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王子様へ
熱い頬に、涼しげな夜風が触れる。海の上から伝わってきた風は、むせるような潮の香りがした。
少し飲みすぎただろうか。
酔い覚ましのために、神無月征司郎は海岸を歩いていた。
酒は強くない。が、その場の勢いに任せてかなり飲んでしまった。
今まで歩いてきた道を振り向く。ぽつぽつと足跡が残っている。砂浜に描かれたそれは、ゆるやかな波に抱かれて消えた。
波に触れるか触れないか。砂浜すれすれに足跡は続いている。
まだ、皆は飲んでいるだろうか。
一夏のバカンスといえば聞こえがいい。結局、なんであれ酒飲みのネタでしかないのだ。
盛り上がった酒宴。征四郎はそっと席を立った。多分、誰も気づいていないだろう。
他人と酒を酌み交わすのも良いが---。
夜空を仰ぐ。
正真正銘の満月が浮かんでいた。
都会では考えられないほど星が近い。小さなものまではっきりと見える。
星や月は競い合い、密やかな耀きを征四郎に送っている。
黒にも見えるほど深い青の海。まれに白い波の泡がやってくる。寄せて返す波の中に、少しだけ歪んだ満月が写っていた。
これだって悪くない。
波が砂の一粒一粒に迎え入れられ、ざぁ、と揺れる。穏やかな波音。
征四郎は瞳を閉じて、自分に与えられる全てを受け止めた。
そして、ゆっくり瞳を開く。
どこから唄声が聞こえたのだ。
潮騒とはまったく異質なのに---なぜかとても相応しい美声。
波や星の耀きを横糸に、唄声を縦糸に。繰り広げられる楽曲。
「こんな時間に……?」
まろやかに続く砂浜の向こう、岩場が見えた。尖った黒い岩が重なり合っている。声に誘われるように征四郎は歩き出した。
店を出たときの時間を思い起こす。深夜より深い時間だった。
唄声が止まる。
「あ、続けてください」
征四郎は岩場に足をかけ、えっちらおっちらと登る。岩場は海の中にまで広がっているようだ。濡れて苔の生えた岩は、ひどく滑る。征四郎は姿勢を低くして、ひときわ高い岩に登った。
「邪魔をしてしまいましたか?」
登りきると。
視界に広い海が映った。
「いえ……」
離れた場所で誰かが答える。唄声の主だろう。華が香るような美声だった。
闇夜で顔は見えない。が、声から想像するに美しい少女だ。
「続きを、唄ってくれませんか?」
どうして近くに来てしまったのだろう。
自分自身に問う。
答えは一つ。より近く、より長くこの唄声を感じていたかったからだ。遠くでそっと耳を傾けたほうが良かったのでは、と後悔し始めていた。
少女の声は明らかに固く、警戒心がにじみ出ている。
「あの……」
「はい?」
「私……のこと……怖くないんですか?」
波音に切れながら、小さな声で聞く。あまりに小さいので、風に飛ばされそうだ。
「はい。あんまりに素敵な声だったので、つい……」
闇の中、少女が笑った。ような気がした。
また、唄がはじまる。
征四郎は瞳を閉じ、少女から与えられる音全て取りこぼさないように努めた。音の一つ一つが鮮やかな色彩を放ち、肌や心に染みとおる。
唄というより音かもしれない。
ただ、ただ美しい音。
歌詞は聞き取れない。異国の言葉だろうか。
少女のつぶやきは耀きに変わり、征四郎の胸に様々なイメージを呼び起こす。
艶やかな夜の闇。淡い星の耀き。海に消える泡のため息。
一曲を歌い上げたのだろうか。少女の唄が止まった。
征四郎は言葉もなく、拍手を送る。
少女の唄声の前では、どんな誉め言葉も無力だと思えた。
「気に入っていただけましたか?」
岩場に、線の細い少女が腰をかけていた。一糸纏わぬ姿は、真珠のようになめらかだ。長い髪が小さな乳房を隠し、細い腰から伸びるのは魚の鱗。
「人魚……」
少女は大きな蒼い瞳を、驚きで一杯にする。岩場から海に飛び込んだ。
