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本当は恐ろしい君と僕の童話 第四幕『眠り姫』
第一場 狸汁はいかが?
prince > グリム初版の『白雪姫』ではお妃が実の母だったり、一般に知られてる話と違う部分が多くある。そこには母親の黒い感情が表されているんだ。
snow > 嫉妬ね。
prince > そうさ。自分は老いていくのに逆に美しくなる娘が許せないんだ。鏡は絶対基準としての中世的父権=父親を意味していて、その愛情が妻から娘に移り、同時に「妻」が「母」に変わったことを表す。だから母は娘に嫉妬し、殺して内臓を食べようとする。娘の美を吸収しようという食人呪術さ。だから先手を打って『白雪姫』の狩人のように偽の肉を食べさせるんだ。
snow > あいつは私の肉を食べたようなつもりで、実は鳥獣になっていくのね。
prince > 次に母親は飾りひも・クシ・リンゴという女性的象徴で娘を殺そうとする。
snow > あいつもそう。自分は外でよろしくやってるくせに、私を家に押し込めて。あいつがいる限り私は醜いまま。鏡を見れば見るほど目に付くの! あいつがこんな風に産んだせいで、みんなが私を馬鹿にしてるじゃない! 私を哀れんで、さげすんでいるじゃない!
prince > そうさ snow さん、あなたはもっと美しくなれる。だからいい物を送ってあげよう。「トファナ水」という中世の貴婦人達の美白用化粧水さ。ただね、成分にヒ素毒が含まれているんだ。使い過ぎると、徐々に衰弱して死んでしまうんだよ。だから取り扱いには十分気を付けるんだよ。間違っても、調味料と間違えて誰かの食事に毎日少しずつ入れるなんて、しないようにね……。
『こんなチャットのやり取りを、偶然見てしまった』――そんな書き込みが、ゴーストネットOFFの掲示板にされたその頃、都内某所――
お帰りなさい、お母さん。
今日も遅くまで御苦労様。御飯の用意出来てるよ――え? いいのよ別に。私の学費もあるし、ここの管理人だけじゃ――今はお母さんだけが頼りなんだから。ねぇ、お母さん?
だから、家事は私がして当然よ。冷蔵庫の残り物で作ったにしては、中々でしょ? 残飯も減らせるし、料理もリサイクルしなくちゃ。ねぇ、お母さん?
そう、残飯って言えば、ゴミ捨て場のルールをきちんと守らない人、どうなったかしら? でも、私ね、ゴミ捨て場を漁るからって、カラスを殺すのはどうかと思うの。まったく、人間は身勝手なんだから。だって、ねぇ、お母さん?――勿体無いじゃない。まだ使えるのに処分だなんて、勿体無いじゃない。使える物はリサイクルしなきゃ。ねぇ、お母さん?
あ、ごめんなさい。食事中に話す話題じゃなかったよね。
そうそう、そう言えば残り物で料理したって言ったけど、今、お母さんが食べてるそれだけは、冷蔵庫じゃなくて、別の所にあったノコリモノで作ったの。美味しいでしょ? たくさん食べてね――特性ミートパイ。私はいいの、ダイエット中だから――え? どうしたの? 中に何か入ってた? 何だろう?――ほら、黒い羽根。
でも、入ってるのはそれだけじゃないんだけどな――ねぇ、お母さん?
第二場 毒林檎殺人事件
先月まで、世間はワールドカップ一色といった有様だったが、犯罪の流行は無認可添加物だった。余りに続出する企業実態のために把握すらままならず、その数が増える度に人々の関心と衝撃はそれと同数の細切れに分断されていった。そんな中、台東区内の某スーパーマーケットの青果売り場に置かれたバラ売り林檎の幾つかには、何者かによって芯の部分から三酸化砒素=亜砒酸が添加されてあった。林檎という、毒を入れるには比較的特異なものが選ばれた理由は、注入痕が分かりにくい為とも、白雪姫の見立てとも言われる。そして実際、気付かずに食べた三人が被害に遭った。
一人は乳幼児――離乳食として母親が作ったすり林檎を食べ、数時間後に収容先のN総合病院で死亡。この子とほぼ同時刻にT大学附属病院に収容され、翌朝速くに亡くなったのが某企業ラグビー部の青年。そして、現在も昏睡状態なのが、一日に林檎一個という無茶なダイエットをしていた――そしてそれが毒入りだったという不運な大学生。
その大学生の母親が僕の勤務するT大学附属病院精神科を訪れたのは、事件の三日前だった。彼女は、性同一性傷害を抱える息子――そう、被害者は男性だ――の相談に訪れたが、僕が、性同一性障害の治療とは息子さんの心を男性化することではありませんよと諭し、一度息子さんと御一緒に来て下さいませんかと説明したその日、彼女は行方不明になった。
息子さんは今もこの病院で昏睡状態のまま、予断を許さない。離婚した母親と二人暮しだった彼――或いは彼女と呼ぶべきか――に、面会者はない。
母親が行方不明になったことは、あの相談と何か関係があるのだろうか? だとするとあの時、僕はもっと違う言葉を彼女に掛けるべきだったのか?
僕は彼女の捜索願の為、先日、世話になったあの興信所を、再び訪ねることにした。
第『九』場 チルチルとミチルが探した鳥は青ではなく黒いのか
「鴉が翼を広げているところ。お婆さんの顔。それから――UFO」
左右対称のインクの染みがついた四角い紙を前にして、自由に連想を上げていく。スイスの精神医学者H・ロールシャッハによってつくられた精神診断法――「ロールシャッハ・テスト」。
T大学附属病院精神科の医師である僕――「袴田(ハカマダ)」は、母親殺害の容疑を受けている被告人Kの精神鑑定の為、東京拘置所を訪れていた。
童話とは――
童話とは、ロールシャッハ・テストのようなものだ。
それは古くから語り継がれ、多分に簡潔で類型的であるが故に、聞き手はそこに自由な解釈を連想付けることが出来る。だから、童話を解釈することは、自分自身を解釈すること以上では、あり得ない。そして、心理テストが時に被験者の人格を一方的に固定化・矮小化する装置に成り下がるように、童話解釈も、童話の矮小化に過ぎない。
だから僕が童話について語る時、それはつまるところ「袴田」という人間の自己矮小化に過ぎない。
ところで、東京の鳩が黒くなっている――という事実を、ご存知だろうか?
