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最後の、手紙
●終焉
新月の夜、空に星。
人の灯りがない海はどこまでも続く闇。
ただ、潮騒だけが、ここが虚無の世界ではない事を繰り返し告げていた。
柔らかな砂の上、レイベル・ラブは自分の膝に頭を乗せて眠る少女の髪を梳く。さらさらと指の間を零れ落ちていく髪は、いつしか空気に溶け‥‥。
徐々に薄く、実体感を無くしていく体。
レイベルはそっと視線を外した。
どこまでが海で、どこからが空なのか境界線さえも分からない、混沌とした闇へと。
「結局、貴女は始まりを選ぶ事が出来なかったのか‥‥」
苦さが混じる呟きが、レイベルの唇から漏れた。
●終焉の序曲
レイベル・ラブを始めとする、この忘れ去られた島に訪れた異能の持ち主達が全ての元凶たる怨霊機の動きを止めた。
感情など持たないと思われていた霊鬼兵、零の声にならない叫びが周囲に木霊する。
変化は劇的に訪れた。
島を一種の霊界として形成していた源が消失したのだ。
垂れ込めた暗雲を貫いた光を中心にして、青い空が顔を覗かせるようにゆっくりと、怨霊機の作り出した霊界が消えて行く。じわり空気に滲んで消える死霊兵。
はっと、レイベルは森を振り返った。
中ノ鳥島の呪縛が解けるという事はつまり‥‥。
怨霊機、そして霊鬼兵に勝利したという歓喜に沸く者達を跳ね飛して、レイベルは駆け出した。57年前の狂気に未だ支配されたままの少女が、彼女の患者が住まう森へと。
◆
その少女との出会いは偶然だったのか。それとも、少女の祈りがレイベルを引き寄せたのか。今となっては分からない。
砂浜に半ば埋もれてレイベルを待っていた硝子の小瓶。そこに詰められた祈りにも似た言葉は、彼女に助けを求めているようにも思えた。
だから、まだ真夏の太陽が真上に居座っている時間に、じりじりとレイベルの肌を焼く日差しの中、湿度の多い森の中に足を踏み入れたのだ。なのに‥‥。
「ここで、何してる?」
中ノ鳥島を覆う森の奥深くへと足を踏み入れたレイベルは、そこにいたモノを冷たく見据えた。
体感温度が一気に下がったような気が、する。
ちり、と肌を走るのは、彼女の本能が発する警告。
構う事なく、レイベルは足を踏み出した。
苔の生えた木の根が露出し、地面に突出している岩が彼女の足元を危うくしていたが、気にする様子もない。
「聞いてるんだが?」
全ての障害を踏みつけて、レイベルは再度尋ねた。けれども、返るのは沈黙のみ。
忌々しそうに舌を鳴らすと、腰に手を当てる。繊細なアンティークドールの容姿に宿る強い意志のきらめきが、深い森の中でも輝きを放つ。
「人を呼びつけといて、いい態度だな」
拾った小瓶を岩へと投げつける。儚い音が響いた。
「貴女が、私を呼んだんだろう? 助けて欲しいと」
−‥‥タス‥‥ケ‥‥?
閉ざされていた唇が、言葉をつむぐ。
レイベルは、もう一度舌を打った。
「ちゃんと聞こえてるじゃないか」
−‥‥タスケ‥‥ナンテイラナイ‥‥ワタシハ‥‥
「嘘をつくんじゃない!」
血の気ない唇が紡ぐ言葉をびしりと切り捨てて、レイベルは声音を変えた。自分の身長よりも高い場所にいる少女を仰ぎ見て、教え諭すように続ける。
「‥‥貴女は助けて欲しいんだ、その状態から」
ざわりと周囲の空気が動いた。
咄嗟に、後ろへと飛ぶレイベルの足元を木の枝が掠める。
−チガウ‥‥
「違わなくない。‥‥この手紙に何を書いた? まだ生きている頃に」
丸く癖のついた紙を伸ばして、レイベルは少女に見せた。
「もうすぐ自分が自分でなくなる。そうなる前に殺して欲しい、そう書いただろ?」
−ソウ、ワタシヲ‥‥コロシテ‥‥
「よかろう。だから、そこから出て来るんだ」
巨大な木に磔られた少女を縛りつけている奇妙に曲がった木の枝が、生き物のように蠢いた。レイベルを拒んで幾重にも巻き付く枝に、少女の姿はみるみるうちに見えなくなる。
「出て来い! でなきゃ、何も始まらない」
−ハジマリナンテ、イラナイ‥‥ワタシハ、オワラセタイノ‥‥
枝の隙間から、か細い声が響く。彼女を守る堅牢な鎧は、レイベルの力でこじ開ける事も可能だ。だが、そうすると余計に反発を招くだろう。
「‥‥ったく‥‥とんだ重病人だな‥‥」
呆れたように呟いたレイベルの言葉を、風が揺らす葉が掻き消す。森全体が、57年前に捕らわれたままの少女の味方であるようだった。
◆
その後、何度か足を運んだ森の中は、怨霊機停止の余波に荒れ始めていた。
「これで最後だ!」
少女に巻き付き、波打っていた枝がびくりと動きを止める。
「怨霊機は停止した。もう、この島は解放された。怨霊機の力で、その姿を、力を保っている貴女も、いずれ解放される」
威嚇するように、枝が彼女を掠めた。
けれど、レイベルは躊躇する事なく、少女のいる巨木へと歩み寄る。
「このまま、消えてもいいのか? それで、本当にいいのか!?」
−コナイデッ!
