冷気を帯びて重く地を這う。
 ワレラハナンダ。モノデモナイノカ。
 唱うような節の問いかけ。
 オマエハダレダ。オマエハナンダ。
 外気が急速に下がり、気温の変化に池の表面が靄つく。
 コタエヲヨコセ。ワレラトオマエノサカイヲ。
 不意に水面が迫り上がった。
 芯に黒く蟠る何かを取り巻くように水は厚い膜で伸び上がり、それは水の領域にひしめくようにゆらゆらと揺れる…薫の四方を取り巻く形に。
 コタエガナクバ。サモナクバ。
 大きなものは池に枝を張る松の高さに届く程、小さなものは膝丈くらい、とサイズを取り混ぜたそれらは、囁く声で唱うような節で。
 ソノバヲユズレ。ワレラニユズレ。
 幾度も同じ言葉を繰り返し。
 ゆらゆらと揺れて退路を奪い…否、目的はそれでない。
 失った生への疑念に形と姿を失った数多の死霊が、自分の在処を現世の者へと求め、縋りついて来ているだけだ。
 応えを返しても受け止めるだけの知性は残されておらず、よって、彼等が満たされて逝く事は有り得ない。
「俺の名は雨宮薫。」
それを理解していながら、薫は繰り返される問いに答えをやった。
 闇を抱え込んだ水の群れが、その投げるように短くぶっきらぼうに与えられた言葉に打たれて一瞬、動きを止める。
「古より続く陰陽師の血と、天宮の名を受継ぐ者。」
雨宮の響きに隠された名、『天宮』。
 術を心得る者が真の名の重要さを知らぬ筈もない。
 名は魂の形であり。
 薫にとってそれの象徴する物は、己が担うべき一族の命運と自身の運命、そして為すべき事と為さざるべき事。
 迷いのない薫の応えに、周囲を埋める水の塊はしばしゆらめいていたが、足下に小さなひとつがパシャリと形を崩…そうとした。
 が、依代たる水が低く広がるのみで、核とする黒、死霊自体が地に潜り込めない。
「この空間は閉じた。」
薫が告げた。
 彼が通った道筋、岩に樹に、貼り付けられた符が薫の気に応じて互いに淡い光の線を結ぶ…身を護る為のそれではなく、逃さない為の、結界。
 死霊の数は百には満たないであろうが、一時に浄化するにはあまりに多い。
 それに対し、薫は結界内に封じ込める事で多を個とし、閉じられた空間自体を浄化する荒技に出た。
 傘を支える手を放し、胸の前で組まれた印に、燐光が淡く薫の身体を縁取る。
 染め分けが蛇の目のようである事に名の由来を持つ古風な傘は、確かにらしい模様で露先を軸に転がり、半円を描いて止まった。
 遮る物をなくした肩へ髪へと、糸のような雨が静かに降りかかるに任せたまま、薫の息が冷気に白く凍る。
「在るべき姿に戻れ。」
自我を失った死霊、苦痛の内に閉じた運命を呪い、それを与えた何かを生きている者に転化させられ、生を失った寂寥感に眠る事すら出来ない忘れられた者たちを、現世に縛る軛を断ち切ってやる。
 素早く切られる九字に、結界内の空気が変化した。
 漂う冷気は彼等が身を置く死の温度、それが静寂の凛烈へとすげ替えられる。
「東海の神 名は阿明、西海の神 名は祝良、南海の神 名は巨乗、北海の神 名は禺強、四海の大神、百鬼を退け凶災を払う!」
紡がれる呪に地から水は凍り出し、キシキシと音を立て瞬く間歪な氷柱が林立する…霜つく氷の結晶が所々、生じる様はまるで花のよう。
「急々如律令!」
両手を使う九字から流れる動きで右手が刀印を結び、袈裟懸けに大きく空を切ると同時、喝する勢いで放たれたそれが氷を砕いた。
 千々に砕ける氷は互いが帯びる光を含んでまた反射し、内に封じ込めた闇が影を落とす事すら許さずに白く清く。
 が、術が完成する寸前、結界が軋んだ。
 大気自体が重量を持ったような外部からの圧力に、符と符を結ぶ直線が大きく撓み、内の一枚が耐え切れずに二つに裂け落ちた。
 右の後方、結界の切れた箇所から真っ直ぐ、重圧は術者である薫に向かって襲いかかる。
「オン バサラ ギニ ハラチ ハタヤ ソワカ!」
大きく引いた右足を軸に振り返り様、発した護身呪が直撃を防ぐが、威力を逸らす為に突き出した刀印にかかる力は片腕で支えきれず、左の掌で支えるも渾身の力を込めて抗さねばならない。
 薫の左右に逸らされた圧力は符へ向き、繋がりで以て強固さを与えられていたそれぞれは切れた内側からの力に次々と破砕されると同時、内に込められた術も散り消える。
 と、同時、かかる力は前触れなく失せた…死霊達の姿もない。
 薫はゆっくりと構えを解いた…切る形で力を逸らせた刀印、中指の平が風に切れ、滴る血が雨に紛れて地を打つ。
 裂けた皮膚に唇を寄せれば、鮮烈な赤に反して錆びた味が舌先を染める。
「………邪魔が入ったか。」
思案の表情で呟きを漏らし、濡れそぼって絹の光沢を増す黒髪を左の手で掻き上げた。
 この奇妙に死の匂いの濃い島、まるで土地自体が浄化を拒むかのような、明確な拒絶。
 死霊達は、もう地に深く沈んでいる…それは還る為の眠りでなく、ただ疑念と辛苦に閉じられた魂の形に縛られ、そう在り続ける為だけに。
 また微かな雨音に誘われ、浮かび上がるまでひたすら地の底に澱んで。
 薫は顔を天に向け、瞳を閉じた。
 雨粒は頬を伝って胸元に滑り落ち、肌に張り付く浴衣に更に染み込んでは、嘆きに満ちた涙を思わせる冷たさで体温を奪う。
「いつか天に還してやる。」
地を奔り天を巡り、生命の内に生きる水の巡りに似た輪廻の内に。
 呟きは、深く、暗く沈んで視線の届かない…この世に最も近く、また限りなく遠い場所へ向けて。
 水を含んで重い袖を払う動きに、薫の指先から宙を走った赤は未だ止まぬ雨に紛れ、水面に新たな波紋を作ってすぐ、消えた。