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ヘビースモーカーの為の探検講座
●離島で起こり得る問題への一考察
忙しない。
視線の先にいる男の動きを、デュナン・ウィレムソンはそう一言で表現した。
ここしばらく、朝食後は浴衣のままで寛いでいた草間武彦が今日は何故だか落ち着かない。つい昨日には、旅館はホテルのような気取った所がない、日本の朝食はご飯とみそ汁だと、旅館の女将相手に大絶賛していた時間帯である。
なのに、今朝、食堂へ現れた時から草間は苛々としているようだった。
いつもは三杯、きっちり掻き込むのに、今日は一杯だけだった。しかも、みそ汁が塩辛い、俺を早死にさせる気だろうなどと、言いがかりをつける始末。
どさりと備え付けの椅子に腰を下ろすと、乱暴に髪を掻き回す。
とんとんとテーブルを叩く指先も、彼の苛立ちを如実に表していた。
「あれ? どうしたんスか? 草間さん」
「うるせぇっ!」
碇麗香の命令で、旅館の宿泊客に会いに来ていた三下忠雄が迂闊に声をかけて余計な火の粉を被る結果となる。
「な‥‥なんなんですか〜いきなり〜っ」
ふいに立ち上がった草間は、三下を見下ろした。そう、まるで麗香女王様のように。
「用が済んだなら、とっとと出ていけ。失せろ」
パブロフの犬、三つ子の魂百まで‥‥体が覚えた習性は、どうやら条件反射的に現れるようだ。落ちてくる雷から自分を庇うように頭を抱えた三下の視線が机の上を通り過ぎて、はたとある事に気付く。
「あれ? ‥‥草間さん、禁煙でもしてるんですか?」
墓穴を掘るタイプの人間は、どうやらどこでも同じ過ちを犯すらしい。
草間の不機嫌なオーラが絶対零度の冷たさを纏い、不気味な静寂が訪れた。
地雷を踏んだ事に三下が気付くのが早いか、それとも草間の怒りの一撃が落ちるのが早いのか。固唾を飲んで見守る宿泊客の動きも止まった。
朝早くから元気に鳴き続けるセミの音が開け放たれた窓から室内へと入り込む。
むし暑さの中、カーテンを揺らす風が潮の香を含んだ僅かな涼を運ぶ。
「‥‥‥‥‥‥‥草間さん、煙草‥‥‥切れちゃったんですね‥‥」
食堂の隅っこ、観葉植物の影でそっと成り行きを見守っていたデュナンが呟いた。
ちり〜ん‥‥。
風が鳴らした風鈴が響く。
「‥‥いつから居た‥‥?」
薄ら寒い沈黙が照明の落ちた食堂に満ちた。そして‥‥。
●煙の出るものを、探して
「ぶつの、ひどいです」
拳骨を落とされたデュナンが銀色の頭を撫でながら頬を膨らませる。
「あー、すまんすまん」
対する草間は、投げやりな態度だ。ヤニ切れのイライラはまだ治まってはいないらしい。
「‥‥俺、客観的に事実を述べただけなのに」
八つ当たりだ、八つ当たりだ‥‥。
くすんくすんと啜り上げて、デュナンは目元に手を当てた。ちょっと見では、化粧で綺麗に武装したお姉さんOL系が放っておいてはくれないほどに愛らしい。仕事を持つお姉さん達の保護欲とか母性本能をいたく刺激する仕草だ。
‥‥当然、嘘泣きだったが。
「児童虐待だ、体罰だ‥‥」
「誰が児童だ、誰が」
律儀に答えを返して、草間は周囲を見渡した。
「ところで、ここ、日本領土内‥‥だよな」
「‥‥のはずですが」
旅館から森の中に入ったはいいのだが、どこをどう間違えたのか、彼らは怪しげな雰囲気の植物が繁る謎のジャングルへと迷い込んでいた。
ぐるげーっっっっ!!
人の気配に驚いて飛び立つ鳥の鳴き声も何やら聞いた事がないほどに奇怪である。
「‥‥なんか探検隊にでもなった気分だ」
草間の脳裏に蘇る、幼い頃にみた映像。それは探検隊の隊長が前人未踏のジャングルに踏み入る瞬間の映像が、隊長の真正面からとらえられているというものだ。
当時、流行った歌が、草間の口から零れて出た。
「なんですか、その歌」
「‥‥‥‥いや、なんとなく」
現役男子高生は聞いた事も見た事もないのであろう。世代格差を感じて、ちょっとばかりアンニュイが入る草間に、デュナンは周囲を見渡して冷静に自分の見解を述べる。
「多分、戦時中に行われた怪しい実験の為に持ち込まれたのでしょうね。この湿度と暑さは熱帯地方の植物にとって合わせやすかったと思いますし」
「ああ、そうだな」
とりあえず‥‥と、デュナンは手近にあった葉を毟った。
「この辺りの葉を干してみてはいかがでしょう? この暑さだとすぐに乾燥すると思うんですが」
水分が行き渡り、みずみずしい葉よりも少し乾燥させた方がいい。
せっせと葉を採るデュナンに手伝うように指示されて、草間は素直に主導権を渡して従った。
ぷちぷちと細長い葉を毟りながら、そう言えばと手についた草の汁を眺めて呟く。
「‥‥これも島に持ち込まれた植物かな」
煙が出るものならなんでもいいとは言ったものの、さすがに熱帯雨林な未知の植物となると二の足を踏む。
「大丈夫ですよ」
摘みとった葉を抱えて、デュナンはその柔らかな雰囲気を持つ容貌に天使の笑みを浮かべた。
「この葉は図鑑にも載っているものでしたから、正体不明の怪しいものじゃありません。日本でも縄文時代の昔から自生しているものだそうです」