唄に聞きほれている間に、夜が明けたのだ。見えなかった少女の姿がはっきりとわかる。
征四郎の瞳に少女の姿が焼きついている。
海から昇る朝日を浴び、閃くような美貌と儚さ。
「怖く……ありませんか?」
先刻と同じ問いを繰り返す。
「はい」
同じ答え。
「……良かった」
海から顔だけを出し、少女が微笑んだ。恥ずかしそうな笑い方だ。
「あの、ちょっと待っててください!」
少女は海に沈んでいった。そして、また岩場に戻ってくる。両手に大ぶりの魚を持っていた。もちろん生きている。
「唄、誉めてもらったお礼です。どうぞ」
征四郎はまだびちびちと活きの良い魚を受け取る。
「ありがとう」
持って帰って焼き魚にでもするか---と考えたが。人魚は征四郎をじっと見ている。
「あの、お気に召しませんでしたか?」
「いえ」
「どうして食べないんですか? 死んでしまいますよ?」
どうやら生のまま丸ごと食えと言われているらしい。可愛らしい人魚が魚を丸呑みする姿を想像してしまった。幻想的ではないが、そういうものなのだろう。
「僕は焼いたり煮たりするほうが好きなんです」
「死体を食べるんですか!?」
そう言われると。征四郎は死体をスーパーで買い、調理しているわけだ。動物や昆虫達からしたら不自然だろう。
「あの、人間さんですよね?」
「はい」
人魚が細い腕で岩場を登ってくる。足が使えない分不便そうだ。征四郎は手を取って、引き上げてやった。
「あの……手伝ってほしいんです。お礼は必ずします」
祈り乞うような視線。征四郎ははぁ、と相槌を打つ。
「人を探しているんです。本当は…あの人が逢いに来てくれるのを待つ約束なんですけど……我慢できなくて」
『あの人』を思い出したのだろうか。人魚の白い肌に桜色に染まる。
「あの人って?」
「その……」
もっと人魚の頬が赤くなる。彼女はそれを両手で押さえた。
「好きな人です……」
「なるほど」
微笑ましい姿につられ、征四郎も笑う。すると、少女はより赤くなった。どこまで赤くなるのだろう。
「海から離れられないから、探しに行けなくて。呼んできて下さいませんか?」
「いいですよ。この島には休暇で来たのだし、用事もありませんから」
「ありがとうございます!」
征四郎に人魚が抱きついた。
「あ。すみません……!」
人魚は海に飛び込む。
「私、明日もここに来ます! 待ってますから!」
「え。ちょっと」
恥ずかしさから逃げるように、あっという間に泳いで行ってしまった。
征四郎は頭を掻く。
「あの人ってだけで……どうやって探そうかな?」
征四郎は一度、ホテルに戻ることにした。体力にそれなりの自信はあるが、徹夜明けの頭はいけない。考えることに向いていないのだ。
シングルベッドに横になる。仮眠だけでも取っておかなくては。
「人魚のあの人ですか……」
寝返りを打つ。
眠ろうとすると、記憶の海から人魚が浮かんでくるのだ。あの嬉しそうで、恥ずかしそうな笑顔を思い出してしまう。
眠れない。眠ることが特技だったはずなのだが。
手がかりは少ないのだし、明日会うときまで行動を起さないほうがいいかもしれない。無駄な労力を使わなくてすむ……が。
一刻も早く逢わせてあげたい。
手がかりなどなくとも、探したい。
たった数分の会話だったのに。ずいぶん肩入れをしているな、と征四郎は自嘲した。
うらやましかったからだろう。
自分には---あんな風に人を想ったことがないから。
まずは草間と三下にことを話すべきかもしれない。二人の情報ネットワークがあれば、一人で探すよりずっと早く見つけられる。草間に協力を仰ぐ場合、それなりの支出を考えた方がいいだろう。
「あの人は人間で、人魚と会う約束をしている。それで、男の人」
天上に向け、征四郎は指を折る。一つ一つの条件を考える。