白い鳩は目立つ為、天敵の鴉に攻撃され易い。自然に淘汰されて、東京の鳩はどんどん黒くなっている。
メーテルリンクの童話「青い鳥」の中で、チルチルとミチルが手に入れた鳥は、捕まえる度に青い鳥ではなくなってしまう。そして、最後に家に帰ると、自分達が飼っていた「キジバト」こそが、青い鳥だと気付くのだ。だが、その青い鳩さえ――最後には逃げてしまう。
僕達はすぐ側にいる青い鳩に気付かない。そうしている間に、鳩はイジメられてどんどんどんどん黒くなる。黒くなって、なりすぎて、黒いインクが染み出てしまう。
僕達が見たものは、そんなインクの染みだったのか――。
第『八』場 永久(とわ)の眠りに就いたお姫様に、お目覚めのキスは要らない
“『眠れる森の美女(前半部)』
ある国にお姫様が誕生し、洗礼式に大勢の客と国中の七人の仙女が招かれました。しかし、宴酣(えんたけなわ)という折、招待されなかった八人目の仙女が現れ、「姫は糸車の紡錘(つむ)が刺さって死ぬだろう」と呪いの言葉を述べたのです。ですがまだ祝福の言葉を述べていなかった一人の仙女が、「お姫様は死ぬのではなく眠りに就き、百年後に一人の王子様が目覚めさせるでしょう」と言い換えました。王様は国中の紡錘を処分するお触れを出しましたが、十五、六年後のある日、お姫様は城の古い塔の屋根裏で、糸を紡ぐ老婆と出会いました。そして、お姫様は紡錘を指に刺してしまったのです。途端、お姫様は眠りに就きました。そして永い年月が流れ、統治する王様も代わった百年後――その国の王子様が、茨に包まれた姫の城を訪れました。すると茨は自然に別れて王子様を招き入れ、城に眠るお姫様の前に王子様が跪(ひざまず)くと、彼女は目を覚ましました……”
西日射す階段を降り、寒色の蛍光灯が並ぶ薄暗い地下廊下へ――乾いた足音が響き渡る。男は突き当たりの扉の前で足を止めた。観音開きの扉をゆっくり押し開くと、ひんやりとした空気が足元から滑り出た。
部屋に入ってすぐ目に入ったのが――いや、寧ろそれしかないと言っていい――居並ぶ台の上に置かれた幾つもの大きな長方形の箱の群れ――棺桶。
そして一つだけ上蓋が外された部屋中央の白い柩。
中には白く美しい花々が詰め敷かれ、その真ん中に埋もれ横たわるのは、真冬の雪のように白い肌とほんのりと赤く染まった頬、そして少女のようなその端整な顔立ちを長い黒髪が柔らかく包んだ、美しき青年。今にもその大きな瞳を開けて起き上がるのではないか――そう思わせる。
ここは大手葬儀会社の附属機関「東京エンバーミングセンター」。
エンバーミング(embalming)――保存等の目的で遺体に処置を施すこと。日本では「遺体衛生保存」と訳される。その目的は3つあり、一つには遺体の消毒による感染病等の防止。二つ目に防腐処置による埋葬までの遺体の保存。そして最後に、事故や病気で変容した故人の姿を生前に近付け、安らかな死顔を造ることである。これは人生の最後を美しく飾ってあげたいという遺族及び生前の故人自身の思いと共に、残された遺族自身の心の安らぎともなる。それ故、薬品や外科・整形外科的処置以外に、髭剃りや爪切り、それに頬紅などのメイクや故人が好きだった服への着せ替え等も行われる。考え方自体は古代エジプトのミイラまで溯(さかのぼ)るが、直接の起源は南北戦争時代のアメリカだろう。当時、戦場で死亡した遺体を故郷へ運ぶのに遺体保存が必要だったのだ。このことなどからアメリカではエンバーミングが広く普及し、現在では遺体の90%以上に施され、エンバーマーという職業も公的な資格を必要とする。一方、日本ではまだまだ普及しておらず、観念や習慣の違いなどから理解され難いと言われるが、それでも今では国内で年に一万体がエンバーミングを受けている。
この東京エンバーミングセンターも、そのような数少ない施設の一つだ。
男は眠るように横たわる青年の頬にそっと手を近付ける。
「あぁ、奇麗だよ……僕の可愛いお姫様……」
とその時、
「――するとあなたは『王子様(prince)』って訳?――」
突然、背後から男に声が掛けられた。
「――彼女――いえ、彼は――眠り姫? それとも白雪姫?」
伸ばした男の手が止まる。振り返った男の顔は、撫で付けた黒髪に弛みがちな肌――御世辞にも王子とは呼べない中年男のそれだった。そして、突然入った横柄な口振りの邪魔者に対する驚きと怒りの入り混じった目付きが捕らえたのは、扉の横――影の中に立つ白衣の姿。
だが、中年男の顔はすぐに営業的な偽造(つく)り笑顔に変わった。
「エンバーマーの方ですか?――処置が終わったと聞いて、来たのですが……」
すると白衣の人物が明かりの中に足を踏み出した。
長い金髪、黒の軽装の上から白衣を羽織った、白人女性。
「私はそう、眠り姫を呪った招かれざる八人目の魔女――とでも、名乗っておこうかしら?」
「……?」
「あなたが『松野(マツノ)』さん? 亡くなった『飯田(イイダ)』さんの――」
「ええ。エンバーミング契約をしました、父親です」
「父親――ねぇ……?」
「離婚、したのです。それで名字が違うのですよ――でも、まさかこんなことに成ろうとは……」
今日午前に容体が急変するまで、T大学附属病院の集中治療室で昏睡状態にあった毒林檎事件三人目の被害者――「飯田 馨(カオル)」。その横たわる柩に掛けた松野の手が、震えている。
「私の知人に、コンピューターに詳しい人間が居る――まあ、いわゆる『ハッカー』って奴か――」
何の脈絡も無く、女は語り始めた。