旅館から借りて来た年代ものの図鑑を確認したデュナンに、草間はそうかと安堵の表情をみせて葉を口元へと近づけた。青臭い、独特の臭気に顔を顰めつつも、その茎を煙草代わりにくわえる。乾燥させれば臭みも無くなるだろう。
「なら、安心だな」
「はい。茎の繊維は糸としても使われてるし、実はハト等の餌になるって書いてますよ」
へぇ‥‥と、草間は意外そうな顔をした。
「そんなに一般的なものなのか‥‥」
「一年生の草本植物で、元々は中央アジア原産だそうです。一般名は麻かっこ大麻かっことじ」
ぽろりと、草間の口から葉が落ちた。
「ば‥‥馬鹿っ! そりゃ麻薬じゃないかっ!!」
普通の植物と同列の解説をするな! と、デュナンの手から図鑑を奪い取った草間の顔にまるちゃん的立て筋が入ったのは、そのすぐ後の事であった。
「‥‥戦前の‥‥図鑑かっ‥‥」
忘れ去られた島、中ノ鳥島。戦争終結直前に全てを封じられた島の蔵書は当然、戦前、戦中のものである。GHQによって大麻の栽培が禁止される以前、日本人の生活に密着していた麻が普通の植物として図鑑に載っていても何の不思議もない。
「これ、どこに干しましょうか? 日陰の風が通る所がいいでしょうかね?」
「捨ててしまえっ!」
ずかずかと乱暴に雑多に繁る草を踏み荒して遠ざかっていく草間をしばし眺めて、デュナンはその背に向かって声を投げた。
「‥‥草間さん、煙草は?」
一瞬、動きが止まる草間。だが、自称ハードボイルド探偵のプライドにかけて、新聞に「草間探偵、中ノ鳥島で乾燥大麻製造。煙草代わりに使用」と書かれるわけにはいかないのだ。
「ともかく! 俺ァ戻るぞ!」
「‥‥草間さん、そっち、来た方向と違います」
冷静なデュナンの突っ込みに、意地になったように草間は真っ直ぐに歩き続ける。障害物も、何もかも踏みつけて。
まだまだ諦めた様子のない草間に、デュナンはやれやれとその後を追った。
●そして、紫煙の向こうに
旅館に帰り着いたのは、夏の太陽が沈み、周囲に闇が忍び寄る時間であった。
途中、泥沼にでも踏み込んだのであろうか。
草間は腰まで泥漬けとなっている。
腕にやぶ蚊に刺された跡と、何か毒虫にやられたらしく、目の辺りが赤く腫れていた。
対して、デュナンは多少、日焼けで赤くなっているものの、大した傷もない。長袖のシャツと虫除けスプレーとで前もって防御していたのだと言う。
「‥‥森へ入るのですから、それなりに準備は必要ですよね」
準備を全くしていなかった草間は返す言葉もなく、ふて腐れたようにそっぽを向いた。これではどちらが年上か分かったものではない。
「俺、虫刺されの薬も持ってます」
そう言いつつ、自分の鞄をあけたデュナンの動きが止まった。
「‥‥‥‥‥‥‥草間さん」
草間に背を向けたままのデュナンの声が僅かに重くなる。
「どうした? 虫刺されの薬は忘れて来たか? なら別に構わないぞ」
「薬は忘れてなかったけど‥‥」
油切れを起こした機械仕掛けの人形のように、デュナンは鞄の中に手を入れた。中から包みを取り出して、ゆっくり振り返る。
「これ、買って来てたの、忘れてました」
てへへっ☆ ごめんねっ☆
照れ臭そうな笑みを顔に貼り付けて、可愛いく笑う。その手の中にあるものを見た瞬間、草間の顔を構成している部品が一瞬だけ崩れた‥‥ようにデュナンには見えた。
「おまっ‥‥おまえっ‥‥」
丁寧に包まれたマルボロ。
草間が今日一日、欲してやまなかったそれが、今、目の前にある。
震える手を伸ばそうとした草間の脳裏に、森の中での出来事がフラッシュバックして流れていく。あの苦労と苦難と冒険と危険は一体何だったのか‥‥。
空しさと怒りと煙草への欲求とが、草間の中の天秤を激しく揺らした。怒鳴りつけたい気持ちと、煙草の誘惑が交互に訪れる。
至上の宝を抱く天使のように見えるデュナンが、次の瞬間には尖った尻尾を隠す小悪魔にも見えて、草間は頭を抱え込んだ。
「草間さん?」
怪訝そうに首を傾げた当の本人は、草間の頭の中をぐるぐる回っている葛藤に気付く事はない。
やがて‥‥、草間はそろりと手を動かした。
求めてやまなかったマルボロに向かって。
感情と欲求の戦いは、欲求が勝利したようである。
だが、彼の手が恋い焦がれたマルボロに届く前に、それはすっと遠ざかった。
追う手、逃げるマルボロ。
右へ左へ上へ下へ。草間の手とマルボロの追いかけっこ。それを終わらせたのは、キレた草間の雄叫びであった。
「何なんだっっっ一体っ!」
マルボロの包みをかざしながら、デュナンはそっと手を差し出した。
「何だ?」
「お代。‥‥まさか、学生の俺に払わせるって事、ないですよね?」
「‥‥世話してやってるのは誰だ」
「‥‥何でしたらこれの代わりに、紙にお茶の葉を詰めて吸ってみます?」
恐るべし、デュナン・ウィレムソン。
プライドよりも煙草を取った草間は、そんな呟きを香りとニコチン、タールと一緒に胸一杯、吸い込んだのだった。
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