人魚が現れるという噂は、この島に来た当初から知っていた。つまり、我々---バカンスの面々---の中には居ない。来る前から人魚と『あの人』は出会っているのだ。
現地住民か、船で行き来をしている近隣の島の人間か。
「さて……」
『あの人』の顔を知っているのも彼女だけ。写真なども望めないだろう(何せ海の中なのだ)
「そうだ」
一人言い、征四郎は指を鳴らした。
翌日。同じ時間帯に征四郎は岩場に向った。
「こんばんはー」
人魚のほうが先に来ていた。期待に満ちた瞳で、征四郎を見つめている。
「会えましたか?」
「いえ、まだです」
申し訳なさそうに征四郎が頭を下げる。人魚も瞳を伏せたが、その後ぱっと笑った。
「明日会えるかもしれませんよね」
「ええ。それで、今日は提案があって来たんです。僕一人では探すのは難しいので……こちらに」
征四郎は視線で砂浜を指した。岩場のない場所だ。人魚は指定された通り、海を回って砂浜にたどり着く。
「これが、上手く……」
医療用の車椅子を引っ張り、征四郎は海に向って歩く。砂浜の砂がタイヤに詰まってしまい、上手く進まないのだ。
「それは?」
出来る限り近くに、と人魚は匍匐前進のような姿だ。両手で体を引きずり、海岸から昇ってくる。
「車椅子です。これで、陸を歩くことも出来るでしょう?」
「え……」
「失礼します」
征四郎は人魚の体を抱き上げた。お姫様を抱く、あのやり方でだ。そっと車椅子に座らせる。
「どうですか? ぼくが押しますから」
砂を巻き返しながら、車椅子がゆっくりと進む。アスファルトなら問題ないだろう。
「すごいです! これで、探しにいけます!」
人魚は振り返り、顔を上気させた。
「あと、上着とスカートです」
上半身は全裸、下半身は魚。さすがに街を歩けないだろう。パンツをはくことは出来ないが、ロングスカートなら隠せる。
征四郎の用意した洋服を着、人魚は満面の笑顔を浮かべた。
「探しに行きましょう」
「と、言いたいところですけど、夜中ですから。皆さん寝ていますよ」
「……ちょっと残念です」
人魚は頬をふくらました。
夜が明けるのを待ってから二人は街へ繰り出した。砂浜を登るのに手間取ったが、防波堤上まで来てしまえばこっちのものだ。人魚ははしゃぎながら、自分でタイヤを動かす。
「すごい。私、海の外に出たんですね」
征四郎がうなづくと、人魚は目を細めた。
防波堤の上に車椅子を止め、海を見下ろす。
「……これが、海……」
人魚の蒼い瞳に、蒼い海が映っている。
「すごい……」
多分、生まれて初めて地球を見下ろした人間と、同じ気分なのだろう。自分の住んでいた世界を一望しているのだ。
「あの人が見つかったら、ゆっくり見るといいですよ」
「そうですね!」
車椅子を押し、征四郎は歩き出した。
まずは草間に会う。昨日の夜約束を取り付けておいたのだ。
征四郎たちが島の甘味所に行くと、既に草間は白玉杏仁豆腐をつついていた。
「よう」
店の一番奥の席で、草間が手を上げる。入ってきた征四郎たちを見つけたのだ。
「こんにちは」
征四郎は片手で顔を仰ぐ。真夏日の下、車椅子で進んだのだ。体中から汗が噴出している。注文を取りに来た店員に、すぐさまカキ氷を頼んだ。
木造の店内には、今にも壊れそうなテーブルセットが三つ、それと扇風機しかない。扇風機のモーター音が暑苦しく、死にそうな虫の羽音のようだった。
「コーヒー味のカキ氷はないんですか?」
壁に貼られたメニューを見、征四郎は残念そうな顔をする。店員は笑いながら申し訳ありません、と謝った。
結局いちご味のカキ氷を頼む。人魚にも同じものを、と付け足す。
「美味いのか? コーヒー味」
「コーヒーよりラテとか、カフェオレとかに近いイメージですけど」
口の中で味を想像してみたのか、草間はふむ、とうなづいた。
「で、問題の人魚があなたですか?」