「――彼の調べによると、この馨という人物は、ネットで砒素系の毒を手に入れていた形跡がある。今度の事件で毒に当たったのも――ただの偶然じゃなさそうね?」
「……」
柩の縁を両手でつかみ、うつむいたまま、松野が口を開く。
「……何を、言いたいのです? まさか、馨が――馨が毒を、今度の事件を起こしたと? 止めて下さい。馨はこの無差別毒殺の被害者ですよ? そんな、ハッカーだなんて訳の――」
「確かに、白雪姫は被害者だ。ただ――これは『無差別毒殺』では、無い――」
女も松野を見ていない。だが、語ることを止めはしない。
「――私も――初めは、これは白雪姫が起こしたエレクトラ的通過儀礼なのだと思っていた――けど、それは母殺しの計画まで。真に儀礼を――白雪姫の完成を必要としていたのは――王子。父親であることを隠しながらネットを通じて飯田馨に近付き、母親に毒を盛らせた上、無差別事件に見せかけて彼の林檎にも毒を入れたのは――松野さん、あなたね?」
薄暗い地下室に、冷房装置の音だけが低く響いている。
「……貴女の言っていることは、全く理解出来兼ねます。なぜ私が馨を?――無茶苦茶だ」
「まず初めに、あなた以外に保護者が居てはならなかった。焦ったんじゃない?――確実に殺させるはずの母親が行方不明になったんだから。だがそれは、砒素中毒による突然死の後、川にでも落ちたと考えて良しとした。そして、息子――その死因は、遺体に傷の付かない病死か毒殺でなければならなかった。さらに、変死体と見なされて法医解剖されるのを避けるため、解剖するまでも無く死因の明らかな無差別毒殺という形を取った。手の込んだ事件状況も、予め交わされていたエンバーミング契約の存在を知った時点で、全てがここに帰結した。つまり、あなたは誰を殺したかった訳でも無い――ただ、美しいままにその姿を留めた白雪姫が、エンバーミングされた飯田馨の『屍体』が、欲しかったのよ!!」
「死体嗜愛(necrophilia)」――性欲の質的な倒錯の内の性対象に対する倒錯の一類。
「……いい加減にしろよ。殺人者の次は、異常者扱いかッ。こんな茶番、付き合ってられん!」
松野は、女を睨み付けた。だが、女はその緑の双眸で見つめ返した。
「そう。これはあなた達の儀礼を茶番化するための私の儀礼よ。あなたはさっきから何か勘違いしているから教えてあげる――」
女は部屋の中央へ進み寄る。馨の台の隣、黒い柩の上蓋に手を掛け、ゆっくりと取り去った。
中には黒く美しい花々が詰め敷かれ、その真ん中に埋もれ横たわるのは、真冬の雪のように白い肌とほんのりと赤く染まった頬、そして馨をより年上かつ社交的にしたような顔立ちを長い栗色の髪が柔らかく包んだ、美しき女性。今にもその大きな瞳を開けて起き上がるのではないか――そう思わせる。
「――エンバーミングが済んだのは『飯田馨』じゃない。遺体の発見された『飯田慶子(ケイコ)』――馨の母親よ」
「!? じゃあ、馨は――」
松野は背後の柩を振り返った――そこには、上半身を起こし大きな両目で彼を見つめる、馨の姿があった。
「王子様はキスをしてないノに。王子サマはキスをシテナイ、ノ、ニ――」
がし。がし。がし――松野が頭を掻き毟る。
「カオルの――カオリの時間を止メルンダッ。ボクのカオリを永遠のイバラの中に眠ラセルンダッ!!」
がしがしがしッがしッ――髪を振り乱すその頭部が、やがて認識不能なほどにぶれ、黒い染みとなって空間に拡大する。
「私はココロの方は専門外――ここの怪奇ドクター・ハカマダにでも頼むが良い。ただ、そんなことで罪を逃れさせはしないけど。だから、その面倒なモノは私が切除してあげる――」
メスを手にした白衣の女の前で、染みが形を成していく。
「――私の呪いを言い換える『七人目の若い魔女』ってことかしら?」
馨と同じ容姿の、だが真っ黒な、若い美女。
「覚悟なさい――少し、荒療治になるわ」
――或いはそれは、ケルト三女神「"戦の鴉"バイヴ・カハ」だったのか。
モリーアン、ネヴァン、マッハの三姉妹は、味方に幸運を、敵に不運を与える戦士の庇護者。鴉の姿で戦場を飛び回って狂乱を招き、戦死者を増やし、その屍肉を啄ばむ。また彼女達は愛をも司る。自らの命を掛けて男を愛し、だがその愛を拒んだ者には死を招く――そして、その死体を慈しむ。
戦場の運命、殺したいほどの愛。幸運と不運、愛情と憎悪。対立する両感情(ambivalence)を同時に体現するケルト神話の女神。それは、アーサー王をアヴァロンへ連れ去ったモルガン・ル・フェや、魔術師マーリンを封印したニミュエ、そして西洋の魔女・妖女達の、モデルともなった。
ところで『眠れる森の美女』を読む時、僕はある神話を思い出す。
“その昔、死んだ母の居る根の堅州国(ネノカタスクニ)へ行こうと思い立った須佐之男命(スサノオノミコト)は、暇乞(いとまご)いの為に、姉の天照大神(アマテラスオオミカミ)が居る高天原(タカマノハラ)に赴いた。天照は彼が高天原を奪いに来たのではないかと疑うものの、その潔白は証明された。だが、思い上がった須佐之男は高天原で種々の乱暴狼藉を働き、ついには神聖な衣装を織る服屋(ハタヤ)の屋根をぶち抜いて皮を剥いだ馬を投げ入れ、驚いた服織女(ミソオリメ)が機織(ハタオリ)に使う「梭(ヒ)」で女陰(ホト)を突いて死んでしまった。これに怒った天照は岩戸の中に姿を隠し、世界は闇に包まれた――"
有名な日本神話『天の岩戸隠れ』の一節。ここでは死者と篭城者の主体が異なるものの、どこか『眠れる森の美女』と似ていないだろうか?