無数の枝が、襲いかかるのを払いのけて、レイベルは少女を守る檻に手をかけた。
その力で遠慮無く、レイベルが枝を取り払う度に、新しい枝が少女に巻き付く。その繰り返しに、苛立って、レイベルはその木を思いっきり打ち付けた。
「このまま、怨霊機に支配された霊のまま、消えていいのか? 怨霊機によって、自分が得体の知れないものになるのが怖くて、あの手紙を書いたんじゃないのか?」
檻の中、少女の目が見開かれる。澄んだ夏の空の色をした目が、レイベルを映し出す。
だが、木の攻撃は増すばかりだ。
怨霊機停止の影響で、彼女を捕らえる木が、森が暴走を始めたのだ。
「今度は、自分の意志で、始めるんだ。怨霊機の意志ではなく、自分で」
−‥‥ハジメル‥‥?
「そうだ。貴女は、ずっとそうしたかったんだ。怨霊機に支配される事なく、自分が自分として存在したかったんだ」
歌うように、レイベルは囁く。
「それは、貴女がそうしたいと望めば、必ず叶うんだ‥‥」
レイベルの視線の中、少女の顔が泣きそうに歪んだ。
口を開いた少女の言葉を遮るように過ぎって、木がレイベルの腕を貫いた。
焼け付く痛みを体が感じるよりも先に、少女の唇の動きで彼女の言葉を受け取った心が動く。
レイベルの手が檻にかかった。そして‥‥‥‥。
●終焉の先
息をついて、レイベルは立ち上がった。
服についた砂を、疲れた仕草で払う。
「‥‥戻るか‥‥」
救助の船が、いるはずだ。
待ちかねたかのような攻撃と、救出の船。あまりにも手回しが良過ぎる‥‥と、レイベルは口元を歪めた。
「‥‥さて、この一幕は誰の思惑だったんだろうな」
フルマラソンを全力疾走で駆け抜けたような一日だった。その終わりが絶望だなんて、有り難くて笑い飛ばしたくなる。
くるりと柔らかい砂を踏みにじって踵を返したレイベルは、数歩歩んで足を止めた。
背後に感じる微かな気配。
ゆっくりと振り返った彼女の目に、仄かな金色の光が映る。やがてそれは一箇所へと凝縮されて、少女へと姿を変えた。
「‥‥‥‥た‥‥ただいま‥‥」
はにかんだ笑顔を浮かべる少女が霊体である事は明らか。けれど、そんな程度の事に動じるレイベルではない。
「へぇ‥‥、今度は結構リアルじゃない?」
手を触れると、冷たいながらも肌の感触がある。空気の固まりのような、実体感に乏しい先ほどまでとは違っていた。
霊感を持たぬ者から見れば、何ら普通の少女と変わる事がないだろう。
「‥‥ハッピー‥‥リバースディ‥‥幽霊だけど。ともかく、治療完了ね」
おどけながら、レイベルは少女に手を差し出した。
「怨霊機から解放されて、自分の意志で歩く気分はどう? 何なら、一緒に東京へ行く? もうすぐ最後の救助船も出ると思うけど」
迷う事なく、その手を取る少女。
怨霊機によって具現化されていた体は消滅し、彼女の魂は自分の意志でこの世界にある事を選んだのだ。レイベルの言う通り、「外で生きる」為に。
「東京に行けば、何とでもなる。貴女の様な『幽霊』もそれなりに自由勝手に暮らしてる」
「あなたは‥‥? あなたは何をしてるの?」
並んで歩きながら尋ねて来る少女に、レイベルは短く答えた。
「闇医者」
そう‥‥と、少女は視線を落とす。医者の手伝いが出来る知識は彼女にはない。
「‥‥そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね。何て言うの?」
「マルガレーテ‥‥」
「そう、‥‥じゃあ、マルガレーテ。とりあえず、東京の‥‥この時代の先輩として、貴女にひとつ、仕事を紹介してあげるわ。‥‥‥私の負債返還の手伝いなんだけど‥‥どう?」
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