眼鏡の奥の瞳ににらまれ、人魚は体を硬くした。本人は睨んだつもりがないものの、人魚は柔和な征四郎しか人を知らない。こんなに怖い人ははじめてだ、と思ったのだ。
「あの……」
「大丈夫。ちょっと見た目の怖い守銭奴なだけですから」
「征四郎」
「すみません。つい本当のことを」
征四郎に促され、人魚は口を開いた。
さすがに手馴れている。草間は人魚の口から『あの人』の様々な情報を引き出した。
「性別男、外見年齢は二十歳から二十三、身長は百六十ぐらいか。小さいな」
「その他に特徴はありませんか?」
「えっと……怪我をしてたみたいです。両足に包帯を巻いていましたから」
「目立ちますね」
征四郎と草間は視線を交わす。
「男にしては背格好も低いな」
「名前はトゥールと」
変わった名前だが……外人だろうか。
「出会いのきっかけは?」
芸能人に対する熱愛報道のようになってきた。
「私が海で……征四郎さんにあった時と同じように……唄を。そうしたら綺麗な声だと言ってくれました。最初は……私が人ではないと知って驚いたみたいです……でも……」
言葉を止め。
「私も、はじめ、あの人のことを人だと思わなかったんです。だから話し掛けたんです」
「人だと?」
こっくりとうなづく。
「種族には独特の匂いがあります。あの人は人間とは少し違っていたから……」
「草間さん。この島には異能力者が集められた歴史がありませんでしたか?」
「ああ。だが外人は居なかったはずだ」
「トゥールって徹とか、亨とかじゃないでしょうか。きっと戦場と似たようなこの島に、女性が居たから驚いたんですよ」
征四郎は、はじめに仮定を立てる頭なのだ。自分の想像した方法と、実際の資料を比べ、相違点や正しかったところを集める。そして自分なりの推理を作り上げていくのだ。
逆に、草間の考え方は全ての情報を集め、それらが納得いくように推理を組み立てる。
「調べてみる価値はあるかもな」
「あの、解ったんですか?」
人魚がテーブルを叩く。
「可能性ですよ」
征四郎は答えながら、視線をそらした。
自分の考えが真実でなければいい。
もし真実なら、トゥールという人間はもう。
「早く逢いたいです……」
人魚の前に置かれたカキ氷は、溶け始め、ピンク色の水に変わっていた。
「……やはりそうでしたか……ありがとうございました」
征四郎は携帯電話を切った。
島に残された資料を当たり、草間が連絡をしてくれたのだ。
人魚との顔合わせがあってから三日。たったそれだけの時間で、草間は徹という名の男性を見つけ出した。埋もれた歴史の中からだ。
負の遺産とも言うべき、研究所の名簿に、実験材料として捕獲された人物だと記載されていた。
実験材料であれば、終戦間際に処分されたか、実験中に亡くなっているだろう。
「なんて、言えばいいんでしょう……」
五十年以上もの長い間、人魚は王子を待って、あの岩場で唄を歌い続けてきたというのか。それの終わりが、これなのか---。
「征四郎さん?」
車椅子にのった人魚が、押している征四郎を振り向いた。
白のワンピースに、麦藁帽子。何処までも晴れた青空。
まさに夏。
防波堤の上を二人は歩いていた。
「今日はどこを探しに行くんですか?」
草間が資料に当たっている間、二人は島中を歩いた。住民に話を聞いたり、昔の地方新聞を紐解いたり。図書館へ通い地域の歴史も調べた。
今日は街、明日は図書館。
二人の前にやるべきことは沢山あった。
昨日までは。
「今日は……」
期待で瞳を輝かし、見上げている人魚。征四郎は瞳をそらした。
「散歩、しましょうか」
「はい! 実は私、地上に来るの夢だったんです。色々なものを見たいんです」
明るい笑顔。何処までも征四郎を信頼し、『あの人』に出会えることを信じて疑っていない。
もう一度出会えるという確信があるから、明るいのだ。