だが、ここで僕ら精神科医お得意の「普遍的無意識」を持ち出す前に、物語類型の世界規模の伝播について考える必要がある。そこには、童話と神話の区別は要らない。そして、そのことを知る為には、新しい童話が必要だ――。
天照を岩戸からおびき出すアイテムの一つに、「鏡」がある。天照が岩戸の隙間から覗き見た「自分より優れた女神」――それは鏡に映った自分の姿だった。嫉妬――愛情と憎悪の対立する両感情。鏡のように似た二人――母と娘、娘と母――鏡に映っているのは誰なのか? 僕達の童話は『白雪姫』へと遡(さかのぼ)る。
第『七』場 小屋に篭って怯えているのなら、いつまでもお前達は豚だ
“『白雪姫』
ある国のお妃はいつも鏡に訊ねていました――「鏡よ鏡、この世で一番美しいのはだあれ?」「それはお妃様です」。ですが娘の「白雪姫」が七歳になったある日、鏡はこう答えたのです――「それは白雪姫です」。お妃は白雪姫を妬み、猟師に殺すよう命じました。しかし可哀想に思った猟師は森で白雪姫を逃がし、代わりに獣の内臓を持ち帰りました。するとお妃はそれを食べてしまいました。一方、白雪姫は森で見つけた小屋でパンとブドウ酒を口にし、七人の小人と暮らすことになりました。白雪姫が生きていると知ったお妃は、自分の手で殺す為に物売りの老婆に化け、一度目は飾り紐で腰を締め上げ、二度目は毒を塗った櫛を頭に刺しましたが、どちらも小人達に助けられました。けれど三度目には、毒入り林檎を食べさせて遂に殺しました。白雪姫のガラスの柩には、最初にフクロウ、次に鴉、そして鳩がやって来て泣きました。そしてある日、とある王子がやって来て白雪姫の美しさに引かれ、遺体を譲り受けることになりました。ですが柩を運ぶ家来がつまずいた拍子に白雪姫の口から林檎の欠片(かけら)が飛び出し、彼女は生き返ったのです。二人は結婚し、お妃は真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて死ぬまで踊らされましたとさ”
「先生ッ! 子供はッ、お腹の子は大丈夫なんデスか!? ヒ素の影響は無いんデスかッ!?」
白い病院着の若い患者が、ベッドに座したまま、男に詰め寄る。
「まぁ、落ち着きなって。そんなにしたんじゃ、余計体に悪いってモンだ――」
男になだめられ、患者は膨らみを持った自分の腹部を撫でながら、脇の洗面台に置かれたグラスを手に取り、薄桃色の唇にそっと一口流し込んだ。
――不味い。
消毒の味がする。実際そうなのか、ここが病院だからそんな気がするだけなのか分からないが、同じ水道水でも家で飲んだものの方が美味しかったように感じられる。或いは、後遺症だろうか――。
つい今し方、T大学附属病院の集中治療室で昏睡から目覚め、この個人病室に移されたばかり――致死量を越える亜砒酸を毒林檎から摂取した上、無理なダイエットで衰弱状態にありながら、奇跡的にも一命を取り留めた。だがその後遺症で、まだ舌が麻痺しているということだろうか。
患者はグラスを洗面台に戻す。鏡に映ったその顔を見て、思った。
――自分で言うのも何だけど、私は奇麗になった――アイツが、慶子がどこかに居なくなってから。そう、あの女の呪縛を逃れて、私はこれからもっと美しくなる。
だが――患者は、「彼」は女性ではない。青年――飯田馨は、さらに思った。
――まさか、私が――あの女の毒殺を試みた私が――無差別毒物事件に遭うなんて……。
思索に耽る馨の背後から、声が掛かる。
「――それに、おまえ、この俺が医者に見えるってのか?」
馨は振り返る。落ち着いてよく見れば、その男は確かに、くたびれたスーツ――医者ではない。
「俺は、探偵だ――」
長身の中年男は告げる。
「――少なくとも、おまえの『王子様(prince)』じゃあ、ねェぜ。『snow』さんよ」
「!?」
ドアの向こう、看護婦達が足早に駆けていく音がする。室内には探偵と馨の二人だけ。
「――チャット!? 見ていタの!?」
「俺じゃねェさ、仲間が裏を取った――色々とな。だが、随分と母親を憎んでるんだな」
「何よアンタッ。あの女は母親なんかじゃない。それに憎んで当然よッ。アイツは『白雪姫』のお妃と同じ――私に嫉妬して、女になるのを邪魔してたのよ?」
「そうかな? 鏡は真実を映す。妃の鏡に白雪姫が映ったってことは、妃の正体が白雪姫――つまり、恨みを抱いているのは白雪姫の方じゃねェのかい?」
表向きの人格と正反対の抑圧された無意識下の人格――「影(shadow)」。お妃に「投影」された白雪姫自身の暗黒面・否定面――言わば、「黒雪姫」。
「何よ! 適当なこと言わないで――」
「そうさ。これはここの精神科センセイの受け売りよ。だが、受け売りついでに言わせてもらえりゃあな、prince って野郎のそんな適当な解釈に振り回されて、鉄の靴を履いて踊らされているのは、おまえの方じゃねェのか」
男はスーツの内ポケットを探る。
「それに――母親はおまえが『女』であろうとすることに、否定的に見えたかも知れねェ。だがな、恐らくそれは、母親自身のある葛藤が、おまえの目にそう映っただけなんだ――」
二つに折り畳まれた用紙の束。男は骨ばったその手でベッドの上に置いた。
「――おまえは、自分に『姉』が居たことを知っているか?」
「姉……?」
「死産だったようだ。付けられるはずだった名前は『佳織(カオリ)』。戸籍にも載らねェが、ここの精神科に、二十年前の飯田慶子の苦悩の記録が残っていた。夫は――おまえの父は母親を責め立て、彼女自身、強い自責に駆られていた。そして、丁度一年後の命日――一九八一年八月八日、誕生したのが、おまえさ」
馨は奪うように紙束を手に取り、次々と捲る。
「一文字違いの『カオル』と名付けられたおまえは、幼い頃、女モンの服を着せて、まるで佳織の身代わりみてェに育てられた。それで恐らく母親は思い込んじまったのさ、おまえが女性に成りたいと望むようになったのは、自分の所為(せい)じゃねェのか――」
或いは、自分が殺した佳織の所為なのか――。
「違う! 私はこう生まれついただけ――」
「――だろうな。だが、お前の姿に、母親は否が応でも佳織のことを重ねずに居られなかった。娘が死んだのも、女っぽいといって息子がイジメを受けるのも、自分の所為だ――そして何より……父親との……」
「違うチガウ! 母親気取りのメスネコだって私を迫害した学校のメスブタやメスイヌだってみんなミンナ邪魔者なんだ俗物ナンダッ! 死んだお父さんは――」
馨が死んだと思い込んでいる父親像は――
「――優しい人だったんダッ! 現にあのオンナが消えて私は綺麗に成っタのよ!」
ばささッ。
馨は、手にした資料を病室内にぶちまけた。
「確かに――母親が死んでからおまえが綺麗になったってのは、事実かも知れねェ――」
舞い落ちる紙片の中、男は微動だにせず、告げる。
「――おまえが昏睡から覚める少し前、新たな毒物事件が発覚した――おまえの住んでいるマンションの水道水に砒素が混入しているのを、この俺が発見したんだ。住人は少しずつ砒素に汚染されていた――おまえも含めてな」
そう言えば、先ほどから院内が何か慌ただしかったのは、その為か。
「おまえも知っての通り、砒素には美白効果ってヤツがあるんだとよ。だから、おまえの肌が白く――つまりは綺麗になった、と言うことは出来るかも知れねェ。『トファナ水』は美白名目で――その実、暗殺目的で売買されてたが、中世の砒素利用には、暗殺、美白――そして、もう一つ意味があった。砒素は喰い続けることで耐性を付けることが出来る――だから、暗殺されねェ為に日頃から服用したのさ。おまえが一命を取り留めたのは、ただの偶然じゃねェ――水道水で砒素耐性が付いてたんだ」
透き通るような白い肌に大きな瞳で馨が凝視する中、男は続けた。
「じゃあ、なぜ水に砒素なんかが混入したのか? 新手の毒事件模倣犯? カルト系宗教のテロ? 違うね。大量の砒素を含んだ『あるモノ』が、毒林檎事件の『三日前』から、内側に引っ掛かるようにしてマンションの高架水槽に浸かっていたんだ――鏡に映る妃は白雪姫――美貌と能力を食べたがっているのは、白雪姫の方だ」
「い、いやあああああああッ――」
錯乱する馨。その目に、部屋の鏡に映る自分の顔が見えた。乱れた黒髪の下、白い頬に大小の黒い斑点がぽつり、ぽつり――白雪姫の体が、黒雪姫に侵蝕されていく――。
「――ああああああッあッ、あはッ、あはははッ、あははははははッ。ワタシは黒雪姫なんかじゃないッ。ワタシはカオリなんかじゃナイッ。こちら宇宙船地球号至急応援を要請する。子宮オーエンヲ妖精スルッ、グルッ、ガルルルルッ」
包帯の巻かれた左手首を口元に寄せ、まるで特撮モノの腕時計型通信機ように呼び掛ける馨。
慢性砒素中毒症状の一つ、肌への黒い色素沈着――その黒い染みが、じわじわと、馨の肌を越え、空気中にまで染み出す。馨の顔から頭から、真っ黒い染みが、溢れ出す。ベッドに倒れた馨の頭を、黒く覆い尽くす。
黒頭巾よ――
おまえの目は、どうしてそんなに大きいのか――それは、悲惨な現実を見たからよ。
おまえの耳は、どうしてそんなに大きいのか――それは、酷い言葉を聞いたからよ。
じゃあ、その腹は、どんな思いを溜め込んで、そんなにも大きいのだ?
その想像妊娠の腹の中に、赤頭巾を――本当のおまえを、飲み込んでしまったと言うのか――。
『白雪姫』は、恐らく『冥界下り型神話』である――。
これは、精神科医として神話や童話に興味を抱いた僕の推論だ。そのことを示す為に、まず世界最古とも言われるシュメール文明から、あのバイヴ・カハのように戦争と愛、そして豊饒を司る女神イナンナの『冥界下り』神話を語ろう。
“天の女主人イナンナは、姉である死の女主人・冥界王エレシュキガルを訪れる為、冥界に下る。だが途中、力の象徴である王冠や胸飾りなどの七つの装飾品を七つの門番に剥ぎ取られ、七人の裁判官に死を宣告されてイナンナは死体となった。彼女の召使いは神々に助けを求めたが、イナンナが冥界支配を目論んでいたと疑われ、知恵と水の神エンキだけが力を貸した。彼は生命の食物と生命の水でイナンナを復活させるが、冥界から出るには身代わりが必要だった。イナンナは自分の死を悼んでいなかった夫の牧神ドゥムジを引き渡し、更に彼の姉である植物神ゲシュティンアンナが半年肩代わりすることで決着が付いた"
『天の岩戸隠れ』とも似た構造を持つこの神話の中で、装飾品と食物は「力・生命」の象徴として描かれている。一方、『白雪姫』における飾り紐・櫛・林檎は、正反対の「死」を与える存在として描かれている――この違いは何なのか?
その前にもう一つ、ギリシャ神話からオルフェウスの『冥界下り』を見てみよう。
“竪琴と歌の名手オルフェウスは、毒蛇に噛まれ亡くなった愛妻・木精エウリュディケの復活を求め、冥界に下る。妻の復活を願う彼の歌に感動した冥王ハデスは妻の連れ帰りを許可したが、それには地上に出るまで決して振り返ってはならないという掟があった。だが出口直前で妻が本当に付いてきているか不安になったオルフェウスは思わず振り返り、その瞬間に妻は冥界へと再び落ちていった”
『白雪姫』とは、お妃に殺された姫の復活を求める王子の冥界下りなのか?――そうではない。真に『冥界下り』をする存在を、読み違えてはならない。イナンナ神話では死すべき者が冥界に下り、オルフェウス神話ではその復活を望む者が冥界へ下る――では、『白雪姫』では誰が冥界へ下るのか?