征四郎は島のほとんどの場所を案内した。都会に比べれば娯楽が少ないものの、人魚にとっては全てが新しい世界なのだ。地上の花を見て驚き、四本足で歩く犬に驚き、猫にため息を零す。
海の中にない熱い風を感じ、冷たい食べ物を食べる。陸のものを味わう。
人魚の笑顔は絶えることがなかった。
それが、征四郎の胸を締め付けた。
「征四郎さん、私ね。生まれ変わったら人間になりたいな」
両腕を広げて、人魚は大空を仰いだ。
焼け付くような夕焼けだ。人魚のワンピースも夕日色に染まっている。
「何故? 僕は海の中で息が続くのってうらやましいですよ」
以前スキューバダイビングを経験した。海の中の美しさに目を奪われ、それらを独占している魚をうらやましく思ったものだ。
「車椅子があれば、陸に上がれる。行きたいところにいける。飛行機があれば、空も飛べる。ぜーんぶ出来るようになってる」
人魚の麦藁帽子に、赤いハイビスカスの花が挿してあった。征四郎が摘んだものだ。
「私が人間だったら、あの人のこともっと早く探しに行けた。
あの人が……死んでしまう前に」
空気の色がなくなり、足元が崩れるような感覚を覚えた。
「知って、いたんですか」
「今日征四郎さんの顔を見たら、わかっちゃったんです。征四郎さんは優しいから、嘘をつくの、ヘタです」
「……割と得意なんですけど、嘘って」
征四郎は車椅子を押すのをやめ、人魚の前に立った。
「……私」
麦藁帽子を押さえ、人魚が下を向く。
「征四郎さんみたいにしていれば良かったんですよね」
表情はわからないが、涙声だ。
「征四郎さんは手がかりもほとんどないのに、探すの手伝ってくれました。沢山の方法を考えて、探す手伝いをしてくれました。
私ももっと考えなきゃいけなかったんです。
時間が沢山あるって自分に言い訳して、あの人が約束を守ってくれるって信じるふりして。信じて……待つことしか出来ないって自分に言い聞かせてたんです」
言葉が出ない。
どんな言葉をかければいいのか、わからない。
「ありがとう。征四郎さんのおかげで、わかったんです」
お礼を言われることなど、していない。
「自分から何かをしなくちゃって……」
人魚の細い体を抜けて、夕日が耀いている。
「どうしたの?」
征四郎は跪き、人魚の手を取ろうとした。が、握れない。指先が揺らぎ、消えていく。輪郭がとろけて泡になる。
「人魚って海から長い間離れてると、死んでしまうんです」
「わかってて……?」
人魚はうなづく。
「ちょっと、あの人を探しに行って来ます。今度は、誰にも言い訳せず、甘えたりもしないで……私の足で」
彼女は命が縮まる覚悟で、車椅子に座っていたのか。じりじりと押し寄せる死を感じながら。
それを知らず、自分は押していたのだ。椅子を勧めたのだ。
激しい後悔の念が、津波のように押し寄せる。
知らなかったでは済まされない。
「……そんな顔、しないでください」
人魚は顔を上げ、微笑んだ。
「ちょっとだけ……探しに……行く……だけ……」
赤い夕日の中に、少女は溶けていった。
「……どうして気づかなかったんだろう……」
征四郎は幼い頃読んだ、人魚姫の物語を思い出していた。
人も人魚も、食べ物や飲み物だけで生きているわけではないのだ。
大切なものがなくなると、生きていけないのだ。
「……どうして……」
死を選んだのだろう。
征四郎は空っぽになった車椅子を見た。
そして、最後の彼女の笑顔を思い出す。
「探しに行くだけ……ですよね?」
死んだわけではなく。自分自身で撰んだ道。
大好きな人に出会うために。
泣いてはいけない。嘆いてはいけない。
それは、彼女の道を否定することになる。
「名前ぐらい、聞いておけば良かったですね……」
麦藁帽子の上の、花が揺れた。
夕日よりも赤い花だった。
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