そのことを知る為には、さらに時間を遡る必要がある。
第『六』場 心の塔からラプンツェルを解き放て
“『黄泉下り』
火神の出産で死んだ妻の伊邪那美命(イザナミノミコト)を連れ戻す為、伊邪那岐命(イザナギノミコト)は黄泉国(ヨモツクニ)へ向った。黄泉国の伊邪那美にその旨を告げると、「私は既に黄泉の食物を食べたので戻れないが、黄泉神(ヨモツカミ)に相談するのでその間決して私の姿を見ないように」と告げ、御殿へ入った。だが伊邪那岐は待ち切れず、覗いてしまう――そこには腐乱して蛆(ウジ)が涌き、八雷神(ヤツイカヅチノカミ)が集(たか)る妻の死体があった。驚き逃げる伊邪那岐と恥を掻かされて怒った伊邪那美の命令で追う黄泉醜女(ヨモツシコメ)・黄泉軍(ヨモツイクサ)・八雷神。伊邪那岐が髪を縛っていた「鬘(カズラ)」という植物を投げると山ブドウになり、追手が食べている間、時間を稼いだ。次に「櫛」を投げると筍(タケノコ)になり、同じく足止めした。最後に「桃」を投げ付けると彼等は退散し、伊邪那岐は逃げ延びた”
濃厚な霧に包まれた深い黒の森林を、長く伸ばした束ね髪を揺らし、私は独り、歩いていた
鳥の声すら聞こえない静寂の樹海、私の両目は、前方に何をか見定める
木々の開けた叢(くさむら)に、何か巨大なものが掘り出されたのか、大きな陥没
その抉れた岩肌の中央に、煙吐く洞穴――その入口に、朧に光を放つものは誰
「アイアネスにシビルが、ダンテにウェルギリウスが居たように、この洞穴へ入るには『導者』が必要です
私は馨の『亡くなった父』――貴方の先達となりましょう」
白のスーツに身を包んだ壮年の姿、馨の両親は離婚したのではなかったか――
「私は馨の両親ではなく『亡父』――そういう存在なのです」
馨の亡父に導かれ、私は漫然と口を開くその洞穴の中へ、足を踏み入れた
洞内は意外や広い――だが緩やかに下るその足元は悪い
ただ亡父が手に掲げる壺状のランプだけが、その内部から洞内を照らす
「この世界の闇を照らすことが出来るのは、ただこの『パンドラの残照』だけ」
その灯りの切れ目、前方の暗がりを、小さな影が動く――何者か
「あれは『禁忌』――この世界では誰も逆らえぬ存在です」
灰色の肌に瞬きもしない大きな黒い目――表情の読めぬ小人は、闇の中へと消えた
「この世界を支配する有力者は幾つか居ますが、彼らでさえ、あれには逆らえません
その代わり、掟さえ守れば、禁忌も危害を加えては来ません」
やがて私達が辿り着いた空洞には、高い天井から連なる鍾乳石、中央に天然石の寝台が三つ
右に、黒い水玉模様の肌をした、豚のような少女横たわる
左に、漆黒の肌をした、犬のような女子高生横たわる
中央に、朦朧と姿の霞む、猫のような女性横たわる――歩み寄るも、その存在と空間の境界は曖昧
猫女性の薄く開いたその赤紅の口から、覗く鴉の黒羽――それは「ヒ素」なのか
「存在が確定していないのは、彼女が馨の『恐らく死んだ継母』だからです」
つまり「恐らく」とは、馨が継母と見なす実母の行方を、馨自身知らない――ならば、毒林檎は
「馨が食べた林檎は毒だったのですか――以来、『森』の外から来たのは貴方だけです」
毒林檎の件は馨の意図ではないということか
「少なくとも、この『深さ』の馨には、それは未知の事実――あれを御覧なさい」
亡父の掲げるパンドラの残照が照らし出す、鍾乳石が造るバロックの大門――中から何やら獣の唸り
暗黒から滲み出た三つの牙、三頭の犬――文字通り三頭を持つ、一匹の巨大な黒犬
「あれは境界の番犬である『猟師』――ここより先、私は踏み入ることが叶いません
その代わり、猟師から三つの『鍵』を授かるのです」
紐・櫛・林檎――猟師の三つの頭から、私に三つの贈り物
「さあ、ここからは、パンドラの残照も届きません――貴方一人で参るのです」
――汝等ここに入るもの一切の望みを棄てよ
私はただ闇だけが広がるその先へと、門を潜ったのだった
どれくらい下ったのだろうか――何も見えぬ道を、だが確実に奥へ下へと歩んだ
その私の目に、久方ぶりの光が届く――鉱石の結晶が織り成す、大堂
中央に一つの扉、その前に立つ一人の青年、馨――いや、女性なのか
「私は『カオリ』――『カオル』の全てを知る女」
私は馨の真実を求めて、この深淵へと下って来た――
「私は無のパンと無のワインを口にし、猟師の門を潜り出ることは叶いません
ですが、『支配者』と相談してみましょう――その間、決して中を覗いてはなりません」
扉が閉ざされると、ただ私と静寂とだけが後に残された
だがしばらくして、扉の向こうから何やら声がする――その声は次第に大きくなる
「嫌、止めて――お願い、止めて――う、う――誰か、誰か助けて――許して」
ここは「森の外」ではない、何を助けられる訳でもない――それでもこの悲痛の叫び
中を覗いてはならない、開き見てはならない――私は扉を開けた
今から一年ほど前の二十歳の誕生日――母親が家を留守にした間に父親が部屋に来て、馨は犯された
一時間ほどぼーっとしてから、馨は風呂場で手首を切った
一命は取り留め、両親は離婚することになったが、事件は表沙汰にならなかった
それが私の為でもあるのだということになった
自室に篭って横になっていると、誰かが私の頭の中に話し掛けてきた
白い包帯が巻かれた手首に、小さな機械が埋め込んである為ではないかしら
このお腹の中にも、何かが入っているんじゃないだろか
数日前の記憶がはっきりしないのは、UFOに攫われた――いえ、招待された所為なのね
主体と客体の境界で呆然とする私に、布団の上に突っ伏したまま、カオル=カオリが告げた
「よくも私に恥を掻かせたな、この上は森の外へ帰すものか」
ミルナミルナミルナミルナミルナミルナミルナ――
鉱石の影が、天井の闇が、もやもやと黒く染み出して、ぞろぞろと七体の『見るなの禁忌』が現れた
はたと正気に戻った私は、来た道を駆け出した――あの小人達に捕まれば、私も森の住人となるだろう
駆け上がる闇の中、小人達は苦も無く背後に追い迫る――私は、猟師の鍵を思い出した
えいッとばかり紐を後方に投げやると、たちまち羂索(けんさく)となって禁忌を金縛る
その隙に私は、鍾乳石の門へと辿り着いた――だが、禁忌は猟師の干渉すら受けない不可触存在
それッとばかり櫛を後方に投げやると、たちまち千本刃の剣山となって再び禁忌を阻む
ついに私は、洞穴の入口にまで辿り着いた――闇穴からは、小人の迫る音がする
やあッとばかり林檎を後方に投げやると、たちまち大岩となって洞穴の入口を塞いだ――
微かな「森」の残り香を鼻奥で感じながら、青年は目を覚ました。
同時に、白いベッドの上の美しい女性――の如き青年――馨も、その大きな両の瞳を開いた。
馨の頭部から伸びる電極――電極を受ける脳波測定機――測定機に繋がれたパソコン――そして冥府神「泰山府君」の尊影が表示されたそのコンピュータの前で、黒髪を束ねたその青年は覚醒した。いつも涼やかなその顔は、だが今はどこか、曇っているようだった。
やっと昏睡から覚めた馨には、集中治療室内に控えていた医師が駆け寄って、その容体を確認する。
その様子を横目にしながら、青年は考えていた――この世界は、現実を覆い隠す為の童話なのか。
残酷な現実を深い森の奥へ眠らせる為の、恐ろしい童話なのか――。
"冥界神ハデスは主神ゼウスの許可を得て、彼の娘ペルセフォネを妃にしようと冥府に連れ去った。だが彼女の母である地母神デメテルが激怒して人間界を彷徨い、遂には神殿に篭ったので、大地が荒廃した。ゼウスは娘の帰還を求めハデスも同意したが、彼は帰す前に喜びで開いたペルセフォネの口に冥界の石榴(ザクロ)を押し込み、それまで断食していた彼女にそれを食べさせた。冥界の食物を食べた者は冥界に属するという掟の為、ペルセフォネは一年の三分の二を地上で、残りを冥界で暮らすことになった"
表向きの人格と正反対の裏人格「影(shadow)」、男性の中の女性・女性の中の男性像「アニマ(anima)・アニムス(animus)」、知恵ある導き手「老賢者(old wise man)」、慈愛的生産者にして束縛的簒奪者「太母(great mother)」、頼れる指導者にして支配的独裁者「太父(great father)」――人間の無意識下には、「元型(archetype)」と呼ばれるイメージ・パターンが存在し、その典型例は神話や物語の登場人物に読み取ることが出来る。同様に、物語の構造自体にも類型が存在する。その一つが、『冥界下り』である。
『白雪姫』で冥界に下るのは誰か?――その手掛かりとなるのは「七人の小人」だ。
「七裁判官」・「八雷神」――数字の違いは聖数の文化差で意味は無い――いずれも冥界の存在。小人達は金属採掘者であり、地下――つまり冥府の民なのだ。そう、彼らの棲む「森」こそが、『白雪姫』における「冥界」である。「生命の食物」が命を与えるように、「冥府の食物」を口にした者は冥界の存在となる。白雪姫は小人小屋のパンとワインで、「森」の住人となった。故に白雪姫は、毒林檎を食べるより前――「森」に入った時点で死んでいるはずだ。
そのことを示すのが「紐・櫛・林檎」――日本神話における「鬘・櫛・桃」が、イナンナ神話と白雪姫の間を繋ぐ。「鬘・櫛・桃」は冥界の住人を祓い除ける。つまり、生者にとっての正の象徴は、死者にとっての負の象徴である。だから、「森」に入って既に死んでいる白雪姫には、それらは「死」の象徴なのだ。
そう、冥界に下るのは「お妃」である。死んだ娘を「もう一度殺す」為に、母親が「森」へ下るのだ。
全世界に伝播した『冥界下り』モチーフの伝えるものは、「死」の絶対性である。死者の復活の為に「冥界」に下るも、「見るなの禁忌」を破ってその願いは叶わない。「見る」とはつまり、愛しい人の死に「直面」し、「認識」することである。
何の根拠も無いけれど、僕には鏡の中の白雪姫が「遺影」であるように思われてならない。猟師が持ち帰った内臓を食べるお妃は、娘の死を飲み込もう=受け入れようと足掻(あが)く、母親の姿ではなかったか? 娘の遺体を着飾らせ、林檎を添えて土中(冥府)へ送る――それは「葬式」ではないのか? それによってやっと、母親は愛する娘の死を「認識」し、冥王である王子の元へ引き渡すことが出来たのではないか?
死と再生――それが『冥界下り』のテーマだ。だがそれは人間には決して叶わない。それが可能なのは大自然と太古の女神のみ。故に『冥界下り』は、繰り返す季節の起原譚にもなっている。
“ペルセフォネが冥界に下る三分の一年の間、豊穣神デメテルが悲しんで仕事を放棄する為、大地は不毛となり、人はこれを冬と呼ぶようになった”
喜びの季節の裏側には、悲しみの冬がある――そう、白雪(snow white)の冬が。
第『五』場 美声の代償
「初めまして、『富山(トヤマ)』と申します」
小汚く散らかった某探偵事務所内。スーツの中年男が大きめの黒いアタッシェケースをテーブルに置き、ただ「富山」とだけ印刷された小さな方形紙を両手で差し出した。無意味なまでの笑顔が、寧ろ不気味ですらある。
その奇妙な儀式にもいい加減に慣れたといった風の白人女性は、受け取った紙片を無造作にポケットに突っ込んだ。
「あなたとは初めまして――だった? 『富山』さん」
奇妙というのは、何もただ「名刺交換」という日本伝統儀式のことだけを言っている訳ではない。男が属する組織のエージェント――もっとも、彼ら自身は誇りを持って「行商」という言い方を好む――は、皆一様に「富山」を名乗る。また、彼らが属する組織自体も、この女性のような顧客から「富山」の名で呼ばれている。同じようなスーツに同じような笑顔を浮かべた「富山」は、女が西洋人であることを差し引いても、皆、似たような印象を与えるが、本人が「初めまして」と言っているのだから、過去に会った「富山」達とは別人なのだろう。
兎も角、女が住所不定の闇医者であるように、富山もまた、行商達による闇の売薬組織である。富山は薬と名の付くものなら、ほぼ全てを扱うと言って良い。医薬・毒薬・劇薬・火薬、それに漢方薬・煉丹薬、西洋の錬金薬、更には出回るはずの無い製薬企業の極秘研究薬までが、富山の交易ルートに乗る――無論、値段の方もそれ相応ということになるのだが。
「これはまた、驚きましたね――」
富山が、本当に少し驚いたような顔をして言った。女が富山の――過去の富山も含めて――その営業スマイル以外の表情を見たのは、それが二度目だった。
「――こちらは十六世紀南イタリアの初代老女トファーニア手製、正真正銘の『アクア・トファナ』かも知れません」
富山が手にしている微量の混濁液が入った試験管は、女がT大病院の袴田医師を通じて入手した、例の事件の毒林檎液である。それをアタッシェケース型の小型成分分析装置で調べたのだ。
同じ三酸化砒素溶液でも、その純度・濃度等によって、識別が可能である。林檎の成分を除いた波形が、富山が持つ純正「トファナ水」のデータとほぼ一致した。
「けど、純正『アクア・トファナ』と言っても『愚者の毒薬』には違いがない――なぜこんなもの使ったのかしら?」
やや嘲笑気味に、女は述べた。
「さあ、文字通り『愚者』だったのか、或いは何か毒以外の意味があったのか――それとも、本当に魔女トファーニアから手に入れたのか」
富山も冗談めいてそう答えた。
「砒素である意味――まさか、本当に美白目的――なんてね。後はそう――防腐効果くらいかしら? 毒殺した上に防腐もしてくれるなんて、ありがた迷惑な話」
そう言って金髪の闇医者――「レイベル・ラブ」はまた口元に笑みを浮かべた。
「まあ、詳しい分析結果は持ち帰って、また報告させて戴きます――この出所の件も。ところで――」
富山は姿勢を正すと、一層の笑顔をレイベルに向けた。
「――こちらの液体の方なんですが、調査後に手前どもへお譲り戴けませんでしょうか? いえ何、手前どもの常客様には毒物蒐集家の方々が多数居られまして、実際に事件に使用された――それも純正『アクア・トファナ』ともなれば、希少的・骨董的価値が付きまして競売でそれはもう高値に――いえ、何もただでとは申しません。手前どもの方へ溜まってらっしゃるモノの方からその分お引かせ戴いて……」
第『四』場 ヘンゼルとグレーテルの小石とパンくず
勿論、既に書き込みは残っていなかった。
非公開の密室型チャットでなされた「snow」と「prince」の会話。とすると、「ゴーストネットOFF」に書き込んだのも、その密室に入り込んだクラッカーの端くれということになるが、この青年ほどの腕前ではなかったろう。
都内某大学の一室――。
束ねた黒髪を椅子の背に垂らし、古武道を習う故か、座る姿も整然と言った趣(おもむき)。だが、端正なその顔立ちに、無意味な凄みは持たない。
大学生でもある青年の眼前のモニターには、例のチャットの過去ログが表示されていた。会話後に直ぐ文面を消し流したようだが、そのことも含め、データとして示されている。
次いで、青年は「snow」の正体を探る。IPアドレスを辿って、プロバイダのサーバーへ侵入するルートもあるが、正体の目星がついている以上、逆から攻めた方が得策だろう。仮にも企業を相手にするよりは、個人の方が幾分楽だ――もっとも、どちらにしろ、彼がしくじることは無かったろうが。
青年は、某宅のパソコンに侵入し、そのIDを入手して逆から正体を繋ぐ。
間違いない――「snow」は、T大学附属病院で昏睡状態の毒林檎事件被害者、飯田馨である。
「無闇な常時接続は、ハッカーの標的ですよ――」
そう言いながらも、青年は馨のパソコン内の情報を探る。
「――プライバシ−を覗くのは趣味じゃないんですが」
と同時に、「prince」の正体も辿った。だが、それはすぐに行き止まりになってしまう。
「――ネットカフェですか……」
顧客情報から正体を探る手段も無いでは無いが、それには現実世界の探偵の協力が必要になろう――その探偵は今、馨の母親の情報追っているはずだ。一方、馨のパソコン内にも、事件に直接繋がるような情報は見当たらない。
「残るは砒素の郵送記録。もし、それでもダメなら――直接『潜る』しか無いですかね」
青年――「宮小路 皇騎(ミヤコウジ コウキ)」は、禁じ手とも呼べるあの手段を使うことになるだろうと、そう考えていた。
第『三』場 胸張り裂けて、泡になる
――がぢゃんッ!
突然、『管理人』のプラスティック・プレートが付いた小豆色の金属扉が派手な音を立てて開き、中から寄れたスーツの長身の四十男が倒れ込むように現れ出た。右手で自身の側頭部を鷲掴みにし、左手で壁に縋(すが)り付いて立ち上がる。もたつく足で三メートル先のエレベーターに詰め寄ると、叩くようにボタンを押した。既にこの一階に待機していたエレベーターは音も無く扉を開き、依然、顔を歪めたままの男は雪崩れ込むと、操作盤を撫でるようにして膝を突く。3階、5階、6階――ランダムに触れた階数ボタンが、オレンジに灯る――だが、それで良い。兎に角、上だ。上階から、この「念」は響いて来る。
――苦しい……。
――冷たい……。
閉ざされたエレベーターが、上昇を始める。
――ごめんね、馨。お母さんが悪かったの……。
――お母さんが、もっと確(しっか)りしていたら……。
3階の扉が開く。ここでは無い。死者の最後の念は、さらに上から聞こえる。
――私が死なせてしまった。許して、佳織……。
――お母さんも、もうすぐそっちに行くからね。
5階の扉が開く。まだ、上だ。
――ごめんなさい。ごめんなさい……。
――誰か、誰かあの子を救ってあげて……!
そうか、おまえはそこで死んだのか。管理人として苦情の点検にそこへ上がり、それで砒素中毒の突然死にあったのか。
だが、自分の死際だというのに、あんたは一体、何をそんなに詫びていやがるんだ――。
扉は再び閉まり、「陣内 十蔵(ジンナイ ジュウゾウ)」を乗せたエレベーターは、最上階へ上がって行った。
本当に恐ろしいのは童話じゃない。それを読む、君と僕だ――幕
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0044/陣内 十蔵(ジンナイ ジュウゾウ)/男/42/私立探偵
0461/宮小路 皇騎(ミヤコウジ コウキ)/男/20/大学生(財閥御曹司・陰陽師)
0606/レイベル・ラブ/女/395(外見20代)/ストリートドクター
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■ ライター通信 ■
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この度も長らくお待たせして、申し訳ありません。πジゲンで御座います。
前回に引き続いての御参加、有難う御座いました。
今回は、物語が多少複雑化した為、分かりやすいように皆様の場面を一つにまとめて、全員御一緒の文章とさせて戴きました。
この「本当は恐ろしい君と僕の童話」は、これにて完結となります。今回、断片的な場面の連続によって――しかも時間が逆に――書かれている為、敢えて細かく描写されていない部分、皆様の御想像にお任せしたいと思います。
今後も東京怪談にて活動していく予定でおりますので、新たな依頼等をお見止めになられた際、御都合が合いましたら、是非、御参加下さい。
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